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01 その1

 空色の、どこまでも澄んだ大きな瞳が、僕は大好きだった。


 8歳の頃、僕には友達がいた。

 名前はエリア。でももしかしたら本当は違うかもしれない。エリアという名前は、僕が勝手にそう呼んでいるだけだった。

 近所に年齢の近い子が一人もいなかった僕は、一人ぼっちでよく裏山に登った。裏山から手をあてて遠くを見晴らすと、狭い田舎町を飛び越えて、僕のいる場所が、大きな空と海へと繋がっているのが見える。僕はその景色が大好きだった。どこまでも世界の広さを想像することができたから、大好きだった。

 いつもその傍らには、用心棒というか、相棒というか、親友がいた。

 その裏山に登る前に、いつも僕は二回手を叩いた。すると、何処からか「ワン」と声が聞こえる。それから僕が山に踏み入ると、声に続けと大きな体躯の白い犬が飛んでくる。キラキラとした碧い目が、空みたいで見ていて気持ちがいい。

 エリアはいつも僕と遊ぶのだった。

 エリアは、裏山に住んでいる野犬で、とても賢い犬だった。春も夏も、秋が来てもエリアは自然のことや遊びを僕に教えてくれた。そして、エリアは僕の言うことはなんでも聞いてくれた。

 エリアは間違いなく恩人で、いつまでも親友でいてくれた。

 だけどそんなエリアにも、ひとつだけ、絶対に絶対に、僕のお願いに従わないことがあった。

 エリアは、僕がどれだけお願いしても、山からは一歩も出ようとしてくれなかった。


 冬になって、雪もそろそろ振り始める頃に、いきなり僕は母親から裏山に行くのを禁止された。理由は、今なら分かる。誰かが、犬と一緒にいる僕を見かけて母に伝えたのだろう。

 しかし、野犬なんかと僕がいっしょにいると世間体が悪いとでも思ったのか、それとも単純に心配だったからか、それはよくは分からなかった。

 ともあれ、僕はエリアに会えなくなった。

 エリアに会いたい気持ちが強すぎたのか、僕は性質の悪い風邪にさえなった。

 僕は枕上で「えりあ」と何度もつぶやいた。

 助けてほしい。えりあ、おねがい。きてよ。たすけて。えりあってば。

 泣きながらずっとそう願っていた。

 でも、エリアは会いに来てくれなかった。


 1ヶ月後、近所で噂話を耳にした。保健所。そんな単語に背筋が凍りつき、僕は急にエリアが心配になった。

 でも、裏切られた気持ちでいっぱいだったから、こんなふうにも思っていた。

 ふん、あんな薄情者、お仕置きされちゃえばいいんだ。

 当時の僕は、苦しんでいた時に来てくれなかったエリアが許せなかった。

 僕は雪が降り始めた裏山に登った。エリアは、呼んでもいないのに側に来た。僕はエリアにたくさん説教してやるつもりだった。友達を裏切るのはいけないことだとか、ちゃんと帰ったら手を洗わないとだめだとか、そんな大人の言うことを、エリアにも教育してやろうと思っていた。

 でも、エリアの空色の瞳を見た時、僕の中のエリアに対する悪い感情は、雪が解けるみたいにどっかへと行ってしまった。僕はエリアに「ごめんね」と謝ると、エリアは「ワン」と鳴いてくれた。

 しばらく僕らは見つめ合って時間を過ごした。

 人の声が下から聞こえた。保健所の大人がやって来たのだと、その時の僕は思いこんだ。早く逃げなくては、エリアが――。

 だから、僕は、エリアに言った。

 一緒に逃げよう。

 家出覚悟で僕が走り出すと、僕の気持ちを理解してくれたのか、賢いエリアは、その後を離れずについてきた。


 丸一日経った。

 僕らは別の山に迷い込んでいる。喉もカラカラで、お腹はペコペコ。僕はともかく水が欲しかったのを今でもたまに夢に見るくらいには覚えている。

 そんな時でもおしっこをしたくなるのだから、人間は不思議だ。僕はエリアについてこないように言って、トイレに適した場所を探した。エリアに何度も念を押してそう言ったのは、簡単な理由からだった。

 エリアは雌だった。

 たとえ犬であっても女に見られるのはなんとなく恥ずかしかった僕はそれなりに歩いた。ちょうどいい感じの茂みがあったので、そこでおしっこをしようと決めて進んで行くと、僕は少し先に川のようなものを見つけた。

 小事を済ませる。そして、すぐにその川へと僕は飛んで行った。エリアについてこないよう言ったことなんて、もう頭の片隅にも残っちゃいない。僕はそのくらい、喉の渇きに僕は支配されていた。

 そこはとても綺麗な清流だった。僕は犬のように口を付けて川の水を飲む。生き返ったような気持ちになる。それが気持ち良くて、2回くらい繰り返したと記憶している。

 最後に水面から顔をあげた僕は、視線のようなものを感じた。ようやく思い出した。

 ああ、そういえば、エリアのことを忘れていた。あいつも喉が渇いたから、待ちきれなくなって、僕の後をついてきたのだろうと、その時の僕は思っていた。

 だから、満面の笑みで振り返った。エリアが「ワン」と鳴いてくれることを期待して。

 しかし、そこにエリアはいなかった。

 その代わりに、4つの目がそこにはあった。僕の体は、急に固まって僕の言うことを聞かなくなった。

 遠くからでも何の生物かの判別はついた。

 熊だ。

 一頭は自分より少し大きいくらいだった。もう一頭はその親なのかもしれない。大相撲の力士よりも大きな巨体を揺らして、僕の方へとゆっくり近づいてきた。

 気持ちが縮み上がっているせいかもしれない。僕の目から見えたその体躯は、次第に余計なものまでまとわりついてくるようで、だんだんと大きさを増す。

 僕の目には涙が出てきたし、頭の中に死んだふりなんて思い浮かばなかった。口からは声にもならない吐息だけしか漏れ出ない。

 大きい熊が一歩一歩距離を詰めてくる度、しゃくりあげる力が強くなって、僕は本当に呼吸ができなくなった。苦しい。それが世界のすべてのように感じた。

 熊が一気に距離を詰めてきて、僕は涙でべたべたになった目を瞬時に閉じた。

 その瞼の裏には、エリアがいた。

 何度も心の中で叫んだ。

 えりあ。たすけて。おねがい。きてよ。たすけて。えりあってば。

 一晩中でもそうしていれば、熊はやってこないかもしれない。目を開けたら熊の代わりにエリアが側にいるかもしれない。そして、僕がエリアをみて、エリアが僕を見ると嬉しそうに、「ワン」と一声鳴くのだ。

 しかし、そんな願いもむなしく、現実がやって来た。こんな時になぜ五感が研ぎ澄まされるのかわからない。自分の呼吸音以外の、襲い掛かってくる熊の鼻息まで捉えることができる。

 恐怖が累乗で加速する。

 僕はもはや呼吸をするのも怖くなった。熊の足音が聞こえる。

 あと20歩。あと15。10。9、8、7654――。

 僕は、目をぎゅっと握りしめた。


 熊が、気まぐれに少し手を伸ばせば触れるくらい、僕のすぐ前に来た時だった。

 それはやってきた。


 声。

 風を切り裂く轟音が天を刺した。

 遠くで、声がした。

 当時、すぐには、あの遠吠えがエリアによるものかはっきりと分からなかった。けれど、多分、エリアのものだったと今でも思っている。

 長い遠吠えだった。

 長い、長い、遠吠えだった。

 世界中にまでその声を響かせようとするくらい、そのくらいの声の大きさで、自分が生きている証を叫んでいるようだった。発声を終えても、なお残響はサイレンのように響きわたっていた。

 振動は、広大な麦畑を突き抜ける。何もない太平洋の波が凪ぐ。洞窟の中で一つの灯篭がその生涯を終える。

 僕は、その音が終わるのを聞き遂げると、すぐに目を開いた。

 熊はいなくなっていた。

 そして、エリアもいなくなっていた。


 それから、僕は狂ったように走り出した。エリアのことで頭がいっぱいの僕は、泣きながら一心不乱に山を降りた。気が付けば、いつの間にか野に下っていて、僕は震えて膝を抱えて丸まっていたところを、地元のおじさんに発見された。説教をされた後、たくさんの人たちが僕に温かい言葉をかけてくれた。

 僕はその人たちならわかってくれると思って、泣きながらエリアのことを話した。エリアが助けてくれたんだって一生懸命に伝えた。だけど、みんな、エリアのことなんかより、僕のことを気にかけた。今思って見れば、皆、しっかりと「大人」をしていたんだって思う。だけど、当時の僕は、そんなことなんかわからなかった。

 僕がエリアがかわいそうだって何度も心で思っても、口にしてみても、誰一人として同意してくれる人なんていなかった。

 そもそも、エリアのことを知っている人が一人もいなかった。

 雪がしんしんと降り始めていた。僕の頬に落ちた雪の粒は、しばらくすると単なる水滴に変わった。

 つめたい。

 みんな薄情だと思った。そう思うとまた涙が出てきた。声をあげてわんわん泣いた。

 エリアを、碧い瞳をした犬を知っている大人が一人もいなかったことが、何よりも悲しかった。


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