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なぜ人を殺してはならないか

作者: しのぶ

作中に出てくるサレジオ会とはカトリックの修道会ですが、作中では特にカトリック要素は出していません。

サレジオ会は、主に貧しい青少年に教育を施す活動をしている修道会であった。


ある日、フランスのサレジオ会支部で、一人の生徒が教師に言った。

「先生、一つ質問があるのですが」


「何かね?」


「少しおかしな質問かもしれませんが、怒らないで下さいね」


「ああ、怒らないさ。何かね?」


「なぜ、人を殺してはならないのでしょうか?」


「ほう?」


「いや、別に僕はそれが悪いことじゃないと思ってるわけじゃないんです。ただ、それについて納得いく答えを聞きたいだけなんです」


「なるほど、そうだな…。


なぜ人を殺してはならないかと言えば、それは神が『汝、殺すなかれ』と言っているからだ…。

と言えば、手っ取り早いだろうが、恐らくそれでは万人を納得させることはできないだろうな。

それに、ここには疑問を差し挟むこともできるだろう。


つまり、人殺しが悪いことだとして、それは、神がそれを悪いことだと言っているから悪いのか、それとも、人殺しがそれ自体で悪いことだから、神はそれを禁じているのか…。君は、どちらだと思うかね」


「そうですね…。私としては、神がそれを悪いと言っているから悪い、のだと思います」


「なるほど。それでは私は、人殺しがそれ自体で悪いから、神はそれを禁じているのだ、という考えに与しておこうかな…。

しかしこの場合、これら二つの考えは、結局、同じようなものなのだと言えるかも知れないな」


「なぜですか?」


「なぜなら、もし神が万有の作り手なのだとしたら、人殺しがそれ自体で悪いのだとしても、それがそうなるように定めたのは、やはり神だということになるだろうからだ。それだから、神はそれを禁じているのである、とすれば、結局それは、神がそう言ったからそうなのだ、ということと、あまり変わらないことになるだろう」


「なるほど」


「だが恐らく、こうした言い方では万人を納得させることはできないだろうな。そもそも、最初から神を持ち出してくること自体、人々にはアンフェアだと思われるかも知れない。つまり、本当は神などいないかも知れないし、いたとしても、彼は『汝、殺すなかれ』などとは言っていないかも知れないからな。ではどうだろう。仮にそうだったとして、それでも人殺しは悪いことだと言えるだろうか?」


「しかし、修道士のあなたが、そんなことを仮定していいのですか?」


「そのような立場を仮定していたのでなかったら、トマス・アクィナスだって、わざわざ神の存在証明を五つも書きはしなかっただろうよ。もっとも、彼の書いた神の存在証明は、今では確実な証明ではないと見なされているがね…。

だがそれでも、そのように理性的に神をとらえようとしたことは無駄ではなかっただろう。それが図らずも、理性の限界を示すものとなったとしても、それを知れたことはやはり有意義なことだっただろうからな。


まあそれはともかく、君はどう思うかね。たとえ神がいないか、いたとしても、『殺すなかれ』と聖典の中で言っていなかったとしたら、それでも、人殺しは悪いことだと思うかね」


「そうですね。私はそう思います」


「それはなぜか?」


「そうですね…。法律で禁じられているからでしょうか」


「なるほど、そう考えるのもありだな。しかしそうすると、またさっきと同じような問いが起こってくるだろう。


つまり、人殺しが悪いのは、法律がそれを禁じているから悪いのか、それとも、人殺しがそれ自体で悪いから、法律はそれを禁じているのか…。という問いが。

そしてこの場合は、先の場合と同じように、どちらにしても似たようなこと、とは行かないだろう。というのも、成文法を作るのは人間だが、人間は万有の作り手というわけではない、ということは明らかだからな」


「そうですね…。私はやはり、法律が、あるいはそれを作った人が、それを禁じているから、人殺しは悪いのだと思います。少なくとも、法的にはそういうことになるかと思います」


「なるほど。それでは、もし法律が変わって、人殺しは悪くない、ということになったら、人殺しは悪いことではなくなると思うかね?」


「そうですね…。そういうことになるかと思います。少なくとも、法的には。もちろん、道徳的にはまた違うでしょうけど」


「なるほど。それでは君は、人定法主義の立場に立っているわけだな」


「人定法主義?」


「そう、つまり、法律とは、人が、あるいは国が、それを定めた限りにおいて法律だ、という考えだ。道徳的規範は別にしてね…。


だが、世の中にはもっと別の考え方もある。自然法、という考えだ。つまり、法律とは、人が作るより前に、自然によって、あるいはその背後にいる神によって与えられているもので、これまた人が自然に持っている理性によって、導き出されるという考えだ。これは古代ギリシャ時代からある考え方だ。この場合、自然と神、あるいは理性を同一視しても結果は変わらない。実際、中国語では、『天』という言葉が、自然と神との両方を表す場合があるしな…。


人定法の思想と自然法の思想とは相補いながら発達してきたが、私はここでは、自然法の立場に立つことにしよう。

とはいえ、その場合でも、成文法はあくまでも人間が、人間同士の関係を規定するために作るものだから、それは社会の存在を前提にしているわけだ。

そこで、まず人が、自分一人だけで生きている状態というのを想定してみよう。というのは、社会とは人が集まって出来ているものだから、一人の人間、というのは、いわばその基本のようなものだからな」


「そうですね」


「では、ここに人が一人だけで生きていると考えてみよう…。

この場合、彼は自分が考えようと思うことを自由に考えるだろうし、自分が正しいと思うことを信じ、またそれに基づいて行動するだろう。また彼はできるだけ我が身を守ろうとするだろうし、また何であれ、そうすることがより良いと自分に思えることをするだろう。


これらが、いわゆる思想の自由とか、身体の自由とか、幸福追求の権利とか呼ばれるものであって、つまり、いわゆる『基本的人権』と言われるものだ。


そして、こうした性質は、人が生まれつき持っているものであるから、自然、あるいは神によって与えられたものだと言えるだろう。


それだから、アメリカ独立宣言でも、こうした権利は『神によって』与えられたものだと言われているし、フランス人権宣言でも、『神聖な自然的権利』と言われている。

また世界人権宣言では、恐らく宗教的な配慮から、神については述べられていないが、やはり『生まれながらに』持っているものだとされている。ここまでは良いかな」


「ええ、大丈夫です」


「そして、この中で今、特に注目すべきなのは、『幸福追求の権利』というものだ。

というのも、人は、それが自由に自主的に行われる限り、何をなすにしても、『そうすることがより良い』と思われることをなすのだからだ。

つまり、飲み食いするのも、疲れたら眠るのも、伴侶を求めるのも、あるいはその他何をするにしても、それは、そうすることがより良いと思えるからこそ、そうするのだ。自主的に行われる限りはね。

つまり、人の自由は、より良いと思われること…つまり『幸福』とか『善』とか呼ばれるものを、求めるためにあるわけだ」


「しかし、それについては、僕は少し疑問がありますね」


「なぜかね?」


「なぜかというと、例えば、人はわざわざ苦しい思いをして、自分を傷つけたり、自殺したりすることがあります。それも、必ずしも錯乱していたり、強いられたりしたのではなくても、です。

それに、宗教的な戒律についてもそうです。宗教の中には、信者に苦行を求めるようなものもありますが、信者はしばしば自主的にそれを行うように思えます。

あなただって、修道士なのですから、食事や睡眠を減らしたり、断食したり、結婚せずに禁欲的な生活を守ったりしているのではないですか?それでも、人の自由は幸福のためにあると言えるのでしょうか?」


「ああ、言えるだろうね。


なぜなら、例えば自殺する人について言えば、そういう人は、例えば生きていることが辛くて、こんな人生を生きるくらいなら死んだ方がましだ…つまり、その方がより良いと思うからそうするのだから。

しかし、仮にその人が、死ねばさらに苦しい目に遭う、ということをはっきり知っていれば、その人は自殺を選ばないだろう。

また仮に、死ねばより良い状態が待っている、ということをはっきり知っていれば、その人は、そうでない場合より、たやすく自殺してしまうだろう。

しかし、大抵の人は、たとえ自殺を考えても、死ねばどうなるのか、より良くなるのか悪くなるのかはっきりしないために、そこで迷うことになるわけだ。『生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ』…とね。

自分を傷つけることについても、同じようなことが言えるだろう。


突き詰めて言えば、これは、例えば病気の治療のようなものだ。

病気の治療は、その過程で、痛い思いをしたり苦しい思いをしたりすることがしばしばあるものだが、それでも人がその治療を受けるのは、そうすれば病気が治って健康になり、より幸福になれる、と思うからなのだ。


また、適度な運動をしたり、食べ過ぎや飲み過ぎを控えたりするのも同じことだ。つまり、そうした方が健康につながり、より良い結果になると思うからこそ、そうするわけだ。

要するに、自由というのは、ただ欲望の赴くままに振る舞うことではなくて、より良い結果…幸福とか、善とかを求めて振る舞えることにあるわけだ。


宗教的な掟についても同じことが言える。例えば、ある人々は、そのような掟を守らないと、地獄に落ちる、あるいは何かしらの罰を受ける、あるいは世間体が悪くなって自分の不利益になる、とか考えるからそれを守る。これは、より悪い結果を避けるためにそうするのだ。


またある人々は、そのような掟を守れば天国に行ける、あるいは何かしらの褒美をもらえる、あるいは世間体が良くなって自分の利益になる、とか考えるからそれを守る。これは、より良い結果を得るためにそうするのだ。


そしてこれらは、突き詰めれば同じこと…より悪い結果を避け、より良い結果を得るために、つまり幸福のためにそうしているわけだ。


またある人々は、そのような掟を守ることによって、神に近づける、ということを純粋に喜んでいる。これもまた、幸福のために行うことだ。だから、このような人々は、一見苦行のように見える生活を送っていても、喜んでそうしていられるわけだ。…それが、自主的に行われている限りはね」


「なるほど」


「では次に、人が一人ではなく、共同体を作って生活している場合を想定してみよう。

この場合でも、人はなぜ共同体を作って生きるのかといえば、それはやはり、そうすることがより良いと思えるからなのだ。つまり、人は一人で生きるより、集団で生きるほうが、食料を確保することも、外敵から身を守ることも、子孫を残すことも、またその他、何であれなすのが良いと思われる仕事をなすことも、より良くできるからだ。


要するに、共同体が存在している目的は、その構成員一人一人にとっての幸福、つまり『共通善』であるわけだ。これがいわゆる、『公共の福祉』というやつだな。


しかし、もしある人にとって、ある社会に加わっていることが、幸福ではなく、不幸の源にしかならないようなら、その人は、できることならそんな社会は捨てて一人で生きるほうを選ぶか、あるいはその社会を変えようとするだろう。

実際、世の中には、一人で生きていく方が幸福だと思って、砂漠や森の中で、一人で生きる隠者という人達もいるからな。


しかし、もしある人が、社会の中で不幸であることを強いられ、それをいとい、そこから離れようとしているのに、強制的にその中にとどめ置かれているのだとしたら、それはいわば、軍隊によって占領されているようなものだということになるだろう。つまり、それは一種の奴隷状態なのであって、真にその共同体の一員であるとは言えない、ということになるだろう。


社会が存在する目的は共通善なのであるから、その共通善にあずかっている人々こそ、その社会の一員なのであるし、またそのためにこそ、彼はその社会に加わっているのだ。ここまでは良いかな」


「ええ」


「ところが、仮にその社会が、その中で人々が互いに殺し合い、傷つけ合い、奪い合うような社会であったとしたなら、そのような社会では、大抵の人は幸福に生きていけないだろうし、そのような中で生きるくらいなら、そんな社会は捨てて、一人で生きていく方がましだと思うだろう。


だからこそ、人々は互いに掟を定めて、人を殺してはならない、と定めるわけだ。また、傷害や盗みや名誉毀損など、一般に他人を傷つけるようなことが禁じられているのも、同じ理由によるものだろう。

つまり、そのようなことが許される社会では、人々は幸福になれないし、幸福になれなければ、それは社会の存在意義を否定しかねないことだからだ。


そして、人がこのような性質を持っているのは自然によるものであり、そして、だからこそこのような掟を定めるべきだ、ということは、これまた人が自然に持っている理性から導き出される結論だ。

つまり、このような、人を殺したり傷つけたりしてはならない、という法律は、自然、あるいは神によって与えられ、理性によって導き出される法律…つまり、『自然法』である、と考えられるわけだ。


要するに、なぜ人を殺してはならないか?と言えば、それは共同体の目的に反しているからだ、ということになるだろうな。


もっと別の説明もあるだろうが、とりあえず、法的に言えばこんなところだろう」


「なるほど、わかりました。

しかし、僕にはまだ疑問があるのですが」


「何かね?」


「先ほど先生は、人権というのは人が自然に持っているものだというようなことを言われてましたが、人は、社会の中で生きている場合、一人で生きている場合に比べて、多かれ少なかれ不自由を強いられるものです。

これはつまり、社会では人権が制限されるということではないのですか?人は社会に加わっている限り、多かれ少なかれ、人権を失う、ということになりはしませんか?」


「いや、そうとは言えないだろう。なぜなら、自由とは善を得るためにあるものであり、人が共同体に加わっているのは、共通善を得るためなのだから、その社会は人々の同意、または信託によって成り立っているのであり、彼の人権はそのまま保たれていると言えるわけだ。


もちろん、共同体の中で生きていれば、多かれ少なかれ不自由はあるものだが、それは共通善を得るための代償なのであって、彼がその社会を離れたり、変えたりしようとしていない限り、彼はあえてそのような不便を忍んでいると見なされるわけだ。病気の治療や、健康のための運動と同じようにね。つまり彼は、自分の権利の一部をいわば預けているわけで、売り渡してしまったわけではない。


それにまた、今の社会に不満がある場合、その社会を変えることだって不可能ではない。もちろん、何か不満があるからといって安易に変えるべきではないが、それが共通善のためになると見なされるなら、少なくとも理論的には正当だと言えるだろうな」


「それでは、先生は、歴史上の革命が…例えばフランス革命が、正当なことだったと思うのですか?あの革命では、教会も大きなダメージを受けたと思うのですが」


「そうだな、革命の遺産は否定しないが、全面的に肯定もできない、といったところだな。

あの革命は、革命を起こした人々自身も含めて、多くの犠牲を出したし、革命後もしばらくは政治的混乱が続いたからな。

私の意見では、フランスの革命は、あれほど急進的なものではなく、英国の革命のように、もっと漸進的だったほうが良かっただろうとは思う。とはいえ、その革命があったからこそ、現代のフランスがある、というのもまた事実なのだが。


とはいえ、結果から言えば、英国やフランスの革命は、うまくいった例だと言えるだろう。しかし、革命とか政変とかは、必ずしもうまくいくものではなく、むしろより悪い結果に終わることが少なくないものだ。

これはマキアヴェッリも言っていることだが、『伝統的な統治方式が確立されている国では、その方式を踏襲していれば、大きな過ちを犯さない限り、まずまずはうまくいくだろう。

しかし、その方式を変革しようとすれば、よほどの手腕と幸運に恵まれていない限り、成功はおぼつかないだろう。なぜなら、旧体制で甘い汁を吸っていた者達の敵意を一身に受けることになる上に、新たに支持者になった者達からも、中途半端な支持しか期待できないからだ』…とね。


もちろん、政変を起こす者達はよかれと思ってそうするのだが、実際には、それは内戦や政治的混乱を引き起こし、当初の目的も果たされないままに終わってしまう、という場合がしばしばある。それは、私達が現に見てきていることだ。

…ここで、自由についてもっと詳しく考えて見るのもいいだろうな。


例えばここに、飢えていて、食べ物を探している人がいるとしよう。そしてその人が、ある木の実を見つけて、それを食べたとしよう。ところが、その実には毒があって、彼はそれを食べたために死んでしまうか、死なないまでも、苦しい思いをしたとしよう。

この場合、彼はもちろんよかれと思って、自由意思でそれを食べたわけだが、その結果は、彼にとって思わしくない、不本意な結果に終わってしまったわけだ。


しかし、もし彼が、その実には毒がある、ということを知っていれば、彼はそれを食べないだろうし、そうすれば、彼は災いを避けられたわけだから、より思わしい結果、本意な結果に終わったということになるだろう。

自由意思と知性とが、古くから結び付けて考えられてきたのも、こうした事情があるからだ。


革命や政変などについても、同じことが言えるだろうな。それに限らず、何か重大な決定を下す時には、よく考えて、それがどういう結果になるかを見越して、慎重に判断しなければならない。誤った決定をしてしまえば、自分だけでなく、他人をも巻き込んで、災いを受けることになりかねないからな。


そういうわけで、安易に革命や政変を起こすわけにはいかないのだが、しかし、少なくとも理論的には、人には政治的な変革を起こす権利があるし、また、それを合法的に起こせるのが、民主制の良さの一つだと言えるだろうな。それにまた、もし後で過ちに気づいた場合、それをまた合法的に改めることができる、ということも」


「それでは、先生は民主制を支持しているんですね?」


「そうだな。だがもちろん、それが完璧だと思っているわけではない。君主制や寡頭制(かとうせい)にだって、それぞれの良さはあるものさ。少なくとも、君主制や寡頭制だからといって、それ自体が悪いなどということはない。

例えば、もし仮に、ここに一人の人がいて、この人はいかなる局面にあっても、共同体のために、常に最善の判断を下すことができて、決して過ちを犯すことがない、としてみよう。もしこういう人がいるとしたら、彼が唯一の君主になって、一切の政治的判断を下したとしても、別に構わないということになるだろう。少なくとも、彼が生きている限りはね。


しかし、実際にはそんな人はいないし、たとえいたとしても、彼の後継者が同じように優秀だとは限らないだろう。人は自分だけで判断すれば、いかに最善を尽くしたとしても、やはり過ちを犯しかねない。

しかし、人々がみんなで判断すれば、大きな過ちは犯さないだろうし、犯したとしても、後でやり直すことができるだろう…と、こう考えられるということが、民主制が選ばれる理由の一つだと言えるだろうな。


だがもちろん、人々がみんなで判断したとしても、人々の大多数が、誤ったり偏ったりした考えを持っていれば、過ちを犯すことがあり得る。

例えば、先ほどの例えで出てきた毒のある木の実だが、人々のうち誰も、それに毒があるということを知らなければ、人々は、それを大規模に栽培して自分たちの食用にあて、また外国にも輸出しよう、と決めてしまうかも知れない。もしそうなれば、悲惨な結果を招くことになるだろう。


だが、もしその中に誰か、その実に毒があるということを知っている人がいて、その人が皆を説得できれば、そのような事態を回避できるだろう。

人々が積み重ねてきた知識や技術、経験や伝統などが重視されるのは、こうしたことがあるから、というのが理由の一つだ。


つまり、ある意見や判断が正しいのは、それが多数派の意見だから正しいのでもなく、君主の命令だから正しいのでもない。

正しいことは、それ自体が正しいから正しいのだ。

それは例えば、仮に人々が多数決で、今日から4足す3は7ではなく8だということにしようと決めたり、三角形の内角の和は180°ではなく170°だということにしようと決めたりしたとしても、実際にそうなるわけではないのと同じことだ。『真理はおのずから勝利する』…というやつだな。


だからこそ、人々は何が正しいのかを見極めるために学問を積み重ねてきたし、またそれを守り伝え、教えてもきたわけだ。

そしてまた、新しい発見があった時には、それを受け入れる柔軟さをも持っていなければならない…。そうでなければ、ガリレオの時のようなことになってしまいかねないからな」


「ああ、ガリレオの宗教裁判のことですね…。あれはよく、『信仰と理性の対立』とか言われますが」


「そうだな。だがあれは、必ずしも『信仰と理性の対立』というような二元論ではないのだ。というのは、確かに信仰によるところもあっただろうが、当時は天動説が一般に受け入れられていたし、当時の技術で観測できる範囲では、天動説を前提にして天体観測しても、何ら不合理な点は見出だせなかったからだ。むしろ、地動説をとった方が、不合理な結果になると考えられていた。

要するに、当時としては、天動説は十分合理的で客観的な事実だと見なされていたわけだ。しかし、それだけなら、ただ当時一般の過ちで済んでいただろう。

本当の過ちは、それが永遠の真理であり、信仰箇条に書き入れるべきものであるとして、固定してしまったことにあるのだ。そうしなければ、ガリレオも教会も、傷付かずに済んでいただろう」


「確かに、そうですね」


「政教分離原則についても、同じようなことが言えるだろうな。フランスで政教分離が達成されたのは、革命の遺産の一つだが…。


ところで、もし仮に、ある宗教が絶対に正しく、他は誤りである、ということが、確実に、客観的に証明できることならば、国がその宗教を教えることを国民に義務づけたとしても、別に不当なことをしていることにはならないだろう。それは言ってみれば、予防接種や、義務教育のようなものだからな。

だが今では、宗教の正しさというのは、理性の限界の外にあるものであって、確実な証明はできないと見なされている。

だからこそ、国はそういった宗教的な判断は個人に任せて、もっと客観的なことのみを行うようになったわけだ。

宗教の正しさが確実に証明できると思われていた頃には、そのようにはされなかったのだがね…。


私が前に、トマス・アクィナスやその他の人々は、神の存在証明を試みながら、遂にそれを確実なものにはできなかった。しかしそれも私達には有意義なことだったのだ、と言ったのはそのためだ。

彼ら自身はその目的を果たせなかったとしても、彼らの試みは、一種の知的な遺産として私達に受け継がれているし、私達の現在は、やはりその上に成り立っているのだ。


それにまた、遂に理性では証明しきれなかったからこそ、それが逆に、神の偉大さを証明することになったのだ、とも言えるだろうしな」

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