深藍色の記憶
漆法本編より、主人公凜の友人相良みやこ視点での過去話。
二人が仲良くなったきっかけはとあるお祭りの縁日で……。
相良みやこ、中学一年生。蒸し暑さの残る夏の夕暮れ時。
おかしな日常に光が差し込んだあの日、私は一生忘れることは無いだろう。
淡い水色に赤い金魚と流水模様の浴衣、髪は後ろにまとめて簪をさして、それから花柄の小さな手提げ。カラコロと下駄を鳴らして友達との待ち合わせ場所に急ぐ。
かなり余裕を持って出て来てしまったから時間はあるけれど、逸る気持ちに胸を踊らせて少しだけ歩調も早くなってしまう。
だんだん聞こえてくる祭囃子は賑やかな空気を伝えてくる。香ばしいソースや甘い砂糖、縁日の香りが鼻をくすぐる。
今夜は昼長祭と呼ばれる地元の祭りの日だ。なにやら町に伝わる伝説が元になっているらしい。らしい、というのも私自身この町に越してきたのはつい最近だから詳しいことはよく分からない。
そんなことよりもようやく出来た友人と遊ぶことができる喜びで頭がいっぱいだった。日が完全に暮れたら神社では舞や神楽が奉納される。
だから、その時だけは浮かれて忘れていた。自分の目に視えるものが他の人とは少し違うことを。
「っ……!!」
突然、目に写ったそれに喉の奥で声にならない悲鳴をあげた。楽しい気分が一掃される。
だんだんと増えてくる人混みの中で、明らかに人ではない形をした者がいた。自分と同じくらいの大きさ、黒い胴体に人のような形をした真っ黒の手足、大人一人くらい丸呑みしてしまいそうなほど大きな口が真ん中についている。
よたよたと通り過ぎる人の前を塞いでみたり、顔を覗きこんだりしている。けれど誰もその存在には気付かない。誰にも視えていない。確かにそこにいるのに、周りはみんな嘘のように素通りしていく。
それでも私にははっきりと視える。視えてしまう。誰にも視えない人ではないなにかが。よりにもよってこんなところで遭遇してしまうとは。
今ここで立ち止まって振り踵を返せば明らかに不審だ、きっと視えていることがバレてしまう。
意を決して他の人のようになんでもない振りをして通り過ぎる。カラカラと下駄を鳴らして、前だけを見て歩く。それはこちらには目を向けていない。大丈夫。大丈夫。心の中で言い聞かせて足早に、けれど不自然でないくらいに通り過ぎる。
ほら、上手くいった。ほっと安堵の息を吐く。早くここから離れなければ。
「おまえ、みえてるな」
ぞわり。耳元のすぐ近くで機械で何重にもぼかしたような声がした。
「ひ……っ!!?」
小さな悲鳴が漏れる。同時に恐怖で足が固められたように動かなくなる。
「あははははははっ。ひっかかった。みつけた、みつけた、みえるやつ」
「なっ」
口の真上の位置に、一つ目玉がぎょろりと覗いた。カマをかけられたのだ。しまったと思ってももう遅い。
「みつけた。ひとのこだ」
けたけた、けたけた、それは人間のような歯を剥き出しにして笑っている。にゅっと伸びてきた手がこちらの手を掴まえようとする。
その瞬時、我に返った。反射的に弾かれたように走り出す。いつもと違う格好、履きなれない下駄は走りにくくて仕方ない。けれど捕まったらきっとお終いだ。後ろなんて見ずに逃げる。
幸いあまり足は早くないらしい。ふらふらとよろけながら走っている。けれど人混みでこちらも足止めされる。このままではいずれ捕まってしまう。意を決して人に紛れて人の少ない路地へと逃げ込んだ。
周りなんて見えていない。どこをどう走ったかもよく覚えてはいない。
「はぁっはぁっここまでくれば、もう」
背後に足音はなく、振り返っても誰もいない。上手く撒けたようだ。
どのくらい走ったのだろう。さすがにもう足が辛い。気付けば足の指の間は鼻緒で擦れて真っ赤になっている。息を切らしながら壁に手をついて胸を押さえた。
「痛い」
どうしていつもこうなのだろう。目尻に涙が浮かぶ。
せっかく出来た友達との約束も守れない。一緒に夏祭を楽しもうって言ったのに。
「痛いよ……」
幼い頃から人とは違うものが視えた。他人から見れば見えない何かに話しかけていたり、時折おかしな行動をとっているようにしか見えなかっただろう。けれど、私の目には確かに視えている。幻覚なんかじゃない。人とは違うなにかははっきりと存在している。お化けだとか妖怪だとか、きっとそういう類の者達。
大丈夫だと、上手に隠せると、そう思っていたのに。
「ここ、どこだろ」
気付けば自分がどこにいるのか分からなくなっていた。誰か近くに人はいないだろうか。まだこの辺りの道は知らない場所が多い。
「おう、聞いたか?スズタケ殿が小仙の外れに出たマガツモノを一人で祓ったんだと」
「さすがじゃの。あそこに出られては崖の湯に行けなくて困っておった。ほんにあの法師殿は人とは思えんな」
灯りの見える大きな通りの方で、誰かの会話が聞こえてきた。賑やかな気配がする。もしかしたら偶然お祭りの通りに出たのかもしれない。ほっとしたのもつかの間、覗き込んで心臓がばくりと脈打った。嫌な汗が吹き出して、手がかじかんだように震えている。
人ではない。大通りを闊歩する獣頭や首の異様に長い女、独りでに動く唐傘。多くの妖怪があちらこちらに蠢いている。まるで出来のいい仮装行列だ。もちろん仮装なんかじゃない。
悲鳴を上げなかった自分を褒めたいくらいだ。これは、そういう者達なのだと本能が告げている。
「なに、ここ……妖怪の町?」
ちらほらと人間のような姿も見られるが、お面をしていたり顔がなかったり。町全体が異様に時代じみた建物ばかり。いかにも現実から切り離されたように見える。昔で言う茶屋だとか、長屋だとか、そういう古びた木造が立ち並ぶ。
店には提灯が、ところどころに立つ看板は筆文字で人の字と記号に見えるものとが混ざっている。
「む、なにか人の匂いがしないか」
「やや、言われてみると。もしや迷い込んできた者がおるのでは?」
「迷い込んだのならいいんじゃないかい。捕まえて食っちまおう。アタシも酒の肴が欲しかったところさ」
近くを通りがかった狐がじろりと辺りを見回した。
ぞわり。間違いなく自分のことだ。鳥肌が立つ。まだ気づかれていないはず。そっと、音を立てないように振り返ると走り出した。走って、走って、息を切らしながら闇雲に元来た道と思しき方へ。
だと言うのにいっこうに景色は変わらない。どこか時代を感じるどことなく妖しげな気配の漂う町。
「はあっ……もう、無理」
ずるずると壁に手を置いてしゃがみこむ。苦しいのは走ったせいだけじゃない。
誰もいない。静かで薄暗い場所。狭い路地を走っていたと思ったのに、ここは開けていて周りの壁にはなにか木箱が積んである以外はなにもない。上には明かりの灯った提灯だけがゆらゆらと揺れている。
両親の転勤で越してきてからそういうものを視る回数が以前より増えた。なるべく気をつけていたはずだったのに散々だ。
どこを通ってきたかももう自信が無い。戻らなければ。どうにかしてここから抜け出す方法はないかと辺りを見回した。
「まあまあ、お嬢さん一人?どうしたの?」
「えっ」
優しげな声に顔を上げるといつの間にか綺麗な着物を来た上品な印象の白髪のお婆さんが目の前に立っていた。どこかのご婦人といった風体だ。
先程まで目にしていた異形ではない。ちゃんと人の形をしている。
「あらあら、足が真っ赤。それに浴衣も着崩れてしまって。大丈夫、歩ける?お祭に行く途中だったのかしら」
こんな場所でうずくまっていた見知らぬ私に声をかけてくれた。きっと変な子どもだと思われたに違いないけれどそれでも嬉しかった。
「あの、道、分からなくて……」
「まあ、そうだったのね。じゃあついていらっしゃいな」
差し伸べられた皺のよった手に自分の手を伸ばす。助かった。まだ慣れないこの土地でこんなに優しい人が居てくれて。
指先が触れる、その直前。しゃん、と涼やかな鈴の音が響き目の前に銀色が閃いた。
「祭に乗じてわざわざ山から降りてきたのか、山姥」
よく通る、凛とした声が降ってくる。
お婆さんの喉元には鋭く光る刀の切っ先が突きつけられていた。それが自分の後ろから伸びた誰かの手によって突きつけられているものだと気づくのに時間はそうかからなかった。
「ま、まあ!なんなのあなた!!」
私とお婆さんの間を遮るように現れたのは人の姿をした妖怪のような誰か。
華模様のあしらわれた目元だけを隠すように作られた面を付け、舞台衣装のように華やかな装飾の着物。綺麗な長い黒髪がひとまとめに後ろで高く結えられ、鈴のついた組紐が揺れている。
身がすくむ。突然現れ刀をちらつかせるその人が恐ろしい。けれど裏腹に、その人の纏う雰囲気かなんなのか、どうにも絵になるようで一挙一動全てが美しく見えて見惚れそうになる。
「なにもせずに帰るなら命は取らない。早く山に帰れ」
高過ぎず、低過ぎず、少年にも少女にも聞こえるような声だ。大人くらいの背丈だと思ったのに、よく見れば思ったよりも背は高くないらしい。
「まあっその刃物をしまってちょうだい。なんなのあなた!」
お婆さんは手を引くと恐ろしそうに後ずさりする。当たり前だ、首に刀を突きつけられるなんて今の時代まして自分の身に降りかかるなんてそうそう滅多にあることじゃない。
「ちょ、あの……っ」
「あはは、白々しい」
その人は私には背を向けたまま目もくれず、一笑した。たった一言だけだったのに強い語気に気圧される。顔は見えないのに睨みつけているように見える。
「あなたが後ろに隠しているのは首狩鎌だろう」
空気が凍る。蒸し暑いはずなのに、どうしてか薄ら寒い気さえする。
差し出されなかった方の手にちらりと握っている鈍色が見えた、大きく湾曲した鈍く光る刃先。普通の草刈り鎌より大きくて、それは人の首をゆうに刈り取ってしまえそうな程。
「か、鎌……なんでそんなものを」
考えたくもないがどうして上品な装いをした老女がこんな時間にあんなに鋭い刃物を持ち歩いて人気のない場所にいるのか。
「く、くくく……ここ最近、山にいては人の子を食う機会がめっきり減ってしもうた。今回はワシが先に見つけたんじゃ、そなたに山神の池の水で作った一等良い酒をやろう。それと交換にしておくれ」
さっきまでとはうって変わり、しゃがれた地を這うような低い声。綺麗にまとめられていた白髪もざんばらに振り乱し、背は曲がり、皮膚が赤黒く変色していく。爪も鋭く長く、どんどん変わり果ててついには人間と言うにはあまりにかけはなれた妖怪へと変化した。
「っ!?」
「交渉は無駄だ。即刻立ち去られよ。これ以上は容赦しない」
「迷い込んだのはその童の方じゃ。食べても問題はなかろ」
「交渉は無駄と告げたはずだ」
ぴしゃりと遮られて山姥は口を噤む。
「……おのれ……」
小声でなにかを呟いている。二三歩後退さるとわなわなと身体を震わせ、その呟きは次第に大きくなっていく。
もう右手の鎌は隠してすらいない。確実に首を刈るためのものだと主張している形だ。
「仕方ないな。衣装汚すと怒られるんだよ」
お面の人はため息混じりに刀を構えていた姿勢を解いた。なぜ、ここで臨戦態勢を説くのか。はらはらしながら忙しなく交互に二人を目で見やる。
「おのれせっかく数十年ぶりのご馳走じゃ。邪魔をするなあああああああああ!!!!!!」
目が血走りギョロリと動く。躊躇い無く面の人物の首を目がけて鎌を振りかざす。その速さは年老いた姿とは思えないほどに俊敏だ。飛びかかるそれはもはや人間の動きではない。なにもできずに呆然と見ていることしか出来ない。
じゃらり
目の前の面の人は数珠らしきものを取り出す。一言二言何かを唱えた。綺麗な深い青の珠、透き通った水底を閉じ込めたような色。それから細々した模様のお札を投げつけたように見えたのは気の所為では無いはずだ。
次の瞬間、ふっと老婆の身体は軽々と宙に浮いた。かと思うと後ろへと勢いよく吹き飛んだ。激しい衝撃音と共に壁に激突して突き破る。人間だったら一溜りもない。
「……行こう。立てる?妖は丈夫だ加減したからあの程度じゃすぐ起き上がるかも」
「えっあの?!……加減?」
どう見ても相当な威力があったように見えたがあれで加減したというのか。
腕を取られ、ひょいと軽く立たせてくれた。そのまま振り返ることも無く走り出す。不思議と足の痛みは感じない。
「こっち。少しの間我慢して」
手を引かれたまま足早にその場を立ち去った。止まることなくなぜかどんどん賑やかな方へと進んでいく。
「ちょっと待って、どこ行くの。そっちはっ」
少し抵抗すれば止まってくれた。有無を言わさずという訳では無いらしい。
「必ず帰してあげるから、今だけ信じて欲しい。帰るには道順がある。離れずに着いてきて」
すっと、手渡されたのは紐の付いた四角い紙。大きく真ん中に墨で文字のような紋様が描かれている。
「これは」
「まじないのかかった面だよ。付けて。人の匂いを誤魔化してくれる」
そう言って促されるままおそるおそる付けてみる。目元に穴も空いていないのに不思議と透けて見える。
大通りは、やはり妖怪達が堂々と大手を振って歩いている。普段みかける彼らとはまた印象が違う。長い髪の揺れる背を追いかけて、どうしてか今は恐怖が薄らいで物珍しい屋台や景色に圧倒されていた。人の街とは違う輝きを持つそこは歓楽街といった様子だ。
「やあ、一番上等な傷薬をひとつおくれ。天瑠璃の実ひとつと交換でどうだ」
だんだん慣れてきたせいであちこち見回していると前を歩く面の人は、道沿いに構えたこぢんまりとした店に立ちよった。
懐から取り出したのは丸い木の実の形をした青い宝石のように見える。綺麗なそれを横からしげしげと眺めていると店主は素っ頓狂な声を上げた。
「なんと!本物だ。旦那さまそんな貴重な物を傷薬なんかとでよろしいんで?!」
「あいにく今日は手持ちがこれしかないんだ。そうだな、じゃあそれと、それと……そうだな傷薬は綺麗な容器に詰めてくれ」
「は、ただいま!!!」
そう言うと店主は店の奥に飛んで行く。どたどたごそごそ、忙しない物音を立てたかとおうと三分ほどして小ぶりな陶器の入れものに入った薬を複数持ってきた。
「これだけでいいんで?お望みの薬があれば他にもご用意致しますが」
「ああ、要らない。これ以上はかさばって持って行けないからね」
風呂敷に丁寧に包まれたそれらを持って店を出る。店主は姿が見えなくなるまで深々と頭を下げていた。
「さっきの綺麗だったね。あれは木の実なの?」
「あはは。そうでしょ。私が育てた一級品だからね。天瑠璃と言うんだよ。妖にとって貴重な品だ。あれ一つであの店の一番高い薬を買ってもまだたくさんお釣りが出る。ほら、これ」
ぽんと掌に乗せられたのはこれ一つで数万円くらいしそうな絵付きの小さな入れ物。買った薬のうちの一つだ。これは確か傷薬の入っている器だったはず。
「あげる。足、鼻緒が擦れて痛かったでしょ。赤くなってる。塗ればすぐ良くなるよ」
「いいの?あなたが買ったものなのに」
「その傷につけるために買った薬だよ。気にせず使って」
近くにあった大きな石に腰掛ける。若草色をしたクリームのような薬だ。人差し指で掬って傷に塗れば染みることもなくずっと馴染む。驚いたのは本当にみるみるうちに痛みが引いて赤みがなくなったことだ。
「良かった。じゃあ歩けるね。長居は無用だ」
「あの、ありがとう」
なんだか、妖と話している時と自分と話している時で少し口調が違う気がする。自分に合わせてくれているのかその雰囲気に安心感を覚える。それからまた少し歩いて、いつの間にか喧騒が遠ざかり裏路地のような場所に最初にみたものとよく似た提灯がぽつぽつと宙に浮かんでいる。
そして次第に灯は消え、遠ざかっていたはずの賑やかな気配が再び近づいてきた。またさっきの場所に戻ってきたのかと一瞬身構えるも、見えた景色にその疑念は払拭された。
「大丈夫。みて、人間側の世だよ」
指さす方向は、確かに見慣れた人間の町。浴衣で歩くカップルやワンカップ片手に屋台を除くおじさん、走り回る子供たち。馴染んだ光景だ。
「ねえ、あなたの名前は。どうして私を助けてくれたの? 」
しゃら、と鈴が鳴る。振り返る面は答えをくれずにくすくすと笑っている。
「どうして笑うの……」
「ふふ。私は篠竹」
「すず……たけ……?」
どこかで聞いた気がするが、名前なのだろうか。目線でそれとなく聞いてもそれ以上は話す気がないらしい。ただくすくすと笑っているだけだ。
「あ……!」
だが、目の端にチラついた影に思い出した。事の発端を。いろんなことが起こりすぎて忘れかけていたけれど、一つ目の黒い妖がまだいた。
脇に乱雑に積まれた荷物の影からこちらを窺うように覗いていたのは人混みの中で自分を捕まえようとしてきた妖怪だった。
そっと面の人を盾に後ろに隠れる。また追いかけてきたらと思うと得体の知れないおそろしさが背筋を這い上がる。
「低級か」
「あれが、私のこと追いかけてきて……」
「うん?……ああ、なるほどね。そこの妖、出て来なさい」
「呼ぶの!?」
面の人は片手で後ろに居るように示す。そっと携えた刀は抜いていない。あの山姥よりも強そうに見えるが大丈夫なのだろうか。
「ひいいっごめん、なさい。もうしない。もうしない。だからはらわないで」
追いかけてきた時とは別人……いや、別妖のように出てきたかと思えばまた物陰に隠れようとする。怯えたように震えている。おどかすどころかむしろ泣きそうにすら見える。
「どうして脅かした」
「あなた、ほうじゅつし、でしょ。すずたけ、きいたことある。ごめんなさい」
「勘違いしないで欲しい、法術師は妖祓いは滅多にしない。それで、理由は?」
「みえる、にんげん、めったにいない。ただそれだけ。こわがらせた?」
だんだん落ち込んでいく様子はなんだか可哀想に思えてくる。でも忘れた訳では無い。確かに捕まえようとしてきたことを。
「ああ、なるほど」
交互に見比べて、面から見える口元が笑ったように見えた。
「な、なに?どういうこと」
「構って欲しかったのか」
その一言で、がくりと肩から力が抜けた。妖は小さく頷くとまた一層物陰に体を隠そうとする。
「うれし、かった。あやかしもともだちいない。みえるひとのこ、めったにいない。あそびたかった。ごめんね」
辿々しく紡がれるのは寂しそうな謝罪だった。まるでいたずらを叱られた子どもそのもの。
かける言葉が見つからなかった。その寂しさはなんとなく分かる気がしたのに、どう声をかけるか浮かんでは消える少ない語彙に思考が追いつかない。
「人を遊び相手に、か。害するつもりがなかったのなら今回は見逃す。人はキミの思っている以上に脆い。お友達が欲しいなら人はやめておけ」
「ごめん、なさい。ばいばい」
一度だけ振り返る。しかしすぐに背を向けて、過ぎ去る人の波のなかをよたよたしながら消えてしまった。
「あ……」
結局なにも言えずに黙ったままで見送った。得体の知れないあれが怖いという気持ちは変わらない。境遇は違う。でもずっと友達を作れずにいたのは自分も同じだ。
視えるせいで周りに馴染めない。いつもそれで誰かと距離を置く。
理由は違うかもしれないが、きっと上手くいかなくて寂しい思いをしていたのは同じだ。
「気にすることは無いよ。あれはああいう妖だ」
見透かされたようにかけられた言葉は慰めにも聞こえた。
「ところでもしかして、キミは視える人?」
去った妖の方を見つめていると唐突にそんな疑問を投げかけられた。
「えっ今更?」
「ああ、やっぱりそうなんだ。道理であまり驚かないと思った。時々妖側の世界に迷い込む人間はいるけど大抵普段から視える人じゃないからもっと落ち着きないからね」
「そうなの?」
自分では十分驚いていたつもりだったのだが、確かに見慣れた分は落ち着いていたのかもしれない。
「そっか。じゃあ術をかけてもあまり意味が無いな」
悩んだように顎に手を当てる。しかし口調は全く悩んでいるようには聞こえない。
「本当はこういうことがあると記憶に蓋をさせて貰わなくちゃいけないんだ」
「記憶を、消すの」
少しだけ、楽しくなかったといえば嘘になる。この夜を忘れてしまうのはちょっと勿体ない。
「いや、そんなことは出来ない。ただちょっと曖昧に濁すだけ。でも、視える人にその術を掛けてもすぐに思い出しちゃうんだ。妖はそこらじゅうに居るから」
意味が無いんだ、そう言って笑った。なんとなく、それは少しだけ嬉しそうに聞こえた。
「忘れたいなら話は別だけど。ね、相良さん」
「なんで私の名前を」
おもむろにその人は自分の面に手をかけた。そして、なんの躊躇いもなく外す。その下から現れた顔に息を飲んだ。
「し、篠坂さん……?」
「やっぱり気づいてなかったか」
切れ長な二重の目に、少年とも少女とも見える整った顔立ち。はっと目を引く容姿の彼女はそれほど沢山話したことは無いが確かに同じクラスの同級生、篠坂凜だった。
「なんで、その格好!?もしかして……妖怪だったの」
「あっはは。そういう発想?違うよ、私はちゃんと人間。これから舞があるからね。これはその衣装」
「でもどうしてあんなに詳しく?篠坂さんって何者なの……」
妖を吹き飛ばしたり、不思議な街で自然に買い物したり理解の及ばないところが多すぎる。それを察してか、薄く笑うと彼女は言った。
「私も視えるんだよ」
「篠坂さん、も……!そっか、そうだよね。でなきゃ、あんなことできないもんね」
初めて出会った、自分と同じものが視える人。
だが凜はすっと、人差し指を唇の前に立てた。そんな仕草すら絵になってしまうような滑らかな動き。
目尻に紅を差して化粧をした顔は、衣装と相まってどこかこの世のものではないような雰囲気を漂わせている。
「これ以上は、内緒。ほら、後ろ向いて。髪と浴衣を直してあげる」
器用にちょいちょいと手を加えて、走ったせいで崩れてしまった髪型と浴衣をさっと整えてしまった。慣れているのか非常に手際が良い。
「ほら、これで大丈夫。さあ行った行った」
ぽんと軽く背を押され、弾みで通りの方へと押し出される。慌てて振り返ると、そこにはもう彼女の姿はすっかり消えて無くなっていた。
「あれっ?」
きょろきょろ探しても見当たらない。今まで喋っていたはずなのに路地の闇に消えてしまったかのよう。
しばらく見て回ったけれどとうとう見つけることは出来なくて、そうこうするうちに待ち合わせの時間を十分ほども過ぎてしまったことに気がついた。会ってもう一度お礼を言いたいけれど、それはまた明日学校で会ってからにしよう。急いで待ち合わせ場所に駆けつけると既に友達は着いていた。
それから、屋台を見て少し歩いて他愛ないお喋りをして。さっきまでの出来事がまるで夢だったかのように思えてくる。でも、貰って手提げの中に入れた薬の容器はきちんとある。
とんっととん
境内に設けられたスペース。小太鼓が高い音で小気味良く鳴り始めた。これから神社で舞があるから見に行こうと誘われる。舞、と聞いて浮かんだのは凜の姿だ。彼女は舞の衣装を着ているのだと言っていた。
次第に鳴物が静かに響き始めると数人の揃いの衣装に面を付けた人が並んで現れる。
その中に、いた。周りは大人なのだろう。少し背の低い彼女は真ん中に佇んでいる。
涼やかな鈴の音を響かせて、皆同じ動きで舞い始める。呼吸をするのも忘れてそれに魅入っていた。しっくりくる言葉が見つからないほどに、それは美しく鮮やかだった。途中、彼女ひとりが前に出て剣舞を舞う。しなやかで、鋭くて、堂々としていた。動く度にひらりと揺れる裾や鏡のように光を弾く銀の刃。それがあまりに綺麗だったせいか、それとも謎の安心感に包まれたせいか、ほろりと涙が溢れた。
自分以外にも視える人がいて、そして自分の知らない世界を知っている。一人ではない。たったそれだけのことでしかないかもしれないけれどそんな些細なことが一筋の光明が射したように思えたのだ。
この夜のことは自分の中でずっと忘れられない思い出だ。恐ろしくもどこか魅入られそうになる妖の街も、謎めいた同級生の後ろ姿も一生胸に鮮やかなままで残り続けるだろう。
これが、相良みやこと篠坂凜の邂逅-