ニ話 出会いはミルクキャンディの味
あたたかい。
額に押し当てられた大きな手のひらが、すごく温かく気持ちよくて、痛みに現実逃避していた思考が、戻って来る。
何だか分からないけれど、大きくて温かいものに包まれていて、ほっぺをその温かいものに擦り寄せて、腕をまわして、ギュッとしがみつく。
痛みに強張っていた体が、解けていく。何だか生理痛も少しだけ和らいだ気がして、ふううぅっと、大きく溜め息をつくと、体の力が抜けてしまい、突然やって来た睡魔に襲われて、眠りに引き込まれてしまった。
目が覚めると、見覚えのある部屋で。
あれ?ここって、会社の休憩室?
目が覚めきれないまま、周りをぼんやりと見る。
わたしは、座布団を並べた上に寝かされていて、毛布が掛けてあった。
枕元に座っていたのは、総務課で休暇届けを出す時とかにお世話になっていた岡野さん?
「すみません、わたし、どうしてここに居るのでしょうか?」
首をかしげながら、尋ねる。
あれ?わたし、確か、廊下で座り込んでいたはずなのに、そこからの記憶がないよぉ。
岡野さんは、ニコニコとニヤニヤの混じった様な、笑顔を向けてくれる。
何だか知らないけれど、嫌な予感しかしないのは、わたしの気のせい?
「田渕主任が、廊下で座り込んでいた岩城さんを見つけて、お姫様抱っこで事務所まで連れて来たんですよ。どうしたらいいのでしょうかって、オロオロとうろたえて焦ってる様子がまた、」
話している途中で、ぷっと吹き出して、思い出し笑いをしている。
お姫様抱っこも、初めて生で見ましたって、笑いながら言われても、わたしは覚えが無いし。
「とりあえず、熱も無い様でしたし、洋菓子一課の主任からも生理痛だとお聞きして、休憩室に寝かせておこうって事になったのよ。うちの会社、医務室なんて無いし、目が覚めた時に側に居るのは、女性の方がいいだろうって事になって、私がついていてって頼まれたのよ。」
にこっと親しみやすく微笑む岡野さんに、ゆっくりと起き上がってから、お世話になりましたと頭を下げる。
「後、この書類に記入して貰える?」
そう言いながら差し出された 書類に目を通すと、生理休暇申請書と書いてあった。
これは、アレですね。女性ならばある事は知っていても、実際は誰も使う事の無いと言う、幻の書類。
「洋菓子一課の主任には、許可をもらっていますので、今日と明日の日付を書いて提出してくださいね。行きにくいかも知れないけど、ちゃんとお医者さんに診てもらった方がいいわゃよ。」
お医者さんって、やっぱり産婦人科だよね。行きにくいくて、ついつい、痛いのを我慢していたんだよね。やっぱり行かなきゃダメだよね。会社の人にまで迷惑をかけてしまったんだもの。
「岩城さんは、確か寮でしょ?」
はい、と頷く。
「田渕主任が、車通勤だから、自転車を積んで送って下さるそうだから。」
「そんな、そこまでご迷惑掛けられません。」
びっくりして、慌てて言うと、ニッコリと微笑まれる。
「会社としては、途中で倒れられた方が、もっと困るの。いいから、好意に甘えさせてもらっておきなさい。」
軽く肩を叩かれるのだけれど、男性と二人っきりって、大丈夫か、わたし。緊張してお腹が痛くなったら、どうしたらいいの?
って、よく考えてみれば、今、すでに、お腹が痛いんだから、今更心配しなくてもいいんだよね。
立てる?と、差し出された手を取って立ち上がると、事務所まで連れられて行く。
「主任、岩城さんが、気づかれましたよ。」
岡野さんが、そう声を掛けると、田渕主任さんが、パソコンから頭を上げる。
あんまり総務課の田渕主任って、接点が無いので、よくは知らないの。
見た目は、丸顔で、髪も短くカットされていて、キリッとした濃い睫毛に、眼鏡の下の瞳が優しそうで、穏やかな微笑みを浮かべている癒し系の親しみやすい人って感じかな。
前に、事務所に休暇届けを出しに来たら、たまたま岡野さんがお休みされていて、困っていたら、声を掛けてもらったくらいで。
「ああ、休暇届けですか?」
そう言って、ふんわりと微笑まれて申請書類を渡して下さった手の、事務仕事をしているせいか、すっきりと長く伸びた指が、とても綺麗で、何だかドキドキしちゃったなぁ。
休暇届けに記入して、お願いしますと差し出した手が、震えてしまった様に思う。
主任さんは、きっと覚えていらっしゃらないだろうけど。
すぐにお腹が痛くなってしまう体質のせいで、男の人とお付き合い出来ないだろうなぁって、諦めているんだ。
でも、ちょっとだけ、いいなって思った、男の人。
「分かりました。少しだけ待って下さいね。」
パソコンのマウスを動かして、カチカチと音を立てると、終了の音楽が流れる。
わたしは、その間に申請書に書き込んで、岡野さんに提出する。
「さあ、行きましょうか。」
田渕主任さんは、ビジネスバックを持って、立ち上がる。
「すみません。ありがとうございます。」
少し赤くなりながら(だって、男の人に生理中なのを知られているのでも恥ずかしいのに、お姫様抱っこで運ばれていたなんて、恥ずかし過ぎるよ~)、うつむき気味について行く。
営業の車の赤いロゴマークの入った箱型のトラックが並んでいる反対側に、自転車置き場があり、いつもそこに自転車をとめているんだ。そこで待っていると、慣れた運転で、社員用の駐車場に駐車してあった車を、バックでつけて下さる。
後部座席を倒して、フラットにすると、そこにわたしの自転車を軽々と抱えて載せて、バンッて軽く音を立てて閉める。
「どうぞ。」
そのまま助手席側に回って、ドアを開けて下さる。
「ありがとうございます。」
お礼を言って、助手席に座ると、
カチッとシートベルトをしめる。
主任さんも、運転席に座ると、シートベルトを締めて、エンジンをかける。
ハンドルに置かれた手が、綺麗だなぁって、ついつい、見とれてしまう。
そんなわたしの視線に気づかれたのか、ん?って感じで見詰められてしまって、赤くなりながら、目を逸らしてしまう。
よくよく思い出してみると、お姫様抱っこは、全く覚えていないんだけれど、額に当てられた大きな手のひらが、すごく温かくて気持ちよかった事は覚えている気がするの。
あの手で他の所を触られると、どんな感じで、どんな気持ちがするんだろう。やっぱり気持ちよかったりするのかな?
いや~ん、わたしのバカバカバカ。変な想像し過ぎでしょ。
どうか、主任さんには伝わっていません様に。
心の中で一人で焦っている内に、自転車で20分かかる寮までの道が、10分もかからないで到着してしまう。
寮の自転車置き場に、わたしの自転車を下ろしてとめてくれる。
「今日はありがとうございました。ご迷惑をおかけして、すみませんでした。自転車もありがとうございました。」
深々と頭を下げる。
「どういたしまして。明日は必ずお医者さんに診てもらって下さいね。よければ、これ、どうぞ。」
ポケットから、メモを取り出して渡して下さる。
開いてみると、産婦人科クリニックの名前、住所、電話番号と、簡単な手書きの
地図。
「近くで女医さんの病院があったので、よかったら、参考にして下さい。」
うわ~ん、スッゴく助かるけど、事務的にサラっと流されても、複雑なんだけど。
いや嫌、照れて言われると、もっと恥ずかしいと思うから、これでいいのはわかっているのですが、乙女心がついて行かないだけなの。
産婦人科に行った事は無かったし、助かるけど、恥ずかしさが減る訳では無いだけなんです。
「ありがとうございます。明日受診させていただきます。」
消え入りそうな声になってしまって、申し訳なかっんだけど、お礼を伝える。
「よかった。これ、どうぞ。」
ポケットを探って、個包装の飴を渡してくれる。
人の良さそうな笑顔を残して、車に乗るのをぼんやりと眺める。
いただいた飴は、ミルクキャンディで、優しくて甘い味がした。