四日目・個人タイムトライアル
インターハイ四日目は、昨日大半の選手が宿泊した休息地、諏訪の街を使った個人タイムトライアルとなる。一周約十八キロの諏訪湖を時計回りに走り、最後は湖畔から離れて直線の幹線道路でフィニッシュ。
個人タイムトライアルというのは文字通り、定められたコースを一人ずつ順番に走るというもので、それは即ち、風除けのアシストが使えないという、選手個人の力が試される競技だ。山岳ステージと並び、実力差が明確に出る場所、という言い方もできる。
総距離は二十キロと、昨日までのコースに比べたら圧倒的に短いのだけど、ヘタをすれば昨日以上に大切な、絶対にミスをしてはいけないステージ。
昨日までの勢力図はまた変わり、総合争いの順位に大きな動きをもたらすはずだった。
◆
「さて今年のインターハイ女子ロードレース。休息日を挟んで四日目となる第三ステージでは、この諏訪湖を舞台とした、個人タイムトライアルが開催されます。本日はその模様をネコネコ動画が生放送でお届け。実況は私紗々(さしゃ)、解説にはお馴染み栗街さんをお呼びしております」
「よろしくお願いします」
「さて、栗街さん。今日のこの個人TT。ルール上で何か、普通と違う点というのはあったりするのでしょうか?」
「はい、紗々さん。今回は高校生レースですので、機材格差是正の為、タイムトライアルとしては変則的ですが、TT専用バイクの使用が禁止されています」
「まぁ確かに、女子高生でTTバイクなんて持っている選手は稀でしょうからねぇ。彼女たちは昨日も乗っていた、通常のロードバイクで走るわけですが……どういう選手が有利なんでしょう?」
「はい。まずTTというのは――個人で、高出力を、長時間維持できる、そんな選手が有利とされています。その為、小柄な選手というのは概ね不利になりがちですね。そして今日のコースは、全体的に平坦な道が多いんですが、中盤、ややテクニカルなコーナーが連続する区間がありまして、そういった箇所を攻略するためのコーナリング技術が、良いタイムを出すためには重要になってくるかと思われます」
「なるほどぉ。それではそんなセオリーと共に、注目の選手達をご紹介していきましょう。まずは……やはりゼッケンナンバー1番、この長野県が生んだスーパースター、鷹島学院の天衣椿選手ですかね。《神速のファンタズマゴリア》! この諏訪の街は天衣選手にとっては地元でもありますし、二重三重に期待が掛かります」
「天衣選手は昨年のインターハイでも、タイムトライアルの非常に強い選手でしたからね。ステージ優勝の有力候補であると共に、本人としては、一昨日の第二ステージで獲り逃したイエロージャージを、ここで奪取したいところでしょう」
「そんなリーダージャージを現在保持しているのは、山梨県昇仙高校の《天魔の視線》、ゼッケン21番九央静寂選手です。今年は山梨県大会優勝、中部地方大会二位、甲府~甲州優勝、清里クラシック三位、信玄クリテリウム二位と、かなりの好成績。天衣選手を始めとして優勝候補達に40秒近い差を付けての総合トップとなり、現在最も優勝に近い選手と言えるでしょう」
「九央選手も、天衣選手程ではないにせよタイムトライアルは充分強いですから、この40秒のアドバンテージを、上手く使っていくことでしょうね」
「続いてはゼッケン2番、長野県鷹島学院の鳳小鳥選手。今年、天衣選手の名アシストとして鮮烈なデビューを果たし、《神速のフェニックス》と呼ばれる彼女ですが、現時点ではなんとその天衣選手を追い越しての総合二位となります。デビュー以来、長野県大会優勝、善光寺クリテリウム五位、天竜クラシック三位、麦草ヒルクライム二位、そして中部地方大会ではあの九央選手を下しての優勝と、輝かしい戦績と言えるでしょう」
「四ヶ月前まで自転車に乗れなかったという話が嘘みたいな受賞歴ですねぇ。鷹島はこうして選手層も厚いので、この鳳選手と天衣選手で、ダブルエースという布陣も有り得ます。ひょっとしたら今日の結果次第で、明日からの作戦を変えるのかもしれませんね」
「そしてある意味、現時点では今大会一番の注目株? 千葉の御弓高校から現れた新人、ノーデータ・ノーレコード、現在総合三位、ゼッケン44番、鳥海夕映選手です」
「アマチュアレース等の入賞歴も無いため、今年の千葉県大会四位ということ以外、我々の手元にも殆ど情報がありません。ですが、あの風咲彼方の秘蔵っ子とも言えますから、期待できるのではないでしょうか。今日の走りに注目ですね」
「その《風のカナタ》ことゼッケン41番風咲彼方選手は、今日のステージ優勝候補でもあります。元々はTTスペシャリスト出身の選手ですし、今年の九十九里タイムトライアルでも優勝してますから、今日の走りにも期待が持てますね。一昨日の落車トラブルの影響で現在総合七位ですから、どうにか今日タイムを稼がないと」
「TTスペシャリスト出身の優勝候補はもう一人。現在総合十五位、昨年までは熊本の弱小校だった天艸女子をこの大舞台まで運んできた、今年の九州チャンピオン。ゼッケン241番、《異質なる世界樹》金銅曜選手」
「金銅選手は、総合力の問われるコース設定だった九州大会を征して、更には先月、地元熊本で開催された球磨川タイムトライアルで優勝した記録も持っているそうです。これは期待せずにはいられないですね」
「総合優勝争いからは一歩離れていますが、今日のステージ優勝候補としては、ゼッケン111番、埼玉県鶴崎女子の《距離無制限》亜叶観廊選手もいますね。昨年秋のツール・ド・さいたまで正式なエースとしてデビューし、今年は関東チャンピオンジャージも着用、強豪校の一角を務めます。彼女は脚質的にはスプリンターに分類されるタイプではありますが、タイムトライアルもなかなか得意な選手です」
「同じくステージ優勝候補としては、北海道幌見沢農業高校であの田鎖鉄輪のアシストを務める202番葛井雅選手も、タイムトライアルでは非常に有名な選手ですから、期待が集まります」
「要約すると、天衣、九央、風咲、金銅、亜叶、葛井、あたりの選手がステージ優勝候補といった感じでしょうか」
「そうですね。そしてその結果がどうあれ、明日以降の総合争いに大きな変化が起こり得る、といった感じでしょうか」
「そうですねぇ。それではインターハイ女子第三ステージ、個人タイムトライアル。まもなく始まりますっ」
◆
……などという、ネットの大手動画サイトが行う中継映像を、わたしは固定ローラー台にセットした自転車に座りながら眺めていた。まだペダルは動かしていない。今日のタイムトライアルは現時点での総合順位の下位から順番に二分おきのスタートとなるため、一応三位ってことになってるわたしの出走は、まだ結構先の話だ。
初日には120人もいた選手だったけど、怪我などによるリタイアや、タイムアウトの足切りによって、今日の時点で108人にまでその人数を減らしていた。そんな中で、まだ最初の方の人達がスタートしたばっかりだから、わたしの番は三時間くらい先ということになる。
まだ漕がないというのであれば、わざわざ自転車に座る意味も無かったかな、と思い、わたしは一度マシンから降りた。靴底の金具が、アスファルトに触れて固い音を立てる。
周りを見渡せば、同じようなローラー台でアップをしている選手達が沢山いた。スタート地点のすぐ横にある、スポーツセンターの広大な駐車場が、選手の待機場所となっているのだ。大体はチーム毎に纏まり、出走に向けてのアップをしている。
地元のローカルテレビ局が協賛してくれているので、大っきなスクリーンが用意されて、そこに中継の様子が映し出されているのはありがたい。現時点での順位や、そのタイム、そして走っている選手の様子などが、そこでチェックできるのである。
わたし達御弓高校は幸いなことに、巨大モニターの見やすい場所が与えられていた。仲良く四台自転車を並べて、今はその内の一台で水晶さんがアップ中。
ちなみに彼方さんは現在、雑誌のインタビューを受けている。ステージ優勝候補であり、今年はアマチュアレースでも結構な活躍をしたから、やはり期待は高いのだろう。
「良ーよなー鳥海は。最後の方までゆったりと周りの様子を見てられるんだからよー」
スポーツドリンクを飲みつつ、むつほちゃんが随分と呑気なことを言う。わたしは口を尖らせて抗議した。
「全然良くないよ。すぐ後ろから、鳳さんとか九央さんが追っ掛けてくるんだよ?」
「追いつかれないよーに頑張れよ。TTで抜かされるのって超絶格好悪いからなー」
「うう、すっごく他人事だなぁ。……そういえばむつほちゃん、昨日ってどっか行ってたみたいだけど、何か用事とかあったの?」
「いいや。単に一人で軽く走ってきただけだぜー。こんな地元から離れた場所で、用事も何も無いだろー。オレ、友達少ないしな」
そっけなく言うむつほちゃん。まぁ確かに、そりゃそうか。
「ま、ともあれ、今日のステージ優勝はどーしたところでウチの部長で決まりだろ」
「確かに彼方さんには頑張って貰いたいところだけど……他の人達も強そうだよ? 天衣椿さんとか超強そうだよ?」
昨日、自分の肌で実際に感じた、天衣さんのプレッシャーを思い出す。動物園で、機嫌の悪いライオンを見たときだって、あんなに怖く感じたりはしないだろうってぐらいに、もの凄い凄味だったのだから。
「そりゃー《神速のファンタズマゴリア》は強いだろーさ。他にもおっかねーのはゴロゴロいる。それでも、部長の方が速いんじゃねーかな」
「まぁ、九十九里浜でのタイムトライアル大会、ぶっちぎりだったけどねぇ、彼方さん」
並み居るアマチュアレーサー達をぶっちぎって、圧倒的な勝利を収めたあの大会、わたしもむつほちゃんも水晶さんも、一応出場はしていたんだけど、入賞にはかすりもしなかった(一番順位が良かったのは、二十一位のわたしだ)。
確かにあの時の彼方さんの強さを見るに、他の優勝候補だって追いつけないような、素晴らしい走りを期待できるかな、とは思う。
「それにウチは、今日の段階でどうにかしなくちゃ明日以降が大変だろーし」
「? どういうこと?」
「各チームの、エースの脚質が問題なんだよ。ウチの部長が一番優れてるのはタイムトライアルなわけだから、ここで一気にタイムを稼がねーと、あとはずるずる落ちるだけになっちまう」
不吉なことを言うむつほちゃんに、わたしは質問も兼ねて反論した。
「他の選手は違うってこと?」
「勘違いすんなよ、鳥海ー。別に部長が他の選手に劣ってるって言いたいわけじゃねー。ただ、あくまでも脚質の違いなんだ。同じ『優勝候補』なんて言われてる連中の中でも、嘉神芯紅や子隠筺みたいにクライマー寄りの選手は山岳でタイムを稼いで、タイムトライアルではライバルに遅れないよう頑張る、ってのが大筋の作戦になる。部長の場合は逆で、タイムトライアルで一気にタイム差を作って、山岳で遅れる分をカバーすることになるわけだろ」
「それは当ぜ――あ、そっか」
言葉の途中で、わたしは気が付いた。というか、今まで理解できなかったわたしが遅いのかもしれないけど。
第四ステージはタイム差の付きにくい平坦カテゴリだ。そして最終ステージには一昨日以上にきつい超級山岳があるから、彼方さんとしてはそれまでに、周りを引き離すぐらいのタイム差が欲しい。単純な登坂力では、天衣椿さんや嘉神芯紅さんといった人達についていけなかったわけだし……。
「なんなら今日のステージで優勝して、一気にイエロージャージを貰っちまうぐらいの方が良ーのかもな。明日の平坦ステージをコントローするのが大変そーだけど、ウチにゃー水晶さんがいるしよー。最終日の山岳セクションに入っちまえば、どちらにせよ人数は一気に絞り込まれて集団は崩壊する」
「……彼方さんがイエロージャージを獲得するには、今日のステージで、九央さんに一分近くも差を付けなくちゃいけないんだよね」
わたしはすぐさま、頭の中で計算した。彼方さんと天衣さんとのタイム差は十二秒。嘉神さんとは十五秒だ。むつほちゃんの言うとおりに、最終日の山岳に備えたタイム差を稼いでおくというのであれば、天衣さんにも二十秒は差を付けたいところだろう。けど――
「……できるのかな? 他の人達だって、それが分かってるから、タイムトライアル対策はしっかり積んできてるんでしょ?」
「出来る……と言いたいところだが、どうかな。頑張るつもりではあるが」
彼方さんの言葉が聞こえて、わたしとむつほちゃんはそちらを見やる。
レースウェア姿の彼方さんは、困ったような顔で腕組みしつつ、続ける。
「あまりわたしのことを持ち上げてくれるなよ、結橋。これでもそれなりに緊張はしているんだぞ」
「でも実際問題、今日でどーにかタイム差作っておかなきゃまずいと思いますけどねー。リーダージャージも、せーぜー《天魔の視線》ぐらいになら渡したままでいーでしょーけど、他は危ないんじゃないですか」
「静寂だって充分危ないだろう。スプリンター出身とは言え、奴だって山が登れないわけじゃないんだ。むしろ一昨日の山岳で鳳小鳥に勝ったことから見て、山にもかなりの力を入れてきていると見ていい。格下と扱うことなんてできはしないさ」
彼方さんはそう答えつつ、クーラーボックスからドリンクボトルを二本取り出した。その内一本を、水晶さんの方へと放る。
同じタイミングで、モニターと現実の両方から、同じ歓声が飛び込んできた(すぐ近くなのだから当たり前だ)。そちらを見やると、一人の選手が出走台でスタート準備をしている。濃緑色のジャージ。
『さぁ続いてのスタートは、現在九十一位、北海道・幌見沢農業高校三年生、ゼッケン番号202番、葛井雅選手です。《スーパー・ソニック・スピード・スプリンター》のアシストとして幌見沢トレインを牽引する彼女ですが、個人としての成績は今年の音更タイムトライアル優勝、そしてツール・ド・北海道・女子の部では第一ステージ優勝と、かなり好調子で来ています』
……今日のステージ優勝候補と言われていた人の一人だ。
走り出した葛井さんという選手は、確かにもの凄い速度だった。優勝候補だからだろう、他の選手と違って、カメラバイクが一台、専属で後方を走っているぐらいである。
「彼方。ありがとう」
水晶さんは、今し方受け取ったボトルの中身をもう飲み干してしまったらしく、空っぽのボトルを彼方さんの方へと放り返していた。殆ど一気飲みの勢いだ。速ッ。
そのまま水晶さんは自転車を降りて、ローラー台からマシンを外しにかかる。わたしとむつほちゃんは慌てて、それを手伝った。ノーマルのホイールを持ってきて、ローラー用のものと交換する。
簡単に汗を拭って、装備を整えた水晶さんは、わたし達の方を向いた。いつもと同じ、感情が浮かびにくい顔で、。
「それじゃ、行ってきます」
そう、行ってきますを言ってくる。
「うむ、頑張ってこい」
「水晶さん、頑張って下さいねっ!」
「応援してますよー」
水晶さんの現在順位は八十七位。もう間もなく出番である。
見送りの後でむつほちゃんは呑気に両手を頭の後ろで組みつつ、
「まー、そーは言ってもオレと水晶さんの二人は全開で飛ばす必要もねーし、楽っちゃ楽かもなー」
……そうなのである。
総合優勝争いにとっては非常に大切なステージではあるけど、それ以外の選手からしてみれば、別にここで無理に力を出し切らなくても、その分を他に回せば良いのだ。だからポイント狙いのスプリンターとか、大勢のアシスト選手とか、そういった総合争いに絡まない人達にとって、今日のレースは半ば休息日みたいなものだった。
本気で走るのは、総合上位の選手と、あとはステージ優勝を狙うTTスペシャリストの人達だけだ。たぶん、全体の半数もいない。
レースは常に全力を出す、という方が、スポーツマンシップに則っているのかもしれないけど、現実としてこういうところで時折力を抜かなくては、何日もレースし続けるなんてできない。こういう考え方は、たぶん数あるスポーツの中でもロードレース独自のものなんじゃないだろうかと思う。
「そもそも水晶さん、二日目の疲れはちゃんと取れてるんですかねー。一昨日、ある意味鳥海よりよっぽど疲れてそーでしたけど」
むつほちゃんの心配ももっともな話だ。水晶さんはただでさえ山が苦手だというのに、わたしを逃げに押し出す作戦の為、スプリント争いに参加して、山の前で力を出し切ってしまっていたのだから。
わたし自身も疲労でばたんきゅーだったから殆どその様子は見ていないけど、あの日は水晶さんも、リタイア寸前な疲れ方をしていたらしい。
「まぁ一昨日の山岳は、距離こそ悪魔的に長かったが、勾配自体はそこまできつくなかったからな。『田鎖・友の会』もあったし、昨日の休息日で充分回復できているはずだ」
彼方さんが言う。……『田鎖・友の会』というのは、要は山を登るのが苦手なスプリンター達が、タイムアウトにならないよう協力し合って形成する、所謂低速集団のことである。毎年、代表的なスプリンターの名前が冠されるというのだから、名誉なんだか不名誉なんだか……。
「朝昼夜と、三食全てバイキングに行っていたしな。いや、今日の朝食も入れれば四食か。とにかく水晶は問題無かろう。怪我にだけ気を付けて、とりあえず今日を完走してくれれば良い」
『続いては現在八十七位、千葉県御弓高校三年生、ゼッケン42番久瀬水晶選手です。《風のカナタ》の陰に隠れがちではありますが、今年の関東大会では二位を獲得。それ以外にも姉崎湾岸クリテリウムでは女子カテゴリ優勝の実績を持つ、実力のあるスプリンターと言えるでしょう。今年はポイント賞獲得にも意欲的なようで、そちらの方は現在四位に位置しています』
……おぉ、なんか水晶さんの紹介が格好良く感じるのは、身内贔屓なのだろうか? でも、スプリンターとしての水晶さんが全国区で有名になるのは嬉しいことなので、なんならもっとたっぷり紹介して欲しいぐらいだった。
『昨年は、空腹のあまり補給禁止区間で食べ物を受け取ってしまったり、審判車の予備補給食まで全部食べ尽くしてしまったりと、色々な意味で有名だった選手ですが……』
水晶さん、そんなことまでしてたんですか!
……審判車の話は、第一ステージのスタート前に噂で聞いていたけど。また新しい、水晶さん伝説を聞いてしまったわたしだった。
『出ました! 現在総合九十一位、幌見沢農業の葛井選手! ここまでの選手の記録を大幅に更新して、27分15秒で堂々の暫定一位です!』
『これは優勝候補の選手達にとっても、指標の一つとなるタイムが出されましたね。今後のライバル達の走りが楽しみです』
「27分か。なかなかやるようだな」
感心したように呟いたのは彼方さんだ。……いや、いいんですかそんな呑気に。今の人、それまでのトップタイムを一気に三十秒以上も更新しちゃってるんですよ。
「アレは暫く抜けねーだろーなー。亜叶さんの出番来るぐらいまで待つしかないんじゃねーか」
折りたたみの椅子に座ってドリンクを飲みながら、むつほちゃんが言う。なんだか監督みたいな貫禄だ。
しかし残りの御弓のメンバーは、むつほちゃんが二十四位、彼方さんが七位、わたしが二位とみんな比較的前寄りな為、実際こうして雑談するぐらいしかやることがないのが現状だったりする。ウォームアップは大切なことだけど、それにしたってあんまり早くからやり過ぎてバテちゃっても意味が無い。
スタート地点とゴール地点が少し離れている為、走り終えた水晶さんが戻ってくるのは、暫くしてからだった。丁度それぐらいのタイミングで、知っている人がモニターに映し出される。
『続きましては現在五十七位、埼玉鶴崎女子三年生、ゼッケン111番亜叶観廊選手です!』
『去年の全日本選手権で付いた《距離無制限》の仇名に恥じない、超長距離スプリントが有名な選手ですね。スプリンターではありますが、タイムトライアルもかなりの実力者です。今年に入ってからは入間~秩父優勝、ツアー・オブ・川越優勝、そして関東大会優勝と、絶好調で勝利を量産中のようです』
今日のステージ優勝候補だからだろうか、周囲の人達みんなが、亜叶さんに期待しているのがよく伝わってくる。
実況や解説の人、観客の人、そして勿論亜叶さんのチームメイト達。
みんなの期待を一身に背負って走る。
当たり前だけど、なんて大変なことだろう。
「……うう、緊張してきた」
「いやいや鳥海、何でお前が緊張するんだよ。走るのお前じゃねーだろーよ」
「そうなんだけどさぁ。何でだろう、わたしにもよく分からないんだけど……何か緊張して来ちゃうんだよ。だって一人一人走り出していくってことは、少しずつわたしの順番が近付いてくるってことじゃん」
言うまでもないことをわざわざ言うわたしを見て、むつほちゃんは大きく嘆息した。何か声を掛けることを諦めたらしい。ローラー台でのウォームアップを再開している。
先程、水晶さんやむつほちゃんは今日のレースを全力で走らない、ということを話していたけど、本来ならばそこにはわたしも含まれるはずだった。
当初の予定というか、予想では、第三ステージの時点でのわたしの順位は、むつほちゃんよりもずっと下になると思われていたのだ。山でアタックを仕掛けて敵を掻き乱しつつ、最後はむつほちゃんのアシストを受けた彼方さんに追い抜いて貰う見積もりだったのだから。
しかし結果として総合三位になってしまったわたしは、今日のレースで手を抜くことが出来なくなった。
総合上位の選手が複数いるというのは、後々非常に有利に働く。今後わたしが仕掛けるアタックは敵にとって見過ごせない動きとなり、警戒対象が増えたことで他のチームを疲弊させられれば、それは様々なチャンスに繋げられる。
だからこそ、そんなプランを実現させるためにも、わたしは総合上位に食らいついていかなくてはいけない。
「…………」
自分の自転車を見て、自然と嘆息がこぼれる。
責任は重荷だった。わたしがこれまで持ったことがないぐらいの、場合によっては走れなくなってしまうんじゃないかってぐらいの、大きくて重い荷物だ。
……でも、やならくっちゃね。
昨日のお風呂でわたしは、彼方さんに頼まれたんだ。
彼方さんの為に走る。それを、お願いされた。
気のせいか、二日目に感じていた重荷が、少しだけ軽くなっているような気がした。
亜叶さんが叩き出したタイムは、葛井さんのタイムを四秒更新しての27分11秒。これで順位が入れ替わり、亜叶さんが暫定一位ってことになった。
……凄い争いだ。でも彼方さんには是非、それらのタイムを超えて貰わないと。
そしてそれから暫くして、むつほちゃんが出走台へと向かっていった。
「明日は前半に大きな仕事もあることだし、まーのんびりと走ってくるさ」
っていうのが、むつほちゃんの去り際の台詞だ。
短い選手紹介と共に、モニター上のむつほちゃんがスタートを切る。
その様子に、最初に違和感を抱いたのは、ローラー台でアップ走行をしているわたしや彼方さんではなく、今日の走りを終えた水晶さんだった。
「……むつほが」
「? どうしたんですか、水晶さん?」
わたしは、ペダルを回す脚を止めないまま訊ねた。水晶さんは折り畳み椅子に腰掛けて四個目のお弁当(多い)に箸を付けつつ、答えてくる。
「むつほが、本気で走っているみたい」
「え、でも、今日はのんびり走るって……」
出走前から、というかむしろ昨日の段階から言っていた話である。自分は総合争いには絡まないから、タイムトライアルは関係無い、って。
むつほちゃんの走っている様子を見たかったけど、それは叶わなかった。実績が無く知名度の低いむつほちゃんでは、他の実力者みたいにバイクカメラが併走するようなこともなく、次のカメラポイントが来るまではモニターに映らない。
やきもきしながらむつほちゃんの映像を待っていると、第一計測地点を通過する際にようやく、映像が届く。映されたのはかなり短い時間だったけど、確かに水晶さんが言うとおり、かなり必死で走るフォームのように見えた……気がする。
どういうことなんだろう。
あんなに必死になって走っても、流石にもう総合順位で上位に来ることは出来ないと思うんだけど。
そりゃあむつほちゃんも順位を上げてきてくれれば、チームとして有利になるので喜ばしいことではある。でも現実的かと言えばそれは難しい話だった。
そしてわたしが悩んでいる間にも、選手達は順々に走り出していく。
『いよいよここまで来ました、続いては現在総合十五位、熊本県天艸女子二年生、ゼッケン241番の《異質なる世界樹》、金銅曜選手がスタート台に立ちます! 球磨川タイムトライアルで優勝したその実力を、このインターハイでも発揮できるでしょうか』
『昨年、一年生レギュラーとしてインハイ初出場した金銅選手ですが、チームとしての結果は振るいませんでした。しかし今年はなんと、激戦区となった九州大会を征し、チャンピオンジャージを纏っての出場となります』
一日目の第一ステージでわたしをナンパ――と言っていいのだろうか、アレは――してきた、金銅さんのスタートだ。ステージ優勝候補であり、総合優勝候補の一人とも言われているだけあって、選手紹介が長い。スタート台の近くには勿論、カメラバイクが控えている。
そしてむつほちゃんのゴールがモニター上で映し出された。タイムは……やっぱり、決して速くはない。身長が低く体重が軽いむつほちゃんは、タイムトライアルで力を発揮できるタイプの選手じゃないのだ。
……だからこそ、何であんなに必死に走っていたのかが気になるところではある。明日は序盤に山岳セクションが来るから、そこで彼方さんのアシストをするという大事な仕事があるのに。それに備えて体力を残しておかなくてはいけないと、むつほちゃん自身が言っていたはずなのに。
「……むつほちゃん、どうしてあそこまで必死になったんだろ」
疑問は無意識の内に口から滑り出ていた。誰かが答えてくれることを期待したわけではなくて、単なる独り言を呟いただけだったんだけど。
けど、答えてくれる人がいた。
「馬鹿だなぁ、鳥海さん。そりゃあレースなんだから、みんな必死で走るに決まってるじゃない」
それは、わたしのよく知っている人だった。
「や、御弓の皆様。こんにちはー」
「綺堂さん……」
相変わらず真っ黒なジャージを着た綺堂硯さんは、真っ黒な笑顔でにこやかに話す。
「鳥海さん、調子はどう? そういえば昨日は言い忘れちゃったけど、第二ステージではステージ三位、あとついでに総合三位も、おめでとー。普通の展開じゃまず実力的にあり得なかった順位だし、今の内にしっかり満喫しておいてね」
「……いきなり失礼なこと言ってくれるよね、綺堂さん。まあ、否定できない話ではあるけどさ」
「? あれ、怒らないの? 鳥海さんの性格ならきっと今の順位を謙遜して自分を卑下してるんじゃないかと思ったのに」
「してたよ。謙遜したし卑下したし、自己嫌悪もいっぱいした。でもどうしたところで今のわたしに出来ることは変わらないし、それをやるだけ、って気付いたから」
昨日、露天風呂で彼方さんが教えてくれたことだ。あのときの彼方さんとの会話がなければ、今の綺堂さんの挑発でわたしは自分を見失っていたと思う。
綺堂さんはあからさまに残念そうな様子で、オーバーアクション気味に肩を落とす。
「なんだ、つまんないのー。わざわざ来た意味も無かったかな」
「お前の出走はもう間もなくだと思うが、こんなところでのんびりしていて良いのか、綺堂硯」
アップのための脚を止めないまま彼方さんが訊ねると、綺堂さんは軽く答えた。
「いやいや、あんまり良くはないですよ。むしろ悪いです。でも、出走台に行こうとしたところで、鳥海さんが聞き捨てならないことをいうもんだから、こうして脚を止めて一言物申してやろうと思いましてね」
綺堂さんはわたしの方へと向き直り、改めて告げてくる。
「誰だって、勝つために一生懸命走る。レースってのはそういうものだ。頑張ることに意味があるんじゃなくて、一位になることに意味がある。それを理解できないようなら、君は二流どころか、十三流ぐらいだよ、鳥海さん」
ママチャリで関東大会に参加してきた人がよく言う。
ツッコミの言葉は喉元まで出かかってきていたけど、実際に口から滑り出た時には別の言葉に化けていた。
「レースには他にいくらでも、大切なものってあると思うけどね。頑張ることに意味があるっていう言葉は何か偽善っぽいかもしれないけど、でも頑張るからこそ結果が生まれるわけだし、観ている人も、走っている人も、そんな姿にこそ感動するんじゃないかな」
「馬鹿馬鹿しい。勝利以外に、感動することなんか無いよ。気持ち悪いこと言うよね鳥海さんって。そんなに感動したきゃ、エロゲーでもやってなよ」
どうして、感動するためにエッチなゲームをやらなくてはいけないのかさっぱり分からなかったけど、わたしが続けざまに反論するより先に、場内アナウンスが鳴り響いた。
『ゼッケン291番、東京・巌本高校の綺堂硯選手。間もなくスタートとなりますので、出走台までお急ぎ下さい。繰り返します――』
「おっと、どうやら本当に急がなくっちゃいけないみたいだ」
スタート直前で腕時計なんか付けているはずもないのに、わざとらしく右腕の手首を確認する素振りなどしつつ――どうやら左利きらしい――、綺堂さんは戯けて言う。
「御弓の人達の悪質な妨害にあって失格寸前だけど、出走取り消しにならないよう、急がなくっちゃね」
「絶対にわたし達のせいじゃないからね」
「加害者はみんなそう言うんだよ、鳥海さん。それじゃあ風咲さん、また後で、表彰台の上でお会いしましょう。身長の高いあなたを上から見下ろす、数少ない機会ですからね」
あっさりとステージ優勝を宣言してきた綺堂さんに、彼方さんは怪訝そうな顔を向けた。
「……今日は勝てると、そう言いたいのか?」
「そうですねー、今日のコンディションだと、取り敢えず亜叶観廊さんのタイムを十三秒ぐらい更新しての一位通過、かな」
「じゅ、十三秒っ!?」
これに驚いたのはわたしだ。綺堂さんは気軽に頷き、
「うん、それぐらいは行けるでしょ。ほら、わたし今、総合十三位だし」
全く理由になっていないようなことを、自信満々に語る。そして再度鳴り響いたアナウンスを聞いて、流石に出走台の方へと顔を向けた。
「おっと、こりゃあ本当に失格にさせられちゃいそうだ。こんな所で無駄話なんかしてないで、早く行かないと」
自分から話し掛けてきたのに……。
一方的に話を進めた綺堂さんは、そうしてスタート台の方へと走っていった。
『さぁ続いては総合十三位、インターハイ初出場にして今大会唯一の一年生エース。期待の新人、東京は巌本高校のゼッケン291番、綺堂硯選手です』
『一昨日までの二日間を見るに、クセのないオールラウンダー、といった印象の彼女ですが、TTはどうなんでしょうか。過去の実績が無いので、注目ですね』
モニターに映し出された綺堂さんの姿は、いつもと同じように見えた。黒いジャージと、黒いマシン。人間の形をした真っ黒な影の、一部分にだけ肌色を塗ったような、そんな黒の人。綺堂硯。
間もなく出走台に上がろうかというその綺堂さんの様子は、いつもと変わった感じなんてしない。いつも通り、人を食ったような、世の中の全てを嘲るような、そんな邪悪さを孕んだ態度のままだ。
出走台の上で、まだ自転車には乗っていない綺堂さんが、カメラに向かって軽く手を振る。その仕草などは一見、女子高生のお気楽な自己アピールにも見えたけど。
いざスタートしてから、その走りが普通とは違う、一線を画すレベルのものだということにみんなが気付くまで、大した時間は必要なかった。
スタート後のほんの一瞬を見ただけで、充分すぎるほどに分かる。
並み居る強豪達と比べても全く遜色の無い、高いレベルの走り。
……というか、本当に速い。これから二十キロを走り抜けようって人の走りとは思えないような、それこそゴール前スプリントみたいな勢いのダッシュである。
その綺堂さんを注目選手と定めたのか、カメラマンを乗せた撮影用オートバイが一台、追走のため慌てて発進していくのがテレビに映された。カメラバイクはすぐさま綺堂さんに追いつき、すぐ後ろを走ってその様子を映す。だけど綺堂さんは、そんなことにもお構いなしに、ぐんぐん加速していった。
オートバイを運転している人は、綺堂さんのその加速度を見誤ったのだろう。一瞬だけとはいえ、何とオートバイが置いて行かれるというとんでもない事態さえあった。実況や解説をしている人達も、興奮気味に色々なことを喋っている。
「……やはり隠し球があったということか」
ウォームアップを終えて、ペダルを回す脚を止めた彼方さんが、苦々しく呟いていた。
わたしはすぐさまホイールの交換などの準備を手伝おうとしたのだけど、六個目のお弁当を食べ終えた水晶さん(だから多いですって)に制止される。
「夕映はアップを続けて」
そう言われてしまうと、引き下がるしかない。だけど言葉だけは止めず、わたしは彼方さんに聞いた。
「彼方さんは、綺堂さんがあそこまでタイムトライアルに強いって、見抜いてたんですか?」
「確証はなかったがな。だが今年の東京大会は種目がチームTTだったし、関東大会で一戦交えた時も、終盤はアシストを全て失った状態で一人走り続けていただろう。だから綺堂硯の単独走行能力が高いことは、なんとなくだが想像が付いていた」
そう告げた彼方さんの言葉に、すぐさま別の声が続けられた。
「加えて二日目の最後、登りに強いエース達に遅れず食い下がってきたことを見るに、登坂能力もそれなりに鍛えてきている、と。厄介だねぇ。こりゃあ完全に、総合狙いのようじゃないか」
御弓のウォームアップ用テントの前に現れたのは、天衣椿さんだった。勿論昨日見た艶やかな着物姿ではなく、白地で襟と袖、それとウェストの辺りに、緑、黄、黒、赤、青、というストライプがあしらわれた、この人専用のジャージ、アルカンシェル姿である。
「あの速度で関東大会六位? まったく、そりゃあ嘘臭いったらないねぇ。もっと最初から警戒してかなきゃ駄目だよ、彼方」
「していたさ。だが、化かし合いでは奴の方が一枚上手だったと認めざるを得んのかもしれんな」
「なるほど。アンタも観廊も、そういうのは苦手そうだからねぇ」
「それこそ静寂あたりなら看破できたことかもしれんがな。わたしのように頭の悪い女は向かんよ」
マシンの準備を済ませた彼方さんは軽く汗を拭いて、天衣さんと気楽に談笑しながら出走台の方へと移動し始める。そこでふと立ち止まり、一度こちらの方を見た。
「夕映」
「は、はいっ」
強く響く彼方さんの声。それを聞く。
「気負うことはない。思うように走り、全力を出せ。御弓高校の鳥海夕映を、わたしのアシストの姿を、その走る姿を、観客に見せつけてこい」
そう言って、彼方さんは去っていった。
『続いてのスタートはステージ優勝候補であり総合優勝候補の一人でもあります、千葉県御弓高校三年生、ゼッケン41番、風咲彼方選手です』
『昨年のインターハイでは二年生ながら、初日の個人TTで圧倒的な強さを見せつけ、三日目までリーダージャージを維持していました。通り名の《風のカナタ》はその時に名付けられたものです。今年は、二日目の山で若干遅れての現在七位。このステージで何処までタイムを挽回できるかが見所ですね』
彼方さんがスタート台に立つ頃には、わたしもアップを終えていた。
八個目のお弁当を食べ終わった水晶さん(もう何もつっこまない)にマシンの調整を手伝って貰い、出走台へ向かう。
巨大モニターに映されるのは、彼方さんの勇姿だ。
……ここから見る限りでは、彼方さんの速度は綺堂さんに負けたりなんてしていない。それどころか、他のどんな選手よりずっと速いように見える。
なのにどうしてだろうか。
胸の中がざわついて、不安を拭いきれないわたしがいた。
『そしていよいよこの人が出走台に立ちます。昨年のインターハイ覇者にして、全日本選手権・U18の覇者、栄光のアルカンシェルジャージを身に纏う《神速のファンタズマゴリア》、長野鷹島学院三年生、ゼッケン1番天衣椿選手』
『本人は大会前のコメントで、TTで風咲選手に勝つことを目標の一つに挙げていましたので、今日のステージに掛ける想いは特に強いのではないでしょうか。また、現在は総合六位となっていますので、今日のステージでどの程度のタイムを出せるかが、今年のインターハイの運命を左右するかと思われます』
天衣さんが出走台に立つ。やはり優勝候補、スタート前の時点での貫禄がもう他の選手とは段違いだ。
天衣さんがスタートするのとほぼ同時、綺堂さんが中間計測タイムを一位で通過したことが報じられた。実際にはほんの少し前の時点で、熊本の金銅さんが中間一位というのが聞こえてきていたのだけど。どうやら綺堂さんは、その金銅さんのタイムを更に上回っての中間一位通過らしい。
タイムトライアルスペシャリストとして九州を征した金銅さんを上回るということは、綺堂さんは少なくともタイムトライアルに於いてはチャンピオンジャージクラスの実力者ということになる。……何が関東六位なんだか。
持ち上げられ祭り上げられ舞い上がり、必死に走って千葉県四位だった自分の存在が道化じみてくるように思えた。でもすぐに、それは無意味な感情だと理解して、自分にそう言い聞かせる。
わたしと綺堂さんとではそもそも立場が違う。だから今は、彼女とわたしを比べる意味なんて無い。
気持ちを切り替えるためにも、走っている人達の姿を確認しておきたかったのだけど、出走台の方まで歩いてきてしまうと、この位置からではモニターを見ることが出来ない。音声が聞こえてくるだけだ。
『アルカンシェルに続いて、次はチャンピオンジャージの登場です。現在総合五位、高知、天王寺高校三年生、ゼッケン71番、子隠筺選手』
『《ロマンシング幼女》の仇名がぴったり嵌る彼女ですが、今年は二日目の落車トラブルに巻き込まれたことから、総合狙いから山岳狙いにシフトしたという噂が流れています。確かに純粋クライマーである彼女は、今日のステージでどこまでダメージを抑えられるかが鍵でしょう』
出走台スペースの後ろで、順番に選手が走り出していくのを音で感じ取る。
『更に続けてチャンピオンジャージ。総合四位、三重県から《密林のレッドマフラー》、尾鷲学園三年生、ゼッケン31番、嘉神芯紅選手です』
『山岳では他を寄せ付けない強さを誇りますが、子隠選手同様、落車トラブルの影響で二日目にタイムを稼げなかったのが痛いですね。これも子隠選手と同じですが、今日はタイムを伸ばすというより、とにかくダメージを最小限に留める為の努力が課題となります』
……尾鷲学園の嘉神さんがスタートする。即ち、次はわたしの番だ。
出走台に向かって歩き出そうとしたとき、わたしの中に残っていた最後の緊張が、今更になって存在を大きくし始めた。
心臓の鼓動が聞こえる――いや、聞こえる気がするというだけだ。実際にはスタート台付近の歓声や実況の声に紛れて、心臓の音が聞こえるはずなんてないのだから。
ええい、弱気になるな、わたし。
「鳥海さん」
ふいに後ろから声を掛けられ、わたしは振り向いた。
いつからそこにいたのか、っていうかわたしが気付いていなかっただけで結構前からしっかりスタンバイしていたんだろうけど、とにかくそこにはチャンピオンジャージを着た鳳さんがいて、わたしに微笑みかけてくれていた。
鳳さんが、小さく拳を握って、
「がんばってね」
「……はいっ」
優しく言ってくれた鳳さんに、わたしは大きく頷いたのだった。
◆
総合順位の低い者からスタートしていくタイムトライアルは、そのルールの性質上必然的に、後半になればなるほど強力な選手が並んでいく。
《距離無制限》亜叶観廊が、四十七人分もの間に渡って守り続けた暫定トップの座は、九州最強のタイムトライアルスペシャリストである《異質なる世界樹》金銅曜によって六秒も更新され、亜叶観廊は悲願のステージ優勝をここでも取り逃がす結果に終わった。
そして続けざま、無名の新人に過ぎなかったはずの綺堂硯が、前を走る選手を追い抜きつつ出したタイムはトップを1分13秒更新して、驚異の25分52秒。インターハイデビューの一年生とは思えない凄まじい実力を見せつけた。
多くの観客達が、綺堂硯を今日のステージ優勝者と予想し始めたところで、《風のカナタ》こと風咲彼方が叩き出したタイムは、それを更に上回る25分39秒。この記録は、後に到着した《神速のファンタズマゴリア》天衣椿ですら上回ることが出来ず、最終走者であるイエロージャージ保持者、《天魔の視線》の九央静寂がゴールするまで、誰にも破られることはなかった。
このリザルトにより、ステージ優勝は御弓高校の風咲彼方が獲得。
そして、その風咲彼方とのタイム差を辛うじて守り抜いた天衣椿が、総合トップのイエロージャージを手にしたのだった。
順位 名前 所属校 タイム
1 天衣 椿 鷹島学院 05:07:08
2 風咲 彼方 御弓高校 + 1
3 綺堂 硯 巌本高校 +32
4 九央 静寂 昇仙高校 +1:07
5 鳳 小鳥 鷹島学院 +1:36
6 金銅 曜 天艸女子高校 +2:14
7 嘉神 芯紅 尾鷲学園 +2:36
8 子隠 筺 天王寺高校 +2:38
9 安槌 歌絵 郡馬高校 +2:39
10 四月朔日 りく 鷹島学院 +2:39
11 鳥海 夕映 御弓高校 +2:43
12 源 杏 山波大附属高校+2:58
13 木林 樹果 要第三高校 +3:01
14 新海 朱音 昇仙高校 +3:05
15 有賀 彩 郡馬高校 +3:11