三日目・休息日
インターハイ三日目は、温泉街である諏訪の街での休息日だった。
普通、プロのレースなどではこんなに早い段階で休息日なんて挟んだりはしないものだけど、そこはやはり、わたし達って女子高生だし。選手の健康を気遣って、ってことだろう。
わたし達御弓高校が宿泊しているのは、諏訪湖の湖畔に面した、上諏訪の温泉旅館だった。湖を見下ろしながら温泉に入れるという、中々にナイスなところだ。夏休みのこのシーズンにこんな良い宿を予約してくれた、岩井先生の手腕に感謝である。
昨日のレースで一応の三位を獲得したわたしは、表彰式の後では立ち上がる体力すら残っておらず、車で運ばれる間もずっと眠っていた。むつほちゃん曰く、死んだんじゃねーかってぐらいよく寝てた、らしい。
部屋のシャワーで身体を洗って夕ご飯を食べてまた寝て、そのままぶっ続けで眠っていたわたしが目を覚ましたのは、ついさっき、午前八時ぐらいのことだ。……トータルで十五時間くらい、眠りまくっていたということになる。
目が覚めた時点で、同室をあてがわれていた彼方さんは部屋にいなかった。テーブルの書き置きから、朝食に行っていることはすぐ分かったので慌てることもなく、わたしはそのまま展望露天風呂へと向かうことにする。
身体は猛烈な空腹、というかエネルギー不足を訴えていたのだけど、頭が食事を摂ることを拒絶しているような気がしていた。
そして、一人きりになりたい、というのもあったし。
時間が時間だからか、お風呂には先客がいなかった。寝汗で湿った身体をシャワーで洗い流してから、無人の露天風呂の方へと移動する。
普段暮らしている千葉県と比べて、基本的な標高が高いせいだろう。外の空気は、わたしの知っているものとは少し違うように感じられた。朝であることもあって、少し涼しい気がする。
朝の陽に照らされた湖を眺めながら、お湯に浸かった。
三日目が休息日というのを考えた人には、是非とも感謝をしたい。正直、全身が筋肉痛に苛まれていて、痛くないところを見つける方が難しいぐらいだ。温泉街である諏訪を休息地に選んだ人には、感謝どころか熱烈なハグも追加していいかもしれない。
お湯の中で、座ったまま自分の膝を抱き寄せる。わたしは自然と、嘆息していた。
体勢を変えるような気にもならず、座ったそのままで景色を眺める。広大な湖、諏訪湖。明日の第三ステージ、個人タイムトライアルの会場となる場所だ。
明日。脳裏に浮かんだその言葉に、自然とまた溜め息が漏れる。そして。
「うむ、ここは朝も良い眺めだ」
背後からそんな声が届いてきて、わたしは振り向いた。身体を動かすことで、筋肉痛による痺れが思い出されたけど、それを忘れる勢いで、わたしは言った。
「彼方さんっ!」
悠然と腕組みして、そこに立つ彼方さん。お風呂なので勿論全裸だ。そしてタオルも髪の毛をくるむのに使っている為、その魅力的なプロポーションを隠すものは何も無い。どうぞご覧あれとばかりにさらけ出されている。ありがたく拝見させて頂きますとは流石に言わなかったけど、わたしは彼方さんを見つめたまま言葉を失っていた。
「夜景もかなり綺麗だったが、朝陽もこれはこれで良いな。遠くまでよく見渡せる。うん、悪くない」
感想を述べつつ、彼方さんもお湯に入ってきた。そしてわたしのすぐ隣に腰を下ろす。
「まったく。朝食バイキングというのは、水晶を連れて行くものではないな。この旅館、来週から朝食バイキングをやらなくなるかもしれないぞ」
「……水晶さん、何かやらかしたんですか?」
「出された料理を片っ端から、それこそ供給が追いつかなくなる程の量、モリモリ食べていた。ほら、これまでの宿泊はビジネスホテルだったろう。味のレベルが段違いなのだ」
確かに、昨夜は疲労困憊で意識も曖昧なぐらいだったけど、夕ご飯はかなり美味しかった記憶がある。わたしは思わず、顔をほころばせた。
「……水晶さんらしいですね」
「やっと笑ったか。夕映」
「え?」
彼方さんの台詞に、わたしは視線をそちらへ向け直す。
真剣な表情の彼方さんが、そこにいた。
「折角の総合三位だというのに、少しも嬉しそうではなかったからな。心配していたところだ。笑い方を忘れてしまったのかとも思ったが、どうかな。夕映」
「わたしは……」
言葉に詰まって、視線を落とす。なんとなく、お湯から突き出た自分の膝頭を見やり、そして続けた。
「わたしは、何の役にも立ちませんでした」
「どういうことだ?」
「昨日のアタックに付いてきたのが九央さんや鳳さんっていう格上の選手ばかりだったとき、どうしようか悩んだんです。でも戻るわけにもいかなかったですし、彼方さんの為にもって思って、わたしは必死に登りました。でも、結局駄目だったんです。ちっとも追いつけなくて、イエロージャージは九央さんのものになっちゃいました」
昨日のレース後から、つい今し方まで。或いは睡眠中ですらずっとずっと考えていた、わたしの想い。
昨日、わたしがアタックするという作戦が、そもそも無ければ良かったんじゃないか。九央さんはおそらく、あの卓抜した洞察力でもって、集団内でわたしの様子を盗み見て、アタックに乗っかってきたのだろうし、あれさえ無ければ、彼方さんを含めた上位陣はもっとフェアに、山岳での勝負が出来ていたかもしれない。
それは、関東大会の日に、彼方さんが言っていたのと同じことだ。つまり……不運で負けたらやりきれない。
わたしもそう思うからこそ、九央さんの独走を抑えようとした。けど、それはわたしの実力では叶わなかった。敵わなかったし、叶わなかった。
「結局わたしのしたことって何だったんだろうって思っちゃって。なんだか何の役にも立てない気がして……」
「だから、総合三位という現時点での評価も重すぎる、ということか」
「……はい」
たぶんだけど明日からのレースでわたしは、実力者たちから注意を向けられることになる。わたしが、単なる幸運で今の位置にいる素人上がりなのか。それとも、予期せぬ隠れた実力者なのか。
自分自身、その答えが前者であることをよく分かってしまっているだけに、総合三位という成績が情けなくすら思えてくる。身に余る、とはよく言ったものだ。
「九央さんは、わたしのことをそれなりに評価してくれている感じでした。でも実際には、わたしはあの人相手に手も足も出なくって」
「静寂の見立ては正確だな。夕映には確かに、ロードの才能がある。そしてそれに見合うだけの努力もしている。それはわたしが保証してやろう」
「じゃあ彼方さんは、わたしに才能があるから、わたしをアシストに使っている、ってことですかっ?」
思わず口から溢れだした言葉は、意図していない勢いも含んでいた。でも、彼方さんは微笑みつつ、わたしの頭を優しく撫でてくれる。
「どうした、夕映。今日は随分と、困ったさんではないか」
「分かんないんです……自分でも」
何でも許してくれそうな彼方さんの微笑みが痛くて、顔を逸らす。
「作戦が失敗して、けど彼方さんのアシストだからと改めて決意して、なのにその後の勝負で完全に負けたわたしが、それでも一応三位ってことになって、みんなわたしのことを才能があるとか、期待の新人とか、そうやって褒めてきて……全然そんな風には考えられないのに。そうやってぐるぐる悩んでたら、わたしって何の役にも立ってないのに、何で彼方さんのそばでアシストなんてやってられるんだろうって……ああ、もう自分でもよく分かんないんですっ」
「なるほど。夕映、お前は――」
優しく告げてくる彼方さんの方を見る。彼方さんは、言った。
「お前は、馬鹿だったんだな」
「彼方さん酷い!?」
「いや、だがそう卑下するものでもあるまい。わたしも馬鹿だからな。それでいい」
「……そういうもんですか?」
「中途半端に賢しいよりはずっと良いよ。それに、今回は良い負け方をしたのだと、わたしはそう思うぞ。ただ負けただけでなく、色々と学べたことも多いはずだ。今はまだ頭の中で纏まりきらず、形にならない想いが燻っているだけだがな。それにそもそも、九央静寂に負けたことなんて、気にする程のことでもない。いずれもっと強くなって、打ち負かしてやればいいのだ。或いは夕映が三年生になった時に、当時の九央静寂と自分自身を比べて、何だ大した相手じゃなかったんだなと、心の中でそう笑ってやれ」
「そんなで良いのかなぁ……」
「わたしが良いと言っているのだ。良いに決まっている」
えらく自信満々な彼方さん。
「そして夕映。少しナーバスになっているらしいが、これだけは言わせて貰うとだ」
「は、はいっ」
「わたしはお前の自転車センスを嬉しく思ったことはあるが、便利に思ったことは一度も無い。お前はお前、鳥海夕映だからこそ、わたしのアシストなのだ。分かるか?」
…………。
その言葉に。
彼方さんの言葉に。
わたしは、無言で頷いていた。
「お前が役に立っていないとも思わない。むしろお前のそれだけの頑張りにちゃんと応えられるのかどうか、わたしの方が心配なぐらいだ。事実、昨日のレースも結局、山の最後で少し遅れてしまったしな。最終日、もしわたしの力不足が原因で夕映の必死の走りを無駄にしてしまうようなことがあるなら……それならわたしは、レース後に腹を切るよ」
「彼方さん、そんなっ……」
「それぐらい感謝していると言うことさ。だから、夕映」
差し出された彼方さんの手を、わたしは思わず握っていた。両手で、しっかりと、握り替えしていた。
「昨日はありがとう。そしてこれからも頼むぞ」
「……はい!」
力の限り、わたしはそう叫んでいた。
長湯をし過ぎたせいで、露天風呂から戻ってくる頃には、朝食バイキングはもう終了してしまっていた(あの後、彼方さんとお風呂できゃっきゃする時間が長すぎて、わたしの行った時間が遅かったのだ。決して水晶さんが戦犯でないことだけは、この旅館の名誉のために言っておく)。
前日のレースで疲労しきっている身体は、起床後のエネルギーを欲していたので、わたしは彼方さんと一緒に、外へ出掛けることになった。
ちなみに水晶さんはアラームをお昼ご飯の時間にセットして、お部屋で二度寝タイム。むつほちゃんは朝食後、軽めの運動をすると言って、既に一人で自転車に乗って出掛けていた。
プロ選手ともなると休息日の行動にも自分の意思なんて一切無いのだけど、そこいらへん、女子高生は自由なものだ。取材も何にもない。
わたし達も自転車で出掛けようかというアイデアもあったのだけど、わたしの疲労が大きい為、彼方さんからストップが掛かった。午後から、明日のコースの試走をする予定ではあるのだけど、それまではのんびりしてようということになった。
旅館を出たところで、変わった二人組に遭遇した。
一人は、着物を着た女性。彼方さんと同じくらいの身長で、炎みたいに真っ赤な髪を、金色の簪で留めている。猫科の動物を連想させるクリッとした瞳が、とてもセクシーな人だ。
もう一人は、対照的にすっごく小柄で、フリフリのいっぱいついた、いわゆるロリータファッションの女の子だった。野生の子リスみたいに、すぐ隣にいる着物女性の陰に隠れつつこちらの様子を窺ってきている。ていうか……
「鳳さん?」
「あ、あの、鳥海さん。おはよう。昨日はお疲れ様」
か弱げに笑って、鳳小鳥さんが手など振ってくる。鳳さん、その白いロリータファッションものすっごく似合うなぁ。一応年上の先輩なんだけど、それを感じさせないかわいらしさだ。
……それにしても、鳳さんがこうして一緒にいる相手ってことは、お隣の着物女性はひょっとして――
「散歩かい、彼方」
「ああ……おはよう、椿」
短く、彼方さんがそう答える。やっぱり、とわたしは内心驚きの声を上げていた。
天衣椿。昨年のインターハイ覇者。鷹島学院の、《神速のファンタズマゴリア》。
「一応はじめまして、かねぇ。鳥海夕映ちゃん。アタシは長野鷹島の、天衣椿という。昨日、表彰式の後で挨拶に行ったんだが、既にぶっ倒れちゃってたからねぇ。覚えてないか」
「す、すいません……」
厳密に言えば、レース中にも何度か、ちらちらと姿を見掛ける機会というのはあったのだが。ついでに言えば彼方さんは、追走グループ内で既に色々とやり取りもしているだろうし。
まぁ、それはそれとして。
「あっはっは。ンなこと気にするんじゃないよ。ほら、こうして挨拶もできたしねぇ」
明るく笑う天衣さん。
……なんだろう。正直、想像していた人物像とは大きく異なるというか。いやそりゃわたしが勝手に抱いていたイメージなんて、実際と違って当然なんだろうけど。日本最速の女子高生、と謳われているのに、ちっとも気取ったところが無く、豪快で、接しやすい。良くも悪くも威厳が無いというか……いや、でも、結局の所は同じ女子高生なわけだし、こんなもんなんだろうか?
「それで、椿。お前はこんなところで何をしている?」
「散歩さね。諏訪は鷹島の地元だよ。まぁあとはそのついでに、アンタの顔でも見れたらと思ってね。出掛ける前で良かったよ」
「何か用事なのか? お前ぐらいになると、マスコミの取材も多いだろうに」
「顔を見れたら、と言っただろう? 特に用事ってモンじゃない。取材っつったって、プロじゃないんだ。午後に幾つか入ってる程度さね。ただ、そうね。強いて用事を一つ作るなら、アンタの秘蔵っ子、鳥海夕映をちゃんと見てみたかった、ってのもあるかもね」
そうして、天衣椿さんは、わたしの方へと顔を向けた。わたしを見る。その視線は九央さんとか、そういう他の強豪選手とは全く異質のプレッシャーを含んでいた。九央さんの視線が触手なら、天衣さんの視線は槍だろう。長くて鋭い、尖った槍だ。その視線に、わたしは刺し貫かれている。
身動きすら取れなくなってしまったわたしを庇うように、彼方さんの声が割り込んだ。
「椿。あまりジロジロとウチの部員を見るな。静寂でもあるまいに」
「静寂と一緒にされるのは心外だねぇ。それに、アンタのもんでもないだろう」
「いいや、夕映はわたしのものだ。だからこそ許可は出せん」
そんな超大物二人の会話を聞きつつ、わたしはこっそり身体を動かして、お嬢様ファッションな鳳さんに話し掛けた。
……うわあ、近くで改めてみると、小柄な鳳さんにロリータ服は似合いすぎる。
「鳳さん、ええと、おはようございます」
時間的に、おはようとこんにちはのどちらがいいか悩んだけど、取り敢えずわたしはそう言った。
鳳さんも優しい笑顔で挨拶を返してきてくれたので、わたしの緊張もかなりほぐれる。
「昨日は、お疲れ様でした。……丁度今、彼方さんとお風呂で反省会をしてきたところなんですけど、改めて、昨日はわたしの完敗です」
「……鳥海さん、どうしてお風呂で反省会なんてしてるの? 風咲さんと一緒にお風呂に入ってるの?」
「あ、いや、お風呂って言ってもアレですよっ! 旅館の大浴場ですよっ!」
なんだかあらぬ誤解――わたしと彼方さんが、普通サイズのお風呂に二人で入っているという誤解――が生まれてしまいそうだったので、わたしは慌てて訂正する。両手をぶんぶん振って、とにかく話の流れを修正した。
「で、でもっ、鳳さん、惜しかったですね。九央さんにあとちょっとってところでステージ優勝獲られちゃって」
九央さんは山岳ポイントも一位通過して、更にステージ優勝まで獲ってしまった。現在、総合争いではかなり有利な立場にいる。その九央さんにあと一歩届かなかったというところでは、鳳さんの悔しさはわたし以上に大きいかもしれなかった。
「だけど鳥海さんだって、一度遅れちゃった後で、しっかり追いついてきたじゃない」
鳳さんが、わたしを励ますように……というよりは、普通のことを普通に語るように、そう言ってくる。
「わたし、いえ、たぶん九央さんもだけど、びっくりしたんだよ。ゴール直前でもの凄いプレッシャーを感じた気がして後ろを振り返ったら、あんなに遅れていたはずの鳥海さんが追いついてきてたから」
そう言われて、わたしは困惑しつつ後ろ頭を掻く。何せその時は記憶さえ殆ど残っていないような、無我夢中の状態だったのだ。わたし自身の功績と言われても素直に受け取れないぐらい、それって本当にわたしが走っていたんですかと聞きたくなるぐらい、記憶から抜け落ちてしまっている時。
一日経って冷静に分析するなら……わたしが速かったというより、山頂争いやその後の牽制のし合いによって速度の落ちた二人に、わたしがどうにか追い縋った、という感じなのかなとも思う。
それに追いついたとはとてもじゃないけど言えないぐらい、二人は遠かった。長い直線でちょっとだけ背中が見えたけど、そこから更に突き放されてまたタイム差が付いたぐらいである。
「わたし、本当に夢中になって走ってたから……よく覚えてないんです」
「それでも凄いよ。風咲さんが誇らしげなのも分かるもん」
「彼方さんが……」
それは嬉しい話だった。彼方さんがわたしのことを余所で誇らしげに話してくれているというのは。というかむしろ、わたし自身がその事実を誇らしく思える。
そんな彼方さんは、すっかり天衣椿さんとの会話に入ってしまっている。既知の間柄であるらしい二人に割り込むことも出来ず、わたしと鳳さんは一歩離れていた。なんとなく間が持たないので、鳳さんに雑談を持ちかけてみる。
「……鷹島学院の皆さんって、この辺りが地元ってことは、ホテルには泊まってない
ってことなんですか?」
「うん、流石に、今日と明日以外は、ホテルとってるんだけどね。諏訪にいられる時は、おうちに帰ってるの。九央さん達昇仙高校も、昨日は山梨に戻ったみたい」
「羨ましいなぁ。わたし、明日ぐらいにはそろそろホームシックになっちゃうかもしれないです」
「でも、みんなでホテルに泊まるのも楽しいよ?」
「確かに楽しいんですけど、あんまり毎日ホテルで寝泊まりするのもなんか……」
「女子高生が往来でホテルホテルの連呼とは、まったく破廉恥な集団だぜ」
いきなり、悪意が紛れ込んだ――否、よく知る声が割り込んだ。
「ふしだらにも程があるね。どんな教育を受けているのか知らないが、全く、お里が知れるってものだ。いや、その内半数は、この辺りがお里なのかな?」
「……綺堂さん」
現れたその人の名前を、わたしは口にした。
わたし達が立ち話をしていたのは、明日の第三ステージのコースにもなる湖畔道路なので、綺堂さんが自転車に乗って現れたのも、不自然なことではないのかもしれないけど。
偶然通り掛かったらしい綺堂さんは、大仰に両手を振って、やれやれと嘆息する。
「こんなにも風紀の乱れた街で走らされるこっちの身にもなって欲しいよね……って、おっと、わたしのよく知ってる嫌な顔によく似ていると思ったら、鳥海さんに風咲さんじゃない」
「……一応聞いておくと、よく知っている嫌な顔っていうのは誰のこと?」
「鳥海さんが聞いても仕方ないことだと思うけど、わたしの知り合いに、鳥海夕映と風咲彼方っていう、凄く嫌な奴らがいてね。そいつらにちょっとだけ似ていたってだけだよ。気にしないで、鳥海夕映さん」
遠慮無く振りまかれる悪意に、わたしは返す言葉も思いつかず沈黙した。沈黙するしかない。こんな、心を伴わない害意に対しては。
しかし言葉を見つけられなかったわたしとは違い、鳳さんはしっかりとした意志を持って口を開いていた。
「そんなに嫌な人じゃないと思うけど、その人達」
「いやいやいや。最低最悪な連中ですよ。何せ関東大会で一位を獲ろうとしていたわたしの夢を、あっさりと踏みにじった人達なんだから。信じられますか? 許せないですよね、頑張ってる人の努力を嘲笑って、自分たちだけ良い思いをしようだなんて。人として終わってますよ」
「そんな風に歪んで考えるのは、心が捻れているからじゃないの? わたしの友達は、夢や目標に向かって必死に努力してる、とっても良い子だもの」
昨日、九央さんの軽口を受け流していたときにも思ったことだけど、鳳さんって、気弱そうに見えて、だけど別に自分の意志が無いとか、人に意見が言えない、ってタイプの人ではないらしかった。むしろ真っ直ぐに、しっかりとした心根を表現できる人のようでもある。
そして、鳳さんが、昨日知り合ったばかりのわたしのことを、『友達』と言ってくれたことは、素直に嬉しかった。
「随分とよく吠える、可愛らしい子犬がいる……と思ったら。へぇ、なるほど」
綺堂さんは目を細め、続けようとしていた言葉を呑み込んだ。一拍の間を空けてから、
「《神速のフェニックス》に、奥にいらせられるのは《神速のファンタズマゴリア》か。これはこれは。チャンピオンジャージやアルカンシェルを着てくれてなかったから、分かりませんでしたよ」
「その黒ジャージ。巌本高校の……綺堂硯、だったかねぇ」
これは天衣さんの発した言葉だ。
発言に釣られるようにそちらを見たわたしは、次の瞬間絶句していた。天衣さんの発する凄味に、全身が総毛立つ。さっきまで気さくに笑っていた人と同一人物とは思えないぐらいの、怖ろしい感覚だった。プレッシャーは北海道の田鎖さん以上だ。
「よく回る口があんたの自慢かい?」
「いえいえまさか。それにしても……《神速のファンタズマゴリア》の私服姿とは、眼福ですねぇ。こんな田舎町まで来た甲斐があるってものです」
「言ってくれるじゃないか。アタシらの地元にさ」
「いや、この街に、感謝はしてるんですよ? だって明日の第三ステージで、わたしに総合一位をくれる為にこの街はあるんですから」
あっさりと、そして戯けて言う彼女の言葉に、全員が一度言葉を失った。
綺堂さんは現在総合十三位。経過はどうあれ、一応この中では一番順位が低いはずだ。そんな綺堂さんが、わたしは置いておくとしても、年上である彼方さんや天衣椿さん、鳳さんといった強豪の面々に対して、さらりと勝利宣言をしてみせた。
「アンタとアタシのタイム差は、今の時点で三十秒近くもあるんだ。小鳥は更にリードしてる。それを明日のタイムトライアル一回で覆せると、本気で考えてるのかい」
「余裕じゃないですかね」
綺堂さんは物怖じせずに笑う――嗤う。
「《神速のファンタズマゴリア》だとか、《神速のフェニックス》だとか、そんな大層な呼ばれ方をしてみるみたいですけどね。わたしが、明日からの毎日を全て神無月にしてやりますよ」
その後すぐに、綺堂さんは去っていった。来たときと同じように、自由に、あっさりと、自転車に乗って走り去っていった。常識の枠組みに囚われない、と言うよりは、そもそも常識なんてあの子の中に存在していないんじゃないかとすら思わされる。
常識が無くては、コミュニケーションも成立しない。
「……どう思った、椿」
彼方さんの問いに、天衣さんは迷わず答える。
「今の時点では何とも、さ。……昨日の登りでは、終盤に遅れていたはずだったね、あの子」
「だが実際にあいつは、関東大会で六位入賞を狙い、実践していた。まだ何か隠しているのかもしれんぞ」
「ありそうな話だねぇ。嘘の塊みたい……と言うより、嘘そのものみたいな奴だ。そもそも、あの一級山岳でアタシらの集団についてこれていたって時点で、充分に実力者なんだからね」
彼方さんや、日本最速の《神速のファンタズマゴリア》天衣椿さんですら警戒する、綺堂さんの隠し持つ未知の実力。それがどんなものなのかは、去年まで同じチームにいたむつほちゃんでさえ、分からないのだという。
「……今年はひょっとしたら去年以上に、何処が勝つか分からないかもしれないねぇ」
「優勝候補最有力のお前がそれを言うか?」
「生意気な小娘にああは言ったものの、現時点の順位は六位だよ、アタシは。それに、総合優勝争いが去年以上に群雄割拠なのは確かだろう。九央静寂、嘉神芯紅、子隠筺、安槌歌絵、源杏、そして……風咲彼方。そこに綺堂硯も加わるんだとすれば、アタシの一人勝ちってわけにもいかないだろうさ」
「謙遜以上には聞こえんな」
彼方さんはそう言って、苦笑した。
正直わたしも同じ気持ちだ。さっき天衣さんが垣間見せた、圧倒的なプレッシャー。あれこそが、このインターハイに君臨する女王の貫禄であるとするなら、やはりどうしても、この人は頭一つ抜き出た力があると思わざるを得ない。
九央さんの洞察力も、綺堂さんの未知の実力も、それぞれ怖いけど。
やはり鷹島学院こそが優勝候補。
警戒心と緊張で表情が強張るのと同時、小さな異音が耳に届いた。
微かな、だけど明確な要求と共に響く、確かな音。
――ていうか、わたしのお腹が鳴っていた。
「……鳥海さん、お腹空いてるの?」
「あうう……そう言えばわたし達、ごはん食べに行くつもりでホテル出てきてたんでした」
鷹島学院のお二方や綺堂さんの来訪ですっかり意識の隅っこへ押しやられていたけど、今更ながらに空腹を思い出す。わたし、昨日の夜から何も食べてないんだった。
この場で最年少としての遠慮も、女子としての見栄も無く盛大に演奏を始めたわたしのお腹に対して、天衣さんがクツクツと笑みを溢しつつ言ってくれる。
「空腹いう事情なら、良い店を紹介しようか。長野に来たんなら、旨い蕎麦の一つも喰っていかなくっちゃあね」
そうしてわたしは、彼方さんとだけでなく、レースにおける最大の敵とも言うべき鷹島学院の二人と一緒に、食事をすることになる。ちなみに、案内されたお蕎麦屋さんは古風な店構えで、ロリータファッションの鳳さんがメチャクチャ浮きまくっていた。
明日からのレースのこと。
綺堂さんのこと。
そしてお風呂で彼方さんと話した、わたし自身のこと。
色々と考えることの多い一日ではあるけど、得た物の多い一日にもなったと思う。
少なくとも今日はわたしに――長野県住まいで一つ年上の、とても可愛らしいお友達が出来た。
◆
愛車から降り立った結橋むつほは、目の前にいる人物に視線を投げた。ついでに、言葉も一緒に投げ掛ける。
「何処でどーやって、オレのメアドなんて調べたか知らないですけどねー。こーしてわざわざ呼び出したってことは、何の用事も無い、ってわけじゃーないんでしょーねー?」
言葉は返ってこなかった。
微笑みを浮かべているその相手は、笑顔だけで返事をしたと思い込んでいるのかもしれない。そんな馬鹿げた考えが浮かび、むつほは再び言う。
「用事があるんならさっさと済ませられませんかね――金銅サン」
「用事だなんて、そんな大げさなことじゃあないんだよ、結橋むつほちゃん」
諏訪盆地を見下ろす、眺めの良い展望台のある公園。その公園のベンチに腰掛けた女、《異質なる世界樹》の金銅曜。
彼女は、言った。
「ボクはただ……君と仲良くなりたいだけさ」
そうして、ルージュの引かれた綺麗な唇が笑みの形に歪むのを、むつほは見逃さなかった。