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二日目・山岳カテゴリ

 インターハイ二日目は、前日のゴール地点である長野市街から、まずは昨日走ってきた道を逆走することでスタートする。暫くは国道18号線を走り、およそ四十キロ地点に中間スプリントポイント。そしてその後は国道152号線へ入り、本日のハイライトとも言うべき、標高千四百メートルの大門峠へと向かっていく。

 総距離七十五キロ、最大標高差は千メートル以上という、完全な山岳カテゴリのコース設定であり、実際大門峠の最高地点には、一級の山岳ポイントも付けられている。

 但しゴール地点は峠を越えた先――有名な高原リゾート地、白樺湖の湖畔。

 きつい登りと、最後はライバル同士でのスプリント。

 今日のレースは間違い無く、優勝狙いのチームが動き出す。


 レースゲームなんかで見掛けることのある、逆走コースというのをご存じだろうか。

 ステージ数の水増しに使われている――かどうかはさておいて、文字通り通常のコースを逆向きに走っていくものだけど、この第二ステージはそれみたいなもので、今日の序盤はそっくりそのまま、昨日の終盤の逆再生、ということになるわけだ。

 だけどそれは、単なる逆走で終わらない。国道18号線が昨日のコースとして使われたときは殆どが平坦と下りだったけど、今日それを逆に走るということは即ち、殆どが平坦と登りになるということなのだ。この違いは大きい。

 緩くて、長~く続く登り坂。これは結構心が折れる。しかもこの後で、更にきつい峠道が待っているっていうんだから。

 全く以て、大変な話である。

 ……二日目のレース開始直後、逃げ集団はいきなりあっさりと出来上がった。

 メイン集団から飛び出した五人は全員が下位チームの選手だった為か、思いの外簡単に容認され、一気に逃げていく。

 タイム差は、一分と少し。昨日と違って距離があまり開かないのは、おそらく今日の中間スプリントポイントが、昨日より貴重だと判断されているからだろう。平坦カテゴリのコースと違って、今日のスプリントポイント獲得チャンスは一度しかない。つまりは昨日のように、逃げのアタッカーにポイントをプレゼントしてあげるような展開は、絶対にあり得てはいけない、ということだ。

 そして、今日のレースが大事なのはスプリンターの人だけではない。

 ……わたしは朝のミーティングで、彼方さんに言われたことを思い返していた。


「夕映。今日のレース、逃げられるか」

 ホテルで朝食を終えて部屋に戻ってから、彼方さんはそう言ったのだ。

「逃げ……わたしが、ですか?」

「うむ。これは当初の予定には無かった、わたしが昨日の夜に立てた作戦なのだがな」

「作戦ってそんなあっさり決めちゃっていいんでしょうか……」

 まぁウチのチームは監督も参謀も大将も、全て彼方さんが兼任しているようなものだし、別に問題は無いのかもしれない。

「単なる思いつきで言っているわけではないぞ。昨日、夕映が水晶を連れて中間スプリントポイントの争いに参加しただろう」

「う……っ! す、すいませんでした」

 素人的な感覚で我が侭を言ってしまったのは、わたしにとってはとても反省するべき点であったため、思わず謝罪の言葉が出た。けど彼方さんはそれを構わないと言って、

「あれのお陰で結果として、今年の御弓は風咲彼方の総合だけでなく、久瀬水晶のスプリント賞も同時に狙っている、と他のチームに印象づけられたのではないかと、わたしは思うのだ」

 確かに、彼方さんが有名だからこそ、殆どのチームは今年の御弓を総合優勝狙いだと判断している。昨日、わたし達が中間スプリントポイント前で動き出したとき、亜叶さんも意外そうな様子だったし。

「じゃあ今日もわたしが久瀬先輩のアシストをして、スプリントポイントを狙う、ってことですか?」

「いや、確かに行動としてはそうなるが、それはあくまで表面上の目標だ」

 そう言って、彼方さんは第二ステージのコースマップを取り出した。中間スプリント地点を指差して、

「中間スプリントポイントを越えてから先は、大門峠を目指す登り勾配の道が続く。極端な傾斜こそ無いが、とにかく長い登りが続く道だ。夕映にはここで、逃げを打って貰いたい」

「山で……逃げ、ですか」

「ああ。水晶のアシストをすると見せかけてスプリントラインを通過し、水晶は置いてお前だけ単独でアタックをするんだ。今日は昨日と違って、逃げ集団だけが先行してスプリントラインを通過する、ということは絶対に起こり得ない。だからポイント争いに参加すれば、必然的に全体(レース)の先頭に位置していられる」

 彼方さんはそこまで話してからいつもと同じように、わたしの頭をポンポンと撫でる。

「これは本来の予定では成立しなかった作戦だ。総合狙いのチームがこんなタイミングでアタックを仕掛けようとすれば、不自然に思う者は多いだろう。我々の仕掛けるアタックはすぐさま潰される。しかし昨日の中間スプリントに参加した事実が、この作戦の違和感を薄めてくれた。だから、上手くいく可能性が充分に出てきたんだ。分かるか?」

「……はい」

 わたしは少しの緊張と共に、彼方さんの言葉に頷いた。

 確かに、厳しい山岳セクションに於いて、先行する逃げ集団の中にチームメイトがいるというのは大きな武器になる。チームの作戦に応じたペースコントロールを作り出すことが可能になり、後方のエースに何かあったとしても、下がってきて対応することができるのだ。

 そして、山岳に突入してからアタック合戦をするよりは、そうして先行したまま逃げてしまった方が成功率も高い。

「でも山岳区間のアタックなら、むつほちゃんの方が速いと思いますよ? むつほちゃんなら、混戦になっても回避可能ですし」

「それはそうだが、結橋は完全なクライマーだからな。山の前にあるスプリント勝負に参加できんだろう」

 スプリントも狙っているというリアリティが必要なのだ、と彼方さんは語った。

「だからこれは、オールラウンダーとして開花しつつある夕映の実力を見込んでの話だ。お前でなくては成立しない。……どうだ、やってくれるか」

 彼方さんにそう聞かれて、わたしは迷わなかった。

「やります。やらせてください」


 そうしてわたしは今、久瀬先輩を連れてメイン集団のかなり前寄りに来ていた。逃げ集団は、ペースを上げてきたメイン集団によってもう吸収寸前である。そして見渡せば、昨日もポイントを争っていた面々が、既に前寄りに集結しつつあるようだった。

 鶴崎女子、名古屋藤村、大海、山毛欅女子、四条大宮……。どのチームもエーススプリンターの出撃準備を整えている。

 昨年の覇者である、鷹島学院の姿は無い。昨日のレースで総合一位が田鎖鉄輪さんになったので、今日のレースはほぼ完全に、昨日同様とっても元気な幌見沢農業の皆様が引いていた。

 ちらりと、集団前寄りに位置する田鎖さんを見やる。昨日着ていたのとはデザインの異なる、黄色いジャージ。総合一位の選手に与えられる、リーダージャージだ。要は全部のステージが終わったところであのジャージを着ていた人が優勝ということになる――田鎖さんはスプリント賞狙いなので、総合一位の方に執着はないんだろうけど。

 最終日にあのイエロージャージを彼方さんに着せることが、わたし達の目標だ。

 そして彼方さんの、一年掛けた目標でもある――

「夕映。緊張している?」

 ふと、後ろから久瀬先輩に話し掛けられて、わたしはどきりとした。

「あはは……分かります?」

 照れ笑いと共に後ろを向く。久瀬先輩はこの後の戦いに備えて補給食を食べつつ、こちらを見ていた。作戦内容をここでべらべら喋ってしまうわけにもいかないので言葉の選択には気を遣いながら、わたしは言う。

「何ででしょうね。県大会をむつほちゃんとの二人で任されたときなんて、たぶん今日より責任重大だったはずなんですけど……どうしてか、今日の方がよっぽど緊張しちゃってるんですよ」

「それはたぶん、あなたがロードレースの選手として、より大きく成長したからだと思う」

「成長すると、弱気になっちゃうものですか?」

「違うわ。出来ることや考えられることが増えると、その分マイナスのイメージまで一緒に思い浮かべてしまうようになる」

 成功のための選択肢が増えるということは、失敗という結果のパターンも同じ数だけ増えるということ。

 久瀬先輩の言葉は、わたしにそう教えてくれた。

 そして。

「でも、気にすることはないわ。考えることが難しくなってしまったら、簡単にすればいいだけのこと。結局のところは成功するか失敗するかの二択なのだから、上手くいくイメージだけを抱いていれば良いの」

「それは……良いんですか? ホントに」

「良いの。だって彼方も私も、そんな頼れるあなたの力を見込んで、こうして走って貰っているのだから」

「…………」

「取り敢えず今は、わたしをラインまで運ぶことだけ考えて走ってくれれば良い。何だったら、そのままあなたがラインを一位通過したって構わない」

「いやそれは構いましょうよ!」

 久瀬先輩、一応現時点でのポイントは第七位なんですし。

 あと、わたしが中間スプリントを一位通過っていうのは、流石に無理があり過ぎますし。

「それだけあなたを頼りにしているのよ。私も、彼方も」

「……はい。ありがとうございます。あの、久瀬先輩」

「何?」

「一つお願いがあるんですけど……ええと、その、わたしも久瀬先輩のこと、水晶さん、って、そう呼んでも良いでしょうか?」

 わたしからのそのお願いに、

「ええ。勿論」

 久瀬先輩――じゃなくて、水晶さんは、微笑みと共にそう、頷いてくれたのだった。


 中間スプリントラインまで残り十キロ。

 スタート地点から逃げていた五人は既に全員が吸収され、メイン集団の構造も、スプリント狙いの人達とそれ以外とで、すっかり二分化しつつあった。完全にばらけるのも時間の問題だろう。

 ちなみに超長距離スプリントを得意とするはずの亜叶さんは、この距離でまだ発進できていない。他チームからのチェックが尋常ではないぐらいに厳しくて、その包囲網が突破できないからだ。先程から何度かアタックを仕掛けようとしていたのだけど、全て失敗に終わっている。射程距離的にはもう問題ないはずだし、以降のチャンスが少ないことも考えると、今は相当な焦燥に襲われていることだろう。

 そして読み合い探り合いがあるのはこちらも同じである。

 このまま停滞しちゃうんじゃないかっていうようなその均衡を崩したのは、昨日のステージ第三位を獲得した、愛知代表のリタ・バレーラさんによる単独アタックだった。あれから聞いた話では、リタさんはスペインからの留学生とのことで、なるほど確かに褐色の肌からは、ラテンの熱が伝わってくるようだ。

 長い黒髪を一つに結って風に靡かせるリタさんの姿を見ていると、ここが日本の内陸部に位置する長野県であることを忘れさせる。ロードレースの本場、ヨーロッパのような空気感である。

 ともあれそんなリタさんがアタックを仕掛けたことで、それまでお見合い状態だったスプリンターの皆々様が、爆発的な勢いで動き出した。スペインからの刺客を逃すまいと、単独で先行するリタ・バレーラさんを必死に追走する。

 そこを突いて、今度は鶴崎女子が得意のチームアタックを開始した。リタさんの飛び出しによる周囲の動揺を見逃さず、巧みに隙を突いたらしい。流石は亜叶さん達だ。

「水晶さん! わたし達もペースを上げます!」

「了解」

 このスプリント集団に置いて行かれてしまっては、そもそも作戦が成立しない。

 後方では殆ど距離を空けずに集団(プロトン)がいるので、そちらの中に控えるクライマー達に追いつかれないよう、なるべく前に出ておかなくてはいけないもんね。

 それに。

 これはわたし自身の個人的な想いでしかないんだけど……やはりわたしとしては、水晶さんにしっかりと、スプリント争いに参加して欲しい、と思ってしまうのだ。

 折角、関東最強クラスのスプリント能力を持っているのだから、水晶さんの名前が全国でもっと有名になってくれたら、と思うのだ。

 けどやっぱり、山で逃げる作戦も、水晶さんのスプリンターとしての戦いも、まずはわたしがここでどれだけ頑張れるか、というのに掛かっている。この後で険しい山岳が待ち構えていることを考えると、本気で走りすぎて疲弊しきってしまうのは馬鹿げている。でも、ある程度は頑張っておかないとリアリティは出ないし。逃げも成立しづらくなり、更には水晶さんもポイントが獲れないかもしれない。

 うーん、なんて難しいペース配分だろう。

 ともあれわたしはスプリント集団の後ろ寄りぐらいを陣取って、周囲の様子を見ながら走行を続けた。前の方では既にピリピリとした緊張感が破裂して、かなり熾烈なポジション争いが勃発している。なんて様子を観察していると、昨日同様に、大海高校の竜伎さんが大きく吠えた。気合い入ってるなぁ。

 残り二キロの地点まで来て、わたしは水晶さんを切り離して単独発射させた。体力的には、ホントはまだまだかなり余裕があるんだけど、一応ここが限界、って設定だ。水晶さんは作戦通りに他の選手達を躱して、単身、ぐんぐんと加速していく。

 やっぱり流石は久瀬水晶。千葉県最速スプリンターだ。

 水晶さんの脚質は、本来アシストによる発射台(リードアウト)を揃えてこそ真価を発揮するものなんだけど、上手く立ち回れば、他の選手を風除けに使いながらああして加速できる。ハイレベルな選手ならではの高等テクニックだろう。

 そしてわたし自身は暫くそのまま、同じようにエーススプリンターを発射させたアシストの人達と一塊になって走っていると、どうやら前の方で決着が付いたらしいことが、空気感で伝わってきた。

 スプリント勝負を終えた各校エーススプリンター達が、失速してこちらと合流する。それと一緒に、勝負の結果も聞こえた。

 中間スプリントの一位は、今日も幌見沢農業の田鎖鉄輪さん。……昨日の中間も合わせれば、実質的に三連勝である。

 そして二位は、なんと水晶さんが獲得したらしい!

 わたしは一度、作戦のことも忘れて普通に心から喜んだ。だって嬉しかったんだもん。

 ……その後で、ちゃんと意識を引き締め直すことも忘れない。わたしはこの場所に、水晶さんの応援のためだけに来たわけではないのだから。

 前方から、ペースダウンしてこちらと合流しようとしている水晶さんの姿を見つける。わたしは軽いダンシングで加速して、その水晶さんの前を引く為合流する――ように見せ掛けて、水晶さんを通り過ぎると一気に全力のダンシングへと体勢を切り替えた。それこそ今更になってスプリントでもするような勢いで走り、先頭にいた田鎖さんも追い抜かして、独り猛烈なアタックを仕掛ける。

 通り過ぎ様、田鎖さんの化け物じみた凄まじいオーラを感じて、肌がチリチリと痛んだ気がした。それはおそらくわたしに向けられたものではなく、先の戦いで放たれていた田鎖さんのオーラの、余波みたいなものでしかないはずなんだけど。余って溢れた残り滓みたいなプレッシャーだけで、わたしはもう押し潰されてしまいそうだ。

 田鎖さんはともかく、他のアシスト達が猛追してくるんじゃないかっていう警戒心から、わたしは更に速度を上げた。

 血液が沸騰しそうなぐらいの恍惚に脳が支配されて、走ること以外は考えられなくなる。

 クランクを蹴る脚と、ドロップハンドルを握り込む両手以外に、身体の感覚は何も感じられなくなっていた。

 ほんの一瞬だけ、ああ、決死の思いでスプリント勝負をするあの人達は、こんな感じなのかな、なんてことが頭をよぎるけど。そんな感覚すら追い抜かして、わたしはとにかく必死の逃げをした。

 中間スプリント地点を越えてすぐの辺りから、道はどんどん傾斜して、勾配がきつくなっていく。

 いよいよここから本日の山岳セクションである、大門峠が始まるのだ。

 後方のスプリンター達が、たとえ上級生でわたしより格上の選手ばかりだとしても、流石にこの登り勾配で追いついてくることは難しいだろう。それらより更に後ろにいるクライマーやオールラウンダーでは、わたしの動きを察知することすら難しい。

 即ち、

「アタック……成功……って、……感じ、……かな……」

 登り勾配で流石に勢いも落ちてきて、置き去りにしてきたはずの疲労感がとうとうわたしの脚に追いついてくる。

 ひぃひぃ息を切らせつつ、わたしは無意識の内に独り、そう呟いていた。しかし。

「うん、中々キレのある、良いアタックだったね」

「え、ええと、あの、わたしも、そう思います」

 !?

 背後から聞こえてきた声に、わたしは勢いよく振り返る。そこには……二人の選手が、いた。

 一人は、細身で長身、背中程まである長い黒髪の女性だった。ジャージの色は紅葉色。

「脚質的にはオールラウンダーか、或いはパンチャーか。ロード歴は、約二年、といったところ? 高一にしてはかなりハイレベルな完成度と言わざるを得ないな。流石、《風のカナタ》が久瀬水晶を囮にしてでも送り込んできただけのことはあるよ」

 と、そんなことを言った。

 そしてもう一人は、亜麻色の髪を肩先ぐらいで纏めた、わたしと同じくらいの体格で、そしてとても気弱そうな女の子だ。目を保護するためのアイウェアを装着しているんだけど、幼い顔立ちに対して真っ赤なそれは何というか、端的に申し上げるなら……うん、超似合ってない。そしてこちらの人の赤いジャージは、見覚えのあるデザインでもある。

「そ、そうですね。あの、久瀬さんのスプリントも、とっても凄かったですけど」

 ……わたしの、わたし達の作戦を見抜いていたか、或いは、同じことを考えていた人達がいた、ということ?

 そして同じようなタイミングでアタックを仕掛けたから、わたしは逃げ切れず、こうして追いつかれてしまった。

「……嘘」

 絶望的な心地で、わたしは呟きを漏らした。

 単純に、アタックに追いつかれてしまっただけなら、さすがにここまで愕然としたりはしない。けど、追いついてきた二人の、それぞれのゼッケンナンバーを見て、わたしは絶望せずにはいられなかった。だって。だってだって。

 長身の女性と、気弱そうな女の子。

 それぞれの抱えるナンバーは、『21』番と『2』番。

 ……わたしはどうやら、とんでもない敵を二人も連れて、この山を登らなくてはいけないらしいのだ。


「怖い人とはどんな人物か、考えたことはあるかな、御弓高校の一年生くん」

 背の高いその女性が、長い黒髪を山風で揺らしつつ、そんなことを聞いてきた。

 それまでより明確に、路面の傾斜はきつくなっているというのに、そのペダリングに危なげなものは一切無く、あっさりとした調子で規則的に回転数を保っている。まだまだ余裕ということか、片手を軽く挙げつつ、その人は続けた。

「父親か。教師か。不良か。強盗か。強姦魔か。殺人鬼か。幽霊か。異星人か。まぁ色々と怖い人ってのはいると思うけどね。わたしとしては、今の君だ」

 指折り数えていたその人は、その指を一本だけ、わたしに向ける。

「風咲彼方の送り込んできた、未知の新人。御弓高校一年生。今年の千葉県大会では四位だったか。中学時代の実績が未知数なので、どの程度の怪物かと思っていたが……これはこれは想像以上だったよ。君の名前が知りたいな。ゼッケン番号44では、些か語呂も悪い」

「わたしは鳥海夕映……です。ゼッケン番号44よりは、多少呼びやすいかな、って思いますけど。それに、県大会のデータを知っているなら、名前も知ってるんじゃないですか」

「一応本人に名乗って貰いたかったのさ、鳥海くん。わたしは、九央(くおう)静寂(しじま)という」

「九央静寂……。山梨の《天魔の視線(インサイト・テラー)》……ッ!」

 彼方さんが警戒していた敵の一人。昨年のインターハイ総合三位、ゼッケン番号21、山梨代表・昇仙高校のエースだ。

「お見知りおきのようで光栄だな。わたしもその程度には有名か」

「だって去年、彼方さんに勝った人ですよね」

「そうは言っても、去年の風咲に勝ったところで大した自慢とは言えないさ。今年はまだ、どうだか判断付かないけどね」

 ……その言い方には少し、いや結構、いやいやかなり、カチンと来るものがある。なんでそんな、彼方さんを格下みたいに扱うの?

 発言に噛み付こうとしたわたしを制するような絶妙のタイミングで、九央さんは再び口を開く。

「別に、風咲のことを格下だとかは思っていないよ? ただやはり去年のあの子では、相手にとって不足だけ、って感じだったからね。その時の様子を見ていない君が、見ていたわたしに語るのはまぁ、先輩後輩の友情愛情を差し引いたとしても、野暮なことじゃあないかと思うがね」

 芝居がかった口調で、九央さんはそう言う。

 いや、そんなことより、わたしは言葉尻に引っ掛かりを覚え、顔をしかめた。この人今、わたしの考えてることを読んだ……?

「まさか。超能力者じゃあるまいし、心を読むなんてそんなこと出来るわけないよ。わたしはただ君を見て、君の様子から、君が今考えていそうなことを推測して、先回りして喋っているに過ぎない」

 絶句しているわたしを面白がるように、九央さんは口角を挙げて話し続ける。

「それでも殆ど正解だ、とか思ってくれてそうだね。ありがとう。この喋り方って、読みが外れちゃうと凄く格好悪いからさ。ふふふ。……おっと、わたし一人が喋り続けていても仕方ないか。そろそろ、後ろの君も会話に参加したらどうかな? それぞれ学校も学年も違うけど、花の女子高生同士、楽しくお喋りに興じようじゃないか――ねぇ、(おおとり)くん」

 九央静寂さん――《天魔の視線(インサイト・テラー)》は流れるようにスムーズな動作で振り向いて、後ろを走っていたもう一人を見やった。つられてわたしも、そちらに視線を向ける。

「えっと……わたしは長野県の鷹島学院の二年生で、(おおとり)小鳥(ことり)、って言います」

 悪戯を叱られた子供みたいに弱々しい口調で、そう自己紹介をする鳳さん。最初に見たときはその気弱さから初出場の一年生で同年代なのかとも思ったけど、どうやらむしろ年上であったらしい。いや、ていうかそんなことよりも。

「長野代表……鷹島学院……」

 それは昨年の総合優勝校であり、優勝者の天衣椿さんが率いる、今年の優勝最有力候補チームだ。当たり前と言えば当たり前なんだけど、そんな鳳さんのゼッケン番号は一桁、2番である。そして鳳さんの着ている赤いジャージには、見覚えがあった。それは各地方大会での優勝者に与えられる、チャンピオンジャージだ。

 長野代表ってことは、今年の中部地方大会の優勝者ってことだよね。

 小柄で可愛らしく、更にはとても気弱そうな外見とはあまりにもミスマッチな、強そうな要素が並べられている。そもそも、真っ赤なアイウェアが鳳さんの顔立ちに対してあまりにもミスマッチなんだけど。色々ミスマッチなんだけど。

 驚いて身体を強張らせているわたしに、九央さんは補足を付け加えてくれた。

「あの天衣椿の懐刀で、《神速のフェニックス》と呼ばれている子だ。警戒のレベルは、今君が考えているままで正解だよ、鳥海くん」

 つまり、最大で、ということだ。

 ちなみに九央さんに対しての警戒レベルも最大級。

 わたしは瞬間的に思考を巡らせて、この逃げをどうしていくか、ということを考えた。

 だって当初の予定では単独で逃げるつもりだったし、誰かが付いてくるようなことがあったとしても、まあそれはそれで良いか、と思っていたけど。でもまさか優勝候補達がゴロゴロとくっついてくるとは想定していなかったもの。

 このまま行ってしまうと、場合によっては彼方さんのライバルを助けるかたちになってしまうのではないだろうか。

 逡巡は答えに辿り着かず、脳内を無駄に彷徨うだけだった。プロのレースではこういう時に通信機を用いて、監督などとのやり取りから作戦をリアルタイムで変更していくらしいのだけど、女子高生の大会でそこまでハイテクな機械はまだ導入されていない。携帯電話やメールでのやり取りは、普段は慣れたものだとしても、レース中は流石に持ってないし。いや当たり前だけど。

 結局わたしは、取り敢えずはこのままこの人達と登り続けていくことにした。アタックを中止して後方のメイン集団に戻る、という選択肢も浮かびはしたけど、どちらにせよこの強力過ぎる二人を野放しには出来ないのだし。

 わたしの思考が落ち着く頃を待っていたのか、丁度そのタイミングで、九央さんが大仰に両手を広げて(坂道の途中だから結構大変そうに見える)、

「さてさて。この顔触れの中では一応、わたしが最年長ということになってしまったから、一応年上らしいことを言ってみようと思うが、まぁ取り敢えずは暫く一緒に走る間柄ということで、自己紹介も済んだことだし改めて仲良くやっていこうよ。鳳くんも、先月のことは一旦忘れて、さ」

「先月って、何かあったんですか?」

 おそるおそるわたしが訊ねると、鳳さんは申し訳なさそうにちょっぴり俯きつつ、

「えと……あの、中部地方の大会が」

「うん、山梨県で開催されたその時のレースで、大将である天衣椿を欠場させたままのハンディキャップ状態であったにも関わらず、地元の期待を一身に背負って臨んだわたしを徹底的に寄せ付けずボロボロに打ち負かしてチャンピオンジャージを手に入れたことによる仄かな罪悪感なんてとりあえずは一旦忘れて、この呉越同舟を乗り切っていこうと、年長者のわたしはそう提案しているんだよ」

 とてもではないが年長者とは思えない口振りで、九央さんは寛大な台詞を述べた。

 ……凄い性格だなぁ、この人。綺堂さんあたりと気が合いそうだ。

「おいおい鳥海くん。わたしのことを性格悪いとか考えてないかい? 心外だなぁ。心外っていうより、侵害だよ。人権侵害だよこれは」

 ……やりにくい!

 考えること考えることに対していちいち突き刺さるようなことを言われたら、こっちの心がもたないかもしれない。なんて戦いにくい人だろう、九央静寂さん。

 人の心を見透かす、《天魔の視線(インサイト・テラー)》。

「鳥海……さん、その、九央さんの言動には、もう、慣れていくしかないと思うの」

 鳳さんが、何でだか本人に替わって謝罪でもしてきそうな低姿勢で、わたしにそう言った。もはや年上どころか、敵チームとすら思えない感じだけど、よくよく考えてみると言っていることはそれなりにえげつないというか。

 流石は名門校で二番ゼッケン(セカンドナンバー)を務めているだけのことはある。なんて、無駄な感心をしてしまったりした。

 そして九央さんが、わたしの心の声に同調したみたいに、

「でも確かにねぇ。負けたから言うってわけじゃないが、鳳くんも、わざわざ天衣椿のいる鷹島学院なんて入らず、別の学校に行けば良かったのにね。君の実力なら大抵のチームで一年から即レギュラーどころか、場合によっては即エースだっただろうに」

 ……やっぱり凄い人なんだな、鳳さん。ちなみにわたしも一応一年生レギュラーではあるけど、入部当初の部員数が四人だった御弓(うち)でレギュラーを掴むのとはエライ違いだ。

 改めて、この二人がわたしなんかより遙かに格上の存在であることを思い出す。

「ああでも君は確か、一年の頃はそもそも選手じゃなかったんだっけ」

「え、そうなんですか?」

 九央さんの言葉に、わたしは思わず鳳さんを見やった。鳳さんは小っちゃい身体を更に小っちゃく縮めてしまいそうにしながら、

「は、はい……。去年はマネージャーをやっていたので……」

「去年がマネージャーってことは……え、鳳さん、選手になったのは今年からなんですか?」

「その子は選手どころか、そもそもロードを始めたのが四ヶ月前らしいよ。憎たらしいだろう?」

 皮肉りつつ、九央さんが言う。わたしは心底驚いた。

「四ヶ月前にロード乗り初めて即レギュラーって……いやいや天才にも程があるでしょ!」

「しかし鳥海くん、君だってロード自体は中学の頃からやっていたんだろうが、一年生でインハイのレギュラーというのはたいしたものだよ」

「いやでもウチは元々の部員数がチーム定員ギリギリでしたから……」

 自転車競技部に入れば自動的にレギュラーだったのだ。厳密に言えば、地元開催だった千葉県大会や関東大会を経て、入部希望者というのもチラホラ出てきてはいるので、現在ウチの部員は多少増えていたりするんだけど、その中にロードの経験者はいなかったのでわたしはレギュラー残留を果たしているのである。

 ってそんなウチの事情より!

「四月から乗り始めて、何でいきなり2番ゼッケン貰えてるんですか!?」

「何でってわたしに言われても……」

「そりゃあその子が、天才という言葉すら超えた規格外、天衣椿に続く怪物だからだろう。天才(スペシャル)ならぬ規格外(アンノウン)。四月に初めて自転車に乗ったという癖に、その後は天竜クラシック三位、麦草ヒルクライム二位、善光寺クリテリウム五位、そして長野県大会と中部地方大会でそれぞれ優勝だ」

「…………」

 わたしはもう言葉を失っていた。

 わたし自身、心の何処かでほんの少し、自分自身の経歴に慢心を抱いている所があったんだと思う。謙遜すれど、やはり一年生レギュラーとして各大会に出場し、千葉県大会では四位に入ったという事実。

 未だに、自分のことを天才だとか、そんな風に認めることは出来ないし、そこまで自惚れたりすることは決して、それについてだけは誓って無いと言えるけど、それでも心の隅っこで、ちょっとした慢心はあったんだと思う。

 しかし鳳さんの経歴というのは、そんなわたしの慢心をぶち砕くのに充分すぎる威力を持っていた。オーバーキル過ぎるぐらいぶっちぎりに、とにかく天才なのだ。

 そりゃあそれだけの才能と実績を持っていれば即レギュラーだし、可愛らしい外見にそぐわない、強そうな二つ名も貰えるというものだろう。

 《神速のフェニックス》。

「《神速のファンタズマゴリア》に対して、そのアシストが《神速のフェニックス》か。出来過ぎた組み合わせ、だな。可哀想に。これじゃまるで、天衣椿という存在が前提にあった上での鳳小鳥じゃないか」

 嘆くような、九央さんの口調。だけど、それまで黙って話を聞くままだった鳳さんが、きっ、と視線を強めて反論する。

「別にわたしは……それでいいと思ってます。だってわたしは、椿さんのアシストですから……」

「そりゃあ今年はそれでいいんだろうけど、天衣椿は、来年はいないんだよ。わたしもいないけど。そんな大会で、君は一番(エース)を務めることになったとしても、椿の亡霊に取り憑かれたままで良いって言うのかな」

「……言います。エースになっても、一人になっても、何処で走ることになったって、わたしは椿さんのアシストだって、そう言い続けます。……だってそうすれば、きっとみんな、椿さんのことを忘れないから」

 アイウェアに覆われた鳳さんの目に、強い光が宿ったような気がした。

 わたしは鳳さんの言うことに、強い同意を感じていた。

 鳳さんは、自身がアシストであることに誇りを持っている。相手を心から信頼して、そして好きでないと、ここまでの絶対的な想いは絶対に抱けない。そう確信させるだけの強い気持ちが、鳳さんにはある。

 わたしも彼方さんのアシストだ。でも彼方さんの為に走れるのは、今年だけ。

 来年になったら彼方さんは卒業してしまうのだから、一緒には走れない。でもわたしは、彼方さんのアシストである自分に満足していて、もっと、ずっと、彼方さんの為に走れたら、って思ってる。

 だから鳳さんの気持ちがすっごいよく分かるのだ。

 わたしが鳳さんに同調していることを察したのか、九央さんはつまらなさそうに口調を変えた。

「どっちにしたって、天衣椿みたいな天才のことを、観客も簡単には忘れないだろうけどね。それならそれで満足だと、君は言うんだろう」

「……はい」

 控えめに、だけど明確に頷いた鳳さん。わたしは胸中で、こっそり感謝の意を唱えていた。

 ここにいるわたしが彼方さんのアシストであることを、心から誇っていいのだと言って貰えたような気がして、嬉しかった。


 山岳セクションに入って、坂道を登り始めて、暫くしてから。わたし達三人の逃げ集団の隣を、審判バイクが通過していく。オートバイは少し速度を落として、わたし達と併走するような感じになった。後ろの人が持っているボードに描かれた、後方メイン集団とのタイム差は……え?

「もう四分もあるの!?」

 疲労が溜まり、喉が渇いているということも忘れ、わたしは思わず声を荒げた。水分を失った喉に、僅かな痛みが走る。

 声を出したことで前の二人に置いて行かれそうになったので、わたしは軽く腰を上げてちょっとだけペースを上げた。登坂が続いてくると、こんな何気ないペースの変化でも疲れが増すように感じてしまう。

 それはそれとして、審判バイクが表示するメイン集団とのタイム差は、なんと四分二十九秒。

 そりゃ確かにこっちは逃げて間隔を開かせるつもりで走ってたんだから、タイム差が出るのも分かるんだけど……だからってこの短い時間でここまで一気に離れてしまうのはおかしい気がする。

 だって追走集団の中には、今日のゴールが欲しいエースクライマーの人とかだっているはずなのだ。そういう人が追っかけてきていれば、短時間でこんなに差が出るとは思えない。

 山岳は平坦と違って、集団の力を利用して一気にペースを上げるということはできないので、逃げと追走の距離があんまり開きすぎるようだと、そのまま逃げ切られてしまうことになる。メイン集団としては、そんな事態は避けようとするはずだけど。

集団(プロトン)とのタイム差が気になるかな、鳥海くん」

 先頭を走る九央さんが、こちらを振り向いてそう言った。

「そりゃあ……だって、四分半ですよ? このままだと、集団は追いついてこれないんじゃないですか?」

「異な事を言う。わたし達は逃げるために走っているんだろうに」

「そうじゃなくて、メイン集団の動きが遅い気がする、って、そう思うんです」

「うん? 同じことだろう?」

「いやだから、そうじゃなくって……ああ、えっと、何て言ったらいいのかなっ」

 言葉に困って、無意識の内に語気が荒れる。九央さんはわたしのそんな苛立ちが楽しいのか、くすくすと笑い、

「いや、ごめんねぇ、鳥海くん。君が何を言いたいのかはよく分かっているんだけどさ。ついついからかいたくなっちゃうんだよね。でも個人的には、どうでもいいことでしかないんだよ。だってわたしとしては、このまま永遠に後ろが追いついてこない方がありがたいんだから」

 永遠に、なんてことは流石にないだろうけど、九央さんの言いたいことが理解できないわたしではない。けどここにいる三人の内、エースとしての役割を背負ったままで走っているのは九央さんだけなのである。わたしとしては彼方さんに来て貰わなくてはいけないし、鳳さんとしては天衣椿さんに来て貰わなくてはいけないはずである。

 そしてそれを差し置いても、この状況には違和感がある。

「残り三十キロを切ってるっていうのに、後ろがこれだけ距離を詰められていないのはおかしいじゃないですか」

「そうだねぇ、おかしいねぇ。何でだろうね。後ろの集団(プロトン)には天衣椿や風咲彼方のような、山の得意なオールラウンダーや、嘉神芯紅や子隠筺のように全国トップクラスのクライマーだって大勢いるというのに。そういう連中が追ってきているのだから、いくらこっちが先手を打って逃げているからといって、ここまでタイム差が開いてしまうのはどうにも解せない。鳥海くんは、そう考えているよね」

「……は、はい。そうですけど」

 突然説明的になった九央さんの台詞に、わたしはそれまでの勢いを詰まらせる。というかこの人、本当にわたしの心の中が読めるのではないだろうか。それぐらい正確に、そして精確に分析されている気がする。凄い不気味だ。

「第一ステージの山岳ポイントは小銭程度の価値しか無かったが、今日の大門峠に設定されている山岳ポイントは一級――即ちお札みたいなものだ。クライマーなら喉から手が出るほど欲しいだろうし、総合狙いの各選手も、今日の山岳はライバルに差を付けるチャンスと言える」

「…………」

「そんな重要な局面であるはずだというのに、残りの距離を考えると、ヘタをすれば後ろの連中はこのタイム差を挽回できないかもしれない。その秘密は……まぁわたしは何となく察しが付いているんだけど、君もそろそろ教えて貰えるんじゃないかな」

 九央さんの発する言葉の意味が分からずわたしは頭の上に疑問符を浮かべた。そしてそれと殆ど同じようなタイミングで、タイム差のボードをしまった審判バイクが、わたし達三人に近付いてくる。オートバイの後部座席に座っているお姉さんが、説明をしてくれた。

 メイン集団は、中間スプリントの計測ラインを通過した後で、落車事故に巻き込まれたらしい。レース観戦のために道路に身体を乗りだしていた観客の人と、選手が接触してしまったのだという。

 幸い大きな怪我には繋がらず、それが理由でリタイアになってしまう選手などもいなかったようではあるけど、それでも全体の脚は一度、完全に止まってしまった。

「そんな……」

 わたしは呻いた。

 観客との接触事故。

 プロのレースなどでもよくあることだ。観戦に慣れたヨーロッパのレースでもそういうことが起きるというのだから、まだ観戦マナーやレースそのものが馴染みきっていない日本では、選手はより警戒しなくてはいけないことと言えるかもしれない。

 ポイント争いを終えた直後で、スプリンター達がメイン集団と合流しようとしていたタイミングなのだから、混乱はかなり大きかっただろう。それでなくても、集団の前寄りにはスプリンター系のチームが多く集まっていたし、落車で道が塞がってしまえば、後方のクライマー達は上がってくることが出来ない。

 そんな事故が起きたのが、大体、わたし達がこの山を登り始めて少し経ったぐらいのことだという。

「そんなタイミングで……」

 だから、これだけのタイム差が付いてしまっている、ってことなんだ。

 バイクに乗ったお姉さんの説明は続く。

 平坦で集団(プロトン)のペースコントロールをしていた幌見沢農業は今日の仕事を終えて、もうすっかり集団後方。その後は三重代表の尾鷲学園や高知代表の天王寺高校などが中心となって登りの集団再構成をしようとしたけど、上手く全体の士気が上がらず――結果、集団は完全に崩壊して、各校バラバラに追走してきている、という感じのようだ。

「ふぅん、やっぱりね。大体そんなところだろうとは思ったよ」

 九央さんが、ボトルに口を付けながらそう言った。審判のお姉さんが色々説明をしてくれている間も、わたし達――主にペースコントロールをしていたのは九央さんだったが――は登るペースを落としたりはしなかったので、疲労もそれなりだ。喉だって渇く。

「道が塞がるほどの大落車か。天衣もついていないな。いや嘉神や子隠も、か。まぁ珍しくもなんともないけどさ」

 そのぐらいロードレースじゃ常識の範囲内だ、と九央さんは鼻で笑う。

「九央さんは、こういうことになるって事前に予見していたんですか?」

「まさか。いくらわたしの眼が君達とは違う特別製だとは言っても、流石に未来までを見通すことができるわけじゃあない。だがしかし鳥海(きみだけ)ならともかく、《天魔の視線(このわたし)》や《神速のフェニックス》が山岳セクションで逃げているのに、集団による追走や、或いは個人で追撃に来るエースクラスのアタッカーがいないという事態から、落車かそれに類する規模の何かが起きたのであろうことはすぐさま想像が付いた」

 そこで九央さんはちらり、と鳳さんの方へと視線を向ける。

鳳小鳥(かのじょ)もわたしと同じようなことを考えていただろうね。だから今の説明を聞いても、驚いていないし、この後の対応を既に決定できている」

 九央さんに釣られるようにしてわたしも鳳さんの方を見た。アイウェアで覆われた瞳は、わたしの方から見通すことは出来なかったけど、その表情に迷いがないことはすぐ分かる。

 ……わたしはどうすれば良いんだろうか。

 焦燥から思考が上手く纏まらず、脳内に浮かび上がってくるものは、言葉にもならない思いばかりだった。

「鳥海くん。悲しいかな、これが君とわたし達の差だね。君のパラメータそのものは、君自身が評価しているよりずっと高い。まだ眠らせているポテンシャルまで含めれば、或いはいずれ、鳳小鳥のような規格外(アンノウン)にカテゴライズされる日だって来るかもしれない。だがそれでも経験値というのは、経験を積むことでしか得られないんだぜ」

 九央さんが、わたしの未熟さを揶揄するように言う。だけど、それは事実だろう。わたしのポテンシャルだとかそういった部分は取り敢えず置いておくとしても……これまで積み上げてきた経験値がある九央さんや鳳さんだからこそ、こういった不測の事態でもすぐさま対応が出来る。対してわたしは……焦るばかりで考えすら纏められない有様だ。

 いや――違う。それじゃあ駄目だ。考えなくちゃ。考えなくっちゃ駄目なんだ。

 ここには彼方さんも水晶さんもむつほちゃんもいない。

 チーム御弓の人間はわたししかいないんだから……だからわたしが考えて、ちゃんと走らないと。

 それぐらいできないと、わたしはもう、御弓の一員なんだって、胸を張って――わたしはそんなに、張れるぐらいに大っきな胸はないけど――言えない気がする。

 今のこの状況は、窮地なのだ。だからそれを乗り切れるぐらいにならないといけない。わたしは……彼方さんのアシストなのだから。

「ごちゃごちゃしていた思考が、徐々に纏まりつつある感じがするね。鳥海くん、君って、ロール・プレイング・ゲームはやったことあるかな?」

「? は、はぁ、一応ありますけど……」

「あれらに準えて言うなら今の君は、現時点での経験値やレベルはそこそこ程度だけど、終盤まで成長させると一気にパラメータが伸びるタイプのキャラクターだ」

「ええと……あ、ありがとうございま……す?」

 いきなり出された話題の中で唐突に褒められてしまい、わたしは戸惑いながらも一応お礼を言った。えと……褒められた、んだよね? なんか違う気もするんだけど。

 九央さんはそんなこちらの様子に満足したのか、続ける。

「鳳小鳥は、レベルやプレイ時間だけならこの中で一番低いが、各パラメータはゲーム開始時点から既にトップクラスで、伸びしろもまだあるという強キャラなタイプ」

 九央さんはなんと、鳳さんのことまでも褒める。これは結構意外だった。九央さんって、鳳さんのことあんまり好きじゃないんだろうなって思っていたから。

「そしてわたしは、レベルも経験値も君達以上で、全パラメータが高く、固有スキル習得済みのキャラクターだ」

 さりげに自分褒めも忘れない。

「いったい何が言いたいんだろうこの人は、って思ってそうだね、鳥海くん。簡単なことさ。要は、覆しようのない現実だよ。ゲームじゃない現実。今の例えで分からなかったのなら、別の言い方をしようか? 来年の君は恐るべき敵かもしれないが、今日の君なんてまだこれっぽっちも怖くない、ってことさ」

「だからそんなに余裕でいられる、ってことですか。経験値の低さを、能力の高さでカバーできる鳳さんはともかく……経験値も能力も全て低いわたしじゃあ、あなたの敵にならないから」

「その通りさ。ハナマルをあげよう」

 そう言って、九央さんは嗤った。レベルの足りない、取るに足りない、そんなわたしのことを嘲笑した。

 認めるしかない。この中でわたしが一番弱く、そして残り二人が圧倒的な格上の優勝候補であることを。

 《神速のフェニックス》鳳小鳥さん。

 《天魔の視線(インサイト・テラー)》九央静寂さん。

 そして九央さんが自身で言っていた通り、チームのエースである九央さんからしてみれば、後ろが追いついてこられないこの状況は願ってもない幸運だろう。そして厳密にはエースではないにせよ、実力的なことを考えれば鳳さんもこの状況をさほど不運とは感じていない。何故なら鳳さんはチャンピオンジャージを獲得する程の実力者でもあり、鷹島学院からしてみれば、別にこのまま鳳さんをエースにシフトしたって、チームとしては全然問題無いのだから。さっきの鳳さん自身の発言と矛盾するようでもあるが、結局の所鳳さんが勝てば、それは鷹島学院、延いては天衣椿さんの名誉に繋がる。

 大問題なのは、わたし達、御弓高校だけだ。

 この状況で、わたしだけがエース格ではない。このままいけば、彼方さんは九央さんと鳳さんというライバルに対して、かなり大きくタイムを失うことになってしまうのだ。

 明日以降、それを挽回できるかどうか?

 分からないけど、試しにやってみようと簡単に思えるほど、賭け金は安く済みそうにない。わたしの賭け金に、彼方さんや水晶さんの積み重ねてきたこの一年間が上乗せされるというのなら尚更だ。

 だとしたらわたしが取るべき選択肢は――

 わたしは腰のポケットに入っていた補給食の残りを一気に口に放り込んで、それをボトルの水で無理矢理流し込んだ。エネルギーは、自転車で走る上で何より必要になる。或いは、闘志とかそういったものよりも、ずっと。

「ふうん。戦う者の眼だねぇ、鳥海くん」

 わたしを見て、九央さんは言う。

「ハナマルと一緒に、今日のステージ優勝もあげようかと思ったんだが……最後尾(そこ)から動かず、あくまで御主人様を待とうというつもりか。見上げた忠誠心だ」

「そりゃあ、わたしは彼方さんのアシストですから」

 これからわたしのとるべき作戦は、非常に単純なものだ。このまま九央さんや鳳さんの後ろをピッタリとマークして、付き位置(ツキイチ)で走っていく。敵同士であっても風除けのために先頭交替をするのがロードレースの常識ではあるけど、後ろのエースを待つとき等は話が別だ。そしてこれをされた側はプレッシャーをかけられて、ペースが作りにくくなる。また単純に、風除けの人数が減ることで、体力の消費量が増す。速度を落とすには、こうして二人の後ろから出ないようにするのが一番だと、わたしはそう判断した。

「頑張った自分へのご褒美にステージ優勝が貰えるかもしれない、としてもかい?」

 悪魔が囁くかのように、九央さんは言う。

「君が今天秤の片方から降ろしたのは、『今日のステージ優勝の可能性』、あとは『一日限りのイエロージャージ』だ。どうしてもいらないというのなら無理には止めないが、結構美味しいものなんじゃないかと、わたしは思うがね」

「…………」

 確かに、インターハイのデビュー戦でステージ優勝を獲れば、わたしは一躍有名人になれるかもしれない。千葉県大会四位なんていうのとは、知名度が天地の差だ。タイム的に明日のリーダージャージも間違い無いし、そのまま最終日までタイム差のアドバンテージを維持できれば、総合優勝だって有り得るじゃないか――って、そんな都合良く行くはずがないことぐらい、わたしにだって分かっている。

 例え九央さんが言うとおりに今日のステージ優勝とリーダージャージを手にしたところで、そんな栄光は一時的なものに過ぎず、わたしでは実力的に、どうせ明日以降それを護りきれないのは目に見えているのだから。

「わたしは九央さんや鳳さんとは、ちょっと立場が違いますから」

 そう告げる。

 九央さんのようなエースとは違う。

 鳳さんはわたし同様アシストだけど、エースもこなせる実力者だ。

 けどわたしは、アシストしか出来ない。だから、彼方さんの為に走るしかないのだ。

「だからわたしは、ステージ優勝も、イエロージャージもいりません」

「無欲は美徳ではなく、ただの阿呆だよ、鳥海くん」

 つまらなそうに、九央さんは言い放ってきた。

「人が折角、良い夢見させてやろうって思ったのにね。まぁ、いらないと言うのであれば、取り下げちゃっても問題無いか」

「ええ、勿論。イエロージャージは、彼方さんにあげるものですから」

「それこそ阿呆の考えだ。これだけタイム差が付いていて、追いついてこれるものか?」

「そ、それは……でも、きっと……」

 わたしが返す言葉に詰まったところで、逃げ集団三人は残り二十キロのゲートを潜った。

 ゴールまであと二十キロ。タイム差は四分半。この状況を、今日一日だけで覆すのはほぼ不可能に近い。いやでも、彼方さんはタイムトライアルが得意だから、明後日にある個人タイムトライアルで――

「いえ、追いついてきています」

 わたしの思考を遮って、鳳さんがそう言った。控えめなボリュームで、だけど明確な意思を持って、続ける。

「たぶん集団全員というわけにはいかないでしょうけど……確実に、追いついてきます」

「……それは鳳くん、君個人の願望かな? 情報のソースを要求したいところだね」

「ええと……」

 鳳さんは戸惑いがちに――というかこの人は普段から臆病そうな感じがあるので、控え目な喋り方も相まって常に戸惑いがちに見えてしまう――、前の方を指差す。わたしに話し掛けることに夢中になっていたせいで、後ろの方ばかりを向いていた九央さんが、その特別製の眼を向けられていなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、わたし達逃げ集団の前を。

 鳳さんが指で示したのは、審判バイクの後部座席に座るお姉さんが掲げたタイムボードだった。昨日から何度もお世話になっているそのボードに表示された、後続集団とのタイム差は。

「……二分半まで減ってる」

 わたしは呆然と呟いた。正確には、二分三十九秒。さっき表示されていたタイム差は四分半だった。それがいつの間にか、一気に二分近くも詰められているのだ。

 わたし達のペースが落ちたのかとも思ったけど、違う。九央さんがコントロールするこのペースは、今のところそこまで速くなるわけでもなく、アタック成立後は殆ど一定を保っている。だとすれば……。

「後続の集団(プロトン)がペースアップしたってこと?」

「だと思う……、いえ、と言うよりは――」

 わたしの疑問に答えてくれようとした鳳さんは、そこで言葉を切った。確証のないことを発言することを控えたらしい。たぶんこの人の頭の中には、何が起こったのか、何となくの想像が付いているのだろうけど。

 実際に回答をくれたのは、またしてもバイクの後ろにいるお姉さんだった。

 崩壊したメイン集団の中から、登坂力に優れたエース級の選手達を纏め上げた人物がいたらしい。その人の呼びかけによって、追走のための精鋭集団が形成され、猛烈な速度で先頭、即ちわたし達三人に迫りつつあるのだという。

 追走は十五人。そこには各校のエースや、それに近しい力を備えたアシストの人達が揃っている。彼方さんもしっかり残れているらしい。

 そしてそれらを纏めたのは、鷹島学院の《神速のファンタズマゴリア》、天衣椿さんとのことだった。互いに優勝を競い合うライバル達だというのに、それを見事に纏め上げて危機を乗り切った。流石にその辺は、昨年総合優勝をした女王の貫禄、というかリーダーシップというところだろうか。

「凄い人なんだねぇ、天衣椿さんって」

「椿さん……流石です」

 天衣椿さんの機転に感心し、尊敬の念を送っていたわたしと鳳さんだったけど、それを快く思っていない人もいる。

「余計なことをしてくれたね、天衣も」

 というか、思いっきり苦々しい感想を口にしていた九央さんだった。

 鳳さんが、そんな九央さんに言う。

「椿さんが来ていると分かったからには、わたしもこれ以上はもう前を引きません」

「それは君が、あくまでも天衣椿のアシストだから、ってことかな」

「はい、そうです。わたしは椿さんのアシストです」

 他のことでは自信無さげに、不安そうに喋る鳳さんだったけど、そのことについてだけは、本当に強く断言する。

 九央さんは小さく舌打ちしてみせた。

「だがそうそう簡単に追いつけるものじゃない。後ろが追ってきていると分かった以上、わたしだってここからは本気で登らせて貰う」

「ええ。わたしも、九央静寂という選手の実力はそれなりに理解しているつもりです。椿さんはたぶん、わたし以上に、九央さんのことをよく知っているでしょうし」

 鳳さんはそう、一旦九央さんのことを称した後で、

「だから、黄色いネコは一匹だけ、九央さんに譲ってあげます。だけど、それ以外には何もあげません」

 強気な笑顔で、鳳さんはそう言った。

 『黄色いネコ』とは、毎日総合一位のイエロージャージと共に贈られる、文字通り黄色いネコの、ぬいぐるみのことだ。一年で五匹分しか生産されないので、結構な貴重品だったりする。ちなみにこれは余談だけど、御弓(ウチ)の部室には、足裏に去年の年号と日付が入れられたそのネコのぬいぐるみが三匹並べられている。彼方さんが去年のインターハイ、序盤の三日間までに獲得した物だ。

 鳳さんは、総合一位のリーダージャージを指して、黄色いネコと言ったのだろう。殆ど挑発と言っていいその発言に対して、九央さんはあからさまに顔をしかめ、語気を荒れさせた。

「天衣の飼い犬風情が、偉そうな口を叩く。一度わたしに勝ったからといって、あまり調子には乗らないことだね」

「ええ。地方大会でわたしが九央さんに勝てたのは、登りで四月朔日(つぼみ)さんと由良(ゆら)先輩がアシストしてくれたからっていうのが大きいんでしょう。でも……いえ、だからこそ、鷹島学院(わたしたち)のエースである椿さんが追いついてきてくれれば、もう九央さんには負けません」

「追いつかせないと、わたしはそう言ったよ、鳳くん」

「最後には鷹島が勝ちます。それに、今日の黄色いにゃんこだって、案外わたしが貰っちゃうかもしれませんよ?」

 鳳さんの発言に、わたしは後ろで舌を巻いた。だってそれはもう挑発どころか、完全な勝利宣言だ。天衣椿さんだったら、九央さんには絶対に負けないぞという、勝利宣言。そして同時に、自分自身はその天衣椿さんのアシストに過ぎないのだという宣誓のようでもある。

「やれるものなら、やってみるんだね」

 怒りを滲ませた舌打ちと共に、九央さんは一人、登るペースを上げた。今ので多少は冷静さを欠いたのかもしれないけど、流石は百戦錬磨の《天魔の視線(インサイト・テラー)》。ペダリング自体はスムーズで、そして何より、速い。

 わたしと鳳さんは、すぐさま九央さんの追撃態勢を整えた。幸いというか、九央さんはまだ、アタックと呼べるほどの急激な加速はしていないので、すぐに後ろを取れる。

 わたしは鳳さんに言った。

「鳳さん、ありがとうございます」

「……? な、何が?」

 いきなり敵――無論、わたしのことだ――にお礼を言われて、鳳さんは狼狽えたようだった。いや、元々、狼狽えたみたいにおどおどした感じのある人ではあるけど。

 それはそれとして、わたしはお礼が言いたかった。さっきも、今も、鳳さんの発言は、わたしの気持ちを晴らして、勇気づけてくれるものだったから。

「わたし、心の何処かで、ずっと悩んでたんです。自分が、自分みたいなのが、彼方さんのアシストで良いのかな、って。でも、鳳さんを見ていて、鳳さんの言葉を聞いていて、なんだかわたし自身を肯定して貰えたような気がして、嬉しかったんです」

 少しだけ、自信が持てた。《風のカナタ》の、彼方さんのアシストとしての。

「これからどうしよう、計算違いのことばっかりな今日のレースをどう走っていこうって、悩んでいたんですけど。わたしは彼方さんの為に走るって、そう決めました。いえ、決まっていはいたんですけど、改めて、それに気付くことが出来ました」

「風咲さんの為に、鳥海さんはどう走るの?」

「彼方さんだったらきっと、こう言うんじゃないかと思うんです。『合流する必要は無い、そのまま走れ。九央静寂のペースを落としてタイム差を極力抑え、可能であれば今日のステージ優勝はお前が獲ってこい』、って」

 途中、彼方さんの口調を真似て喋ってみる。と、鳳さんは微苦笑を漏らした。口元に手を添えて、お嬢様みたいに上品な笑いと共に、

「ごめん、鳥海さん。わたし風咲さんと直接会ったことないから、物真似されても似てるか分からないよ」

「あ、そ、そっか……! そうですよねっ」

 これは恥ずかしい。元ネタが分からない物真似を見せられることほど微妙な空気になることもないだろう。

 わたしは慌てて話題を逸らした。

「そ、そういえば鳳さん、さっきのあれ、かわいかったですね」

「? わたし、何かかわいいことって言ってた?」

「『黄色いにゃんこ』って」

「は、はうぅっ。わたし、そんなこと言っちゃってたの!?」

 あからさまに狼狽える鳳さん。……どうやらネコのことをにゃんこと言ったのは、素だったようだ。いや別に、恥ずかしがるようなことじゃないと思うけど。かわいかったけど。

「……全く。楽しそうで何よりだね」

 つまらなさそうに、前を走る九央さんはそう吐き捨てた。そして急激なペースアップで、今度こそアタックを仕掛けてくる!

 下を向いて、照れまくりながら頬を掻いていた鳳さんは、そこで一拍置いてから顔を上げる。その時には、既に競技者の顔になっていた。前年優勝校で2番のゼッケンを付けたエースアシスト、《神速のフェニックス》の顔に。

「鳥海さんの言葉に、わたしも少し勇気づけられた気がする。……わたし達、もしかしたら良いお友達になれるかもしれないね」

「はい、わたしもそう思います」

「でも、勝負は勝負だよ。わたしは椿さんの為にも、ここで手を抜くことなんて出来ないから」

「勿論。戦うなら、真正面から正々堂々。それが彼方さんの掲げる御弓スタイルですからね。わたしだって望むところですよっ」

 二人同時にサドルから腰を上げて、ダンシングで九央さんの追撃に入る。

 徐々にゴールが近付いていることが、なんとなく空気から伝わってくるような気がした。


 しかし。

 わたしは《天魔の視線(インサイト・テラー)》九央静寂さんの実力を、計り間違えていたことをすぐに悟った。どうしてだか勝手なイメージで、洞察力に優れたオールラウンダー、ぐらいに思い込んでいたのだけど。彼方さんがあれだけ警戒していた人が、まさかその程度であるはずがなかったのだ。

 九央さんは速かった。尋常でなく速かったのだ。

 純粋なクライマーと比較しても、決して引けを取らないんじゃないかってぐらいに強烈な速度で、ぐんぐんと峠道を駆け上がっていく。

 そして《神速のフェニックス》鳳小鳥さんも、かわいらしげな外見からは想像が付かない程の登坂速度を見せてくれた。小柄で、九央さんほどのパワーは無いからなのか、ペダルの回転数(ケイデンス)を上げることで、速度を維持するタイプらしい。

 わたしといえば、彼方さんの為に付き位置(ツキイチ)で走ることを選択したけど、どちらにしたところで二人の前になんて出られず、必死について行くのがやっとだった。わたしの登り方は鳳さんと同様、ギアを軽くしてその分ペダルを多く回すというオーソドックスなものだけど、基礎的な能力値に大きな差があるので、こうして速度にも差が出てくる。

 峠の山頂が近付くにつれて、観客の数は目に見えて増えていた。

 平地では路肩から応援してくれているだけだったけど、登りは相対的に速度が落ちる為、道路上に乗り出してきて、少しでも近くから声援を投げ掛けてきてくれる。

 自転車二台分ぐらいのスペースを残して、あとは観客が手を叩いて応援の声を発していた。『漕いで(ベンガ)、漕いで(ベンガ)!』、『行け(アレ)、行け(アレ)!』、口々に叫ぶお客さん達の声を聞いて自分が今、テレビで見ていたプロレースと同じ、いや、少なくとも同じような場所に来ていることを実感する。

 テレビのように、中継カメラが捉えた第三者視点でないので、迫力と熱気は桁違いだ。

 疲労で狭まった視界では、近付いてきたお客さん達を撥ね飛ばしてしまいそうな錯覚を覚える。ただどちらにせよわたしは、前を走る二人を追い掛けるだけだった。

 熱を帯びた身体を少しでも冷却したくて、フレームに挿してあるボトルに手を伸ばす。実際にはそんな理屈的なことを考えている余裕は無く、ただ単に喉が渇いて死んでしまいそうだったからだけど。

 手にしたボトルは空だった。そういえば先程、全て飲み干してしまっていたのだということを、何処か冷静になった頭が思い出す。わたしはボトルを小さく放って投げ捨てた。坂道を登るのであれば、荷物は一グラムでも軽い方が良い。

 他に何か捨てられるものはないか探してみたけど、流石に何も見つかりはしなかった。元々、大した荷物なんて持ってきていないのだから。

 だというのに何故、九央さんや鳳さんはああも速いのだろう。

 前を――正確に言うなら、そのやや斜め上に視線をやると、二人はわたしからかなり先を行ったところで激戦を繰り広げていた。二人の背中はいつの間にか、凄く小さくなっている。山頂ももう近い。山岳ラインの一位通過はあの二人のどちらになるのだろうかと、何処か離れた場所にある意識がそう考える。

 わたしは……もう間に合わない、というか、追いつけないだろう。完全に千切られてしまった。

 以降の戦いは、二人のものとなる。ゴールは峠を通過し、その先の坂道を下った先、白樺湖の湖畔にあるはずだ。

 離されたことを自覚すると、脚の疲労が倍増したような錯覚に襲われた。というか、誤魔化していた疲労感が、とうとう許容量を超えただけかもしれない。

 ……悔しい。

 わたしは彼方さんの為に戦わなければいけなかったのに。

 あの二人に追いつけなければ、何の意味もない。

 明日からのレースは、鷹島学院と昇仙高校の二校で争うことになってしまうかもしれない。それでは駄目なのだ。

 先行する二人に追いつきたかった。

 勝ちたいとまでは願わない。ただとにかく追いついて、あの二校だけを優位に立たせないよう、僅かでもプレッシャーを与えておきたかった。

 そうでなくては、わたし達は。わたしの気持ちは。彼方さんや水晶さんの頑張ってきたこの一年間は。

 ――脳のリソースが、無駄な思考にばかり割かれていたからだろう。自分が進み、時間が流れ、景色が変わっていることに気が付かなかった。

 つらかった坂道を終えて、いつの間にか下りに入っている。疲労に喘ぐわたしの意識は、峠を通過したことを認識し忘れたらしい。

 脚への負担が減ったことで、少しだけ元気づけられた気がした。

 そのまま、それでもやはり疲労感でぼんやりとした意識のまま走る。高原のリゾートホテルが建ち並び、大勢の観客が見守る中、最後の直線へと至る左曲がりのヘアピンコーナーに差し掛かった。

 転ばないよう気を付けて曲がり、体勢を立て直したところで――ずっと先にいたはずの、先頭二人の背中が見えた。

 ……何が起こったのか分からなかった。

 あれだけ離されていたのに、いつの間にか、結構な距離が詰められていたらしい。

 観客の人達の声が、聞き取りきれないまま大音量のノイズになって響き渡っている。

 とにかくこれ以上離されてはいけないと思って、わたしは必死の思いでペダルを回した。距離的に、九央さん達に追いつくことはもう難しい。あとはどれだけ、タイム差を縮めるかだ。

 遠く離れた先頭で、九央静寂さんがこちらに振り向いたような気がした。

 わたしの位置からそれが見えたとは思えないので、おそらくは錯覚だとは思うのだけど。幻の中の九央さんは、わたしのことを射貫くように見て、そして、罵るような声を上げていた。

 とにかくわたしはその九央さん達を目指して、ひたすら前に向かって走り続ける。ゴールはもうすぐそこだ。目を閉じたままでも、真っ直ぐ走るだけできっとたどり着けるだろう。

 疲労から、視界が白い光に霞んでいく。

 それでも構わず、わたしはその光の中に飛び込んだ。




第2ステージ スプリントポイント

着順   名前   学校名       ポイント

1   田鎖 鉄輪   幌見沢農業高校   55

2   亜叶 観廊   鶴崎女子高校    43

3   リタ・バレーラ 名古屋藤村高校   36

4   久瀬 水晶   御弓高校      21

5   荒河音 纏   黒森工業高校    16

6   夏峰 光希   白山毛欅高校    14

7   中星 凛子   柿嶋高校      13

8   竜伎 硝子   大海高校      13

9   笹中 幻詩   瀬戸口高校     12

10   右京 左織   四条大宮高校    7

11   釜井 鎌    坂井西高校     5

12   鬼島 匁    湯乃鷺高校     5

13   大國 うさぎ  皿石学院      3



第2ステージ 山岳ポイント

着順   名前    学校名      ポイント

1   九央 静寂   昇仙高校      15

2   鳳 小鳥    鷹島学院      12

3   鳥海 夕映   御弓高校      10

4   嘉神 芯紅   尾鷲学園      8

5   子隠 筺    天王寺高校     6

6   天衣 椿    鷹島学院      5

7   中星 凛子   柿嶋高校      1



二日目 総合成績

順位   名前    所属校       タイム

1   九央 静寂   昇仙高校     04:40:30

2   鳳 小鳥    鷹島学院     + 3

3   鳥海 夕映   御弓高校     + 21

4   嘉神 芯紅   尾鷲学園     + 44

5   子隠 筺    天王寺高校    + 46

6   天衣 椿    鷹島学院     + 47

7   風咲 彼方   御弓高校     + 59

8   源 杏     山波大附属高校  +1:01

9   四月朔日 りく 鷹島学院     +1:01

10  安槌 歌絵    郡馬高校    +1:09

11  木林 樹果    要第三高校   +1:16

12  新海 朱音    昇仙高校    +1:16

13  綺堂 硯     巌本高校    +1:18

14  山田屋 美貴   天王寺高校   +1:38

15  金銅 曜     天艸女子高校  +1:47


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