波乱のインターハイ
今年のインターハイは、八月三日から八日までの六日間を掛けて行われる。二日間走り、休養日を一日挟んで、その翌日が個人タイムトライアル、そしてまた二日間走る。
コースは長野県だった。何処が会場になるかは毎年違うとのことだったけど、今年長野が選ばれたのには明確な意味があるだろう、というのは彼方さんの弁だ。
「去年の優勝校が長野代表だったからな」
マイクロバスの車内で長野県の地図――大会オフィシャルのコースマップではなく、普通に売ってる道路地図だ――を眺めつつ、彼方さんがそう呟いた。
わたし達御弓高校チームは、レース開催の二日前、八月一日から長野に滞在することが決まっていた。関東大会で二位という好成績を残せたことを学校側がいたく評価してくれたようで、たっぷりと予算が確保できたと、岩井先生が教えてくれたのだ。出場選手であるわたし達四人と顧問の岩井先生以外にも、応援や雑務のお手伝いとして、近頃入部した他の部員達も同行してくれていた。
そう。ゴールデンウィークが終わったぐらいの頃から、話が御弓高校女子自転車部には、まだ少数ではあるけど新入部員が来ているのである。一年生が二人と、二年生が一人。去年も同じく関東準優勝だったのに何で今年は部員が増えたのか、と彼方さんはぼやいていたけど。
それはともかくとして、わたしはすぐ隣の席に座っている彼方さんに訊ねる。
「前年優勝校の地元が毎回選ばれるってわけじゃないんですか?」
「去年は青森が会場だったが、一昨年の優勝校は広島代表だったぞ。しかし去年の優勝者はあまりにも印象が強かったからな。大会連もそれで今年は敢えて長野を選択したのではないかと思う」
スター選手、ってことだろうか。
「……その去年の優勝選手って、今年も出てきてるんですか?」
「いるぞ。長野代表、鷹島学院の三年生、天衣椿。一昨年鮮烈な一年生デビューを飾り、今では《神速のファンタズマゴリア》と呼ばれている天才オールラウンダーだ」
「彼方さんでも勝てなかった、ってことなんですよね」
「別格だと思った。いや、違うな。規格外だと思ったんだ。一昨年が総合二位、去年が総合一位という、史上最悪の怪物だ。去年の第三ステージ、山岳セクションで勝負を挑んだが、どんな作戦もアタックも、最終的には力でねじ伏せられた」
そんなに凄い人なんだ……。わたしからしてみたら正直、関東大会に出てきてた亜叶さんや竜伎さん、伊能さんあたりで既に充分、びっくり人間な印象だったけど。それを上回るびっくり人間ってことだ。いったいどんなびっくり度合いになってしまうだろうか。
しかし眉根を寄せたわたしとは対照的に、彼方さんは落ち着いた様子で微笑した。
「だが今年は、わたしも上手く仕上がっているし、去年ほどの差は無いだろうと自負している。それに夕映や結橋が山岳でアシストとして活躍してくれるだろうから、チーム力で勝負を掛ける」
思わぬ所でプレッシャーを掛けられてしまい、わたしは言葉に詰まった。
今年のインターハイは、二日目が結構大変な山岳セクション、そして最終日は更に過酷な山岳セクションというコース設定である。総合優勝狙いのチーム御弓はその二日間と、あとは三日目の個人タイムトライアルでタイムを稼ぐ作戦だ。必然、山岳における彼方さんのアシストを如何に上手くこなすかという、非常に大切な役割がわたしやむつほちゃんに委ねられている。
「が、頑張ります」
たじろぎつつ、わたしは苦笑混じりにそう答えるしかなかった。
トイレ休憩の為に立ち寄ったサービスエリアでマイクロバスから降りたわたしは、凝り固まりそうになっていた身体を大きく伸ばす。途中、首都高で渋滞に捕まってしまって乗車時間はそれなりになっていたので、身体は思ったよりも疲れていたようだ。
出発は早朝だったけど、通勤ラッシュに捕まったせいもあるだろう。まだ埼玉県に入って少ししか来ていないというのに、もう既に出発から三時間近くが経過している。携帯電話を取りだして時間を見やると、午前十時と表示されていた。……うわ、これならひょっとすると、同じコースをロードバイクで走ってきた方が速かったかもしれない。
「……部長も人が悪いよなー」
同じく車を降りてきたむつほちゃんが、ぼそりと呟いた。車内ではずっとイヤホン装着で携帯ゲームをやっていたむつほちゃんは、同乗しているみんなとは殆ど喋らなかったので、ちゃんとした言葉を喋っているのはなんだか久し振りな気がする。
一緒におトイレの方まで歩きつつ、わたしは聞き返した。
「彼方さん、何かしたっけ?」
「《神速のファンタズマゴリア》の話だよ。聞いてなかったのか」
「天衣椿さん、だっけ。いや聞いてたけど……」
ていうかむしろ話し相手はわたしだったし、むつほちゃんが聞いていたって方がずっと意外だ。あのカナル型のイヤホンには集音機能までついていたんだろうか?
「オレはネットのネコネコ動画の中継で、去年のインターハイでの天衣椿の走りを見てるんだ。アレと戦うためのアシストをするってのは、結構プレッシャーだぜー」
嘆息混じりにそう言ったむつほちゃんの言葉に、わたしは思わず笑みを溢してしまった。
「……なんだよ鳥海。笑うよーなところあったか?」
「だって、むつほちゃんらしくないな、って思って」
「? オレらしさって、どんなだよ」
訊ねてきたむつほちゃんに、わたしは笑顔で言った。
「むつほちゃんなら、そんなプレッシャーに負けたりしないって。きっと、彼方さんもそう思ってるんじゃないかな」
わたしの知ってる結橋むつほという選手なら、だるいとか面倒とか帰りたいとかノーパンはセクハラだとか言いつつ、それでも絶対に自分の役割はキッチリ全うする。そこにどれだけのプレッシャーがあっても、どんな強敵がいても、きっとやるべきことをやってくれるはずだ。
彼方さんも、わたしと同じ思いに違いない。
わたしの言葉にすぐには何も言い返さず、むつほちゃんは一度、長めの嘆息をした。照れたときの癖なのか、顔にある傷痕を掻きつつ、言葉を選ぶようにしてゆっくりと言ってくる。
「……鳥海、お前も部長も、人をおだてるのが上手いよなー」
「そうかな? そんなことないと思うけど」
「いやいやなかなかだとわたしも思うけどなー。さっすが鳥海さん。レースに必要ないことはちゃんと出来るんだねっ」
不意に割り込んだ別の声を聞いて、わたしとむつほちゃんは同時に振り返った。いや、動作はむつほちゃんの方が、僅かに速かったかもしれない。わたしより僅かに速くて、そしてわたしより多分に、憎しみの込められた勢いで。
「やっ、御弓のお二人さん。奇遇だねっ」
軽い言葉と共に、顔の辺りで横ピースなどしつつ。
レースウェア姿の綺堂硯さんが、そこに立っていた。
「……何でこんなところに、お前がいる?」
「何でって、このパーキングエリアは一般道からも入ってきて利用が出来るようになっているからね。ごはんを食べて、ちょっとおトイレを借りてきたところなんだ」
「そーじゃねー。ちゃんと言われなきゃ質問の意味も捉えられないぐらいに馬鹿なのか? 明後日にはインハイが始まるってのに、どーしてそんな格好でこんな場所を走ってるのか、って聞いてるんだ」
「ああ、そういうこと」
そちらの疑問については本当に不思議に思わなかったかのように、感心した様子を見せてから、綺堂さんは続ける。
「わたし達、巌本高校女子自転車部も、ギリギリの六位通過でインターハイ出場ができたからね。こうしてウォーミングアップも兼ねて、自分のマシンで会場まで向かっているというわけさ」
当然のことみたいに言う。
「向かっているって……だって明後日にはレースがあるのにっ!?」
「そうは言っても、スタート地点の軽井沢まで、わたしの地元からなら百五十キロちょっとってところだよ。今日中になら楽勝で到着できるし、明日一日温泉にでも浸かってゆっくり休めば、それで何か問題があるのかな?」
「いや、問題って言うか……」
返す言葉も見つからず、それでも相手の言葉に同意することだけは出来なくて、わたしは言葉を探そうと藻掻いた。だけど、何を言えばいいのかよく分からないままで、わたしが口を開くより先にむつほちゃんの声が割り込む。
「無ぇよ。無ぇから、とっとと行け。オレはできればお前の顔なんて見てたくねーんだ」
「つれないなー結橋さん。何だったらこれから一緒に連れ添って、もう一回おトイレに行くぐらいの仲の良さは期待できるかなと思っていたんだけどね」
「気持ち悪くなること言ーなよ。オレがお前と一緒に行く場所があるとしたら、せーぜー地獄ぐらいだろ」
苛立ちを隠そうともせず、むしろ何倍にも膨れ上がらせながら、むつほちゃんは綺堂さんを睨み付けた。
「うわぁ怖ーい。地獄だなんて、これは脅迫だー。わたし結橋さんに殺されちゃうんじゃないかなー」
もう見慣れてきた、他人を小馬鹿にした態度で軽く両手を挙げつつ、綺堂さんは言う。
「すっごく怖かったから、身を守るためにも、ツィッターに今のこと書いとこうかな。御弓高校の人達が、わたしを地獄へいざなう。とか書いちゃったりしてねー」
そんな冗談で一人くすくす笑いつつ、綺堂さんはわたし達に背を向けて歩き始めた。パーキングエリアの外れに自転車が停めてあるようなので、そちらへ向かうのだろう。
「まぁ、わたしは君達みたいにお気楽なのと違って、地獄なんかもう行き飽きちゃってるんだけどねー」
……地獄云々は取り敢えず置いておくとしても、彼女の言葉が本当だったとしたら、これからあと百二十キロぐらいの距離を走ることになる。二日後には、インターハイのレースを控えているはずの彼女が。
離れていく背中に、わたしは思わず声を掛けていた。
「綺堂さん……なんでそんな風に、印象が悪くなるようなことばっかり言うの?」
返答を期待していたわけではなかったんだけど、聞こえていたらしい。
立ち止まった綺堂さんは首だけこちらに振り向かせて、
「何が?」
「だって、いちいち挑発的な発言とかするからさ」
「でもわたし、もともとこういう性格だしねぇ」
「……鳥海、付き合うだけ時間の無駄だ。相手するんじゃねー」
これはむつほちゃんの言葉。だけどわたしはどうしても、綺堂さんの態度が引っ掛かっていた。
同じ道で走って競い合う関係だ。べったり仲良く、とまではいかなくても、互いに認め合えるぐらいでいられたらそれが一番だと思うのだけど。
だけど綺堂さんの返してきた言葉は、わたしの期待をあっさりと裏切る。
「優しいんだね、鳥海さんは」
「……わたしが優しい?」
「うん。優しいよ。優しくて、暖かくて、そして、死ねばいいと思う」
「……何で?」
話しづらかったのか、綺堂さんは改めて、身体ごとこちらに向き直った。
明るい笑顔を崩さず、朗らかな口調で続ける。
「君がいい人だからだよ。虫酸が走るぐらいの、とてもいい人だからだ」
「一緒に走る相手と、少しぐらい仲良くできたらって歩み寄るのはいけないこと?」
「仲良くできると本当に思ったの? この、わたしと」
「どうだろうね。正直、今ではもうちょっと自信無いけど」
「世界中のみんなと友達になれると信じてる系の人かな? 鳥海さんは。だからわたしとも仲良くできると思ったのかな。わたしがこういう言い方をするのにも、何か事情があると思った? 人に対してつらく当たるようになるに足りる、何かしらの事情があると思った? 病気の母親のに元気な姿を見せてやりたいとか、貧しい妹や弟を養っていけるよう将来はプロレースに出て賞金を得ようとしているとか、好きな男の子に振り向いて欲しくて懸命に走っているとか。――再起不能になった旧友の為に勝利を誓っているとか(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)」
「綺堂、てめぇッ!」
たまらずむつほちゃんが声を荒げる。だけど綺堂さんは涼しい顔だった。
涼しくて、冷たくて、暖かさなんてちっとも感じられそうにない顔だった。
「浅いねぇ、鳥海さん。未曾有の大干魃でも起きたんじゃないかってぐらいに、水なんかもう残ってないじゃんってぐらい浅い発想だ。そんなの漫画やケータイ小説の中だけだよ」
「……じゃあ綺堂さんは、何でそんな風に人を不愉快にさせながら、それでもロードで走ってるの?」
わたしの質問に綺堂さんは即答した。
「そんなの楽しいからに決まってるじゃん」
それは、関東大会の日、初めて綺堂さんと会った……いや、遭った時にも聞いた台詞だ。
ロードレースは、楽しい。
それ自体は、否定するつもりなんて全くない言葉ではあるけど。
綺堂さんの言葉には、どうしても受け入れがたい何かがある。
それが何であるのか、わたしにはどうしても表現できなかったけど。
「それじゃあ、御弓のお二人さん。またレース会場で会おうね。《風のカナタ》にも伝えておいてよ」
薄い笑みを貼り付けた、綺堂さんの唇が動く。
「大先輩の走りを見て、色々と勉強させて貰います、ってね」
その言葉を最後に、綺堂さんはそのまま立ち去っていった。
休憩が終わってバスに戻ってから、むつほちゃんは一切口を開かなかった。
それまでも携帯ゲームをしていて、殆ど会話には参加しなかったけど、あのパーキングでの綺堂さんとのやり取り以来、相槌や返事どころか、完全に一人の世界に閉じこもっている感じだ。それだけ、綺堂さんの態度に苛立っているということだろうか。
言葉が交わせないのであれば、心で察するしかない。でもわたしはそんなことが出来るほど、むつほちゃんとわかり合っているわけではないのだ。そのことが少しだけ悲しかった。
彼方さんも、むつほちゃんの様子から、何かあったことはすぐに察したらしい。小さい声で、
「ひょっとして綺堂硯のことか?」
と聞かれたので、わたしは頷いて返した。彼方さんが、困った顔で嘆息を漏らす。
「心配事が一つ増えたな。だが、まぁ、予想通りとも言える」
「むつほちゃん、大丈夫かな……」
「大丈夫であって貰わねば困るな。どちらにせよレースまであと二日あるのだから、メンタルも落ち着くだろう。ところで、夕映」
「はい?」
「お前は綺堂硯という人間を見て、どう感じた?」
彼方さんからの唐突な質問に、わたしは言葉を詰まらせた。
「どうって言われても……」
「直感的な感想で構わん。お前の意見が聞きたい」
「上手く言えませんけど……黒、かな。黒くて、邪悪な感じ、がします」
他人をこんな風に言うのは決して褒められたことではないんだろうけど、これはわたしの正直な感想だった。自分以外を嘲って、蔑んで、それを当たり前みたいに振る舞っている綺堂さんの人間性というのは、こうして陰口じみた話をするよりずっと、邪悪めいている。
「夕映にしては珍しい評価だが、まぁわたしも大体似たようなものだ。すまんな、助かったよ」
「……今の質問に、何か意味があるんですか?」
「夕映がわたしと近いことを感じていてくれたことに意味があるんだ。まぁ、その内分かるよ」
彼方さんは、そんな、分からないことを言った。
「たぶん、本来は分からないままの方が、良いんだろうけどな」
今年のスタート地点となる軽井沢に着いてまずわたし達が最初にしたのは、昼食と、そして簡単なミーティングだった。
街の中心部からはかなり外れたホテルの一室に集まって、それぞれが地図を手にしている。わたしは最初、むつほちゃんはこのミーティングを辞退するんじゃないかと心配したのだけど、それは杞憂で終わってくれたらしい。
後半のバスや昼食時までも完全に無言を貫いていたけど、流石に明後日からのコースレイアウトやチームオーダーを確認するというのは、わたし達全員にとって大事なことだと判断してくれたみたいだ。
「第一ステージ付近の試走にも行きたいところだが、まずは全体の流れを確認しておこうと思ったんだ」
そう、彼方さんが前置きする。ある程度の流れについては千葉にいる段階で組んであったのだけど、ロードレースというのは全天候型、且つ全体調型、とでも言うべきスポーツである。どんな天候でも――例え豪雨でも暴風でも――中止にならないし、身体の調子が影響しても言い訳にならない。
だからこそ作戦の細かな部分は、出来るだけ当日近くに考えるべき、というのが彼方さんの持論だった。
「御弓は今年、夕映と結橋の加入でかなり山岳寄りの布陣になった。その二人も良い感じに仕上がってきているし、タイムトライアルでガッツリとタイムを稼ぎ、山岳で他の強豪校に食らい付いていく作戦が獲れる」
今年のインターハイは、『ツール・ド・長野』とでも言うべき、長野県内を走るレイアウトである。海無し県とも言われる内陸部の長野では、渓谷や盆地等での平坦区間も確かにあるけど、それ以上に強烈な山岳区間がその存在感を主張している。これを征さなくては勝利できない。
そういう意味では、今年はわたし達御弓高校にとって追い風である。
彼方さんをエースに、わたしとむつほちゃんを山岳アシストに、そして久瀬先輩は平坦区間を引っ張るアシストに。綺麗なスクエアだ。
ただ一つ、引っ掛かる点があった。
これまで練習してきてわたしの見た限りでは、彼方さんって、あまり山岳コースのトレーニングをしていなかったように思えるのだ。山が勝負の大半を占める、と言っても過言ではないこのレースで、その山の対策は出来ているんだろうか?
私たちが暮らす千葉県は標高の高い山が無い為、平日の練習というのは大体が平坦コースや小さな上り下りを使っての体力作りとなる。そして週末は、インハイ対策で県外へ赴いて山岳訓練をしたりするのだが……そのメニューを主にこなしていたのはわたしとむつほちゃんで、彼方さんと水晶さんは別メニューをすることがあった。
参加の比率としては、半々、くらいだろうか。
スプリンターで平坦専門な水晶さんが山岳メニューに参加しないのは分かるんだけど、彼方さんはそれで大丈夫だったんだろうか……? あんまり期待されても、大して役に立たないかもしれないですよ、わたし?
わたしの物思いを遮るように。彼方さんは、机の上に置いてあった一枚の紙を手に取った。コピー用紙のようだけど、ちらりと見えたその紙には、何かの表が載っている。
「岩井先生が、出場校のデータ一覧を作って持ってきてくれた。……大体どこも、インハイ常連校が順当に出揃ってきている感じだな。山岳に強い学校も多い」
岩井先生は別に顧問というだけであって監督ではなく、ロードレースのことはあまり詳しくないのだけど、こういう面ではいつもきっちりとわたし達をサポートしてくれる。敵の情報が多いのは、嬉しい限りだった。いくらあっても損にならない。まぁわたしはあんまり頭が良くないから、いっぺんに覚えるのは難しいかもしれないけどね。
「バスの中でもちらりと話したが、やはり一番怖いのは、昨年優勝の長野代表、鷹島学院。《神速のファンタズマゴリア》天衣椿が、三年連続のエースナンバーだ」
わたしはその言葉を聞いて改めて、まだ顔も見ていない天衣椿という選手の凄さを実感した。チーム一丸となってエースを支えるロードレースという競技に於いて、エースを務めるというのは取りも直さずその人物がチーム最強であるということだ。一年生の頃から既にチームの誰よりも強いというのは、相当なセンスでないと実現できない。
……ふと思う。わたしはもう一人、一年生の時点でエースナンバーを付けている選手を知っていた。真っ黒な雰囲気を漂わせた、邪悪な子。
「……天衣椿ってーのは」
回想は、唐突に挟まれたむつほちゃんの声で途切れた。たった数時間のことなのだけど、何故かむつほちゃんの声は何処か別人のもののようにも聞こえてしまう。
「具体的にはいったいどんな選手なんですかね?」
どことなく遠くから聞こえてくるような錯覚に陥るむつほちゃんの言葉に、彼方さんはすぐさま答える。
「わたしが知る限りは最強の女だよ。今の時点で既に、ナショナルチームからの勧誘が来ているぐらいに、な」
彼方さんは苦笑して、お手上げと言わんばかりに両手を軽く挙げた。
「全能力が均等に最大値という怪物さ。こう言えば、分かり易いか?」
「……ええ。よーく分かりましたよ。厄介な化け物だってことがね」
嘆息したむつほちゃんの横で、わたしはとっても小さく、そして控え目に右手を挙げる。
「すいません彼方さん……あんまり具体的には伝わらなかったです」
「……なんだよ鳥海。お前、今のがどんだけ凄いことなのか分からなかったのか?」
「だ、だって仕方ないじゃんっ! あんまり実感とか湧かないって!」
呆れたように言ってくるむつほちゃんに、わたしは言い返した。関東大会から早くも一ヶ月半。彼方さん指導の下、これまでの人生で経験したことの無いようなきっつい特訓を繰り返してきたお陰で、一応それなりに自身と実力が身についた……つもりではあるのだけど、ぶっちゃけ座学に関してはあまり向上していない。いやだから馬鹿なんだってわたし。
「よし、結橋、お前が説明してやれ」
「うわ、面倒くせー」
「面倒とか言わないでよ、むつほちゃんっ」
わたしがお願いすると、むつほちゃんは嘆息と咳払いを一度ずつしてから、
「……ロード選手の身体能力ってのは、幾つかのカテゴリに分けることが出来る。まぁ大きく分類すると、平坦、登坂、加速、体力と、まぁそんなところか。細分化するとキリがねーから、今回はコレで説明するけどよ。その四項目から構成される菱形のレーダーグラフを想像してみろ」
「レーダーグラフって……あの、点と点を線で結んで作るグラフだよね?」
「あー、そうだ。各項目のパラメーターは、そーだな、最大値を百ってことにしよーか。一回も自転車に乗ったことがねード素人は全部の数値が一だ。そしてどの選手もトレーニングの内容に応じて、どれかしらの項目の数値がちょっとずつ上昇していく」
「ふんふん」
「これに理論的なトレーニングが加わえることで、大抵の選手ってのは各人目標を持って、自分の望む数値にパラメーターを振っていくわけだ。スプリンターになりてー奴は平坦のステに数値を全振りするし、オレみてーにクライマー希望の奴は登坂の能力を中心に上げていく」
以前も思ったことだけど、むつほちゃんの説明はどこかテレビゲームちっくで、実に分かり易いと思う。……ひょっとしてむつほちゃんてゲーマーなんだろうか。そういえば行きのバスでもずっと携帯ゲームやってたし。
「おい鳥海、聞いてるか?」
「え、き、聞いてるよっ! つまり、平坦と体力の二つを上げるとタイムトライアルスペシャリストが出来上がる、ってことでしょ?」
「あー、そうだ。但し誰もが分かってるとーり、現実ってのはゲームとは違うからな。理論的なトレーニングをしたとしても、思ったような形に鍛えられるとは限らねー。それに各ステータスの上限値ってのが、個人毎に決められちまってる」
「上限値……」
「ま、平たく言えば才能の限界、ってことだな。オレじゃどんなに努力したって、部長みてーな長距離独走の体力は手に入らねーし、久瀬さんみてーになろーとしたって、それよりずっと前の段階で、平坦のステ値がカウンターストップしちまう」
「まぁ、そりゃあそういうもんだよね」
その原則が覆ると、天才なんていないことになっちゃうし、それどころか全人類が超人になれてしまう。
勿論努力や作戦といったものが勝敗を変えることはあるかもしれないけど。才能による身体能力の差が覆るわけではない。
「理想としちゃーどんなパラメーターだって最高値まで上げられるよーになりてーところだがそーはいかねーから、現実ってのは大抵その一歩手前で完成を見るわけだ。つまり、自身の限界を見極めた上で長所を伸ばし、短所をカバーする育成、ってことだな。一線級のエース達ってのは、大抵がこういう理論だから、グラフを作るとしたら結構偏ったものが出来上がるパターンってのが多い」
そう言って、むつほちゃんは彼方さんの方を見た。発言権を譲られた彼方さんは一度頷いてから、
「わたしは元々TTに向いた脚質だったから、ロードを始めた当初はそちらの能力だけをひたすら伸ばしてきた。去年の春、先輩から貰ったアドバイスを切っ掛けに総合優勝を目指そうと思い、後付けで登坂能力にもパラメーターを振り分けるようになった、という感じだ」
「んで、そーやってみんなが自分の限界に苦しみながら各々のスタイルを模索しているわけだが、天衣椿っつー化け物は、その全ステータスが最大値の百なんだと。……おっかねーだろ?」
「……うん、凄いね、その人」
ごくり、と、生唾を呑み込むわたし。そこに彼方さんの言葉が届いた。
「例えば全ての能力値が均等に五十の選手がいたとしたら、それは優秀なアシストになるし、そういった選手を作るのはさほど難しいことではない。実際多くいる。だが、全ての能力値を均等に百まで持っていくというのは、常識では計り知れない怪物だよ。天才すら超えた規格外。それが鷹島学院の天衣椿だ」
困ったように、彼方さんは息をつく。
「天衣椿は今年、わたしと同じようにインターハイに照準を絞ってきているようだから、アマチュアレースでも殆ど記録を残していないし、地方大会も別のエースを立てていたようだ」
「別のエースってことは……他にも速い人がいるんですか?」
これはわたしの投げた質問だ。彼方さんはすぐに答えてくれた。
「鷹島の二年生、鳳小鳥。レギュラーは今年からだが、力のある選手らしいな。長野県大会と中部地方大会でしっかりと優勝を攫っている。こいつのマークが、夕映か結橋、どちらかの仕事になるかもしれん」
そうして短い間を取ってから、彼方さんは言葉を続けた。
「鷹島に敗れ中部大会で二位になった、山梨代表、昇仙高校。昨年のインターハイで総合三位だった《天魔の視線》九央静寂は今年も出場だ。そして激戦区の九州大会を征した熊本代表の天草第一女子高校二年生、《異質なる世界樹》金銅曜。あとは昨年のインターハイ四位の三重代表、尾鷲学園《密林のレッドマフラー》嘉神芯紅。高知代表、天王寺高校三年、《ロマンシング幼女》子隠筺。福島代表の郡馬高校は、昨年総合二位だったエースが卒業で引退しているが、《歌う不屈》安槌歌絵がしっかり後を継いでいる。……とりあえず、総合優勝の有力な候補はこんなところか」
「……亜叶さんは優勝候補に入らないんですか?」
今年の関東大会優勝校、埼玉代表鶴崎女子の《距離無制限》亜叶観廊さん。あの超長距離スプリント能力は非常に脅威だと思うのだけど。
「亜叶観廊は確かに強いが、インターハイは特に山がきついからな。スプリンターの彼女では、平坦ステージとタイムトライアルでいくら頑張ったところで山岳セクションのタイム差を縮めることは難しいだろう。わたしが今名前を挙げた連中は全員クライマーや、或いはクライマー並の登坂力を持ったオールラウンダーばかりだ」
畢竟、総合優勝の争いに絡んでくることはない、と彼方さんは言葉を締めくくる。
確かにインターハイのように、ステージレースと呼ばれる複数日で構成されるレースというのは、各日のタイムが個人毎に持ち越されるルールである。各チームはエースの実力や脚質によって、総合タイムでの勝利を目指すか、或いは日毎の区間優勝やポイント等の各賞を目指すか、それぞれ目的を設定している。
山で大きく遅れることを見越して、亜叶さんは平坦ステージやタイムトライアルだけに狙いを絞り込んでいるというのはもっともな話だ。
そしてわたし達は、平坦ステージでは極力消耗を避ける走りをするよう心掛ける。山では実力差がそのままタイム差に直結するが、平地では集団の力を利用すれば大きなタイム差が出ることは無い。
「……まだいるぜー、部長。優勝争いに絡んできそーな学校が」
むつほちゃんの声は少し小さかったけど、しっかりとした力があった。
わたしはむつほちゃんの言葉に、同意の首肯をする。そうだ、確かにもう一校、優勝争いに絡むチームがあるじゃないか。
そう。それはわたし達、千葉代表の御弓高こ――
「巌本高校の、綺堂硯がよー」
わたし達のことじゃなかったーっ!
……良かった、慌てて声を揃えようとしなくて。危うく、格好良いこと言おうとした挙げ句に、とんでもなく恥ずかしい思いをするところだった。
「部長が何て言うかは分からねーが、オレは絶対、連中を、ってゆーか綺堂を甘く見たりはしねー。最大限の警戒をするし、何か仕掛けてくるよーなら全力で潰す」
「……綺堂硯が危険だという意見には全面的に賛成だ。だからこそ実は先週、わたしは水晶と二人で巌本高校に行ってきた」
「? それって、偵察ですか?」
わたしが聞くと、彼方さんは頷いた。
「巌本の選手は、綺堂硯を除いて全員が三年生だった。それで何故、綺堂のような一年生をエースにして、様々な横暴に目を瞑っているのか、どうしても聞きたくてな」
彼方さんの言葉で、わたしは関東大会のことを思い出す。大会規定に則っているからという理由で、ママチャリに乗って現れた綺堂さん。その後、おそらくは山岳セクションの途中かその後ぐらいで、チームメイトの人からロードバイクを借りて、ゴール前勝負に参加しに来た。……チームメイト一人を、無駄な犠牲にして。
いくら強力なエースとは言え、そんな謎のパフォーマンスの為に、大切なレースを台無しにされたら、誰だって怒るんじゃないかとは思う。聞いた話では、巌本高校はこれまで、インターハイへの参加歴が無い、平たく言えば無名の弱小校である。そんなチームが、いよいよインハイへの切符を手に出来るかもしれない、という時に、あんなお遊びみたいなことをどうして許すのか。
わたしは彼方さんの言葉を待った。見やると、彼方さんにしては珍しく、言い淀んでいるような、そんな躊躇いがあるように思える。それはわたしの勘違いかもしれないけど。
少しの間を空けてから、彼方さんは再び口を開いた。
「チームの中で綺堂が一番速いから、従っている、と言っていた」
「……何ですかそれ」
「言葉の通りだろう。連中は確かに綺堂硯を快く思っていないかもしれないが、少なくとも、綺堂の力を信頼している」
「でも、そんなの、楽しいレースとは言えないんじゃないですか?」
別にその発言を彼方さんがしたわけではないことぐらい分かっていたのだけど、わたしは語気が荒くなっていくのを止められずに捲し立てる。
「あんな真似、本当にロードレースが好きなんだったら、絶対におかしいですよっ! 他のみんなが真剣にやっているっていうのに、他人を驚かす為だけにそれを馬鹿にするだなんて!」
「……わたしに言われても困るな、夕映」
彼方さんは苦笑しつつ、わたしにそう言った。
「あ、えと、その……すいません。つい……」
「巌本の人は、他にも気になることを言っていたわ」
身を乗り出してまで言ったことが、場違いで人違いだということを自覚してわたしが謝罪した直後、静かに言葉を挟んできたのは久瀬先輩だった。場の視線がそちらへ集まる。久瀬先輩は注目されていることを全く気にしない、いつもの無感情そうなままの様子で、
「関東大会の直前、ミーティングで綺堂硯は宣言していたらしい。関東では五位を狙う、と」
「それって……」
あの関東大会での順位を、事前に予告していた?
初めから実力が足りないことを自覚して、足切り寸前の五位を狙ったのか。
或いは何らかの事情で、実力を隠して五位に収まろうとしたのか。
答えは、考えるまでもなくすぐ分かる気がした。あんな派手なパフォーマンスをした綺堂さんだ。実力が五位ギリギリだと判断していれば、あんな馬鹿な真似はしないだろう。
「何でそんな真似をしたのか、聞けたんですかねー?」
むつほちゃんの問いに、彼方さんと久瀬先輩は揃って首を横に振る。
「それ以上は流石に企業秘密、といったところだろうな。そこまで教えてくれたのも、綺堂硯に少なからず不満があるからなんだろうが」
行き詰まった会話の中で、わたしは先程会った綺堂さんのことを思い出した。今頃まだ、この軽井沢へ向かって自転車に乗って走っているだろう。
その実力に、まだまだ先があるのだとしたら――
インターハイ。
超人達の集まる、高校ロードレース界の頂点。
それはやはり、一筋縄ではいかないものらしい。