激闘の関東大会
今年の関東大会の会場に選ばれたのは、わたし達の地元でもある千葉県だった。
東京、神奈川、千葉、埼玉、栃木、茨城、群馬の、一都六県から選抜された各校が競い合うのが関東大会だ。
各県大会を勝ち抜いてきた合計二十八校、百十二人の選手が集まり競い合うワンデーレース。この中から、今日の上位五校がインターハイへの切符を手にすることになる、というわけ。
「どんなスポーツにも言えることだが、要はふるい、ということだな」
開会式を前にして、チーム統一のレースウェアに着替え終わった彼方さんが呟いた。
いつも思うことだけど、レースウェア姿の彼方さんは、何というかオーラが漂うように感じる。幾つものレースを勝ち抜いてきた、全国区の選手が持つ女王の品格。辺りを見回せば、確かに強そうな選手は他にもいて、実際その中には成績上であれば彼方さんと同格の人というのもいないわけではないのだろうけど、それでも風咲彼方が持つ凄味は、この人だけのものだ。
他の人には無い何か。それは風に靡く長い黒髪とか、そういうものではなく、目には見えないけど感じられる、確かな何かだろう。
……それはそれとして、台詞の意味についてわたしが聞くと、腕組みしている彼方さんは少しだけ苦笑してから答えてくれた。
「御弓高校は県大会というふるいに掛けられ、二十一校の中の四校として残った。これから関東二十八校の中でふるいに掛けられ、どうにか五校の中の一つに残ろうとしている。そして残ったら残ったで今度は全国というふるいが待っている」
「そのシステムに、不満とかがあるんですか?」
「いや、無いよ。だがふと思うときがある。例えばだが……そうだな、東京代表に選ばれたのは四校だが、今年の都大会に出場したチームは全部で二十五校だったと聞く。仮に都大会五位のチームと戦うとして、わたし達は勝てるのだろうか?」
わたしは答えに詰まる。
そんなことに意味は無い……と思う自分と、彼方さんの言い分も分からなくはない、と思う自分がいた。
「無論こんなものは、非効率的な感傷だと理解はしているがな。まさか全国の高校全ての対戦組み合わせを考えて総当たり戦なんてできるはずもない。それじゃ大会が終わる前に誰もが卒業してしまう。だが、ふと思うときがあるのだ。例えばわたし達が今日勝てなかったとして、それでも全国一位のチームに確実に劣ると、そう素直に認められるのだろうか、とな」
「でも、何だってそういうものじゃないですか? 一位だから、他の何より絶対的に優れている、ってことじゃないと思います」
「うん、それはそうだ。実際、毎回毎回実力差で勝負が付くわけでもないということも、理解はしている。機材トラブル、天候、地形、その他にも色々、勝負を左右する要素というのはある。それらも含めて、運も実力の内、と言うしな。……いかん、頭が混乱してきた。まったく、大して頭が良いわけでもないのに、性に合わんことをするものではないな」
彼方さんは苦笑と共にそう言って、おどけてみせる。それで会話を打ち切ろう、ということなのだろう。察してわたしも、それ以上その話題を続けようとはしなかった。
……でも、彼方さんが本当に言いたいことが何であるのか、分かる気がした。
それはこの一ヶ月、練習で彼方さんのアシストをずっと務めてきたことで、お互いを理解する力が高まっているからとか、そういうことではなく。
わたし自身も、似たようなことを考えたことがあるからだと思う。
つまり――
(何かのトラブルで負けちゃったとしたら、きっと、やりきれないですよね)
勝つならば正々堂々しっかりと勝ち。
負けるならば正真正銘完膚無きまでに大敗したい。
どういう結果になるにせよ、偶然に左右されず、運を味方に付けないで、実力を出し切り、勝つか負けるかしたいのだと思う。
勝負ってきっと、そういうものだ。
わたしより長く、積み上げてきたものがあるからこそ、彼方さんの思いはたぶん、わたしよりもずっと強い。
六位以下なら全国へ行けないというこの関東大会で、悔やむことをしたくないんだ。
「……勝ちましょうね、彼方さん」
わたしは、そう言った。
「当然だ。わたし達は、勝つためにここに来たんだからな」
彼方さんが、わたしの頭の上にぽんと手を載せる。まだヘルメットは被っていないので、髪の毛がぐしゃっとかき混ぜられた。
「今日もしっかり働いて貰うぞ、夕映。とは言え……わたしではなく、水晶の為に、だがな」
今年の関東大会のコースは、県大会の時ほどではないにせよ、かなり平坦要素の多いレイアウトに設定されている。中盤に山岳セクションがあるとは言え、ゴール付近は長い平坦なので、ラストはスプリンター系の選手達が鎬を削ることになるに違いない。
「お、噂をすれば。丁度来たな、水晶」
彼方さんにつられるように視線を向けると、ウォームアップを終えた久瀬先輩と、それに付き添うようにしてむつほちゃんがこちらに来たところだった。
全体的に色素の薄い久瀬先輩と、御弓高校のチームジャージカラーである白は相性が良い。ショートに切り揃えた髪の毛は黒色だけど、その分肌の白さが際だって見える。感情を全く映さない久瀬先輩の両眼は、いつもどこか眠たげな印象があった。
そして普段と全く変わらず、今日も常に何かしらを食べている。今はどら焼きだ。
一方で隣にいるむつほちゃんは、同じく御弓のチームジャージを着て、気怠げに両手を頭の後ろで組んで歩いていた。
……近頃、久瀬先輩とむつほちゃんは妙に仲が良い。
基本的に無口なまま何かを食べているだけの久瀬先輩と、自分のことを詮索されることを嫌がるむつほちゃんというのは、案外相性の良い組み合わせらしかった。脚質としては殆ど真逆と言ってもいいような二人だし、別にお互いよく喋り合っているというわけでもないのだけど、それでも、一緒にいることは多い。
「結橋。今日のレース、お前には特に働いて貰うことになると思うが、頼むぞ」
彼方さんからそう声を掛けられたむつほちゃんは、顔にある大っきな傷痕を指先で掻きつつ、気楽そうに答える。
「任せて下さいよー。平坦コースのアシストをやらされるよか、よっぽど気楽ですしねー」
おそらく、先月の県大会への皮肉も織り交ぜてるんだろう……。でも、上級生相手にこんな皮肉が言える辺りはむつほちゃんの凄いところだと言えるかもしれない。真似できそうにはないけど。
「軽口が叩けるぐらいなら、大丈夫そうだな。うん、信頼しているぞ、結橋」
「…………。まー、任せて下さい」
照れたのか、むつほちゃんは彼方さんから顔を反らした。
けど、実際むつほちゃんからしてみたら、苦手分野で無理矢理働かされるより、楽しくて楽な話ではあるだろう。
今日のコースは、県大会のときよりも長くて、全長約七十五キロ。中盤から細かなアップダウンが始まり、そこからコース後半に掛けては、決して高くはないものの山岳セクションがある。そしてそれを越えた後はほぼ下りと平坦、という構成である。
わたし達の目標としては、当然のことながら五位以内入賞――などといった控えめな目標ではなく、関東大会の一位通過である。彼方さんや久瀬先輩が加わる、今年の御弓フルメンバーで初の公式レースなのだから、それぐらい狙わなくてはいけないということだ。
中盤の山に向けて、むつほちゃんは単独でのアタックを仕掛ける。山で得られたアドバンテージ次第で、そのままむつほちゃんが逃げ続けるか、逃げ集団を抑えて久瀬先輩のスプリント勝負に持ち込むかを決める、という流れだ。
オールラウンダーであるわたしと彼方さんの二人が、関東最速クラスの純粋スプリンター、久瀬先輩を全力でアシストする。
あまり細かいところまで決めてしまっても、いざというとき混乱するので、わたし達が決めている作戦というのは大体このぐらいのことだった。でもきっと、今日は勝てるはず――
「あれー、結橋さんじゃーん。うっわ、ひっさしぶりー、元気だった?」
唐突に投げかけられた声に、わたしは振り向いた。
そして、どうしてなのかは自分でも分からなかったのだけど、とにかくわたしは、言葉を失っていた。
そこに立つ人物が、何かをしたということではなく。
その人は、ただ、そこにいた。
セミロングぐらいの黒髪に、整った顔立ち。黒一色で纏められたレースウェアを着ているところから選手なのは間違いないんだけど、肌は自転車選手とは思えないぐらい、白々しいぐらいに白い。久瀬先輩とかも結構色白な方だと思うけど……この人はもう、色素に見捨てられてしまったんじゃないかってぐらいに真っ白だ。嘘みたいな、白。
けど、わたしが何より目を奪われたのは、その人の眼だった。
闇をそのまま嵌め込んだみたいな、真っ黒な瞳。
初対面の相手に対して抱く感想としてはあまり褒められたことではないかもしれないけど、それでも敢えて言うなら……そう、邪悪な感じがした。上手くは言えないんだけど、それでも、邪悪、という言葉が一番しっくり来る。
浮かべている笑顔は無邪気で人懐っこそうだし、自分自身どうして、そんな感想を抱くのかがさっぱり分からないのに……その気持ちが拭えない。
「……綺堂」
むつほちゃんの苦々しい呟きを聞いて、わたしはそちらを見やり――絶句した。
これまで見たこともない、感情が剥き出しになったむつほちゃんの表情。憎しみとかそういう簡単な言葉で表していいのか戸惑うぐらい、明確な敵意だった。
「あは、とても良い顔だね、結橋さん」
対照的に穏やかな笑みを浮かべるその人は、だけどどうしてか、こちらに対してマイナスな感情しか抱いていないのではないか、とそう感じさせる何かがあった。
出来の悪い模造品みたいな、虚構の笑顔だ。
「やっぱり出てきたな、綺堂。……よくもぬけぬけとロードに乗り続けられていたもんだ」
「? おかしいなー、わたし、ロードを辞めなくちゃいけない理由なんてあったっけ?」
綺堂、って呼ばれたその子は、とぼけるように首を傾げてみせた。白々しく。
「ロードレースは楽しいものなんだから、わたしだってレースに参加していいじゃない」
「てめぇ……嵯峨根に対して何も感じてねーのか」
「嵯峨根さんって……あの嵯峨根さんだよね? やっだなー、あのときのあれは事故だったじゃん」
「事故、だと? ふざけんなっ! あれは――」
「あれは事故だよ、結橋さん。それに誰かの責任、って言うなら、そもそもあれは、わたしに対して無理な圧力を掛けて抑え込もうとしてきた、嵯峨根さんの責任になるんじゃないかな。うん、つまりはわたしの方が被害者ってことだね。怖い怖い。今度から、すぐに警察に届け出るようにしようっと」
のびのびとした笑顔でそう答えた綺堂さんに、むつほちゃんは会話を打ち切った。
怒りが頂点に達したのか、完全に言葉にならない叫び声を上げ、綺堂さんに向かって掴み掛かろうとして――そのむつほちゃんを、久瀬先輩が抱えて止めた。
「駄目」
そう、短く呟く。……って、いや久瀬先輩の口数が少ないのは、いつものことだけど。
「あれ? その顔……へぇ、久瀬水晶さんじゃないですか。あーそっか、結橋さん、千葉県に引っ越したんだもんね。御弓高校に通ってるんだー」
「久瀬さんを知ってんのか」
「あは、そりゃ勿論知ってるよ。去年の関東最速スプリンターだもん」
まるで今年は違う、とでも言いたげな綺堂さんの台詞に、わたしは確かな苛立ちを感じた。
それまで会話に入る隙もなかったけど、今の一言だけは我慢ならず、一歩前に出る。
そして、わたしが一歩踏み出すのとほぼ同時、いやさそれより一瞬だけ早く、既に彼方さんが口を開いていた。
「誰だが知らんが、ウチの結橋をからかうのはやめて貰えるかな」
「……? うわあ、風咲彼方だ。本物だー」
勢いのまま一歩踏み出しちゃったこともあって、そのまま黙っているのも据わりが悪く、わたしは聞いた。
「彼方さんのことも知ってるの?」
「当然だよ、だって久瀬水晶よりずっと有名人だもの。《風のカナタ》を知らない競技者なんて、そうはいないぜ」
初めて聞く言葉だった。そしてわたしがそのことに少しだけ驚いていると、綺堂さんは続ける。
「ちなみに、君のことは知らないけどね」
あからさまに侮蔑の込められた、というかむしろ、純度の高い侮蔑以外には何も入っていないような、そんな口調で。
彼女はわたしのことを、薄く嗤う。
「夕映、だよ。わたしは、鳥海夕映。御弓高校一年生」
「ふーん。まぁ別に、興味無いからどうでもいいんだけどね」
そう言って綺堂さん自身は名乗りもせず、わたしから視線を逸らす。改めてむつほちゃんの方を向き、軽く手を差し出した。
「昔は色々とあったかもしれないけど、今日は正々堂々、楽しく競い合おうね、結橋さん」
「……楽しく、だと? オレがお前のそんな言葉を信じるとでも思ってんのか?」
「そりゃ信じてくれるでしょう。だってわたし達、友達じゃないのさ」
「ざけんな。友達になった覚えなんかねーよ」
凄んでみせたむつほちゃんに対して、綺堂さんはニコリとした笑みを浮かべた。
「うわ、それは悲しいなー。とってもショックだー」
身を翻して去ろうとした綺堂さんは、顔だけ振り向かせ、笑顔のまま続ける。
「もう結橋さんなんて、死んじゃえばいいのに」
そう言い残して、彼女は去っていった。
綺堂さんが立ち去ってから、わたしはむつほちゃんに訊ねてみた。
「今の綺堂さんて人、むつほちゃんとどういう関係なの?」
「鳥海には関係ねー」
「…………」
とりつくしまもなかった。
けど、短く答えて顔を反らしたむつほちゃんの額に、久瀬先輩の指がぴたりと当てられた。
「むつほ、駄目。ちゃんと答えなさい」
「……久瀬さん。分かったよ」
むつほちゃんが久瀬先輩に躾けられている!
それは、今年最大とまでは言わなくとも、今月最大の衝撃、ぐらいには言ってもよかったかもしれない。それぐらい驚いた。いつの間にか仲良くなったんだなー、とは思っていたけど。
そしてむつほちゃんは、口の中に溜まった苦みを噛み潰すように、嫌々な口調で語り出した。それはわたし達に事情を語ることが嫌というより、あの人のことを話題にするのがそもそも嫌、というような様子だ。
「綺堂硯。オレと同じ一年生で、去年までオレと同じ中学で自転車競技部の副部長をやっていた」
「……その綺堂硯とやらが着ていたジャージは、今年の都大会を四位通過した巌本高校のものだったな。これまで聞いたことの無かった学校が、よくぞ都大会を生き残ったものだと思っていたが、大型新人を獲得したということか」
彼方さんの言葉に引っ掛かりを覚えて、わたしは訊ねた。
「むつほちゃんて、中学の頃は都内に住んでたの?」
「まーなー。別に言うよーなことでもなかったから、今まで言ってなかったってだけだ」
そう言えば中学のこと聞いたことがなかったな、っていうことに、今になって気付く。バカだねわたし。
「オレが言うのも何だが、とにかく人格破綻者だったからな。オレも含めて他の部員との諍いは絶えなかったぜ。そして最終的に、当時部長だった奴と一緒に走っていて、事故が起きた」
「……事故」
「オレは、綺堂の奴が故意に起こしたものだと思ってる。何の証拠も無いけどな。まぁとにかくそのことが原因で部長だったそいつは両脚を失って、二度と自転車に乗れないどころか、歩くこともできなくなった」
「そんな……」
凄絶な話に、言葉を失う。同時に、その経緯を聞いてしまえば、先程のむつほちゃんの滾るような憎悪も理解できるような気がした。
綺堂硯。
得体の知れない嫌な感覚を与えてくる、不気味な人だ。
「オレはその後すぐ、親の引っ越しで千葉に来たから知らなかったが……しれっとロードを続けてやがるとはな」
その一言で言葉を終わらせたむつほちゃんは、沈黙したまま少し離れて歩き出す。
距離を取られてしまったので質問も出来ず、この話はここで終わらせるしかなさそうだ。
心に浮かんだ疑問を、むつほちゃんに投げ掛けてみたかった。
ひょっとしてだけど、むつほちゃんの顔の傷痕も、あの綺堂さんって人に関係しているんじゃないか、って。
開会式を終えたわたし達は、スタート地点で待機する。
レースのスタート前というのは、高熱で意識が朦朧とするあの瞬間に似ていた。
緊張で体温が下がるような感覚がある一方で、血液だけが熱くなっていく錯覚に陶酔する。
ちらりと隣を見やれば、余裕そうな表情で威風堂々と腕組みしている彼方さんがいた。
この人みたいに、女王の風格が得られる日がわたしにも来るのだろうか。それともわたしにとってはこの緊張感だけは、ずっと無くならないものなのだろうか。
視線を反対方向へと動かすと、むつほちゃんは目を閉じていた。精神統一なのか、それともそれ以外に意味があるのかは分からなかったけど。
先程の綺堂さんとのやりとりを思い出す。
あんなに感情を剥き出しにするむつほちゃんの姿というのは、これまで見たことがなかったものだ。だからこそ驚いた。
自分が何も知らなかったことを思い知ったようで、少しショックだった、というのもある。わたしはむつほちゃんの友達になったつもりでいて、その実彼女のことを何も知らなかった。
別に人間関係というのはそういうものかもしれない。どれだけ親しくても、相手のことを、過去まで含めて全て理解している関係なんてあり得ない。わたしだってこれまでの人生全てをむつほちゃんに打ち明けたというわけではないのだ。
けど、それでも。
明確な意思で隠し事をされたようで、わたしは勝手にショックを受けていた。
「……騒がしいわ」
ふと、それまであんパンを食べ続けていた久瀬先輩――この人はレース前だろうとレース中だろうと、とにかく沢山ものを食べる――が、そう呟くのが聞こえた。
他の選手達のざわめきなんて、それまであまり気にしていなかったのだけど、言われると突然喧噪が耳に付くようになるから不思議だ。
ただ、ここには現在百人以上の女子高生が集まっているわけで、多少うるさいことについては全く不思議でも何でもないはずだった。実際ついさっきまでは彼方さんも、顔見知りな他校の選手達と挨拶や歓談をしていたぐらいだし。
……いや、それにしても妙に騒がしいというか――
「あれ、御弓の人達じゃーん。奇っ遇ー」
軽い感じで声を掛けられ、そちらを見やる。
そこにいて、そこで注目を集めていたのは、綺堂硯さんだった。
そして、レースを直前に控えたその姿を見て、周囲がざわついていた理由というのもすぐさま悟る。彼女の乗っているマシンは、少々特殊過ぎた。
居住性の向上や振動への耐性を高める為、滑らかに湾曲したフレーム。ハンドルが大きくUの字形に曲がっているのは、手首への負担を軽減する為だろう。三段階での調整が可能な変速ギアも付いているようで、速度の不安や脚への負担も小さそう。フロントの大きな網カゴやリアの荷台は、一般的なロードバイクと比べ積載性の面に於いて圧倒している。前後両輪共に泥よけも完備されており、全天候で実施されるレースへの心配も無い。スタンドもしっかりついているので、駐輪時の安定性も抜群だ。
っていうか――
「……ママチャリ?」
たっぷり数秒観察したわたしが、ようやく絞り出せた言葉がそれだった。
綺堂さんが乗っている自転車は、シティサイクル。所謂ママチャリ、と呼ばれるものだ。
「随分と独創的なマシンだな、綺堂硯」
流石に呆れと、若干の苛立ちを混ぜた声音で、彼方さんが言った。だが、綺堂さんは笑顔を崩さずに返してくる。
「《風のカナタ》に愛車を褒めて貰えるなんて嬉しいなー。でもコレ、別にわたしの本気用ってわけじゃないんですけどねー」
「ほう、ではその本気用とやらは何処にあるのだ?」
「ちょっと調子が悪くて、メンテナンス中なんですよ。どうしても今日のレースに間に合わなかったので、今日は使い慣れたこのマシンで走ります」
あっさりと、笑顔でそう言ってのける綺堂さん。
その言葉に、それまで沈黙していたむつほちゃんが声を荒げた。
「てめぇ、舐めてんのか綺堂。いくらてめぇでも、そんなママチャリでロードとやり合えるわけねぇだろうが!」
「おいおい結橋さん、そんな言い方は酷いじゃないか。こっちはこれでも、真面目にレースに取り組もうとしているんだぜ。他人の頑張りを否定して馬鹿にするだなんて、いつからそんな酷い人になっちゃったんだ、君は。友達としてとても悲しいよ」
「……ッ、てめぇ――」
「機材に良いものを使っているから高尚だとか、そんな考えは人として最低だぞ。そういう考え方は良くないって、小学校の頃に道徳の授業とかで習わなかったのかなぁ」
しれっとしたその物言いは、明確な挑発を孕んでいる。だというのに、むつほちゃんはそれに言い返す言葉が無いようだった。言い返しても無駄だと、そう判断しているのだろうけど。
「それにわたしのこの自転車は、大会規定の何処にも違反していないんだよ。正当な、出場資格のあるマシンだ」
「そ、そうなのっ!?」
わたしは思わず、素で声を上げてしまった。
薄笑いを浮かべた綺堂さんがこちらを見る。
「やぁ、鳥山さん、だっけ?」
「鳥海、だよ! 鳥海夕映!」
「ああそう。まぁどっちでもいいけど。とにかく周りの皆様も知らないようだから教えといてあげるとね、例えばマシンの重量については、下限こそあれ上限については設定されていないんだ。そして現在この大会のルールで制限されているのは、どちらかと言えばタイムトライアル用の特殊バイクとかで、一般的な安全性について認められていれば、マウンテンバイクだろうとママチャリだろうと、出場資格がないだなんて、そんなことはない。ほら、ちゃんとエントリーナンバーのプレートだって取り付けてあるだろう?」
芝居掛かった仕草で、綺堂さんは自分のママチャリを愛おしげに撫でる。本当に、それを自慢のバイクだと誇らんばかりの様子だ。
馬鹿馬鹿しい、と感じるより先に浮かんだのは、嫌悪感だった。
怖くて、気持ち悪い。
「まぁ他人のマシンにケチを付けたりなんてしないで、正々堂々と競い合おうよ。わたし達、スポーツマンなんだしさ」
綺堂さんのその台詞に対して真っ先に反応したのは、むつほちゃんだった。
「競えるモンかよ。てめぇ一人だけ、サイクリングでも楽しんでろ」
「あは。結橋さんてばおっかしー。変なこと言うよね、ひょっとしてロードレース初心者なのかな?」
「何だと?」
挑発だと分かってはいるのだろうけど、既に我慢が限界に達しつつあるむつほちゃんは、凄んで反応する。そうなることまでしっかり計算の内なのか、綺堂さんはその様子を見て唇の端を吊り上げた。
「ロードレースなんて、勝負所以外の場面は大体サイクリングみたいなものじゃないのさ」
綺堂さんはその台詞と共に、むつほちゃんに片手を差し出した。むつほちゃんはそれを無視したけど、綺堂さんは構わずに邪悪な笑みで、言葉を続ける。
「楽しいレースにしようね。事故なんて起きたら、わたし、嫌だからさ」
関東大会のコースは、内房の姉ヶ崎付近にあるスポーツセンターをスタート地点として、海沿いからすぐさま折れて千葉県内陸部へと進行していく。
その後は田園地帯をひたすら走り、途中で山を横断する有料道路――今回のレースの為に貸し切ってあるらしい――を通過。そこから山を下り、緩やかな下りが続く県道を経て最後の平坦区間へ突入、ゴール地点である富津岬の海浜公園でフィニッシュ、といった流れだ。
全長は七十五キロにも及び、そこまで高い山こそ無いものの、途中途中では狭い道もある。そして何より――
「綺堂硯の印象がどうしても強くなってしまった感はあるが、そもそも他に厄介な選手というのも大勢いるのだからな」
スタートしてすぐ、わたしの後ろで彼方さんがそう、ぽつりと言った。
ちなみに開始直後と言うことで、まだどこのチームもアタックなどは仕掛けていない。
選手全員が大きな塊になって走っている状態なので、御弓高校チームも、わたし、彼方さん、むつほちゃん、久瀬先輩、という順番で隊列を組んで集団の中にいる。
それはそれとして、わたしは彼方さんに聞いた。
「彼方さん、さっきスタート前に、何人かと話してましたけど……その人達が、厄介な選手、ですか?」
「ああ、その中にもいるな。特に今日のレースはアタッカーやスプリンター有利のステージだからな。特に警戒しなければならない連中というのは、わたしが把握している中では三人だ」
「三人……」
「埼玉代表、鶴崎女子の《距離無制限》亜叶観廊。東京代表、三柴高校の《東の螺旋》偉能蓮。茨城代表、大海高校の《ダブルドラゴン》竜伎硝子」
「な、何か凄い強そうですね……そういう異名があると」
《風のカナタ》もそうだけど、やっぱり異名を持つぐらいのレベルになると、何かしらの大会で優勝経験のあるエースだったりするのだろう。実際彼方さんも、去年のインターハイで総合五位だし、県内のアマチュアレースでは優勝経験もあるらしい。ちなみに今年の彼方さんはインターハイにのみ照準を絞って調整してきた為に、そういった市民レースへは参加こそすれ、勝ちは狙わなかった、とのことだった――但し唯一、九十九里浜で行われた個人タイムトライアルの女子大会では、年齢制限がなかったにもかかわらず、一人ぶっちぎりの成績で優勝していたけど。
「勿論、そういった連中以外にも警戒しなくてはならない相手というのもいるだろう。言葉を引っ繰り返すようだが、綺堂硯だって決して無視して良い人間ではない」
「綺堂さん……? いやでもあの人、ママチャリですよ?」
あの人間性には確かに警戒すべきものがあるかもしれないけど、それにしたってママチャリでは何も出来ないと思う。あの人以外はみんな、ロードバイクに乗っているのだ。ネコとチーターが競走するようなものである。
だけどそれは、わたしの油断なのかもしれない。少なくとも、彼方さんの表情を見やるに、彼方さんは綺堂さんへの警戒を一切緩めていない。
「いいか夕映、考えてもみろ。これだけ重要な大会に、メンテが間に合わないからなんて理由でママチャリのまま出場してくる奴を、正常な価値観で計れると思うか?」
「うーん……まぁ、それは確かに」
「関東大会出場経験の無い学校を一躍進出させたのが、奴の功績であることは間違いない」
彼方さんのその言葉に、わたしは引っ掛かりを覚えた。
「それについては、他の人の可能性は無いんでしょうか? 同じ学校の二、三年生の頑張りがあったから、とか」
「無いな。断言できるぞ。わたしの見立てが間違っていなければ綺堂硯はおそらく――」
彼方さんはそこで言葉を句切る。言い淀んでいるように感じられた。
「彼方さん?」
「……いや、いい。推測だけでものを言っても、何も始まらんし、生産性も無いな。とにかく綺堂硯の乗っているものがママチャリだろうと三輪車だろうと何だろうと、警戒する価値はあるだろう、ということだ」
……ここまで慎重な彼方さんの姿は、初めて見た気がする。彼方さんはひょっとしたら、先程名前を挙げた有力スプリンターの人達以上に、綺堂さんを警戒しているかもしれない。
「……綺堂を警戒するってのには賛成ですねー」
後ろの方から、むつほちゃんが言う。苛立ちと焦りを含んだ声だった。
「奴自身もそーだし、奴のチームメイトが何をしてくるのか、分かったもんじゃねー。ってことで部長、そろそろ行こーかと思うんだけどいーですか」
「……少し早い気がするな。山まではまだあるぞ」
レースはまだ序盤。ようやく工業地帯を抜け、山と田んぼが広がる田舎道に差し掛かったところだ。むつほちゃんはクライマーなので、こういった平坦区間でのアタックは失敗する可能性がある。
だけど、むつほちゃんは頑なだった。
「どーせその後はアップダウンが多くなるんだから、大した影響は無ー」
それで会話を終了させたむつほちゃんが動き出す。宣言の呟きは、わたしにも聞こえた。
「山で逃げ切って、そのまま優勝してやりますよ」
選手がひしめき合う大集団の中を自在にすり抜けながら、むつほちゃんがグングンと先頭方面へ駆け上がっていく。ジグザグに、昔の漫画で描かれる雷みたいな軌跡を描いて他の選手を一瞬の内に躱しつつ、だというのに殆ど速度が落ちていない。
……純粋に、凄い。大人数の中で使っているのを客観的に見ると、改めてその技術の素晴らしさが分かるような気がした。本当に、自転車とは思えない挙動と軌道である。
そしてむつほちゃんが先頭に躍り出て、更にそのまま集団を置いて加速していくのを見た他の選手達の中から、それについていこうとする人達が出てくる。
むつほちゃんのアタックを先頭にして、逃げ集団が形成されつつあった。人数は……数え間違えていなければ、十人。全体の人数からしてみると、逃げの人数としてはちょっぴり多い気がする、かな?
「結橋の奴、随分と冷静さを欠いていたな」
指摘するような口調の彼方さんに、わたしは同調した。
「焦って飛び出したようにも見えましたけど……大丈夫でしょうか。本格的な山岳セクションに入るまで、まだ十キロ以上ありますけど」
「どうしてあんなにも焦ったのかについては、何となく分かるがな」
嘆息と共に、彼方さんはちらりと視線を横へ投げた。
チリンチリン、と、無駄に何度もベルを鳴らして走る、ママチャリに乗った綺堂さんの姿がそこにはあった。無論一人ではない。同じチームジャージを着たチームメイト――当たり前かもしれないけどこちらは全員、ロードレーサーに乗っている――に前を引いて貰いながら、のんびりと、それこそ本当にサイクリングでも楽しんでいるような様子だった。
巌本高校のメンバーは四人全員、そこに揃っている。先程のアタックには、誰も送り出していないらしい。
「あれ、御弓高校の人達だ。やっほー」
気楽そうに手など振ってくる綺堂さん。だけど正直、手を振り返そうという気持ちにはならなかった。
「うわ、無視するなんて酷いなー。他人の機材を馬鹿にしたり、頑張りを否定したり、挙げ句には堂々と無視だなんて。御弓高校の連中って人として最悪だぜ」
笑顔でそんなことをあっさりと言っているし。絡みにくいことこの上なく、あとついでに言えば、ちょっとイラッとする。
「別に無視してるわけじゃないよ」
一応、わたしはそう答えた。
「でも、今綺堂さんと話す話題も無いと思うし。それに、今、レース中だよ」
「どうせもうしばらくはサイクリングが続くんだし、のんびり喋っていても、あんまり問題無いと思うけどなー。あ、でも話題も無いんだっけ」
綺堂さんの様子を見て、わたしは心の中で密かに驚いた。もしわたしがもうちょっと冷静でなかったとしたら、うげぇ、ぐらいの声は上げていたかもしれない。
ロードバイクはメンテ中、と言ってママチャリで出場してきた綺堂さんは、水分補給用のボトルを、あろうことかママチャリの前カゴに無造作に入れているのだ。路面の凹凸などで自転車が軽く揺れる度に、いやそれどころか普通に走っているだけでも、ボトルはカゴの中でがらんがらんと踊り回っている。
普通にボトルを手に取るだけでも、結構大変そうだった。
こんな無茶苦茶な状態でレースに出てきたなんて……。
チームメイトの人達はただ黙々と、そんな綺堂さんの前を引いて走っている。
その様子を見てふと思ったことがあった。チーム内最後尾で先頭交替に加わらないという綺堂さんのあのポジションは、エースのものだと思うのだけど、ひょっとして一年生の綺堂さんが星山高校のエースなのだろうか?
最初に見たときは、機材で大きく不利な綺堂さんを庇うために仲間が助けているのかと思ったけど、それもエースだから、仕方なく護っている……? いや、でもいくらエースだからって、ママチャリじゃ勝負に絡めないんだし、わざわざ人数を割いて護る必要は無いんじゃないだろうか。他の誰かをエースにすればいい話だ。
ママチャリの三段ギアは一応最も重たいものが選択されているようだけど、それにしたって限界いっぱいいっぱいまでペダル回してる感じだし、その様子の割にそこまでの速度は出ていない。ここまでついてこれていることが、既にちょっとした奇跡というか珍事みたいなものだ。
「御弓のみんなに話題が無いというのであれば、わたしから提供してあげようか。そうだね例えば……先行している結橋さんが、果たして山頂のラインを何位通過するか、とかね」
思考は、綺堂さんのそんな声に阻害された。
「ウチのチームは誰も参加してないけど、あの逃げ集団、それなりに実力のあるクライマーの人とかオールラウンダー、いや、パンチャーの人もいたみたいだしね。そんな選手達の中で、わたしの大親友であるの結橋さんは何位になれるかなー。楽しみだなー。ワクワクしちゃうよねっ」
「……むつほは負けない」
それまでこちらの最後尾で、無言を保っていた久瀬先輩が、いきなり口を開いた。ていうか久瀬先輩は走りながらでもちょくちょく色々なものを食べているので、だからこそ何も喋っていなかったというのもあるんだろうけど。
丁度、それまで食べていた補給食を食べ終わったのだろう。包み紙を腰のポケットにしまい、そのついでに次の補給食を取り出して口に銜える。
再び食事を始めた久瀬先輩に替わって、わたしは告げる。
「むつほちゃんはあなたのことを友達とは言ってなかった。だからわたしは、あなたがむつほちゃんの友達を名乗ることを認めないわ」
「うわぁ、素晴らしい友情だー。悲しくなるなー」
「……ちなみに綺堂さん、あなたはむつほちゃんが、あの十人の逃げ集団の中で何位になると思ってるの?」
わたしに訊ねられた綺堂さんは、少しだけ笑った。先程から何度も見せている、作り笑いじみた笑顔ではなく、唇の端を小さく吊り上げるだけの、邪悪な笑み。
「そんなの、最下位に決まってるじゃん」
むつほちゃん達が仕掛けたアタックは成功し、メイン集団はそれを追わずに容認の構えを取った。現状では、わたし達の作戦も上手くいっている、って感じだ。この後でどんなイレギュラーが起こるか分からないので、まだまだ気は抜けないけど……。
暫くすると、審判車の方から、小さなホワイトボードに書かれたタイム差が提示された。
四分四十秒。
むつほちゃん達のいる逃げ集団とわたし達メイン集団とのタイム差が、四分四十秒。
先行している逃げ集団は、もうそろそろ山岳区間に差し掛かる頃だろう。
「……頑張ってね、むつほちゃん」
応援の気持ちを口に出してみるものの、それ以上わたしに何か出来るわけではない。
少し悔しいのだけど、綺堂さんが言っていた言葉が脳裏に浮かんだ。
『ロードレースとは、勝負所以外はサイクリングみたいなもの』
それを否定するのは難しいことのように思えた。特に自分自身が、メイン集団の中で本気も出さないのんびりとした走りをしてしまっている現状では、尚のこと。
「夕映」
「は、はいっ!?」
いきなり後ろから声を掛けられて、わたしは驚いた。振り返ると、彼方さんが厳しい眼差しをこちらに向けてきている。
気持ちが弛みかけていたのを見抜かれたような気がして、いたたまれない心地になる。そうして続けられた彼方さんの言葉は、わたしの気持ちを裏付けると取れなくもないものだった。
「我々もこの後は山岳だ。気を抜くなよ、登りの後で、レースはきっと動くからな」
……やっぱりお見通しらしかった。
「今回の山岳セクションはさほど険しいわけではないが、わたし達はその先の平坦区間へ水晶を連れて行かなくてはならんのだ。遅れないよう、且つ極力敵を先行させないよう注意を払え」
わたしは頷いて答える。気合いを入れ直す意味も込めて、ボトルに口を付け、水を飲んだ。慢心を洗い流してくれたら、と体の良いことを考えつつ。
「特に注意しなければならん連中というのも、大体は登りが苦手なスプリンターを連れている。さっき言った奴らから目を離さず、登りでのアタックを警戒しろ。もし何処かのチームがエーススプリンターを連れたままアタックを仕掛けるようであれば、チェックに入るのはお前の役目となる」
「スプリンターで勝負に来ている人達はともかくとして……それ以外の人達はどうするんですか?」
平坦も山岳もバランス良くこなすオールラウンダーやパンチャーといった脚質をエースに設定して勝負を仕掛けに来るチームは、スプリンターを抱えるチームより速く山を登れるだろう。
登りで大きなタイム差が付けば、それを後々挽回するのも苦しくなるかもしれない。
「そう言うときのための結橋だ。この後のタイム差次第では、あいつがゴールを狙ってしまっても構わんと言ってあるのだからな」
「ああ、なるほど」
「だがわたしの推測では、ラストはスプリンター達の勝負になる見込みの方がまだ強い。やはり水晶に全てを託すことになるだろうな」
「そんなに確証があるんですか?」
わたしの質問に、彼方さんは間髪入れず頷いた。
「ああ。わたしの見たところ、今年はどのチームも集団でのゴールスプリントに向いた選手を揃えてきているようだしな。大体の連中はスプリントで勝負を仕掛けたいと思っているだろう」
そして、彼方さんは後ろにいる久瀬先輩の方を見やった。話す相手を変えて、告げる。
「水晶、お前がどのぐらいのペースで山岳セクションをクリアできるかが今日の鍵になる。頼むぞ」
「努力するわ」
「えっと、ちなみに、彼方さん……ずっと疑問だったことがあるんですけど、一つ質問しても良いですか?」
本当はレース後に聞こうと思ったんだけど、本格的な勝負所が来る前に、折角だから聞いておくことにした。
「アタックを仕掛けるのって、むつほちゃんじゃなくて、彼方さん自身じゃ駄目だったんですか?」
今日の作戦、久瀬先輩によるゴールスプリントをプランA、むつほちゃんによる逃げ切りをプランBとするなら、久瀬先輩が山で遅れ、むつほちゃんが集団に追いつかれた時の為の、プランCと呼ぶべきものがある。
それが、タイムトライアルスペシャリスト出身で独走力に優れた彼方さんによる、アタックからの逃げ切りだ。だけどよくよく考えてみれば、最初から彼方さんが一人で逃げて、わたしとむつほちゃんで久瀬先輩のアシストをすれば、ひょっとして勝率はより高まったのではないだろうか。
「それは違うな、夕映」
しかしわたしのそんな疑問に、彼方さんは首を横に振る。
「もし序盤から中盤に掛けての状況でわたしが単独アタックなどすれば、他のチームが黙っていない。わたしは去年、二年生ながら関東大会で二位を獲ってしまったからな。そんなわたしの単独での逃げなど、他の連中がこぞって潰しに来るだろう」
「だから、むつほちゃんに行って貰ったんですか?」
「そうだ。結橋は実力はともかく、高校での知名度はまだ殆ど無い。御弓の一員とは言え、無名な一年生のアタックならば、潰すより、便乗しようとする者の方が多く出るだろうとわたしは踏んでいた」
そして実際、その通りになったわけだ。
「ロードレースに於いて、強い者には必ずこういった足枷がついて回る。好きなタイミングで飛び出すことなどできはしない。だからみんな、アシストが働いたり、策を練って、強力なエースが戦える環境を整える」
「そっか……なるほど、分かりました。あと――ごめんなさい、彼方さん」
「? 分かりましたはともかく、何故夕映が謝る必要がある?」
「彼方さんと二人でツーリン、じゃなかった、デートした日、彼方さんずっと、わたしの前を引いてくれたじゃないですか。あの時の彼方さんの気持ちが、今になってようやく、ちゃんと分かった気がします」
あの日に前を引いて走っていた彼方さんは、なんだかとても楽しそうに見えた。彼方さんはレースだとチーム作戦の為に自由に走れないから、ああして先頭を走り、好きなときにアタックができる状況が珍しかったんだろう。
それはロードレースの、エースの宿命なのかもしれない。
彼方さんは微笑し、首を横に振る。但しそれは、わたしの言葉を強く否定するような動作ではなかった。
「どちらにしたところでお前が謝ることではあるまい」
「それは、そうですけど……」
「いいさ。それに、今日は水晶をエースにした方が勝率が高いというのも真実だしな。せいぜいこの後の山で遅れないよう、しっかりわたし達で護ってやらねばな」
「……努力するわ」
おにぎりを食べながら、久瀬先輩が短く答える。普段通り感情の浮かばないその顔が、少しだけ困惑しているように見えた。
山を越えていく有料道路全体が山岳セクションということになっているけど、勾配はそこまできついわけでもなく、その全長も十キロ程度ということで、ある程度山岳を得意としている人間からしてみれば決してつらいものでもない。
特に今回は山が苦手な久瀬先輩を連れているのだから、自然とペースも落ちやすいのだ。他の有力チームも似たような考えらしく、山岳では特に大したことは起きず、ただ黙々と登っていくだけのレースが展開された。
登りでアタックを仕掛ける人は出ず、しかし有力校で遅れた人もいないっぽい。
これはスプリント狙いのチームが多いってことだろう。誰もみんな、この山で余計な体力を消耗せず、ゴールスプリントに全てを注ぎ込みたいようだ。
但し流石に、集団の形状はさっきまでとはかなり違ってきている。各校登るペースにばらつきが出るため、一個の纏まった集団というより、チーム毎バラバラに走っている感じだ。山が終わって平坦に戻るまでは、この状態が続くだろう。
先行集団とのタイム差が知りたかったけど、審判車からの表示はまだ無いらしかった。先行している逃げ集団はそろそろ、山頂のラインを越えているはずなのだけど。
むつほちゃんが何位で山頂を通過したのかと、現時点でのタイム差を教えて欲しかった。
プロのレースなどではこういうとき、無線機で通信をして現在の状況を細かく把握できるというのだから、羨ましい話である。
そしてそれらはそれらとして、もう一つ、わたしが気付いたこと。
「……綺堂さんの巌本高校、やっぱりいないですね」
後ろを確認しつつ、わたしは言った。多少緩めとはいえ、流石に登り坂の途中で事細かに後方確認をする余裕は無かったのだけど、綺堂さん達はいつの間にか集団から後れてきているらしかった。
「いくら変速ギア付きとはいえ、シティサイクルではな。だが……」
彼方さんはやはりどうしても、綺堂さんへの警戒心を解くことができないでいるらしい。ことによると今挑んでいるこの登り坂よりもずっと、遅れていった綺堂さんの方が手強いと思っているみたいに見える。
「いや、それよりも、夕映。結果が来たぞ」
言われて前方を見やる。山頂のラインが引かれた辺りに、バイクに乗った審判の人達が待機していて、ホワイトボードを掲げているのが見えた。
「……六分」
タイム差は、山岳区間に入る前より更に開いていた。まぁ、当たり前と言えば当たり前だ。先行している人達はその殆どが、山岳を専門とするクライマーなのだから。
タイム差もそうだけど、山岳の通過順位についても気になっていた。そっちは教えてくれないのだろうか……いや、別の所で他の審判の人が、結果を表示してくれている。
上から順番に並んだ名前の中に、むつほちゃんの名前もちゃんとあった。
「四位!」
「結橋め、惜しかったな」
彼方さんが、残念そうに呟いていた。そしてすぐさまペースを上げて、彼方さんがわたしの前に来た。
「夕映、すぐに水晶の後ろに付け。下りはわたしが先導するから、お前は遅れないことと落車しないことを心がけて付いてくるんだ」
「は、はいっ」
「山を下りて補給地点を越えたら、おそらく全体のペースが一気に跳ね上がる。それまでに、少しでも体力を回復させておけ」
そう指示を出して、彼方さんは前を向いて上体を伏せた。下り坂で空気抵抗を極力低減させようという体勢だろう。久瀬先輩がすぐさまそれに倣ったのを見て、わたしも慌てて上体を下げる。姿勢が変わったことで視界が狭まり、速度が制御を超えて増していく状況は恐怖感を煽ってくるけど、だからといって投げ出してなんていられない。
猛スピードで山を下り、一般道へ出た。有料区間は終わり、これからは道幅の広い県道である。ここを通って、ゴールの富津岬方向を目指す。
補給地点は程なくやって来た。田んぼの合間に時折一軒家が建っているだけのようなのどかな田園地帯で、路肩にドリンク等を手にした人達がいっぱい並んでいる。
大会ボランティアの人達がドリンクボトルを持って沢山並んでいる中、部活顧問の女性教師である岩井先生や、他にもお手伝いの先生方が肩掛けカバンを路上に向けて差し出してきているのが見えた。
岩井先生達が持っているのはサコッシュと呼ばれる袋で、補給食などが詰め込まれているものだ。長時間に及ぶレース中はエネルギー不足にならないよう、ロードレースの選手は走りながらでも食事をする。
激励と共に岩井先生からサコッシュを受け取って、わたしは一瞬、折角の気持ちが込められたその袋をいきなり取り落としそうになった。重たくて。
……サコッシュを受け取ること自体は初めてではないんだけど、何で今日に限ってこんな、嫌がらせみたいに重たいんだろうか?
中を見やるとそれもそのはず、多種多様な食品がぎっしりと詰まっている。
通常の栄養補給食と新しいボトル二本に加え、コンビニのパンやおにぎりにハンバーガー、そして何故かお饅頭を始めとしたデザートまでもが何種類も完備されている。……あ、シュークリームもある。これは美味しそう。
って、いやいやこれは重いはずだって。こんなにはいらないんじゃないの? どうせ持ち切れずに余ったものは捨てちゃうんだし。
わたしがあまりにも怪訝な面持ちで中身を見ていたからなのか、彼方さんがこちらへ話し掛けてきた。
「夕映、ひょっとしてだがそのサコッシュ、中身は水晶のものじゃないのか?」
「ふ、ふぇっ? そうなんですか?」
「嫌がらせかってぐらいの重さに中身が詰め込まれているサコッシュであれば、それは間違いなく水晶のだと思うぞ。ほら、見てみろ」
彼方さんが軽く片手で示した先へと視線を移す。久瀬先輩が珍しく頬を膨らませたりなんてして、ちょっと潤んだ瞳でこちらを見つめてきていた。
短く、呟いてくる。
「……私の」
く、久瀬先輩が泣いちゃうっ!
「す、すいません!」
慌ててサコッシュを肩から外して、それを久瀬先輩へと手渡した。代わりに久瀬先輩が別の先生から受け取っていたサコッシュを受け取り直す。……良かった、こちらは普通の重さだ。
わたしは中から新しいボトルと、ゼリー飲料や栄養補給食のパワーバーなどを選んで袋から取り出し、腰のポケットに収納した。すぐさまサコッシュを肩から外し、空っぽになったボトルを詰めて丸め、沿道にいる大会ボランティアの人へ放り投げる。袋には学校名と連絡先が記されているので、後で係の人から先生方へ返却して貰うのだ。
同様にサコッシュを捨てた彼方さんが、わたしに告げてきた。
「夕映、先頭を替わってくれ。水晶を一番後ろにしたい」
「あ、はいっ」
「さっきも言ったが、この後はおそらく強力なスプリンター同士の戦いになる。極力前を引いて、最後はわたしや水晶の真後ろになってもいいから出来るだけ食らいつけ。それが今日の夕映の目標だ」
「……はい」
トップクラスのスプリンター達による戦い。言葉にすれば簡単だけど、実際目の当たりにするのはこれが初めてとなる。
そんなトップクラスのスプリンターであるはずの水晶先輩は、中身がぎっしり、重たくなるぐらい詰め込まれたサコッシュを肩から提げて、中の食べ物をモリモリ食べ始めていた。……え、捨てないの? 全部食べるのそれ?
思わず眉根を寄せて驚いてしまう。だって補給食って、要はエネルギー摂取が目的の食品ばかりであり、ぎっちぎちに詰め込まれたサコッシュ内の総カロリー量は、きっととんでもないことになっているはずなのである。いくらレースでエネルギーを沢山使うからと言って、そんなに食べまくってちゃ逆に危ないんじゃないだろうか?
わたしの疑問は、しっかり顔に浮き出ていたのだろう。彼方さんが優しい声音で説明してくれた。
「水晶は紛れもなく関東最速のスプリンターだが、その速度故にエネルギー効率が著しく悪い。ああして普通以上のエネルギーを常に摂取しておかなくては、勝負所で力を発揮できないのだ」
「あと、食べることが好きなの」
久瀬先輩自らによる注釈が加えられた。更に久瀬先輩にしては珍しく、言葉が続く。
「ごはんって、美味しいのよ」
……まぁ、説明にも新情報にも全くなっていないあたりは、久瀬先輩らしかった。
前半のアップダウンや中盤の山岳セクションが嘘だったかのように、山を終えてからは平坦な道が続いていた。各チームも問題なく補給を終えたのか、集団の形も前半同様一つに纏まりつつある。もっとも遅れた選手もいるので、全体の人数は結構減っている感じだ。
……ちなみに、補給所を過ぎて既に五キロぐらい走っているけど、それでもまだのんびりと食事を続けているのは、ウチの久瀬先輩ぐらいだろう。
「相変わらず大食らいだねぇ、水晶ちゃんはぁ~」
集団の前寄りを位置取っているわたし達に向けて、いや、久瀬先輩に向けて、どこかのんびりとした声が届く。そちらを見やると、灰色のジャージを着た選手がいた。青いヘルメットから、ツインテールになった髪をぴょこんと出したその人のジャージには、鶴崎女子高校という名前が入っている。
「久し振りだな、観廊」
話し掛けられたものの食事中だった久瀬先輩に替わり、彼方さんが声を掛けた。
「うんうん、かなちゃんも久し振りぃ。去年の秋以来だねぇ。かなちゃん、今年は市民レースあんま出きてくれないからぁ」
わたしが所在なく前を引いて走っていると、彼方さんがそれぞれを紹介をしてくれた。
「夕映、こいつがさっき話した警戒するべきスプリンターの一人、埼玉代表校、鶴崎女子の《距離無制限》だ。こっちはウチの新人で、鳥海夕映」
「夕映ちゃんかぁ。あたしは亜叶観廊。鶴崎女子の三年生だよぉ」
年上で格上の先輩に挨拶され、わたしは走りながらではあるけど一応どうにか会釈をした。
亜叶さんはそのまま、食事中の久瀬先輩に話し掛けている。ふと、その亜叶さんのチーム内でのポジションが気になった。
亜叶さんの前には、同じく鶴崎女子のジャージを着た選手が二人、しっかり並んで走っている。ってことはやはり間違いなく、こののんびりとした喋り方の亜叶さんこそが、今日のエースということだよね。
「水晶を関東最速のスプリンターと称するなら、《距離無制限》は関東最長のスプリンター、といったところだ」
「最長……って?」
「いや、最長という区分で言うなら、全国最長と言っても差し支えないか。意味は文字通りさ。奴はスプリントにおける最高速度の維持可能距離が、異様に長い」
彼方さんの言い回しが分かりづらく、わたしは再度首を捻った。少しだけ緊張を孕んだ声で、彼方さんが説明を付け加えてくれる。
「つまり、ゴールの遙か前からスプリントが出来る、ロングスプリントの達人、ということさ」
「それって、凄くやばいんじゃないですか?」
「かなりやばいぞ。わたしが記憶している限りでは去年の時点で、奴の射程距離は単独で一キロ前からのスプリントだったからな」
「一キロッ!?」
……普通、全力でのスプリントっていうのは無酸素運動になるので、数百メートルがせいぜいだ。プロの選手達も、最後のエースを発射するのはそのぐらいの距離である。トップスピードをそれだけの距離維持できるというのであれば、そりゃあ厄介なことこの上ない。
「純粋なトップスピード比べなら水晶の方が圧倒的に速いが、仕掛けるタイミング次第では恐るべき脅威になる。今年の埼玉大会は登り基調のレイアウトだったらしいから、この一年間でどのぐらいその能力に磨きが掛かっているかまだ分からんが、観廊が今日の優勝候補最有力であることは間違い無い」
彼方さんの言葉で、わたしはゴールまでの距離を慌てて意識した。残り、約十五キロ。丁度そのタイミングで、審判者から先頭とのタイム差が提示された。
「……二分三十秒まで減ってる」
「逃げ集団のペースがかなり落ちているのは、おそらく意図的なものだろうな。スプリント勝負に持ち込むことが元々の目論見だったチームが多そうだ」
彼方さんの言葉にわたしが返事をするより早く、亜叶さんが答えてくる。
「そりゃあそうだよぉ。ウチやかなちゃん達だってそうなわけだし、他にも強いスプリンターはいるしねぇ」
「《東の螺旋》も《ダブルドラゴン》も遅れてはいない、か」
「警戒対象はそれだけじゃないよぉ」
ざわり、と。
嫌な予感、としか表現しようのない感覚が背筋を撫でた。この感覚には覚えがある。中学二年の時、まだロードに乗り慣れていなかった頃、自宅のガレージ内で立ちゴケをしてしまいお父さんの大切な車に思いっきり傷を付けた、あの瞬間だ。どうしようかと涙目で焦っていたら、今のと同じ感覚が体中を駆け巡って、そうしたら背後でバッチリ転倒の瞬間を目撃していたお父さんが立っていた――
「いるじゃぁん、ある意味、今大会最注目の子がさぁ」
亜叶観廊さんの言葉に釣られるようにして、わたしの視線が後方へと流れていく。
一瞬、呼吸が止まった。
そこにいたのは、何故かロードバイクに乗って凄まじい勢いで猛追してきた、巌本高校の綺堂硯さんだった。
「あれ? おやおやこれはこれは。《風のカナタ》と《距離無制限》のコラボなんて、珍しいショットだなぁ。嬉しい。わたし、ずっとファンだったんだー」
一塊になって走っている集団の脇、沿道ギリギリの幅をすり抜けるようにして先頭寄りまでやって来た綺堂さんが、白々しくも言う。
「き、綺堂さん、何でロードに乗ってるの!?」
わたしは堪らず質問した。聞かずにはいられなかった。
だけど、綺堂さんはしれっとした様子である。
「何を言ってるのかな? わたしはロードレースの選手だし、今日は女子ロードレースの関東大会に出場してるんだから、ロードバイクに乗ってなくっちゃ勝負にならないでしょう」
「だ、だって、メンテが間に合わないから今日はママチャリでって……」
「え、何、鳥海さんて、ひょっとしてわたしのあんな適当な発言、信じちゃってたの? うわ馬っ鹿みたーい。ママチャリでロードと勝負なんて出来るはずないじゃなーい。あは、恥っずかしー」
心底、人を馬鹿にした口調で、綺堂さんがそう言う。
……わたしってそんなに怒りっぽい方ではないけど、これはイラッと来るなぁ。むつほちゃん、よくこの人と二年半も一緒に部活やってられたなぁ、って思っちゃったもん。
「わざわざチームメイトを一人犠牲にして、バイク交換をしてきたのか」
彼方さんの言葉を聞いて、わたしはようやく、巌本高校のメンバーが一人減っていることに気付いた。あのチームは逃げ集団に誰も送り込んでいないはずだったのに、今は三人しかいない。ってことは今綺堂さんが乗っているマシンは、チームの誰かから借りたものってこと?
「綺堂硯ちゃん、だっけぇ。何でそんな、馬鹿みたいに無駄なことしたのかなぁ」
亜叶さんからの質問に、綺堂さんは薄く笑う。
「別に、大した意味があったわけじゃないですよ。ただ単に、みんなびっくりするかなーって」
「それでもし負けちゃってたら、あなた単なる出オチの馬鹿で終わってたと思うけど、それでも良かったのぉ?」
「え? どうしてわたしが負けるんですか?」
それは本当に不思議そうな、だってそんなことは絶対にあり得ないと、そう言いたげな口調だ。
「……綺堂さんって、みんなが真剣に走ってるのに、自分だけそういう他人を馬鹿にするようなことを平気でするんだね」
「急にどうしたのかな、鳥海さん。道徳の授業なら余所でやってよね。そんなもの、レースには一切関係無いぜ」
「…………」
今更ながら、わたしは理解していた。
綺堂さんが口を開くより前から、この人のことを邪悪だと感じていた、その理由を。綺堂硯は邪悪な存在だ。ただそこに居るだけで、そこに在るだけで、悪意を振りまいている。
いや、違う。
彼女の存在そのものが悪意なのだと、大仰ながらもわたしはそう感じた。悪意が服を着ている、というより、彼女の服も、マシンも、周囲の空気すら、黒々とした悪意で作られているかのようだった。錯覚ではあるんだけど、そんなことを考える。
「……綺堂さん」
「何かな、鳥海さん」
「わたし、あなたみたいな人には絶対に負けない」
「似たようなことを言った人が、過去に二人いたよ。一人はもう、ロードを辞めてしまった。もう一人は今、わたし達の少し先を走ってる」
むつほちゃんのことだ。最初の一人というのはおそらく、むつほちゃんの語ってくれた、怪我でロードを引退せざるをえなくなったという人のことだろう。
綺堂さんの薄笑いは、不敵な色を浮かべたままだった。続ける。
「まったく。弱い奴ほど、敵を作って挑戦をしたがる。強い奴はつらいね」
挑発的な、その言葉が終わる辺りで。
前を走っていた逃げ集団の最後尾が、わたし達の視界に捉えられた。
ゴールが、近い。
逃げ集団は、レースが残り十キロを切ったところで吸収された。
中には逃げ切るべく、最後の最後まで頑張っていた人もいたようだけど、それとは逆にチームと合流したい人の方が多かったのだろう。足並みの揃わない集団というのは遅い。ましてや逃げていた人達の殆どは、平坦は専門外のクライマーである。
「……すいませんね部長。作戦、何も達成できませんでしたわ」
合流してから開口一番、むつほちゃんがしょぼくれた様子で謝罪してきた。
山岳の一位通過を獲り逃したことが、それだけショックだったみたいだ。わたしからしてみたら、年上の選手がひしめき合う逃げ集団の中で一人戦い抜いただけでも、充分に凄いことだと思うのだけど。
「気に病む必要は無いな。それより、体力に余裕があるならすぐにわたしの後ろに付け。最後にもう一働きして貰いたい」
「……了解」
チーム御弓はわたしを先頭に、彼方さん、むつほちゃん、久瀬先輩、という隊列だ。
メイン集団と逃げ集団が完全に混じり合って、一つの集団になる――瞬間、そこから抜け出していく一列の影があった。
「鶴崎女子だ!」
真っ直ぐ一列の編成で飛び出していったのは、亜叶観廊さんのいる鶴崎女子だった。亜叶さんは勿論最後尾、エースのポジション。そしてその先頭を引っ張るのは、さっきまでいなかった、鶴崎女子の四人目だ。たぶん逃げ集団にいた選手だと思われる。
「ここでカウンターアタック……ッ!? そんな、でもまだ、ゴールまで十キロ近くあるんだよ!?」
「《距離無制限》の能力ならば、逃げ切れると判断したか。くそ、見誤ったな」
彼方さんが苦々しく呟いている。
「チーム規模でのカウンターアタックと言うよりは、アレがゴールスプリントみたいなもの、ということだろう」
「こんな距離からのゴールスプリントなんて聞いたこと無いですよ!」
「ならば今聞いておけ。そして気を緩めるな、夕映。別にわたし達が追いつけないと、そう決まったわけでもないのだぞ」
彼方さんの、射貫くような視線に突き刺されて、わたしは気を引き締め直す。
そうだ、別に負けが確定したわけじゃない。わたし達が追いつく可能性だって、まだあるのだし。
関東最長のロングスプリンターが亜叶さんでも、関東最速のスプリンターは御弓高校の久瀬水晶先輩なはずだ。
「風咲彼方は一つ、良いことを言ったよね。君が気に病む必要のあることなんて、ひとつも無いんだよ、結橋さん」
隣から聞こえてきた声に、わたしは嫌々ながら視線を向ける。巌本高校の列が、わたし達のすぐ隣まで接近してきていた。
「ちっちゃくて弱っちい君が一位を獲れるはずなんてないじゃないんだから。わざわざ気にすることなんてやめて、もっとしっかり、弱さを受け入れることが大事だと思うんだ」
「綺堂……てめぇ、何でロードに乗ってる!? あのママチャリはどうしたんだ!?」
「あっは、結橋さんてホントに恥ずかしいなー。その辺の話題はもう既に終わっちゃってるのにねー」
何処までも他人を小馬鹿にした態度で、綺堂さんが嗤う。そしてあろうことか、三人編成のままで加速していった。わたし達を置き去りにして、メイン集団から抜け出した鶴崎女子を追い掛けていくかのような勢いで走っていく。
……普通に考えればゴールスプリントをするにはまだちょっとだけ早い。それに巌本の選手は三人しか残っていないのに。
勝つ算段があるってことだろうか?
「彼方さんッ!」
前を向いたまま、すぐ後ろの彼方さんを呼ぶ。作戦を変更するかどうかの指示を仰ぎたかったのだけど、彼方さんは即座に答えてくれた。
「速度を維持しろ! そう簡単に振り切られはせん!」
それに応えて、わたしは意識を前方へと向ける。
残り八キロ。他のチームもそろそろ動き出す。
「夕映。一度替わろう」
そう言って彼方さんが、わたしの前に来た。ドラフティング効果の恩恵がありがたい。最後に備えて一旦足を休めろということだろうか、と思ったけど、たぶん違うのだということにすぐ気付く。
現状このメイン集団を実質的にコントロールしているのは、わたし達御弓高校だ。チーム全員でアタックを仕掛けた鶴崎女子と巌本高校はこのままゴールを狙う気でいるし、それを逃がさないようにするには、今後更にハイレベルなペースコントロールが必要となる。
悔しいけど今のわたしじゃそれが出来ないのだ。だから、彼方さんに任せるしかない。
「海浜公園に入るまでには、わたし達も動くぞ。そしてそこから先はトップスプリンター達の戦いになる。何があっても狼狽えず、お前はお前の仕事をこなすんだ」
「は、はいっ」
わたしの仕事。可能な限り前を牽いて、そしてなるべく彼方さんや久瀬先輩についていくこと。
ゴール地点は、富津岬の突端にある海浜公園。海が近いことは、肌で感じられていた。今現在走っている地点は工場や倉庫が並ぶ殺風景な道だけど、このすぐ先には、もう海があるだろう。潮風が向かいから吹いてきたら嫌だなあ、なんて思いつつ、わたしはこの後に備えて少しでも体力を回復させようと、残っていたゼリー飲料に口を付けた。お腹が空いているとかいうことではない。ただ純粋に、エネルギーを補給するために食べるのだ。
残り五キロ地点で、一組が動いた。集団のすぐ横からチーム全員で先頭まで上がってきて、新たなラインを形成し始める。
オレンジ色のジャージを着たチームで、背中には『大海高校』って書いてある。確かこの学校名って、彼方さんがさっき警戒していたところの一つだ。《ダブルドラゴン》って呼ばれてるエーススプリンターを抱えたチームで、その人の名前は確か……
「実際に会うのは殆ど一年ぶりだな、硝子」
彼方さんが挨拶をしている。話し掛けられたのは、大海の最後尾にいる長身の女性だった。エーススプリンター、竜伎硝子さん。
「やあ、風咲。《風のカナタ》が先頭でアシストとは、随分豪華なトレインだ。何とも怖い感じがするね」
「ここまで大した動きも見せず、眠ったままの竜がよく言うものだな、《ダブルドラゴン》」
「眠っているのはここまでだよ。まさか大事なゴールスプリント勝負を寝過ごすわけにもいかないだろう?」
爽やかにそう言った竜伎さんが笑い、そして、
「《ダブルドラゴン》の名は、去年のインターハイに置いてきた。今年からは新しい名で呼んで頂くよ」
「ほう。茨城大会を征したとは聞いていたが、何か秘策があるのだな」
「《ツインヘッド・スプリントドラゴン》だ」
竜伎さんは勝利を確信したように、強い笑みを浮かべた。
「双頭の竜は二度噛み付く。全力スプリントを二回行える今の私を、去年までの脆弱な竜のままだとは思わないことだよ、風咲。今年の関東は、我々『五人』が頂くからね」
「別にお前ほどの女を脆弱などと思ったこともないのだがな」
皮肉ってみせる彼方さんだったけど、それ以上の会話はなく、大海高校チームは少しずつ速度を上げ始めた。これまでチーム御弓が支配していた集団に反旗を翻すみたいに、新たなラインがペースを上げて前へと進んでいく。
「彼方さん! わたしが――」
「いや、ここはまずオレだろーが」
残り四キロを切ったので慌てて飛び出そうとしたわたしを制して、むつほちゃんが後ろから飛び出した。あのむつほちゃん独特の走行方の応用なのか、直角に曲がるような軌道であっさりとわたしや彼方さんを追い抜かし、チーム御弓の先頭に立つ。
「これ以上のスプリント勝負には、オレはついて行けねーだろーからなー。今の内に全力出し切って、とっとと抜けてーんだよ」
確かにむつほちゃんは混戦にこそ強いけど、こういう直線的な戦いにおいてはその力を発揮できない。クライマーのむつほちゃんからしてみれば、この辺りが仕事をできる最後のポイントなのかもしれなかった。
「おい鳥海。お前はこの後もしっかり働けよ」
「うん、了解だよ!」
「久瀬さんが負けたら、お前のせいにしてやるからな」
「が、頑張るもんっ!」
「インハイ行けなかったらノーパンチャイナ服でタイムトライアルだぜ」
「そんなことしたら裾がギアに絡んじゃうってば!」
むつほちゃんがグングンと速度を上げていく。彼方さんの前に出たわたしはむつほちゃんのすぐ後ろに付いて、振り切られないよう意識を集中させた。空気抵抗の弱い状態でわたしがしっかりついて行ければ、すぐ後ろの彼方さん、その後ろの久瀬先輩も、体力を温存したままでハイペースが維持できる。逆にわたしがむつほちゃんについていけないような事態になったら、タイムロスが大きく危険だ。
すぐ隣では、大海高校の新興ラインが徐々にこちらより前へ進みつつある。大海高校のアシストは、最初の逃げ集団に誰も送り込んでいなかった。山で一戦交えてきたむつほちゃんでは、脚質とかそういったもの以前に、体力的なハンデがあるのだ。
わたしは思わず叫んでいた。
「むつほちゃんッ!」
「まだ待ってろ、鳥海!」
こちらの絶叫以上の声量で言い返されて、わたしは言葉を止めるしかなかった。後ろに付いて走ることしかできない無力さが悲しい。
完全に縦二列となったメイン集団は、茨城・大海高校の方が一車身ほど前。御弓は今のところ集団二番手となる。前にいるのが鶴崎女子と巌本の二チームだけなので、仮にこのまま行けば、四位通過でインターハイ出場も可能ではあった。
だけど。
「それじゃ……それじゃ駄目なの!」
丁度そのタイミングで、むつほちゃんの脚に限界が来た。走行ラインを外れて、横へ逸れていく。
「負けンじゃねーぞ、鳥海……」
追い抜き様、むつほちゃんがそう呟く声が聞こえた気がした。それは空耳だったかもしれないけど……空耳だったとしても、わたしの心を奮い立たせるのには充分だった。
わたし達は関東大会を一位で通過し、関東地方のチャンピオンとしてインターハイに行くのだ。それが、前年準優勝だった彼方さんの掲げる目標であり、わたし達チーム御弓のみんなが目指すべき目標でもあるのだから。
絶対に負けるもんか。
「夕映、このまま公園の入り口まで引き続けろ!」
彼方さんの檄が飛ぶ。公園の入り口、それは即ち、残り二キロの地点だ。
海から来る風すら穏やかな、平坦の直線。それは誤魔化しの一切利かない、力と力のぶつかり合いである。
目標地点である、公園の入り口はもう視界の先に小さく映っていた。エースから切り離された、先行する三チームのアシスト達をそれぞれ追い抜かして、わたしは必死にペダルを回す。
……酸欠寸前の脳が、肉体を動かす片手間で計算していた。
現状鶴崎女子と巌本は、発射台の残り人数があと一人ずつ。大海は二人。このままわたしがあと少しでも距離を稼げれば、追いつくチャンスは充分にある。あるはずだ。
タイム差だって殆ど無い。先頭を走る鶴崎女子ですら、その背中が見えてるぐらいなのだから。
そして公園の入り口を通過した瞬間、わたしの横を一陣の風が抜けた。
いや、それは厳密には風なんかじゃなかったけど、突風が吹き抜けたんじゃないかってぐらいの一瞬で、彼方さんがわたしの前に来ていた。とは言え勿論彼方さん一人じゃない。すぐ後ろには久瀬先輩もいる。
「か、なた、さん……っ」
「ここまでよく運んでくれたな、夕映」
そう、彼方さんが優しく呟く。
それと同時、反対側から抜け出てくる影があった。ジャージに描かれているチーム名は――
「三柴高校!」
枯れそうな喉が引き攣った声を絞る。彼方さんが警戒していた学校の一つだ。ゴールが近付いて以来姿を見ないから、位置取りに失敗して後方に沈んだとばかり思っていた。
「蓮め、狙っていたようだな」
前に追いつけないかもしれない窮地のはずだというのに、彼方さんの声は何故か少し楽しそうだった。
「奴のアタックは厄介だ。我々も全力で行くぞ、水晶」
「勿論」
短いやり取りで会話を終えた彼方さんと久瀬先輩は、すぐ後ろに張り付いていたはずのわたしを置き去りにして、冗談みたいな加速をしていった。ドラフティング効果があったって、ついて行けやしない。
漂う潮風を切り裂いて進む走り。
……これが、トップクラスの選手達なんだ。いや、全国には他にももっと、凄い人がいるかもしれない。
「だとしたら……」
追走を掛けるメイン集団すら見送りつつ、わたしは呆然と口を開いた。だとしたら。
「だとしたら……わたしはもっと、強くならなくっちゃ」
そうじゃないと、この先足手まといになってしまう。
何よりわたし自身が――あんな凄い人達と肩を並べて走りたいって、そう思っちゃってる。
だから、わたしはもっと強くなろう。
そんな決意を以て、わたしの関東大会は終了したのだった。