初陣の千葉県大会
「……何でこんなことになっちゃったんだろうね?」
「さーなー。部長って今年はもーインターハイ行かなくていーとか、そんなこと考えてんじゃねーのかなーって、ついつい邪推しちゃうぜ」
五月の第二土曜日。
わたし達――わたしと結橋むつほちゃんの二人は、彼方さんに命じられた通りに二人だけで、高校女子ロードレースの、千葉県大会に出場していた。
厳密に言えばまだレースは始まっていなくて、コース整備の関係上、スタート地点の広場で待機している状態である。
会場となるのは、海浜幕張の一角だ。
大きな海浜公園や、高層マンション住宅街、国際展示場などがある一帯の道路を貸し切って封鎖し、一周約十一キロの周回コースを形成している。
女子レースはこの周回コースを五周する、所謂クリテリウム形式らしい。
先週、事前に告知されたコース図の通りに下見走行をしたりもしたんだけど、長い直線が一本と、それ以外は結構入り組んだ走路、という印象だった――高層マンション群の間をすり抜けていくから、仕方がないのだろう。
「しっかし改めて来てみても、このコースは無ーよなー」
両手を頭の後ろに回した、むつほちゃんの気怠げな声。
「全体的に平らで、ゴール前のロングストレートとか完全に平坦一直線だし。オレ、クライマーなんだぜ。こーいうコースはむしろ久瀬先輩とかをエースに設定して闘うべきなんじゃないかと思うがねー」
「うん、わたしも全く同意見だよ」
最近になって知ったことではあるのだけど御弓高校の久瀬水晶と言えば、関東最強クラスのスプリンターとして結構な有名人であるらしい。総合力では彼方さんに劣るものの、平坦に特化されたその脚力は、確かに部内最速である。
しかしそんな頼もしい久瀬先輩は、今回エントリーすらされていない。
スプリント能力で言えば部内二番手となる彼方さんも、また同様にエントリーされていない。
飛車角落ちと言うよりは、飛車ともう一つ、文字通りに王将が無い状態での戦いと言えそうだ。
……改めて考えると、すっごい不安になる。彼方さんはどうしてこんなことを考えたんだろう。勝つつもりが無いのだろうか?
「それで、鳥海。どーするんだ、このレース」
むつほちゃんからの質問に、わたしは少しだけ逡巡してから答えた。
「……彼方さんの思惑が何処にあるのかは分からないけど、わたし達はわたし達に出来ることをやるべきだと、そう思う」
「まー概ね賛成だ。オレはインターハイに行きてーけどそれは参加選手としてであって、別に観戦がてらお土産を買いに行きてーってわけじゃねーしな。こんな序盤で負けてちゃそれも叶わねー」
つまりは今の状況がどうであろうと、ここで勝たなきゃいけない、ということだ。
「千葉県内の参加校は二十一校。その内上位四校は関東大会への進出が出来る、だったよね」
彼方さんから教えて貰った情報を、改めて確認する。
「上位四校って、結構シビアな気がするぜー。こちとら戦力不足が深刻な状態なんだからよー」
最後は全力でスプリント勝負をして下さいね、と言わんばかりのコースレイアウトであるにも関わらず、わたし達二人はオールラウンダーとクライマーという組み合わせだ。
まさか他の学校の選手たちも同じように飛車王将落ちで挑んできているとは思えないので、そんなわたし達はおそらく他校のエースクラスな純粋スプリンターを相手に戦うことになる。
……彼方さん、本当にどういう意図で今回のレースをセッティングしたんだろう。
一年生コンビの二人だけで出場するように言われて以来、何度か質問してきたんだけど、頑として答えてくれなかったし。
今日のレースが終わったら、改めて問い質してみよう。
出来ればそれが、悲しい気持ちでの質問にならないよう、今日はこれから、必死で頑張らなくてはいけない。
レースに臨むにあたってわたしが危惧していたことの一つに『緊張』というものがあったのだけど、これについてはどうにか上手いこと、わたしの心はさほど影響を受けていないらしかった。
ぶっちゃけるまでもなく、わたし鳥海夕映は、公式大会への出場は今日が人生初である。
ゴールデンウィークに地元で行われた小規模な市民レースとかには参加してみたけど、それはここまで大人数ではなかったし、ガチで勝つために来ている人というのも全体の半数以下だった。
けど、このレースについてはやはりインターハイへの出場が懸かっているだけに、みんなの雰囲気がちょっぴり怖いぐらい。
ガチもガチ、完全ガチだ。
無論のことわたしだって真剣に勝ちを狙うつもりだけど――
「おーい鳥海ー。何やら色々とごちゃごちゃに考えてそーなところで申し訳ねーが、そろそろレースがスタートしちゃうぜー」
むつほちゃんのそんな声で、わたしは我に返る。
別に意識が全く逸れていたというわけではないんだけど、やはり少し考えに没頭していたというのはあるらしい。
「考え事ならゴールか最後尾のどっちかでやるべきじゃねーかと思うけどなー」
「う、うん、そうだね。事故になっちゃうもんね」
スタート前にわたし達が陣取ったポジションは、ずらりと並んだ大集団のかなり先頭寄り。この好位置は偏に、昨年の大会で彼方さんが好成績を上げていることからのものだ。
まさかその大本命が欠場ということで、去年を知っている他校の二・三年生達はさぞかし驚いていることだろう……。大丈夫ですよ、わたし達もじゅうぶん驚かされましたから。
ずらりと並んだ、ロードレーサーと女子高生。その人数は、最大に見積もって八十二人だ(一校あたりの参加人数は四人だから、各校それぞれメンバーを揃えてきていると仮定して、ウチの二人分を引いてその数字になる)。
審判の人の声がスピーカーで拡張され、周囲に大きく響き渡る。
レーススタートの合図だった。
「鳥海! とにかく周りに呑まれねーよう気を付けて、オレの後ろに付け!」
開始早々、むつほちゃんの檄が飛んだ。
一斉に動き出した選手たちはそれ自体が大きな波になって、集団を形成する。
これに呑み込まれて後方へずるずると下がってしまえば、それだけで形勢は一気に不利になるだろう。
「大丈夫! ちゃんとむつほちゃんの後ろに入ってるから!」
「少しすればまた動きがあるだろーから、とにかくオレの後ろを離れるなよー。今日はお前がエースなんだからなー」
「わ、分かってるよ。頑張るからねっ」
ロードレースに出場する選手というのは、基本的に一人一人が役割を持ち、それを実行するために走っている。
単純な勝敗を決めるのではなく、チーム毎の着順を決めるのがロードレースである為、各チームは『エース』となる人を決めて、それ以外の選手を『アシスト』として使うのだ。
アシストの役割は多岐に渡り、エースの風除けになったり、補給の運搬、ライバルへの牽制など、忙しいことこの上ない。
そうして如何にエースの雑務を取り除くかが、レースの結果を左右する。ロードレースがチームスポーツであるのはこのあたりが由来だ。アシストは場合によっては、完走すら度外視してエースに尽くす。このあたりが、マラソンなど他の陸上競技と大きく異なるところではないだろうか。
エースは別に毎回固定にしなくちゃいけないってこともなく、コースレイアウトや各選手の脚質、そしてその場の状況に応じて、臨機応変に対応すればいい。
ウチの部活で言うなら、基本は彼方さんがエースだけど、平坦なコースではスプリンターの久瀬先輩がエースを担うことだってある(今日は出場してくれなかったけど)。
彼方さんも久瀬先輩もいない本日の御弓高校自転車部では、平坦があまり得意ではないむつほちゃんをアシストに、一応オールラウンダーってことで扱って貰っているわたしをエースに、それぞれ設定した。
だから、むつほちゃんはアシストとしてわたしのサポートをしてくれようとしている。今日の勝負所まで、基本的にわたしの前をずっと走り続けてくれるのだ。風除けと、そして位置取りの為に。
……でもこのエースとアシストという概念において、わたし達は非常に不利であると言わざるを得ない。
風除けになる人数は多ければ多いほど有利であり、極端な話、エースの力が全くの互角であるならあとはアシストの多い方が勝つと言ってもいいぐらいなのだから。
むつほちゃんはクライマーでありながら、この平坦ステージで最大二人分というアドバンテージを覆す走行をしなければいけない。
そしてわたしはそのアシストを得て、おそらく上級生揃いであろう各校エースと戦わなくてはいけない。
……うわぁ、これ考えれば考えるほどに大変そうだなぁ。
「勝負所まで、ちゃんと体力を残しておかないと……」
レースは開始早々、動きを見せた。
数人の選手が集団から飛び出して、一気に加速を始める。アタックだ。
幸いなことに、わたし達は集団の中でも結構前寄りにいたので、その様子はしっかりと見て取れた。
それぞれバラバラのチームから、合計四人の選手が小集団を作ってアタックを仕掛けた。
「むつほちゃん、どうしよう? このまま逃げが決まっちゃうと、自動的に四位までが決まっちゃうよ……」
「慌てるこたねーよ。どーせ最後までは逃げ切れやしねー」
不安から思わず声を掛けたわたしに、むつほちゃんは力強く言ってくれる。
「鳥海、お前も海外のレースDVDとか見て多少は勉強しただろーが。こんな序盤で仕掛けられるアタックなんざ、成功率一割以下の博打みてーなもんだ」
「まぁ確かに、そうだったような気もするけど……」
「実際今飛び出していった奴の誰も、エース級の選手はいなかったしな」
「……えと、有力選手は温存させて、アシストの一人を様子見に送り出した、って感じ?」
そう聞いたわたしに、むつほちゃんはにやりと笑う。
「分かってるじゃねーか。いーか鳥海、お前の場合こんな大人数で走るのはそもそも初めてだろーから説明してやるが、大集団で走ることと小集団で走ることってのには、体力的に大きな違いがあるんだ」
「っていうと?」
「格ゲーを思い描いてみろよ。あーいうゲームで使われる体力ゲージが、オレ達の頭の上にもそれぞれ一本ずつ表示されてる状態をさ」
……それは何というか、想像するにとても奇妙な構図だなぁ。だって今のわたし達って、八十人近くが固まって走ってるんだよ? すっごく人口密度の高いオンラインゲームみたいじゃない。
それはそれとして、むつほちゃんの説明は続く。
「このゲージってのは、走ってれば否応なく消耗していく。但し前に風除けになってくれる相手がいれば、そのゲージが減るペースってのは、かなり抑えることが出来るわけだ。体力ゲージの長さ、つまりスタミナってのは人それぞれあるもんだろーが、先頭を走る機会の少ない大集団の中にいた方が、当然消費量は少ない」
むつほちゃんの説明は、ゲーム世代バッチリなわたしにはとてもよく分かり易く聞こえた。確かにゲージの総量で言えばわたしよりむつほちゃんの方が上だろうけど、今はそのむつほちゃんがわたしの前を走っているから、わたしの方が減りが遅い、と。
「だから逃げの人達に追いつくことは、そう難しくない、ってことだね」
「まーなー。もっともこんなのはあくまで机上の空論で、それを引っ繰り返すことのできる事態なんてのも色々あるから、油断できるわけじゃねーけど」
答えながらも、むつほちゃんは前方を伺うことを怠らない。集団に何か動きが無いか、こまめに気を配ってチェックしてくれているんだろう。
わたしも、接触事故にならないようにだけは気を付けつつ、前を見た。
今現在通過しているのは、おっきい公園と高層マンションとの間を縫うように抜けていく、比較的狭い区間。先程アタックを仕掛けた逃げ集団は、入り組んだコースの先を走っていて、もうすっかり見えなくなった。
思わず焦りそうになる意識をどうにか落ち着けて、わたしはボトルの水を口に含む。
レースはまだ、残り四十キロ以上もある。
波乱があるのは、きっとまだまだ先の話なのだ。
「……捉えたぜー」
むつほちゃんが報告してくるのとほぼ同時、わたしも自分自身の目で、先行して逃げていた小集団を確認していた。
「残り一周ちょい。……ち、逃げるんだったらもー少し気合い入れろよなー。捕まるの早過ぎじゃねーか」
むつほちゃんが、不満そうに声を溢す。わたしは思わず、それに質問をしていた。
「……早いと、やっぱりまずい?」
「そりゃーな。ギリギリのところまで粘ってくれれば、メイン集団が連中を吸収した所で勝負に出られたし、こっちとしちゃーそれが一番戦いやすかったんだが」
「ああ、なるほど、確かにそうだね」
わたし達は人数や脚質といった点で不利である。なのでメイン集団の力を上手く利用できる状態のままでゴール前まで行ければ、力の消耗を抑えて勝負が出来たのだ。
「でも、逃げの人達、もうすぐ捕まっちゃうよね」
逃げ集団との距離は、もう五十メートルほど。これでは逃げ切れないだろう。いや或いは、チームの作戦としてここらへんで捕まるよう計算していた人がいたのかもしれない。
だとすれば、逃げ集団に選手を送り込んでいたチームに、何かしらの動きがありそうだ。
「鳥海、最後まで油断するなよー」
むつほちゃんの言葉に、わたしは頷いた。
そして逃げ集団の人達は、残り一周に差し掛かるあたりで全員が捕まった。
とは言えメイン集団の方も、ここまで四周走ってきて、チーム毎の人数に結構なばらつきが出てきている。ペースについてこれなくなった人達が集団から遅れていった、という話が、最後尾の方から伝わってきていた。
残り十キロ。
誰が勝負を仕掛けてもおかしくない距離だ。勿論、わたし達だって。
「ッ! ……むつほちゃん!」
咄嗟に、わたしは叫んでいた。
集団の左右からそれぞれ、六人の選手がペースアップして抜け出したのだ。
六人、但し、チーム数で言えば二校だ。
それぞれの着ているチームジャージには見覚えがある。どちらも最初の逃げ集団に、一人ずつ選手を送り込んでいるチームのはず。
「……この展開を計算して、事前に仲間を逃がしてペースコントロールをしていた、ってことだよね」
わたしの質問に、むつほちゃんが緊張を孕んだ声音で答えてくれる。
「そうだなー。ちなみにこれがどーいった危険性を含んでいるか、分かるか?」
「えっと……飛び出した二チームとも、逃げ切る為の体力と、いざというときのスプリント力の両方に自信がある、ってこと?」
「……正解だな」
言葉と共にむつほちゃんが舌打ちをする。
抜け出した二チームはそれぞれ協調し合うことなく、二列に分かれて走っていた。ゴール前さながらにぐんぐんと加速していくのは、こちらを追いつかせないようにする作戦なんだと思う。
少し進んだところで、それまで両チームの前を引き続けて走っていた人が横へ逸れた。
「……切り離した!」
ゴールが近い状況では、ああしてアシストの選手が一人ずつ、限界まで走り込んでペースを上げ、どんどん加速していくことがある。強力なスプリンターを擁するチームの常套手段だ。
そしてそうやって加速していく二チームは、凄く速い。
「ち、しゃーねー、鳥海、こっちも気を引き締め直すぞ」
「うん、分かったむつほちゃ――」
答えかけて、わたしは言葉を詰まらせた。
そのまま喋っていたら、舌を噛んでいただろう。
前でスプリント勝負を始めた二校に触発されるように、こちらの集団内でもペースアップが激化してきていたのだ。それは人の波がうねりになって、波の中にいたはずのわたし達にも襲いかかった。
メイン集団の先頭寄りという良好な位置取りをキープし続けてきたわたし達だったけど、集団内での先頭争いが起こって、中程まで後退させられてしまったのだ。
わたし達が遅かった、と言うか、わたし達の加速タイミングが遅かった、って感じ。
「むつほちゃん、道が――」
「あー、分かってるよ」
苦々しい、むつほちゃんの声。
先行する二校に、今から追いつくのは大変なことだ。
でも三位四位を狙おうにも、道いっぱいに広がった他校の選手達で、わたし達は前に出ることが出来なくなっていた。
人が、壁になって立ちはだかっている。
今現在走っている辺りが、今日のコースの中で一番狭い区間だからというのもあるんだろうけど、かといってこの先はマンションの間を抜け、最後の直線に出るだけだ。わたし達としては、その直線に差し掛かるより前の時点で、どうにかこの集団の先頭寄りに行っておきたいところだった。
「でも、これじゃ……」
絶望的な心地で、わたしは呟いた。
ここまで走ってきた疲労が、いきなり何倍にもなって両脚にのし掛かってくる。実際には、疲労はちょっとずつ蓄積されていたんだと思う。でもこれまでは一応大きなトラブルもなく走れていたから、意識が向かなかっただけだ。
急激に起きた変化に耐えきれないのは、まずはわたし自身の心らしい。弱音を吐いちゃいけないって分かってはいる。でも――
「……ち、出し惜しみしてられる状況じゃなくなってきたかなー」
ふと、むつほちゃんが呟いた。
それはひょっとしたら、こちらに聞かせるための言葉なんかではなく、ただ純粋に漏れた、完全な独り言だったのかもしれない。
心の中で何かしらの葛藤があったらしいむつほちゃんが、ちらりとこちらを見る。
その瞳から、何かしらの感情を窺い知ることはできなかったけど――それでもむつほちゃんは言った。
「いいか鳥海、オレ達は作戦は変えねー。このままお前をエースにして、ゴールを狙う」
「前へ行く手段がある、ってこと?」
わたし達の前を走る選手達も、ゴールが近いことで今は必死に走ってる。別に無理矢理進路妨害をしようという気持ちはないんだろうけど、それにしたって追い抜きのスペースなんか何処にも残ってはいないのだ。
そんな状況を引っ繰り返そうっていうのなら……何かが必要になる。それが何かは分からないけど、むつほちゃんはそんな秘策を持っている気がした。
「今からオレが道を作る。大した隙間は無ーだろうが、どーにかそこをこじ開けてついてこい」
「ぐ、具体的にわたしはどうすればいいのっ!?」
「とにかく出来る限り、オレの後を走れ。完全に真似るのは無理だろーがこのぐらいの人口密度なら、よく見てりゃついてくるぐらいはできるはずだぜ」
「~~……、よく分からないけど分かったよ!」
どうせ時間も距離も、殆ど残っていないのだ。体力だってあんまり残ってない。むつほちゃんに作戦があるというのなら、それに任せるしかないだろう。
わたしの大声での返事に、むつほちゃんは満足げに笑みを浮かべて首肯した。
「上等な返事だぜ、鳥海。じゃーしっかりついてこいよー」
……そこから先は一瞬だった。あまりにも短い時間のことだったので、全てをはっきりと見られなかったぐらい、ほんの僅か。
その一瞬でむつほちゃんが、自転車とは思えない軌跡を描いて集団の中に入り込んでいったのが見えた。
人と人の間、マシンとマシンの間の僅かなスペースを、文字通り縫うようにしてすり抜けたのだ。
神業と言うべきそのすり抜け技術で、むつほちゃんはあっという間に集団前方へ行ってしまった。
……って、わたしにもあれをやれってこと? 今の、神業的な走り方を?
そんなの絶対無理、と思ったところで、むつほちゃんの言葉を思い出す。完全には真似られなくても、と言っていた。
「そっか!」
むつほちゃんが通った道筋というのは、他のルートと比べて比較的、すり抜けがしやすい場所だったのだということに気付く。
だからそこをなぞるようにして走っていけば、むつほちゃんほど鮮やかにいかなくとも、どうにか前に出られるかもしれない。
他の選手にちょっぴりぶつかっちゃったり、無理矢理通ろうとして嫌な顔をされたりしつつ、先にむつほちゃんが通ったルートを選択してどうにか前方を目指す。
ほどなくして、わたしは集団の前寄りに復帰していた。
「……お待たせ、むつほちゃん」
「ギリギリセーフだったなー」
その言葉通り、わたしがむつほちゃんに追いついてすぐに、コースは大きな右カーブを描き、そして最後の直線に差し掛かった。周りを他の選手達が走っている中、みんなで仲良く車体を傾けてカーブを曲がる。
直線で車体を起こした直後、むつほちゃんが言ってきた。
「前の二チームは、どっちもアシスト一人しか残ってねー。こりゃ案外、連中にも追いつけるかもしれねーな」
「わたし達の作戦って、三位か四位狙いじゃなかったっけ?」
「確かにそーだが、貰えるモンは貰っとくってのがオレの信条だぜー」
「あははっ、同感っ」
一位が射程圏内だというなら、それも狙うまでだ。
わたし達は、御弓高校女子自転車部。
インターハイ出場、そして、日本一を目指すチームなんだから。
閉会式が終わって、選手控え室のベンチに座り込んでいたわたしの首筋に、突然冷たい感触が伝わった。
「ひゃううっ!?」
「おお、いいリアクションだな、夕映」
振り向くと、そこにいたのは彼方さんだった。その手には今の冷たい感触の正体らしい、缶入りのジュースがある。
「今し方すぐそこで結橋にも同じことをしたのだが、このジュースより冷たい視線を浴びせられたところだ」
「……うん、まぁ、むつほちゃんはそういうことで驚いたりしなさそうですけど」
彼方さんは手にしていたジュースをこちらに差し出してきてくれた。自分用なのかと思ったけど、どうやら差し入れらしい。一応のクールダウンは済んでいるとはいえ、この冷えた感触はなんとも心地よくてありがたかった。
「久瀬先輩は、来てないんですか?」
「向こうの芝生で、結橋のクールダウンを手伝っている」
「彼方さんじゃなくて、久瀬先輩が行ってるんですね」
「今わたしが行けば、先程の『必殺技』について質問されるのではないかと、結橋も警戒するだろうからな。その点、水晶ならばそんな心配も無い」
確かに……久瀬先輩って普段から極端に口数が少なくて、口を開くときと言えば大抵短い言葉ばっかりだもんなぁ。
それ以外の時は大体何か食べてるし、あの人。
「とりあえずはおめでとうと言わせて貰うぞ、夕映。よく頑張ったじゃないか」
「あはは……どうにかギリギリ、四位に滑り込んだだけですけどね」
ちょっぴり気恥ずかしく、わたしは後ろ頭を掻く。
一位を狙う、という気概でゴール前勝負に挑んだまでは良かったけど、結局先行する二チームには全然追いつけず、集団内のスプリント勝負でどうにかこうにか、四位になったというわけ。
集団内に残っていた他校のスプリンターに負けないよう、むつほちゃんが上手い具合に走行ルートを確保してくれたのが、わたしなんかが勝ち残れた理由の一つだ。ちなみにむつほちゃん曰く、
『そもそも走ってみてから分かったことだが、この大会に出てるチームの殆どは、決してレベルが高いわけじゃねーみたいだったな』
とのことだったけど。
「……しかし、あれが夕映の言っていた、結橋の走りか」
短い嘆息と共に、彼方さんがわたしの隣に腰掛けた。
「彼方さんは、あれが見える位置で見ていたんですか?」
「ああ。丁度、近くのマンションの二階に親戚が住んでいたからな。そこのベランダからレースを観戦していた」
それを聞いて、ちょっぴり意外な感想を抱く。
てっきり彼方さんは、ゴール前の勝負を見に来るかと思っていたのだ。
「うん? ああ、確かにゴール前スプリントも気にはなったが、そちらは水晶がビデオカメラ片手に待機していたしな。部長として今後のことを考えると、やはり結橋がどう走るかを見ておきたかったんだ。狭いコースで集団を俯瞰できるポジションが望ましかった」
「ひょっとして今回のレースにわたしとむつほちゃんの二人だけをエントリーさせたのって、その為だったんですか?」
要は、むつほちゃんが、本気を出して走らざるを得ないような状況を作り出す為に。
「理由の一つではあるが……そうだな、重要度で言えば、それは二割と言ったところか」
苦笑し、彼方さんはわたしの頭の上に手を置いた。一応さっき軽く汗は拭いたのだけど、まだ少し髪の毛が湿っているわたしの頭を、ぽんぽんと、子供をあやすみたいに撫でてくれる。
誤解を恐れず正直なことを言えば、わたしは彼方さんにこうして頭を撫でて貰うのが、結構好きだ。……って別にそんなことをここで宣言しなくてもいいか。
「残りの八割は、夕映と結橋の実力や成長度合いをしっかり確認したかったからだ」
「わたしとむつほちゃんを?」
「これから関東大会、そしてその先のインターハイを戦い抜いていくからには、四人全員の実力が確かでないといけない。ロードレースはチームで走る競技だからな。夕映と結橋が今後のレースを戦えるかどうかを、今日見極めたかった」
力強い、彼方さんのその言葉がとても嬉しい。けど――
「けど彼方さん、もしわたし達が今日負けちゃってたら、どうするつもりだったんですか?」
あまりにも不思議だったので、わたしはそう訊ねた。実際、最後のスプリントだってすっごくギリギリだったのだ。そもそもむつほちゃんの発射台が無ければ、集団内に取り残されていた可能性だってあったし。
しかしわたしのそんな当たり前すぎる疑問に、彼方さんはあっさりと首を横に振る。
「愚問だな。今日のレースに勝てない程度の仲間しか持てないようであれば、わたしにインターハイを戦い抜く力など無いと言うことになる」
……潔すぎる気がしますけど、彼方さん。
「どれだけの速さや能力があったところで、チームメイトに恵まれなければ、レースに勝つことなんて出来ないんだ。だから今日のレースは夕映達にとって大変な戦いだっただろうが、わたしにとっても戦いだった」
彼方さんの微笑に、安堵の色が混じる。
わたしはそこで、今日一日、というか今日に至るまでの彼方さんの苦労の一端を垣間見た気がした。
確かにロードレースというのは、個々の力と同時に、チームの勢力が問われる競技である。優秀なアシストを持てないエースに勝利は無い。
だからこそ彼方さんは、わたし達がこれから先戦っていける仲間なのかどうか、それを見極めたんだろう。
そして予めわたし達を強く信頼してくれていたからこそ、五位以下になればその時点でこの先の大会に進めなくなるという非常に重要な局面を、わたしとむつほちゃんの二人に任せてくれた。
「ありがとうございます、彼方さん」
「? どうして夕映が、礼を言う?」
「わたし達を、信頼してくれたからです」
「当然だ。わたしは部長だぞ。但し……」
自信ありげに頷いた彼方さんが、その後でほんのちょっぴりとだけ、言葉を濁す。
「結橋がどう感じているか、正直わたしには読み切れないがな。試されたように感じて、わたしに不信感を抱いていなければ良いが」
「それはたぶん、大丈夫だと思いますけど……」
「だがしかし今以上に仲良くなれないとなると、あいつの走行技術の正体については勝手に想像するしかないか」
真剣な表情を浮かべる彼方さん。
つらい立場だな、と思う。仲間を信じたい気持ちもあり、だけど今の時点で隠されている力については推測するしかなく、でも、ある程度は戦術にも取り入れなくてはいけない。
わたしがその負担を、少しでも軽くしてあげられればいいんだけど……。
「わたしは以前お前から聞かされた話から、相手の死角を突く走り方を想像していたが、どうやら違うらしいな」
頷く。
というかわたしもむつほちゃんの走りを見るのは先月に続いて二回目であり、ちゃんと見たということであれば今日が初なのだけど。
「車間のすり抜け時に最適のルートを選択するという、観察力と判断力、そして精密操作の複合技能、といった感じか」
「たぶん、それで間違いないと思います」
先月、校門前の坂道でわたしと競っていたときも、あの技術を使って、わたしを抜かすのに最適なルートを一瞬で判断し、走り抜けたのだろう。
あのときは虚を突かれ、いきなり前に出られたから、まるでワープしたみたいに錯覚したけど。今日の走りを実際に見た限りでは、彼方さんの推測が正しいように思う。
最適な走行ルートの選択。そして、それを実行する精密操作。
それは大勢の選手が入り乱れて走るロードレースの中では、かなり有効な技能だ。
「やっぱり凄かったですね、むつほちゃん。……どうしてそんな凄い、必殺技みたいな走り方を秘密にするのかが、どうしても謎ですけど」
わたしの呟きに、彼方さんは腕組みして答える。
「わたしとしては、どうして秘密なのかよりも、どうしてそんな技術を得ようと考えたのか、の方が気になるがな」
そして、すぐさま続けた。
「だが、結橋と夕映。二人が協力してくれれば、今年こそインターハイで優勝できるかもしれんな」
ぽつりと漏らした彼方さんの言葉に疑問を覚え、わたしは訊ねた。
「わたしですか? ぶっちゃけわたし、そんなに役立てる気はしないですよ?」
わたしには、むつほちゃんみたいな特殊な力なんて無いんですよ。
首を傾げたわたしだったけど、彼方さんは苦笑と共に再び、わたしの頭を撫でた。そして優しい声で、
「お前にはお前自身がまだ気付いていない、お前の魅力みたいなものがあるということだ」
と、分かるような分からないようなことを言った。
「まぁ今は気にするようなことじゃない。わたしの言葉は忘れろ。流せ」
「無茶苦茶ですよぅ」
「何ぃ、あんまりわがままを言うようなら、もう頭撫でてやらないぞ」
「あ、それはちょっと嫌かもしれないです!」
騒いで話をしていると、さっき全力で走ったことによる疲労が、少し楽になっていくような気がする。
ともあれ、わたしは。御弓高校は。
千葉県大会を四位で通過し、次へ進む権利を手にした。
関東大会は一ヶ月後だ。




