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週末のサイクリング

 週末。土曜日、である。

 一昨日の部活でむつほちゃんと登坂の勝負をして完敗したわたしは、彼方さんの宣言通り、本当に彼方さんとデートをすることになった。

 まぁデートとは言っても、実際には二人っきりで少し遠くまで走りに行くという、所謂ツーリングだ。

 ある意味ではそれも、デートと言えなくもないかもしれないけど。

 補習みたいなもの、というのが一番正しい認識なんだと思う。

 四月最終週の土曜日ということで、三連休の初日でもある今日は、何処へ行っても人が多い。そんな日の朝に彼方さんが指定してきた待ち合わせ場所は、わたしの地元の駅前だった。彼方さんの自宅は駅で言えば二つ離れた所らしいので、これはわたしに合わせてくれたってことだろう。

 休日ということもあって、お母さんは朝の六時台ではまだ起きていなかった。

 いちいち起こすのも悪いけど、かといって何も食べずに自転車に乗るというのは絶対に出来ないので、家にあるものを適当に食べることにしよう。

 トーストにバターを塗って一枚にはメープルシロップ、もう一枚には蜂蜜を掛け、砂糖多めのカフェオレを飲み、バナナを齧る。

 取り敢えずはこのぐらいにして、途中のコンビニでおにぎりと、あとはどら焼きでも買おうかな。

 ……一応断っておくと、これは別にわたしが極度の甘党であるとか、あとは極度の大食らいであるとか、そういうことじゃないよ。

 自転車競っていうのは全身をフルに、且つ長時間使い続ける、いや酷使し続けるスポーツなので、走る前にたっぷりと栄養を補給しておかなくては、とてもじゃないけど身体がもたないのである。

 特に糖分というのは体内で即座にエネルギーへと変換されるので、自転車に乗る前であれば摂り過ぎという心配も無い。お年頃の女子高生には嬉しい話だ。まぁ、その分運動しなくちゃいけないから、決して楽な話でもないんだけど。

 今日、これからどういった場所をどのぐらい走るのかがまだ分からないけど、もし摂取したエネルギーが過剰になってしまうようであれば、一人で走り込みを続けてもいいし。

 食事後はサイクルウェアへと着替えを済ませて、冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを取り出し、中身を自転車用のボトルに移し替える。

 玄関で、まだ二階で寝ているであろうお母さんとお父さんに小声で「いってきます」を言い、家を出た。

 家の外、おうちの車を停めてあるガレージの中に、わたしの自転車もある。

 シャッターを開いて、マシンをスタンドから外す。

 TREK(トレック)というメーカーの、黒いロードバイク。中学二年生の時、お年玉の積み立てを一気に崩して買った、わたしの愛車だ。

 すぐ横に引っ掛けてあったヘルメットを被り、手荷物を入れたポーチを腰に。

 サイクルウェアの腰らへんには、小さな荷物を入れられる程度のスペースが作られているのだけど、走行中に鍵や携帯電話などを落としちゃうのは怖いので、こういう小さなポーチは役に立つ。別にレースをするわけではないのだし、このぐらいは邪魔にならないだろう。

 シューズの底にある金具が、かちり、という音を立ててペダルと一体化する。

 その動作によって、わたしの肉体と、わたしの自転車とが、文字通り一つのものとなった。

 走り出す。

 ――ロード、ロードレーサー、ロードバイク。様々な呼び方はあるけど、要はそれは、自転車の頂点となる乗り物である。

 走ること、とりわけて速く走ることだけを追求して完成された、最強の自転車。

 それがロードレーサーだ。

 カゴも、ベルも、スタンドも、泥よけも、サスペンションも、ライトも、反射板も、何も無い。そこにあるのは、走ることに必要なパーツだけだ。

 もっともわたしの場合レース専用マシンというわけではないので、普段はベルやライトや反射板など、安全性に関わる装備は外していない。公道での装着義務もあるしね。

 待ち合わせ場所である駅に行くより先に、わたしは家の近くのコンビニでチョコレートや栄養補給食などを買う。

 大抵のサイクルウェアは空気抵抗を考えて身体にフィットする作りになっているから、乗り始めの頃などはこの格好で買い物などをするのがちょっぴり恥ずかしかったものだけど……人間、何事にも慣れるものだね。最近ではすっかり気にならなくなってしまった。これから先、わたしの胸が彼方さんぐらい大っきくなったら、むしろ誇らしげに歩けるんじゃないかとさえ思う(果たして大きくなるかどうか)。

 靴底の金具がカチャカチャと鳴って歩きにくいのにも、すっかり慣れたし。

 少し走ると、丁度駅の方へと曲がる交差点で、信号待ちをしている彼方さんの姿を見つけた。

 彼方さんもわたしと同じようにサイクルウェア姿で、ヘルメットもしっかりと被っている。

 ……しかし本当に、ウェアの似合うプロポーションを持つ人だ。身体のラインが明確になるウェアを着ても、恥ずかしいと感じることは絶対に無いだろう。あのスタイルの良さと風格は、彼方さんの同世代にもそうそういない。

 声を掛けつつ近付き、わたしはそんな彼方さんと合流した。

「彼方さん、おはようございます」

「うん、おはよう、夕映」

 挨拶を返してきた彼方さんが、わたしの腰にあるポーチをちらりと見やる。

「買い物は済ませてきたか?」

「はい、一通りは」

「ではコンビニは寄らなくて大丈夫そうだな。わたしも買い物は終えているから、準備が良いようなら早速スタートしてしまいたいと思うが、構わんか?」

 彼方さんの言葉に、わたしは頷いた。

「では、夕映」

「はい」

「これからデートを始めるぞ。ついてこい」


 そんなわけで走り始めたわたし達だけど、一つ大事な問題というか、疑問があった。

 それは、わたしが今日のデートの行き先を知らない、ということだ。そんなデートってあるだろうか?

 率先して前を走りわたしを先導してくれる彼方さんにそれを訊ねてみたのだけど、返事はあまり要領を得るものではなかった。

「サプライズの意味も含め、秘密にしておきたいところだが……そうだな、楽しいところ、とだけは言っておこうかな」

「いやでも行き先分からないと、前も引きづらいですよ」

「安心しろ。今日のデートはわたしが誘った立場なのだから、しばらくはわたしがエスコートしてやる」

 あくまでも今日のツーリングをデートという建前から崩そうとしない彼方さんが、とんでもないことを言い出した。

「それじゃわたし、何の練習にもならないんじゃないですか?」

「別に良いだろう、たまには。レースに出るとなればわたしは前を引くことが許されんのだから、このぐらいはさせろ」

 よく分からないことを言う。

「例えば帰り道は夕映に引いて貰う、とかでも良いぞ。まぁとりあえずは、わたしの後ろについてこい」

 そう言って、彼方さんは完全に前を向いてしまった。トークタイムは終了、ということだ。

 こうなるともう、黙って前を引いて貰いながら走るしかない。

 速度が増せば増すほど、前を引いて貰う恩恵は大きくなっていく。

 空気抵抗は速度に比例して強くなっていくので、風除けになってくれる人がいるというのは体力的にかなり楽なことなのだ(普通は、チームのエースである彼方さんを護る為、わたしとかが前を走るべきなんだろうけど)。

 駅から住宅街の辺りをパスして、田園地帯を走り抜ける。

 歩道が無く狭い道なので、大きい自動車が横を通り抜けていく時などはちょっぴり怖い。こちらも時速三十キロ以上は出しているけど、自動車はその倍以上の速度で走り、大きなトラックなんかはこちらを巻き込むようなもの凄い風を起こす。

 事故にならないよう、気を付けて走らなくてはならない。

 少しするとそんな道が終わり、広めの幹線道路に出た。

 道が広くなった代わりに、今度は自動車の交通量が目に見えて増えている。

 これはこれで怖いのだけど、前を走る彼方さんはすぐに進路を変更して、その幹線道路からも外れていった。

 高架の高速道路と併走する形の、二車線道路へ入る。

 信号が少なく、且つ一直線の平坦が長く続く道路であるため、部活でもよく使われるコースだ。というか中学時代、一人で走るときにもわたしはこの道をよく使っていた。

 走りやすくなったからだろうか。彼方さんが一度こちらの方を振り向いて告げてきた。

「少しペースを上げるぞ、夕映」

「え、あ、はいっ」

 少しのんびり仕掛けていた意識が、話し掛けられたことで一気に現実へ戻ってくる。

 わたしがちょっぴり油断していたことを見抜いたのか、彼方さんは少しだけ意地悪げな笑みを浮かべた。

「振り落とされんよう、しっかりと付いてこい」

 瞬間、彼方さんの何かが変わったような気がした。

 明確に何が、と表現することは出来ないのだけど、そう、無理にでも言葉を探すのであれば、『凄味』のようなものが表れた、という感じだ。

 別に忘れていたわけではないけど、それでも今、改めて思い出す。

 風咲彼方という選手は昨年のインターハイで総合五位を獲得した、全国区のオールラウンダーなのである。

 そんな有名人に前を引いて貰うのって、結構凄いことなんじゃない?

 但し、わたしがちゃんとついて行ければ……なんだけど。

「か、彼方さん……っ、速いッ」

 感想は無意識の内に、わたしの口から溢れた。

 前を走る彼方さん。わたしはその後ろに付くのが精一杯の状態だ。

 普通、前を引いて貰うことができれば、空気抵抗は大きく低減され、体力の消耗を抑えることが出来る。即ち、比較的楽に、速い速度で走れるのだ。

 だけど今のわたしは、彼方さんについて行くのに殆ど全力を使ってしまっている状態で、風除けの恩恵にあやかるとかそういう余裕もない。

 実際にはまだギリギリ彼方さんの後ろに入れているので、当然のことながら空気抵抗が低減された状態で走っているのだけど。

 もしこれが併走の状態だったとしたら、わたしなんてとっくに置き去りにされてしまっているだろう。

 対する彼方さんは、まだ全力走行、といった様子でもない。せいぜい高速巡航……って感じだ。

 そういえば彼方さんってタイムトライアルが一番得意なんだっけ。わたしなんて時折、立ち漕ぎ(ダンシング)も交えてついて行ってるぐらいなのに。

「どうした夕映。速くなりたいのなら、早くついてこい」

「が、頑張ってますよっ!」

 結構な頑張りをしているつもりだけど、彼方さんからしてみたらまだまだ、ってことなのかな。でもこれ以上速度を上げられちゃうと、いよいよもってスプリントでもしないと追いつけなくなってしまう。

 ……一応幸いなことに、彼方さんは今以上にペースアップをするつもりは無さそうだった。高速巡航のままで、ただひたすらにまっすぐ走っていく。

 途中で、それまで走っていた道と分かれ、別の国道へ。千葉県の更に内陸部へと向かう広めの田舎道であり、道はどんどん走りやすくなっていく。

 都市部の面影は、既に全くと言って良いほどに残っていなかった。田んぼと山が視界一杯に広がり、この辺り一帯はもはや民家すら疎らだ。

 途中何度か集落の近くを通過したりもしたけど、彼方さんは基本的にペースを緩めようとしなかった。わたしがついていけるギリギリの速度を計りでもしたのか、絶妙なペースを維持している。

 出発してから、二十五キロほど来た辺りだろうか。それまで黙々と走っていた彼方さんが、久し振りにこちらへと振り向いてくれた。それまでの言葉は大体進路変更などに関する短い言葉――この先を曲がるぞ、とか、道が狭まるから気を付けろ、とか――ばかりだったので、何となく嬉しくなる。

「疲れているか、夕映?」

「疲れてはいますけど……まだまだ頑張れます」

「それは重畳だ。ところで、ここからあと五キロぐらいまっすぐ進んでいくと、結構広めのダム湖があるのだが」

 結局、進路の話だった。

「そこの湖畔にある公園で一度、軽い休憩を入れようか」

「了解です」

「ではダム湖まで競走するぞ」

「それはあんまり了解じゃないですっ」

 出発以来、ここまでタイムトライアルばりの勢いで走ってきたところなので、距離に反してそれなりに疲労もあるというのに、彼方さんと競り合うなんて無茶すぎだ。

 だけど彼方さんは相変わらず、わたしの意見を聞き入れてはくれないらしかった。なんともスパルタな話だが、よくよく思い返してみれば今日の走行は元々、わたしがむつほちゃんに負けたことによる補習授業的な意味合いが強いはずなのでやむなしなのかもしれない。

 ……でもそれって、今日またここで彼方さんに負けてしまったら、またデートという名の補習があるということだろうか。

 い、いけないっ。このままだとエンドレスに負債が溜まっていってしまうっ!

 わたしはこの勝負、負けられないと判断した。

 しかし相手は仮にも昨年の全国五位、風咲彼方。

 普通に考えればわたしが勝てるどころか、競うことすら出来ないぐらい格上の相手だ。

「でも……勝機は無いわけじゃあ、無い」

 自分を鼓舞する為にも、わたしは敢えてそれを口に出した。

 彼方さんは今日、ここまで何十キロもの距離を一人で引き続けてきている。

 しばらくの間だけ、だなんて言いつつ、結局今の時点でまだわたしは一度たりとも彼方さんの前を走れていないのだ。こうして思考している今だって、わたしは彼方さんを風除けにしている状態だし。

 これだけの距離を走ってくれば、それなりに体力を消耗しているはずである。

 わたしだって結構疲れているけど、彼方さんだって楽なはずがない。

 この状況なら、あとはタイミングさえ間違えなければ、わたしでも彼方さんと戦えるかもしれない。

 問題なのは、その勝負を仕掛けるタイミング、なのだけど。

 実際のレースに出た経験が皆無なわたしには、力の使いどころ、というものが上手く判断できない。

 勿論その辺りの駆け引きについても、入部以来色々と教えて貰ってはいるのだけど、やはりそういう面で彼方さんに勝てるとは思えないし。

 ましてや今はその彼方さんと勝負をしているのだから、頼ったりなんてできない。

 自分で考えて、自分で判断するしかないのだ。

 田舎道らしい僅かな起伏を繰り返しつつ、走る。少し行くと、ダム湖へ至る案内標識が顔を覗かせつつあった。

 三キロ先、左折。曲がった所がすぐに湖畔というわけではないだろうから、実際にゴールへの距離はまだもう少し、って感じかな。

 勝負を仕掛けるとしたら、その左折の後だ。

 中距離での高速巡航スタイルのままじゃ、タイムトライアルを得意とする彼方さんには絶対に敵わない。でも残りの距離が短くなったところで一気に飛び出して最速(スプリント)勝負に持ち込むことが出来れば、残りの体力差を考えても、どうにかまともな勝負に持ち込めるはず、な気がする、と思う、かもしれない。

 ……最後はちょっと弱気になっちゃったけど、でも、うん、作戦としてはそれがベターかな。

 そこまで考えたところで、わたしはふと思った。

 自分が苦手としているはずの、こういうレースの駆け引き。それが、何だかとても楽しいのだということに。

「どうした夕映、随分とにやけ顔だが」

 前を走る彼方さんがこちらを見て言った。

「……わたし、にやけてましたか?」

「うむ、それなりにな。女子中学生のパンツでも見えたか?」

 いや別に女子中学生のパンツなんて、見えても特に嬉しくないですけど。

「わたしがにやけていたんだとしたら、それはたぶん……楽しいから、だと思います」

「ほう、楽しいか。それはいいことだな。レースを楽しめる者は伸びが早い」

「そうなんですか?」

「無論だ。楽しくなければ、ロードを続けることなんて出来ないだろうしな。さぁ夕映、早く速くなれ!」

 その言葉と共に、彼方さんがいきなりスピードアップした。いや、これはもうスピードアップどころじゃなく、集団から飛び出して逃げる、アタックと呼ばれる行為の勢いだ!

 彼方さんがアタックを仕掛けて、わたしとの距離が開くと同時。それまで彼方さんによって遮られていた空気抵抗が、一気にわたしの身体を襲った。別に忘れていたわけではないのだけど、それまでの何倍もあるんじゃないかっていうぐらいの負荷がいきなり身体にのし掛かってくる。

 彼方さんの加速があまりにも不意打ちだっただけに、この猛烈な空気抵抗はかなり大きなダメージだった。錯覚などではなくあまりにも明確に、ペダルが重くなったように感じる。

 これまで楽をしてきたツケだろう。

 でも本来のレースであれば、こうして風と闘い、彼方さんを護って走ることがわたしの役割なのだ。

「だったら今だって……堪えてみせる」

 言葉を口から出すことで自分を奮起させ、わたしは前を見据えた。

 彼方さんとの距離は、概算で二十メートル程。

 そしてこれは実に当たり前の話ではあるけど、少なくともあの人より速く走らないことには、距離はどんどん開いていく。

 残りの体力を気にしている場合でないことぐらいは、わたしにも分かっていた。ゴールまでの距離を考えれば、まずは一刻も早く追いつかなければならない。

 彼方さんを追い掛けるため、その彼方さんから教わった技術をここで総動員する!

 太腿らへんに蓄積されつつある疲労については、完全な無視を決め込んだ。疲労の自覚は、やがて身体を止めることになる。けど少しの間であれば、それを誤魔化すことも不可能ではなかった。

 わたしのペースアップが、一応それなりの速度になっているからだろう。先行する彼方さんとの距離が、じわじわとではあるけど詰まってきている。

 彼方さんを完全に捉えたのは、丁度ダム湖へ左折する為の分岐に差し掛かったところだった。

「ほう、よく追いついたな、夕映」

 なんていう、まだまだ余力を残していそうな彼方さんの言葉を耳にして。

 わたしは彼方さんの前を陣取った。今ここがゴールだったらどれだけ良かっただろかと痛切に感じつつ、大きく車体を左に傾ける。

 スピードが乗った状態でのコーナリングというのは、様々な危険を伴うのだけど、幸いにして交差点付近は田んぼになっていて見通しが利いた。自動車や歩行者など、他の交通が全く無い状態だったのは幸運だろう。

 左のペダルが軽く地面を擦るぐらいの勢いで一気に曲がり、すぐさま車体を通常の状態にまで持ち上げる。

 このままゴールの湖畔公園までずっと前を走り続けようと考えていたのに、彼方さんはそれを許してくれなかった。

「コーナリングからの立ち上がりが遅い。コースの先まで見据えたギア選択をしなくては、その隙を突かれるぞ」

 的確にアドバイスをしながら、彼方さんはわたしを追い抜いていく。

「まだ……駄目ぇッ!」

 思わず吠えて、わたしは更なる加速に務めた。ギアは最も重い、アウタートップ。

 気迫一閃、追い縋ったわたしのことを見て、彼方さんが少し驚いたような表情を見せたような気がした。

 極限状態が見せた幻覚であった可能性は高い。

 ただでさえ脳は酸欠不足で、速度も増してきていて視界が悪いのだから。

 でも、一つ見えた。

 前方に広がる広大なダム湖と、その傍らにある、小さな公園の姿が。

「良いものが見られた。これは収穫だな」

 彼方さんの声が聞こえた――背後からではなく、すぐ隣から。

「か、彼方さんッ!?」

「夕映。お前がわたしに勝つのは、どれだけ最短のペースでも十ヶ月ぐらい早い」

 何だか中途半端に具体的な数字を出して、そんなことを言う。そして、彼方さんは笑みを浮かべた。

「頑張ったご褒美に、更なるレベルアップの切っ掛けを見せてやろう」

 がちゃん、という音。

 それが何かは直ちに理解できた。

「アウターギア……っ!」

 ロードバイクに限らずどんな自転車にも共通のことではあるけど、重いギアを使って走った方が、速度は出しやすくなる。わたしも当然、そうしていた。

 しかし彼方さんはよりにもよってこの状況までずっと、そのアウターギアを封印したままだったなんて……!

「デートは続行だな、夕映」

 勝ち誇った笑みと共に告げられたその言葉が、この勝負を終了させる合図になった。

 爆発的な加速をした彼方さんに、わたしは全く、追いつけなかったのだ。


 湖畔の芝生で大の字になって転がり、わたしは何度も荒い息を繰り返した。

 全力で走った後というのは、大抵こうなる。

 別にわたしに限った話ではなく、彼方さんも、わたしみたいに疲労しきって座り込んでいた。もっともわたしみたいに寝転がるのではなく、座って木にもたれかかっているだけというあたり、わたしと彼方さんの体力量の差が表れている気がするが。

 しばらくは休憩というか、そんな疲労困憊の状態で倒れ込んでいたのだけど、どうにか多少は回復してきてから、わたしは彼方さんに尋ねた。

「結局今日のツーリングって」

「ツーリングではなくデートだ、夕映」

「……結局今日のデートって、わたしと勝負するために組んだってことですか?」

 思えば彼方さんがずっと前を引いてきてくれたのも、この展開を見越してハンディを付ける為だった、と思えばしっくり来る。

 だけど彼方さんは首を横に振った。

「勝負自体は理由ではあるかもしれんが、目的ではないな。わたしの目的はもう少し別にある」

「目的……ですか?」

「うむ。それと、夕映とゆっくり喋りたかった、というのもあるしな」

「わたしとって……」

 そう言って貰えるのは凄く嬉しい。ちょっと照れちゃったりするし。でも別に、わたしそんなにお喋りが得意な方ではないですよ?

「夕映はどうして、この世界に来た?」

 その質問はまるで、異世界からやって来た勇者に対してヒロインの王女様が投げかける質問のようでもあったけど、そんなはずがないことぐらいはわたしにだって分かる。何でロードを始めたのか、ということだろう。でも。

「どうしてって言われても……」

「他に楽しいことなんて、いくらでもあったのではないかと、そう思うのだ。実際に競技者として部活の部長まで務めているわたしが言うのもなんだが、楽しいだけのスポーツではなかろう、ロードというのは」

「それは……まぁ、否定はしませんけど」

 確かにロードレースというのは、体力的にも経済的にも時間的にも、色々と大変なことが多い。

 少なくとも、楽ではないだろう。

 でも、わたしは。

「わたしは……」

 言いかけて、わたしは一度口をつぐんだ。ボトルの中の水を口に含んで喉を潤してから、彼方さんに聞く。

「彼方さん、わたしの話、笑わないで聞いてくれるって、約束してくれますか?」

「うん? 笑ってはいけないのか? よく分からんが、分かった、約束するぞ」

 訝しみつつも、あっさりと了承して頷いてくれる彼方さん。

 わたしは改めて、口を開いた。

 そうして語り出す。わたしが、ロードレースを始める切っ掛けになった出来事を。


 切っ掛け、なんて大それた言い方をしたところで、実のところそこまで凄い出来事があったわけではない。

 ただ、子供の頃、ようやく補助輪無しで自転車に乗れるようになったぐらいの年齢の頃に、わたしはとある自転車乗りの人に命を救われたことがあるのである。

 同じ千葉県でも、わたし達が暮らす御弓の街より更に田舎である、鴨川の方にあるおばあちゃんちに行ったときの話だ。それがどういった理由で、果たしてゴールデンウィークだったのかお盆だったのかお父さんの夏休みだったのかとかはもう忘れちゃったけど、おおよそそれぐらいの、寒くない季節におばあちゃんちのある田舎へ行って、その時わたしは、一人で遊んでいたのだ。

 おばあちゃんちの方では同年代の友達もいなかったし、暇を持て余していたわたしは一人、おうちを離れて辺りの探検に出掛けていた。

 そうして道端を歩いているときに――トラックに轢かれそうになったのである。

 今にして思えば、ちゃんと周囲の安全確認をしないまま道路に出てしまったわたしが一番いけなかったんだろうけど、とにかくそれで轢き殺されそうになっていたわたしを助けてくれたのは、一人の自転車乗りだった。

 その頃のわたしが乗っていた、当時流行の女児向けアニメのキャラクターが描かれた小っちゃい自転車とは全く違う、細くて、飾り気が無くて、だけどとても格好いい自転車に乗ったその人は、女の人だった。

 自転車乗りの女性は逆光で顔がよく見えなかったのだけど、一瞬で駆けつけてくれたその人はトラックよりも速く動き、交通事故寸前で硬直していたわたしの身体を片手でひょいと掴んで持ち上げたのである。

 そのお姉さんの身体に触れてわたしも、お姉さん自身や、お姉さんの乗る自転車の一部になれたみたい、だなんて錯覚を抱いたりした。

 もっとも、子供の頃の記憶なので、多分に曖昧なところや記憶違いなんかも含まれているんだろうとは思う。実際、ある程度の年齢になってよくよく考えてみれば、トラックの運転手より早く反応してトラックより速く動いて、子供の身体を片手で持ち上げて救出する、だなんてことの難易度がどれだけ高いかぐらい、流石に分かる。

 わたしが普段、この話を誰にもしないのも、そのあたりが理由だ。あまりにも荒唐無稽で、恥ずかしいから。

 お姉さんは安全なところでわたしを降ろして、これからは車に気を付けるようにと、そんな感じのことを言い聞かせた。そして、現れたときと同じように颯爽と、何処かへ走り去っていったのだ。

 自転車に乗ったその後ろ姿がとても格好良くて、そうしてわたしは、あのお姉さんみたいな自転車に乗れるようになりたいと、将来の夢を抱くようになった。

 その後暫くしてから小学校に入学したわたしが、授業で書いた『しょうらいのゆめ』は――自転車に乗る人、だったのである。


「……当時は子供心に、車に轢かれそうになった、なんて言ったら大人に怒られるかなって思って、誰にも秘密にしていたんですけど。ある程度大きくなってくるにつれて、むしろみんなに信じて貰えないんじゃないかな、って思って」

「なるほどな。だからあまり、人には言わなかった、ということか」

 腕組みして話を聞いていた彼方さんに、わたしは頷く。

 仲の良い友達とかには、一部かいつまんで、車に轢かれそうになったことがあるエピソード、として話したことはあるけど。全部をちゃんと話したのは、今日、彼方さん相手が初めてだった。

「えと、彼方さん……その、笑わないんですか?」

 自分で言うのも何だけど、これは結構無茶苦茶なエピソードかなと思う。けど、彼方さんはどうしてそんなことを聞くのかとでも言うように訝しんで、

「何故笑う必要がある? むしろわたしはそのロード乗りの人に感謝しなくてはならないだろう」

「彼方さんが、感謝するんですか?」

「勿論だ。その人がいてくれなかったら、最悪の場合夕映は事故で死んでいたかもしれないのだし、それでなくても、その時のことが切っ掛けで夕映がロード乗りを目指すようになってくれたのだからな」

 彼方さんはそう言って、微笑んでくれた。

「……じゃあ、わたしも一つ、あの人に対する感謝を付け加えなくちゃいけませんね」

「うん? 助けて貰ったこと以外に、か?」

「はい。わたしはあの人のお陰で自転車に乗るようになって、だからこそ、彼方さんとこうして出会えたんですもんね。それを、感謝することにします」

 彼方さんがわたしに言ってくれたことを、同じように返す。すると、何故か頭をぽんぽんと軽く撫でられた。汗で乱れた髪の毛に触れられ、かき混ぜられる。

「嬉しいことを言ってくれる後輩がいて、嬉しいな」

 そうやって語る彼方さんの表情は、もしかしたら少し照れているのかもしれない。なんとなくわたしも気恥ずかしくなって、話題を逸らす。

「そろそろ、行きますか? 結構、休みましたし」

「ああ。だがその前に」

「その前に?」

 訊ね返したわたしは彼方さんの顔を見て、そして言葉に詰まった。

 話題が変わったのと同時、彼方さんの表情にそれまでとは違う色が少しだけ加えられていることに気付く。真剣味という色を混ぜた顔つきで、彼方さんは言った。

「ひとつ質問だ、夕映。一昨日学校前の坂道で結橋と競わせたが、その上で聞きたい。……わたしと結橋が本気で競ったら、どちらの方が速いと思う?」

 それは、何とも奇妙な質問に思えた。

 言葉の端だけ捉えれば、三年生の先輩が一年生ルーキーの実力に嫉妬してムキになっているようにも聞こえるけど、彼方さんの人間性を考えればそうでないことぐらいはすぐ分かる。そして、そうでないのであれば、彼方さんが本当に聞きたいことって言うのは……何だろう?

「よく分かりません……。というかそもそも、こないだは登りで、今日は平坦だったし」

「確かに比べにくいことだろうが、あくまでざっくりとした印象で構わないんだ」

「そう言われても……。彼方さんは本当に追いつけないぐらいにすっごく速かったですし、かといってむつほちゃんも、なんだか魔法みたいな走り方で、あっという間に抜かされちゃったし」

 要領を得ないわたしの独り言みたいな言葉でも、彼方さんには伝わったらしかった。

 深く突っ込んだ質問を投げかけてくる。

「魔法のような走り方、というのは何だ?」

「……学校前の坂って、ちょっと狭くて、アスファルトの舗装も痛んでるところが多いじゃないですか。だからあのとき、残りの距離のことを考えても、むつほちゃんがわたしを抜くことは難しいだろうな、って思ってたんですけど」

 一昨日の、坂道でのことを思い返す。

 勝利を確信した瞬間、それが覆された。こちらが油断していたというのもあるのだろうけど、本当に一瞬の隙を突いて、むつほちゃんは何故かわたしの前にいたのだ。

「……単純に坂道での加速力だけじゃ、どうにも説明が付かない気がするんですけど」

「ふむ」

 わたしの説明を聞いて、彼方さんは腕組みして小さく唸った。

「まさか瞬間移動なんてことは無いだろうが、夕映の死角を利用して行動したということか? それにしても、夕映の言う通り路面状況や道幅を考えれば、瞬間的にそこまで精密な動きをするというのは難しそうだが……」

 それについては同意だった。

 だからこそわたしも勝利を確信なんてしちゃっていたのだし。

「まったく、結橋の奴め。部長に隠していることが多すぎるな、あいつは」

「……彼方さんって、どうしてむつほちゃんのことは名字で呼ぶんですか?」

 思考の途中ではあったのだけど、わたしはふとした疑問を投げかけてみた。

 彼方さんは基本的に、部員のことを下の名前で呼ぶ。

 同様に、相手にも自分を下の名前で呼ぶようにお願いしているのだ。

 わたしが、一年生という立場でありながら三年生の先輩を下の名前で気軽に呼んでいるのはその為だった(ちなみにもう一人の三年生である久瀬(くぜ)水晶(すいしょう)さんのことは、久瀬先輩と呼んでいる)。

「結橋にも同じように、名前で呼んでくれと頼んだのだが、断られてしまってな。だから取り敢えずはわたしも、名字で呼ぶことにしている」

「……わたし、何も気にしないでむつほちゃんって呼んじゃってますけど、まずかったんでしょうか」

「友情にまずいも何もあるものか。相手が明確に嫌がっていないのであれば、今のまま呼んでやればいい。……もっともわたしの場合は、部長と部員という立場が絡んでくるだけに、少々面倒ではあるがな」

 そこまで喋ってから、彼方さんは言葉を付け加えてきた。

「それに――わたしには見せていないそのとっておきを、夕映には見せたのだ。結橋も別に、夕映のことが嫌いとかそういうのは無いだろうよ」

「でもそれは、単に勝負に負けたくなかったからじゃないんですか?」

 ましてやあのときは罰ゲームで、ノーパンメイド服でのタイムトライアルが賭けられていたのだし。そりゃあ誰だって必死になるだろう。

「そうだとしても、おそらくわたしや水晶との勝負であればその走り方は封印したままだったのではないか、と思うがな。あいつなりにお前に対して、何かシンパシーのようなものがあるのかもしれん」

「同じ一年生だから……でしょうか」

「さぁ。こればっかりは結橋がわたし達にちゃんと心を開いてくれないと分からない問題だな」

 そんな結論に辿り着いたところで、彼方さんは改めて、話題を元へと戻す。

「しかしその特殊な能力を踏まえて考えれば、結橋の隠している実力というのは相当なものがありそうだな。普段の練習だけならそこそこの印象しかないが、わたしの見立ては正しかったと言うことか」

 むつほちゃんの本当の実力がかなりのものだというのには同意見だったので、わたしは頷いた。

 どうして本来の実力を隠すようなことをしたのかは分からないけど、一昨日の勝負で垣間見せた速度と技術があれば、どんな相手とだって対等に渡り合えるように思える。

 けど……謎なのは、チーム内でもそうやって実力を隠すことに、どういった意味があるのか、ということだ。彼方さんを差し置いてチームのエースになりたいというのであれば、むしろチーム内ではより明確に実力を示す必要がある。弱い振りをしても、特に利点というのはない気がするんだけど。

「正確な数値については未知の部分が多いので敢えて深くは考慮しないでおくとして……夕映だ」

「ふぁっ!?」

 シリアスに考え込んでいる彼方さんにいきなり名前を出され、わたしはかなり間の抜けた声を上げた。我ながら情けない音が漏れたと思うが、彼方さんの方はやけに真剣な顔つきで、わたしを見ている。

「今日お前をデートに誘った一番の目的は、お前という選手の出来具合を見定めるためだ」

「わたし……ですか?」

「元々独学で走っていただけあって、基礎体力などの下地はしっかりしていたが、少し専門的な部分になってくると、初心者同然だったからな」

 それについては全く否定できないところなので、聞き入るばかりだ。

 一応自転車部に所属して走るようになってからは、そういった細かな技術や判断能力なんかも、ちょっとずつ身についてきているかなとは思う。

 彼方さんが貸してくれたツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアといったビッグレースのDVDを観て勉強もしているし。

「だから敢えて、軽い勝負の名目で走ってみた。結果として、とりあえず今の段階では問題なく合格だと、わたしは思う」

「あ、ありがとうございますっ」

 素直に嬉しくって、わたしは舞い上がる。

 ウチの部活は監督に当たる人がいない為――顧問の先生ならいるけど――、実質的に彼方さんが監督やコーチも兼任しているのだ。その彼方さんから褒めて貰えるというのは、自分の成長が感じられてとても嬉しい。

「なかなかに珍しい、いいものも見せて貰ったことだしな」

「いいもの?」

 そういえばそれは、先程も彼方さんが言っていたような気がする。

 走りながら見た、湖畔の景色のことではないのだろうか?

 だけど彼方さんは小さく首を振って、

「いや、まだ分からんか。だがどちらにせよ夕映は今後の伸びしろについて期待できそうだし、結橋は少々別な意味で未知数だが……うん、やはり予定通りでよさそうだな」

 そんな独り言の後に続けて発せられた彼方さんの言葉は、今し方褒めて貰った喜びが吹き飛ぶものだった。

「来月の県大会は、夕映と結橋の二人だけで出場するんだ」

 ……。

 …………。

 ………………。

「な、何ですかそれぇッ!?」

 たっぷり時間を掛けて沈黙した後で、わたしは何の捻りもない全力の叫び声を上げる。

 先程の勝負から回復した分の体力を、またしても使い切ってしまうぐらいの勢いだ。

 けど、彼方さんはケロリとした様子で返してきた。

「大丈夫だ。わたしも水晶も、ちゃんと応援には行ってやる」

「そういう問題じゃなくて!」

「お弁当も持参していくから」

「そういう話題でもなくて!」

「しかも、わたしお手製のタコさんウィンナー付き」

「そ、それはちょっと魅力ですけど……っ」

「上位入賞しないと関東大会に行けないから、しっかり頑張ってくるんだぞ」

 彼方さんは笑顔だったけど。

 わたしの方はと言えば、とてもではないけど笑顔で言葉を返す気分にはなれなかった。

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