エピローグ
「おはようございますっ、彼方さんっ」
インターハイの長い長い闘いを終えて一週間後。
まだまだ大絶賛継続中な夏休みのとある一日に彼方さんから呼び出されたわたしは、指定されたとおりの時間と場所に、指定されたとおりの格好で参上し、挨拶をした。
ちなみに指定された格好というのは、勿論サイクルウェアとロードバイクの完全装備。
待ち合わせ場所も、普段走りに行くときによく使う所なので、県内の何処かしらへと走りに行くのだということは想像が付いていた。
インターハイ近くは猛烈な練習の毎日で、のんびり走る機会は少なかったし、週末は県外遠征しての山岳対策訓練ばかりだったし、出来れば今日は久し振りに、のんびりと県内ツーリングだと嬉しいな、なんて思いつつ。あと、彼方さんとお出かけするのがそもそも久し振りなのだし、出来れば楽しいところが良いな、とも思いつつ。
「おはよう、夕映」
到着したわたしに、彼方さんはウエストポーチから何かを取り出し、手渡してくれた。……何だろう、これ。写真?
「って、ああッ、これって!」
「うむ、表彰式の後に撮った写真だ。昨日、雑誌社の方が届けてくれたから、夕映にも渡してやりたくてな」
「へぇ~。……でも、彼方さん」
「む、どうした?」
「わたしこれ、写ってないんですけど?」
そうなのだ。
インターハイの最後、天衣さんに敗れてしまったものの、一応去年より成績を上げて総合二位の座を死守した彼方さん。
そのチームメイトであり、終盤かなり遅れはしたもののどうにかレースを完走したむつほちゃん。
そして補給や応援などでわたし達のチームを支えてくれた他の部員や、先生方。
彼方さんだけが表彰台の二位の場所に立ち、それを囲むようにしている御弓高校のメンバーが写っているその写真には、途中でリタイアしたわたしと水晶さんは写っていなかった。
無論卒業写真とは違い、端っこの方に顔写真が貼られていたりとかもしない。いや、されてても嫌だけど。されてたら絶対文句言うけど。
「わたしってたぶんこの写真を撮影してるとき、救護所で結構大変な感じになっちゃってたはずですよね」
肉体の限界を超えて走り続けた結果、わたしは意識を失って倒れた。
全身の疲労に、脱水症状、ハンガーノック、更には高山病と。考えられる限りの悪条件をコンボで喰らったわたしは、今にして思えば、割と深刻に命の危機だったんじゃないかとすら思う。
「彼方さんてば、わたしがそんなことになってる時に、こんな写真撮ってたんですね」
「それは誤解だ。わたしはゴール後、お前が運ばれたと聞いてすぐに救護所へ駆けつけたのだぞ。だが大会ドクターが大丈夫と言ってくれたから、表彰式へ行ったんだ。この写真だって、その表彰式の後で取材の方から、雑誌に載せるのにどうしても必要だから、ということで撮って貰ったものだしな」
「それにしては、こっちのスナップ写真とか、彼方さんやけに楽しそうですよ。ほら、この天衣さんとか嘉神さんと一緒に写ってやつとか」
「ぎく」
「あーっ! 今ぎくって言ったーっ!」
道端でわいきゃい騒ぎながら写真を眺めていると、その中の一枚に、わたしの写っているものがあった。
最終日の終盤、むつほちゃんと交替しながら山を登っている時のものだ。その写真はわたしが先頭に来ているので、むつほちゃんの姿はちょっと隠れ気味になっちゃっているけど。
「これって……」
「取材の人が、言っていたよ。今後、御弓ではお前の走りに注目していきたいとな」
「わたしに、ですか?」
最後の最後、肝心なところでリタイアしちゃったわたしなんかに。
けど彼方さんは、何を言うんだ、といった感じに首を振って。
「わたしは来年のインターハイにはいないのだからな。鳥海夕映が風咲彼方の跡継ぎとしてどのぐらい成長していくのか、誰だって興味を持つだろうさ。次世代の注目選手として」
「総合三位の綺堂さんじゃなく、ですか?」
「勿論奴もだ。純粋に今年の成績だけで言えば、夕映より綺堂硯の方が優れている分、世間の注目度も向こうの方が高いだろうけどな。だがわたしとしては、次は夕映が綺堂硯を倒して欲しいと思っている」
「できる……でしょうか」
「無理そうか?」
「分かりませ――いえ」
意地悪な笑みと共に聞き返してきた彼方さんに、わたしはすぐさま言葉を取り消し、言い直した。
「やります」
そう、断言した。宣言した。
「綺堂さんだって、鳳さんだって、金銅さんだって、来年出会う新しい大勢の強敵だって、何だって。全部まとめて倒して、来年こそはわたしが、総合優勝を果たします」
それが、風咲彼方のアシストを務めた、わたしの次なる役目だ。
天衣椿さんの伝説を、その身に引き継ごうとしている鳳さんと同じように。
わたしもまた、彼方さんの為、そしてわたしの為に、走りたいって思う。
来年のわたしは、彼方さんの後を継いでエースナンバーを背負って走ることになるだろう。だったら気弱な事なんて言ってられないし、むしろちょっとくらい強気になって、並み居る強敵を迎え撃つぐらいの気持ちが必要なのだ。
何より、同じ部活内でライバルとして立ちはだかることになるであろうむつほちゃんに、エースナンバーを獲られることのないよう頑張らなくっちゃいけない。
《風のカナタ》改め、《神風のカナタ》と呼ばれた、偉大なエースの名の下に。
「わたし、もっと強く、強くなります」
わたしの言葉を聞いて、彼方さんは満足そうに頷いた。
「うむ、頑張れ。それに、あまり呑気にしている場合ではないぞ、夕映」
「? 何でですか?」
「まだ正式決定ではないが、近年の競技人口増加を受けて、一チームあたりの規定人数を増やし、レースの参加チーム数を絞り込むという案が出ているらしい。来年か、再来年か。分からんが、そう遠くない内に可決されれば、一チーム五人という編成で走る日が来る」
「へぇ……凄いですね」
素直に驚いたわたしに、彼方さんは呆れたような嘆息を混ぜ、言う。
「その分、お前やむつほの負担は大きくなるのだぞ。ウチは総合上位校の中では、おそらくぶっちぎりに部員数が少ないだろうからな。今後はチーム全体を強化していく必要がありそうだ」
「うう……やること多そうだなぁ」
さっきの決意が、早くも揺らぎつつあった。
まぁ、弱音なんて吐いてられないし、頑張るだけだけど。
「……とは言え、まだあともう何ヶ月かは、わたしも御弓でエースを張らせて貰うがな。差し当たっては、一ヶ月後には全日本選手権もあることだし」
全日本選手権・U18。
インターハイ同様、全国から自転車乗りの女子高生が集まって、最速を決めるという戦い。そちらはインハイのようなステージレースではなく、ワンデーレースだけど。
勝利の栄誉はインターハイと並ぶぐらいの、重要なレースだ。
今年のインターハイで戦った、九央さんとか綺堂さんとか嘉神さんとか、そういった強敵達もみんな揃って出場してくるだろう。
「今年は結局イエロージャージに袖を通すことが出来なかったが……現役JKでいられる内に一度ぐらいは、アルカンシェルを着てみたいからな」
「……天衣さんの着てた、虹のラインが入ったジャージですよね」
「うむ。椿は一年生の頃からあれを着ているから、そろそろ飽きただろう。あいつと同学年になってしまったからには、高校生の内に着ることは難しいかもしれんと思っていたが……今年のメンバーでインターハイを走ってみて、わたしにも少し欲が出てきた」
彼方さんは強気に笑い、言う。
「次こそは椿を倒す。そしてわたしがチャンピオンになるんだ」
その言葉に頼もしさを覚え、わたしは頷いた。
まだもう少し、御弓高校というチームで彼方さんの為にアシストとして走れる、それが嬉しかった。
「よし。では今日の予定を決めるが……夕映、何処か行きたいところはあるか?」
「ふえ? わたしが決めて良いんですか?」
最初から目的地が決まっているものと思っていたので、わたしは面食らう。
十数秒程考えた後で――わたしは言った。
「彼方さんとだったら、何処へでも」
「ほう、言ったな」
「言いました。言いましたから……今日はわたしが、ずっと前を引きますね」
言いながらわたしはペダルを回して、彼方さんの前を走る。
行き先は、特に決めていなかった。けど、目的無しにとにかく走るだけでも、自転車というのは案外楽しいものなのだ。
「どこまで走れるか、試してみましょっか」
「それも悪くはないな。外房の辺りで一泊するのも楽しそうだ」
日帰りツーリングが、まさかのお泊まりに発展しつつあった。
「なんの準備もしてないですけどね……まぁでも、いいかもしれませんね」
行きたいときに、行きたいところへ行ける。
自分の意志があれば、何処へだって。
自転車とは、そういう乗り物なのだ。
「行きますよ、彼方さん」
「うむ、行こう、夕映」
わたし達は、走っている。
今日も、自転車に乗って。
完