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最終日・山岳カテゴリ

 インターハイ最終日となる六日目の第五ステージは、長野市の市街の短い周回コースから国道403号線へ出て、県内を北上していくルートである。中間スプリント地点を過ぎて暫くしてからは国道292号線で志賀高原へと至る、長く険しい登り坂が続き、ゴールの少し手前には超級山岳ポイント。走行距離は、およそ六十キロほど。

 天気は、昨日とは打って変わっての晴天だった。濡れた路面も朝までには乾ききっている。あの雨に苦しめられて、昨日のステージでリタイアしてしまった選手も結構多いらしい。最終ステージに挑む選手は、総勢で九十人にまで減っていた。

 今日は全体の距離こそ短いけど、最大標高差は千三百メートル以上と、第二ステージや第四ステージの時の比じゃあない。そして距離が短い分、強烈な斜度がわたし達の自転車をお出迎えしてくれる。きっと、今まで以上に熾烈な戦いとなるだろう。

 総合優勝を争っている、《神速のファンタズマゴリア》天衣椿さんと彼方さん。

 そして二十三秒遅れで二人に迫ってきた、綺堂硯さん。

 虎視眈々とタイムを縮めてくる、《天魔の視線(インサイト・テラー)》九央静寂さん。

 総合優勝争いからは殆ど脱落してしまったようなタイム差だけれど、《密林のレッドマフラー》嘉神芯紅さんや、《ロマンシング幼女》子隠筺さんのような純粋(ピュア)クライマーの人達も、オールラウンダーの《歌う不屈》安槌歌絵さんや《異質なる世界樹(ミステリアス・マーメイド)》金銅曜さんらも、ステージ優勝を目指して、そして僅かに残された総合優勝の可能性を目指して、必死に挑んでくるはずだ。

 ……そんな強敵達との戦いにおいてわたし達御弓高校チームは、久瀬水晶という頼れるスプリンターがいない状態で挑まなくてはいけない。

 四人から三人に減ったことが、こんなにも心細く感じるだなんて、わたしは思っていなかった。


 ――昨夜の話。

 わたし達は水晶さんが運ばれたという病院へ赴いた。水晶さんの寝顔は、とても安らかだった。

 お昼のレースで雨に打たれ続けた身体は、相当に冷え切っていたのだろう。わたし達が病室に駆けつけた夜の時点でも、まだとても白く見えた。水晶さんは元々色白な人だったけど……病的、というか、身体が弱っている人特有の何かを感じさせる、そんな白だった。

 車の中で聞いた話だと、レース後に病院へ搬送されたのは、水晶さんだけだったらしい。一緒に逃げ続けていた綺堂さんや、鷹島学院の由良さんなんかは、疲労こそしているものの、特に大事には至っていないみたい。

「最初の山での疲れを引き摺ったまま、無理をしたのだろうな」

 水晶さんの顔を見ややりつつ、彼方さんがそう言う。自分が思考していたことと彼方さんとの台詞が現実でリンクしたような錯覚と共に、わたしは訊ねた。

「水晶さん、意識戻らないんですか?」

「いや、今は単に寝ているだけで、特に意識に障害があるとかそういうことではないようだ」

「……か、なた」

 そのタイミングで、水晶さんが目を覚ます。

 話しにくそうだったので、抱き起こしてあげた方が良いのか迷った。だけど、衰弱しきっているその身体に触れて良いのか判断できなくて、わたしは動けなかった。

 穏やかな笑みを浮かべたまま、水晶さんが続ける。

「ごめん。明日は、あなたを助けてあげられない」

「……気にするな。お前はお前のために、ゆっくり休めばいい。それに、今日はたっぷり助けられたぞ。ありがとう」

 彼方さんの述べた感謝の言葉に、水晶さんは微笑んで頷いた。嬉しそうだった。そしてか細い声で、

「夕映。……明日のこと、お願い」

「分かってます、水晶さん。わたしに任せて下さい」

 そこまで話したところで、体力を使い果たしたんだろう。水晶さんは微笑みながら、また眠りに就いた。

 目尻に浮かんできた涙を、手の甲で乱暴にゴシゴシ擦って拭う。

 ……泣いてなんかいられない。水晶さんの為にも、明日の最終ステージ、頑張らなくっちゃ。

 だけど溢れてくる涙をなかなか止められないでいると、不意に病室の扉が開いた。むつほちゃんが、暗い顔で入室してくる。

「……むつほちゃん?」

 まだほんのちょっぴり涙の付いたままの目でむつほちゃんを見て、わたしは、その表情が暗いことの理由を尋ねる。

「何かあったの?」

「……岩井先生と一緒に、水晶さんの身体のことを聞いてきた」

 その台詞に、わたしは呼吸さえ忘れて続きを待つ。むつほちゃんは言った。

「肉離れだそーだ」

「……はい?」

 わたしも彼方さんも、目が点になる。肉離れって、あの肉離れ?

「いや、でも今、凄い衰弱した感じのまま眠りに……」

「長距離走って疲れてるんだろ、って」

「…………」

「病院食をおかわりし過ぎて、医者にストップ掛けられたらしい」

「……………………」

 どうやら本当に、泣いてなんかいられない――って言うか、むしろ泣いてた自分がちょっと馬鹿みたいだった。


 って、まぁ肉離れってすっごく痛いし、全身疲労困憊で衰弱しきっていたっていうのも嘘じゃないし、水晶さん色々とつらいんだろうけどね。

 けどあれだけ、不治の病っぽい、ともすればこのまま死んじゃうんじゃないかって感じのフラグを立てまくった後で、病名が肉離れ、って言われちゃうと、もう欠片も心配できなくなってしまうから不思議である。ていうか水晶さん可哀想だよね。今だって、足痛いだろうに。

 レースの真っ最中にそんな風に水晶さんのことを思い出したのは、たぶん今走っている場所が、水晶さんに相応しい、一直線の平坦道路だからだろう。

 今日のコースは、中間スプリント地点まではスプリンター向けの平坦が続く。

 こういった状況で頼りになる水晶さんを欠いた御弓高校は、オールラウンダーであるわたしが先頭になり、エースである彼方さんやクライマーであるむつほちゃんを護っていた。

 まぁ、そうは言っても集団内。わたしの位置でも風の抵抗はあまり感じないし、集団の先頭も、鷹島学院と幌見沢農業の二校が引っ張ってくれている。

 スプリント賞に興味を示さない鷹島学院に対して、幌見沢は若干苛立っているようにも見えた。アンタ達もうちょっとペース上げなさいよ、的な感じで。

 このインターハイで最後に残されたスプリントポイントのある、今日の中間スプリント地点。そこまで残り二十五キロ程で、ついさっき出来上がった逃げ集団とのタイム差がおよそ一分。普通に考えれば、まだ焦るような距離やタイム差じゃないし、逃げてる選手達の中にも、スプリント賞上位の人はいないんだけど。

 平坦カテゴリだった昨日のステージで一ポイントも獲得できなかったことが、平坦の覇者である幌見沢を焦らせているらしかった。実際、昨日のレース前まではあんなにあった田鎖鉄輪さんのアドバンテージは、もう殆ど残っていない。

 特に、亜叶さんなんて一ポイント差まで詰め寄っているのだから、幌見沢としてはもう気が気でないだろう。……一秒差で天衣さんに詰め寄っている彼方さんも、相手にプレッシャーを与えられていたらいいんだけど。

 暫くそのまま走り、中間スプリントまで残り十キロという所で、逃げ集団が捕まった。すかさず、鶴崎女子のカウンターアタックが入る!

「鶴崎女子、アタックしました!」

 わたしのすぐ近くで、何処かのチームの人が叫んでいた。

 鶴崎女子の、というか亜叶さんの長距離スプリント能力であれば、十キロというのは決して長い距離ではない。チームTTばりに逃げまくり、そのまま最後の貴重なポイントを獲得してしまおうというのが亜叶さんの目論見だろう。実際、鶴崎女子はスプリントだけでなくタイムトライアルにも強い選手が多い。

 カウンターアタックを決めた鶴崎女子に対して、田鎖鉄輪さんを擁する幌見沢農業高校も勿論黙っちゃいなかった。それまで一緒に集団を牽いていた鷹島学院の前に出ると、他の選手を置き去りにするみたいに強烈な勢いでガシガシとペダルを回しまくる……!

 鷹島の人達は、取り敢えずこのスプリント争いを静観するようだった。ポイントに興味がないのに無理に争いに介入して、落車などの事故に巻き込まれるのを怖れているんだろう。ここで転べば、今日までの全てが無駄に終わる可能性すらあるのだ。

 わたし達御弓高校も静観組だけど、ポイントが欲しいチームはむしろ積極的に幌見沢に協力して、ゴール争いみたいにして速度を上げていく。

 集団はあっという間に切り離され、二分された。スプリント争いのアタック集団と、総合狙いのメイン集団。アタック集団の中に総合上位の選手が紛れ込んでいないか注意深く観察したけど、特に危険そうな人はいなかったようなので、わたしはとりあえず胸をなで下ろす。もっとも、お互いがお互いを監視しあっているような状態なので、普通は下手な真似なんかできないだろうけど。

 メイン集団は、またしても鷹島学院が牽いている状態だ。幌見沢が主だって引っ張るアタック集団とのタイム差は、すぐに三十秒近くもついた。スプリンター達の争いはかなり激化しているらしい。

 程なくして、中間スプリントの結果がこちらへも届けられた。一位は……やはりというか何というか、幌見沢農業の田鎖鉄輪さんだった。

 そこから殆ど差が無く、続いて二位が名古屋藤村のリタ・バレーラさん。亜叶さんは……

「あぁ、三位だったんだ……」

 少し残念で、わたしはそう呟いていた。亜叶観廊さんとは関東大会からの付き合いだし、共闘したこともあったし、優しくて良い人だったし、昨日もちょっと庇ってくれたっぽいし、水晶さんがポイント賞を獲れないのであれば、せめて同じ関東代表校のよしみということで亜叶さんに獲って欲しかったのだけど。

 少しがっかりしていると、彼方さんにぽんと背中を叩かれた。慰めてくれるのかと一瞬思ったけど、そんなはずはなく(だって亜叶さん同じチームてわけじゃないし)、少し緊張を含んだ声音で、彼方さんは言う。

「夕映、ここからだぞ。気を引き締めろ」

 そちらを見やると、彼方さんは険しい表情で辺りを見渡していた。つられてわたしも、身体を強張らせる。スプリンター達が前で争ってはいても、それでも、総合上位の選手達が集まるこの場所こそが、インターハイ最終日の最前線なのだと、改めて思い出していた。

「スプリント賞が決まった。我々も間もなく、最後の山に入ることになる。そこからは最後の戦いが始まるぞ」

「……はい」

 今日の中間スプリントラインは、山のすぐ手前にあるらしい。ということは、先頭を走っているスプリンター集団は、もう既に登り区間に入っている頃だろう。

 その人達は総合争いに関係無く、また、山を登る速度も無い。

 本当の勝負は、わたし達メイン集団が山岳に突入してからだ。

 そしてその瞬間は、あとちょっとのところまで迫ってきていた。


 信州中野の街中を抜け、国道292号線へと接続すると、路面の傾斜はそこからいきなり始まった。気を抜けば一気に速度が落ちて、自転車が止まってしまいそうな程の急坂。道幅が広くて車線も多く、大きなお店が並ぶような国道沿いだというのに、この悪辣なまでの急勾配だ。この辺りで暮らしている人達は、不便に思ったりしないんだろうか? なんて、レースと直接関係ないことが頭に浮かぶ。

 ……いけないいけない、集中しなくっちゃ。

 ここから先は平坦な場所なんて無い、全編オール登り坂とでも言うべきコースだ(厳密には全編ではなく、後編なんだけど)。優勝候補の人達は、誰がいつアタックを仕掛けてきてもおかしくない。

 少し後ろを見やって、むつほちゃんと目を合わせる。言葉自体は何も交わさず、むつほちゃんが短く頷くのだけを確認した。つまり、作戦に変更はない、ってこと。

 ステージレースにおけるセオリーとして、リードしている選手は自ら動く必要性が薄い、というものがある。要はここで一緒に走っている選手達の中でも、例えば彼方さんは九央さんより一分以上タイムを稼いでいる。即ち、同じ場所にいるようでいて、彼方さんは九央さんの一分先を走っている、ってことだ。

 だからリードしている選手は、ライバル達の動向に逐一チェックを入れていけばそれだけで、完封するようにして勝利できる。そのチェックをするのが、エース本人かアシストかは、相手と状況によるだろうけど。

 第三ステージでタイムをごっそりと稼ぐことに成功している彼方さんは、この最終ステージに至ってもまだ非常に有利な立場であると言える。最も警戒すべきは、昨日タイム差を詰めてきた、総合三位の綺堂さんだろう。そして他の選手を抑えた上で、天衣さんよりも速くこの山を登り切れば、彼方さんの総合優勝は確実となる。

「っていうのは、あくまで理想でしかないだろう、鳥海くん」

 総合優勝争いに関わっているチームで集団を形成している為、他チームのエース格の人達もすぐ近くを走っている。九央さんがいることは気付いていたけど、敢えて無視していたのに……。

 昨日とは打って変わっての晴天である為、九央さんも当然ながらレインウェアは着用していない。白地に赤の水玉という、集団内でも一際目立つ山岳ジャージを着ていた。だからこそ近くにいることがよく分かったのだけど。

「君、随分と温い計算立てていないかい? 自分たちが綺堂硯を抑えて、風咲が天衣より先にゴールに入れれば総合優勝だ、とか」

「……いけませんか」

「いけないって言うか、いけすかないね。見くびって貰っては困るよ」

 登り始めでまだ体力も余裕たっぷりだからだろう。九央さんは相変わらずの芝居がかった大仰な仕草で片手を上げて、

「この登りで風咲が天衣に勝つことが出来るとはわたしには到底思えないし、何より他エースのチェックなんていうことまでやっていれば、いくら《風のカナタ》でも、体力の消耗は避けられないぜ」

「天衣さん以外の敵は、わたしとむつほちゃんがチェックします。それなら彼方さんは消耗を最小限に抑えることが出来る」

「出来るものかな? 第二ステージ、君はわたしに負けたばかりだっていうのにね。あれから四日。精神的な成長に引っ張られて肉体のスペックも少しばかり増しているようだが、その程度でわたしと張り合えると思っているのなら、思い上がりも甚だしいぜ、一年生ちゃん」

 挑発じみたその言葉と共に、九央さんがアタックを仕掛けようとしているように見えて、わたしは身体を強張らせた。それが例え様子見のアタックだったとしても、こちらとしては反応しないわけにはいかない。

 ……九央さんの言っていることは悔しいぐらい理解できちゃうんだけど、だからといってここで退くことは出来なかった。《天魔の視線(インサイト・テラー)》の目が細められ、唇の端が僅かに吊り上がる。

「それじゃあちょっとついてきてみな――鳥海くん」

 アシストを集団内に残したままで飛び出した九央さんは、一気に加速して逃げようとする。……言葉の表現は、これで間違っていない。九央さんのアタックは、逃げようとした直後、即座に終了した。

 さっきも述べたとおり、山岳リーダーのジャージは目立つ。いや、そうでなくても、九央静寂という強敵を注視していたチームは多かったということだろう。アタックのチェックに入った選手は一人ではなかった。

 鷹島学院の四月朔日さん、郡馬の安槌さん、天王寺の子隠さん、名前は知らないけど尾鷲のアシストの人、そして……御弓からはわたしより速く反応して動いた、むつほちゃん。

「おい夕映、油断してんじゃねーぞー」

「ご、ごめんねっ」

 けどそうは言っても、九央さんはホントに速いんだってば。

 そんなわたし達のやりとりを置いておいて、四月朔日さんが九央さんに話し掛けていた。

「こんな登り始めの段階から、無駄脚(・・・)使うこともないんじゃありません?」

「いやいやこの程度。後への影響なんかありはしないだろうさ」

「ぬかしよるわ、九央静寂。似合いもせん山岳ジャージを着て、気が大きくなったか?」

 これは子隠筺さんの台詞。相変わらず見た目と裏腹に口調が怖い。

「君なら似合うとでも? 笑わせるね、君に似合うのはせいぜい黄色い帽子とランドセルぐらいだろ、こがくしちゃん(・・・・・・・)」

 強気な言葉に強気な言葉を返す九央さん。脚だけでなく舌の強さまで競っているような、きつい言葉の応酬だった。

 そしてその隙を突くように、今度は安槌さんがカウンターアタック!

 これも数人の選手がチェックに入ったことで、安槌さんは脚を緩めて集団内に戻っていった。まだ様子見であることは間違い無いんだけど、実は本気だったんじゃないかと疑ってしまうぐらい、爆発的な加速でのアタックだった。

 ……この時点で既に凄まじいレベルでの攻防で、まだまだ本気を隠しているというのが信じがたい。逃げる方も追う方も、並大抵の登坂速度や反射速度じゃないのだ。油断していたら、あっという間に置き去りにされてしまいそう。こんなの、牽制のジャブとかではなく、開始早々から全力の必殺パンチだけを打ち合っているようなものだもん。

 その後も似たような攻防、駆け引きが幾度か続いた。だけど、どれも決定的な結果には結びつかない。飛び出そうとする選手が昨日までのレースと違って総合上位のエース級ばかりで、しかも登り始めでみんなまだまだ元気なので、どうしても潰し合ってしまうのだ。

 中間スプリントでの最後の戦いを終えたスプリンター系チームの集団は、とっくに追い越して遙か後方である。そちらの方々は、あとはタイムアウトにならないようにだけ気を払えば、レース終了なのだけど。

 上位陣の争いに変化は起きず、ましてや決着なんてもっと先のことになるだろうけど、まずそれらよりも早く、一つの明確な変化が起きていた。

 集団の形が崩れてきていることに気付き、わたしはちらりと、顔を後方へ向けた。そして、愕然とする。スプリンター勢を追い抜いてきたことは知っていたけど。

 総合系チームの選手までも、徐々に遅れ始めている。

 エース格は大体どこもついてきているけど、アシストは早くも、このペースについてこられなくなっているようだった。

「……夕映、無理すんじゃねーぞー」

 わたしが振り向いて驚いていることに気付いたらしいむつほちゃんが、そう言いながら前に出てくれる。登り坂とは言え、すぐ前に他の誰かがいてくれることはやはりありがたい。

「お前、最初の平坦でずっと御弓(ウチ)の前にいたんだからな。無理すっと、あっという間にバテちまうぜー」

「……うん、ありがと」

 確かに、わたし達の千葉県にはただでさえ、標高の高い山というのが無いのだから――今日の最低標高地点だって、千葉県にしてみればそれなりの高さになる――、身体に慣れない無茶はさせられない。

 一応休みの日に他県へ赴いて高地トレーニングとかはやっているのだけど。

 その点やはり、地元から多少離れているとはいえ、長野県代表の鷹島学院の皆様は、まだまだ全然余裕そうだった。その中の一人、黄色のリーダージャージを身に纏う天衣椿さんが、一度後ろを振り返ってから呟いた。

「それなりに絞り込まれてきた、って感じかね」

 言葉の後に、にやりと笑みを浮かべる。流石は前年チャンピオン。本当に、このぐらいはまだ苦でも何でもないみたい。

 そして次に天衣さんの口から出た言葉に、わたしは驚いた。

「もう少し、きつめのセレクションを掛けて人数を減らしてみようかねぇ。いったい何人付いて来られるか――那美!」

 言葉の最後で、鷹島の先頭にいた由良さん――《幻想の悪魔(マジック・ドライブ)》由良那美さんへの指示が飛んだ。聞いた話では、由良さんの脚質はアタック能力に優れたパンチャーで、しかも、山岳でも充分にその特性を発揮できる力の持ち主だという。その由良さんがサドルから腰を上げ、立ち漕ぎ(ダンシング)で一気にペースを上げた!

 山岳セクションに入って形の崩れた集団は既に、平地の時のように密集した一塊でも、高速巡航の時のように鋭い一列棒状でもない。単に、各チームが同じぐらいのペースで同じぐらいの位置を走っているだけ、って感じだ。同じ集団内でも、常に多少のバラつきがある。

 だから鷹島学院の選手達だけが一直線の隊列を崩さずペースアップしたとしたら、平地の時みたいに、集団に風除けの恩恵とかそういったアドバンテージは殆ど無く、各選手毎、各チーム毎、という単位で追い掛けていかなくっちゃいけない。

 わたし達御弓高校も当然のことながら追撃に向かう。だけど反応速度で言えば、一番速かったのは九央さん率いる昇仙高校だった。流石は《天魔の視線(インサイト・テラー)》、この動きを先読みしていたらしい。

 全体のペースが落ちる山では、一度の遅れというのが、割と深刻に勝敗を左右する。

 追い付くのには相手以上の速度を出す必要があり、だけどそんなことをすれば体力を消耗して最後まで走れない。

 だから警戒対象のアタックは、極力無駄な力を使わないようにしつつ、しかし必ず食い止めなくっちゃいけなかった。

 セレクション、という言葉通りだったらしく、少し登ったところで由良さんは座り直し、ペースを落とす。要はさっきまでみんながバンバン打ち合っていた必殺パンチと同じことなんだけど、やはり暫定総合一位のチームが行うと、更に言えば最強クラスの実力者が行うと、破壊力が違う。

 一旦落ち着いたところで、鷹島の隊列の最後尾にいる天衣さんが視線を後ろへ投げ掛け、軽く言い放った。

「要は根比べみたいなモンさね。こうして体力の比べっこをし続けて、最後に残った奴が一番強い、っつうね」

 その言葉は、別にわたしに言ったわけではなかった。今の鷹島学院のアタックに付いてきたチーム、その全員に向けて放った挑戦状のようなものだ。

 わたしはすぐさま、今の急加速に篩い落とされなかった人達を確認する。

 御弓は、むつほちゃんが素早く反応して前を引いてくれたから大丈夫。他の有力校も、エースの人達はみんな無事らしい。但し上位校の中でも、今のでアシストを失ったチームはいたみたいなので、わたし達はまだ幸運な方だろう。

 下位チームに至ってはもっと大変だった。エースがオールラウンダーやクライマーのチームですら、そのチーム全員一気に遅れてしまったところがある。

 由良那美さんのたった一回の攻撃で、ここまで登ってきた集団はその数を一気に半分近くにまで減らしていた。とんだセレクションもあったものだ。

「今のアタックで脱落しないっていうのは……ふぅん、なるほど。やっぱり大した実力者みたいだねぇ、夕映ちゃん」

 横からわたしに話し掛けてきたのは、《異質なる世界樹(ミステリアス・マーメイド)》金銅曜さんだった。天艸女子のアシストはあと一人しか残っていないようではあるけど、まぁこの人の場合、アシストの人数というのはあまり参考にならない。何処の誰とどんな契約を交わしているか分からないのだから。

 ……昨日のこともあり、わたしは正直この人にあまり良いイメージが無いのだけど、無視するわけにもいかず、お世辞にも褒めてくれたことに対して一応のお礼を言っておく。

「……ありがとうございます」

「まぁボクに褒められても複雑なだけかもしれないけどね。でも一応本心で褒めてるんだよ。今遅れていった連中の中には、歴としたエースナンバーの人だっていたんだから。少なくとも今の君は、そういったチームでならエースを張れるぐらいの実力者、ってことさ」

「わたしが……、ですか?」

「第一ステージではまだまだか弱かった夕映ちゃんが、今となってはまるで別人だね。一応確認のために聞いておくけど、レース期間中に処女を捨てたとか、そういうことあった?」

「あるわけないじゃないですかっ!?」

 いきなり何を聞いてくるんだこの人は。

「なるほど、じゃあボクの読み通り、夕映ちゃんはまだ処女である、と」

 くつくつと楽しそうに笑う九州チャンピオン。わたしをからかって、そんなに楽しいんだろうか。からかうなら九央さんとか、綺堂さんとかそっちの方にして欲しい。

 そんな、本筋と全く関係無い話をしているわたしのすぐ後ろで、彼方さんが天衣さんに対して話し掛けていた。

「椿、今日は随分と強引な攻め方をするのだな」

「舞台に相応しくない者は一旦降ろす。どちらにせよ、これ以降はもっと混戦になるだろうし、遅いか早いか、というだけのことだろうよ」

「……昨日の最後、手心を加えて僅かに脚を緩めたお前でも、そういうことを言うのだな。チーム監督の判断か?」

 射貫くような彼方さんの言葉に、天衣さんは微かな驚きを見せた。だけど直後に微笑し、

「見抜き見透かしってのは、静寂の専売特許かと思ってたけどねぇ」

「わたしは静寂ほど聡い女ではないがな」

 彼方さんはそう言って苦笑した。

 ……確かに昨日のゴール前の攻防。わたしもビデオ録画した映像を見ていたので、思い返せば違和感が無いというわけではない。言われなければ気付かないような、微かなものではあるけど。

 総合タイムを少しでも稼いでおこうとした九央さんや綺堂さん、金銅さん、といった面々に一度は追い付いた天衣さんだったけど、最終的には若干失速して、先頭集団後方でのゴール。単純に、雨と長距離走行で体力が保たなかったという見方も出来るだろう。だけど、違うってことなの?

「アタシが、今年のインターハイの前に立てた目標を知ってるかい?」

「雑誌か何かのインタビューの話か? すまないが、全てに目を通しているわけではないんだ」

「TTで風咲彼方に勝つことと、山岳で嘉神芯紅に勝つこと、さ」

 あっさりと言い放つ天衣さんの言葉に、わたしは思わず彼方さんの方を見やる。そして同時に、少し離れた位置を走っている嘉神さんの方も見やった。あんまりきょろきょろしてると接触事故に繋がるので、本当に一瞬だけど。

「本当はそこで一緒に、スプリントで田鎖鉄輪にも勝つ、って付け加えたかったところだけどねぇ。流石に同じレースでそれをやるってのは厳しいだろうから、現実的な目標にしたつもりだったんだよ」

「いや、まだ充分、凄まじい目標だと思うがな」

「しかしどうだい。第二ステージじゃアクシデントもあったとはいえ、結果的に芯紅の奴には追いつけなかった。そして第三ステージの個人TTでもあのザマだ」

「それでも総合リーダーはお前だぞ」

「ああ。だけどね、アタシからしてみりゃあ、負けっ放しのまま手にした栄誉だ。だからせめて、昨日みたいに『紛れ』が混ざったような状況でアンタや芯紅にこれ以上のタイム差を付けたくなくなっちまった。最後走っている途中でそう思ったから、つい脚を緩めちまってね」

 天衣さんの台詞から、わたしは彼方さんと関東大会のスタート前に話していた内容を思い出していた。

 つまり、実力以外のところで勝負が付いてしまっては報われない。

 それは全ての選手の頂点に君臨する天衣椿さんでも同じことだったのだ。

 偶然に左右されず、運を味方に付けないで、実力を出し切り、勝つか負けるかしたい。この、一緒に走っている道の上で。

 自嘲気味に嘆息した天衣さんは、そのまま続ける。

「決着は最終ステージ、最後の、最高の山で。どうだい、こうした方が分かり易くていいだろう?」

「お前は大抵の選手からしてみれば、ラスボスのような存在で、実際に扱い自体もラスボス同然なのだが……全くどうして、ラスボスには向かん性格だな」

 苦笑したらしい彼方さんの言葉に、わたしは言葉を挟まず胸中で同意した。確かに、こんなに優しいラスボスもいないだろう。

 走りながらで、ふと鳳さんと目が合う。その瞳は、とても誇らしげな輝きに満ちていた。これが自分たちのエースであると、強く、何よりも誇りにしている、そんな目だ。

 ――総合リーダージャージを維持する形は二種類あると言われている。

 とにかく自分がリードしている有利な状況であってもタイムを稼げるだけ稼ぎまくる、『攻め』のリーダージャージ。

 そして、一旦タイム差を確保したら、自分からは動かずライバルのアタックにのみ気を払う、『守り』のリーダージャージ。

 この二通りだ。しかし天衣さんは、戦うべき相手がいる時はその全てを受けて立ち、その上で勝利を確かなものにしたいという、『攻め』どころか『真っ向勝負』のリーダージャージらしい。

「随分と高く評価して頂いて光栄の至りだがね、あまちゃん」

 走行ポジションを変更してまで会話に参加してきたのは、嘉神芯紅さんだった。凄く自然な流れでやってみせたけど、登り坂の途中ですらりと位置を変えるって、結構高度なテクニックだ。流石である。

 そしてあまちゃん、というのはどうやら天衣さんの名字から来る渾名らしい。天衣さんの貫禄や凄味が粉々に吹っ飛びそうな、かわいらしい渾名だった。

「うちとしても、あまちゃんとの決着ってのは去年から引き摺ってる命題でもあるんだけどねぇ。だって去年君が山岳でうちと戦わなかったのって、チーム作戦(オーダー)でしょ?」

「ああ。だからアタシはアンタとも決着を付けたいのさ」

「うちも望むところ……と言いたいが、どうかねぇ。今年は今年で状況が色々ごちゃごちゃしちゃってるし。出来れば今すぐにでも飛び出して先に行きたい、って思ってる自分もいるんだよねぇ」

 嘉神さんはそう言って、横目で九央さんの方を見た。山岳リーダーの身に纏う、赤い水玉ジャージ。今年の総合優勝はほぼ絶望的な嘉神さんの、最優先の目標だろう。

 天衣さんもそれが分かっているからなのか、苦笑気味に告げる。

「ああ、行きたきゃ行けばいいさ。アンタとの決着は取り敢えず預けておくよ」

「今シーズン中に返しに行くよ。全日本選手権か、そのコースが不満だったら、あまちゃんが出場予定のヒルクライムレース、あとで教えてくれればね」

「選んどくよ。さぁ、泳がしてやるから、さっさと行きな。但し、追い付かれちまっても泣き言を言うんじゃないよ」

「勿論。あまちゃんこそ、追い付けなくてうちに負けちゃっても、恨まないでよね」

 二人はそれで、取り決めの全てを終えたらしかった。

 最後に残してあった唯一のアシストに引かれ、嘉神さんは一気に集団を抜け出していく!

 追うべきかどうかで一瞬以上の迷いが生まれる。嘉神さんと彼方さんとのタイム差は2分30秒。仮にこのまま行かせても、大きな損害にはならない……のだろうか?

 だけど今飛び出したのは昨年の山岳賞にして、今年も山岳ポイント上位の嘉神芯紅さんだ。まさかとは思うけど、このまま逃げ切ってタイム差を引っ繰り返される……なんてことはないよね?

 ごちゃごちゃと思い悩んでいたのはわたしだけのようで、他チームの選手達は動きに迷いが無かった。一人二人と嘉神さんを追い掛けていき、追走集団というよりも、嘉神さんを先頭にした逃げ集団みたいなのが出来上がっていく。

 その顔触れの中には、なんとむつほちゃんも混ざっていた。追走に出たエースクライマー達に遅れを取ることもなく、素早く反応して後ろに付いている。わたしは後ろを見て、彼方さんに確認を取ろうとした。だけどわたしが言葉を発するより先に、彼方さんが説明してくれる。

「あれでいい。芯紅の狙いは山岳賞だけなのだろうから、逃がして泳がせた方が楽になるが、奴の登坂速度だと本当に、総合成績を引っ繰り返してしまいかねない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)」

 だから監視の為と、圧力を掛けるという意味も込めて、総合狙いのチームはなるべくは一人送り込んでおく必要があるのさ、と。彼方さんはそう言った。

 嘉神さんのアタックを潰しに、いや、追走しに向かった顔触れを確認する。子隠さん、安槌さん、といった、山岳ポイント上位の人達は、アシストと一緒にそのまま集団を飛び出している。それらはもう完全に、山岳賞争い、そしてステージ優勝狙い、ということだろう。そして鷹島の四月朔日さんや、名前は知らないけど昇仙のセカンドナンバーを付けたアシストの人も混じっていた。こちらはむつほちゃん同様エースのためのチェックに間違いない。

 ……おや? 九央さん自身は、嘉神さんのアタックを容認するってこと? 山岳ポイントは標高差にしておよそ千メートルぐらい登ったところにあるはずなので、確かにまだ距離はある。だけど山岳ジャージを着ている九央さんからしてみれば、このアタックは容認だとか追走だとかより、まず真っ先に、完全に潰しておかなくっちゃいけないものだと思うんだけど。

 わたしの疑問は、代わりに天衣さんが発言してくれた。

「どうした、動かないのかい、静寂」

「昨日風咲の奴にも言ったことだが、この山岳ジャージの着心地は決して悪くない。だけど、今お前が着ている総合のイエロージャージの方は、更に着心地が良いのさ。両方着たわたしだからこそ言える台詞だがね」

 そう言って、九央さんは笑みを作る。

「お前は、わたしがもう総合優勝を諦めたと思ったか? 高校生活最後の夏の思い出作りに、この山岳ジャージを護りきりたいとか、そんな普通の女の子みたいに儚いことを考えていると、そう思ったか? だとしたら大間違いだよ、天衣」

「…………」

「水玉ジャージぐらい、嘉神でも子隠でも安槌でも、そのへんにくれてやる。わたしが欲しいのは総合優勝だけだ。その目標は最初から今に至るまで、まだ変わっていない。変えるつもりもない!」

 台詞を終えた九央さんがアタックする。だけど今回はわたしも反応できていた。他のチームも、これにはしっかりついてくる。

 そしてそれはそれとして、わたしは今、心の底から九央さんを尊敬していた。

 他人の考えていることを見透かす嫌な人だとばかり思っていたけど、そうじゃない。凄く強い信念と、勝利へのプライドを持った、素晴らしい選手だ。性格悪いとか思ってたことを申し訳なく感じる。

「ちなみに、鳥海くん、謝っても一応わたしは忘れないけどね。君がわたしのことを、性格悪いとか嫌な人だとか思っていたことは」

 ……見透かされていた。やっぱりわたし、九央さんのことは苦手かも。


       ◆


 集団を飛び出した嘉神芯紅は、アシストの体力を限界まで使い、グングンと加速していた。きつい登りに蝕まれた脚が限界に達したのか、尾鷲最後のアシストはそこで戦列を離れ、離脱していく。

(さーて、追っ掛けてきてみたはいーものの、どーしようかねー……)

 山岳アタックが決まり、後方との距離がある程度開いたところで、結橋むつほは思案していた。状況が落ち着くことで、周りの顔触れを確認する余裕も出てくる。

 嘉神芯紅、子隠筺、安槌歌絵といった錚々たるメンバーが、アシストすら従えて揃っている。そしてこちらと同じく単独ではあるものの、四月朔日りくの実力は、並み居る山岳のスペシャリスト達と比べても決して劣るものではない。更には昇仙高校から一人、セカンドナンバーを付けた選手が送り込まれている。22番、新海(しんかい)朱音(あかね)。総合順位十三位という成績から、かなり高レベルのオールラウンダーだと思われた。

(……こんな強力な奴を送り込んできたってことは、《天魔の視線(インサイト・テラー)》は山岳ジャージを捨てるつもりか? ここへ来て、一位とはまだ一分以上のタイム差があるってのに、よくやるもんだ。大した人だぜ)

 勝利を諦めない姿勢は、それはそれで評価されるべきだろう。

 今日までのレースで、総合争いはかなり絞り込まれている。単純にここまでのタイム差だけを考えれば、天衣椿と風咲彼方の一騎討ちという見方が有力なほどに。

 実際、嘉神芯紅や安槌歌絵らは当初総合狙いだったところから、今日の時点の成績で山岳狙いか、あるいはステージ優勝へと完全にシフトした。無論、それを逃げと言うつもりは毛頭無いが。

(しかし総合上位で追走に来たエースは三人……)

 もっとも巌本高校と天艸女子高校は、アシストの数にもう余裕がないはずだった。特に巌本などは、もうエース独りしか残っていない。

 一年生エース、綺堂硯しか。

(……綺堂)

 綺堂硯。

 胸の中に、若干温度の違う熱が灯ることを自覚する。暗く、温度の低い炎。冷たいが、その炎こそが何よりも自分の身を焼く。

 事実そうして昨日のステージでは、危うく大切なものを失ってしまうところだった。いや、失っていて当然のところまで、自分は行ったのだ。そんな自分の帰るべき場所をしっかり残してくれていた仲間のためにも、ここは引き下がれない。

(相手が格上の上級生ばかりだからって、弱気にゃーなれねーなー)

 体力も経験も、どちらも及ばない状況での戦い。だが、泣き言は言っていられなかった。少し前まで素人同然だったあの鳥海夕映は、第二ステージで《天魔の視線(インサイト・テラー)》や《神速のフェニックス》を相手に山岳勝負をしたのだ。

(夕映よりロード歴の長いオレだったら、ここにいるエース全員相手にするぐらい、やってのけなくちゃー格好つかねーよなー)

 それが、どれだけ無茶な話だったとしても。

 自転車のフレームに装填してあったドリンクホルダーを抜き取り、水を口内へ流し込んでいく。元々中身の減っていたボトルは、あっさりと空になった。放って捨てる――ボトルはあともう一本あるので問題無い。

「勇ましい姿だね。御弓高校一年生、結橋むつほ」

 先頭を走る嘉神芯紅が振り向き、こちらにそう言ってきた。山を登る上で無駄な重量物としか思えない赤いマフラーが、優雅な靡き方をしている。

 自身の台詞の後で、嘉神芯紅は笑みすら浮かべてみせた。それは格下を相手にする余裕から来る愉悦、というわけではない。きつい坂道を登ることが楽しくて仕方ない、という感じの、求道者の笑みだ。

「オレは昨日、散々格好悪いところを晒しちまいましたんでねー。多少は格好付けねーと釣り合いがとれねー。つーか、嘉神さん、よくオレなんかの名前を覚えてましたねー」

「覚えているともさ。かなちゃんのアシストだもの。そして君のこともうちはしっかり覚えているよ――鷹島学院二年生、四月朔日りく」

 芯紅の言葉は、すぐ近くにいた四月朔日りくにも向けられた。自分が話し掛けられるとは思っていなかったのか、四月朔日りくは少し意外そうに瞬きをして、

「嘉神さんとお会いするの、このインターハイが初ですよね?」

「そうだね。でも君の噂は三重県まで聞こえていたさ。《神速のフェニックス》鳳小鳥が今年のあまちゃんの右腕なら、君が左腕だろう?」

「それを仰るのでしたら、左腕は由良さんの方だと、わたくしは思いますけど」

「彼女はむしろ両脚だろう。常にあまちゃんを支え、助けてきた、鷹島の運び屋だ。だからこそ左腕は君だよ、《月に村正(ムーン・チェイサー)》」

 嘉神芯紅は、心の底から楽しそうに笑みを作る。

「まったく、うちは幸せ者かもしれいないな。ここに集まったこれだけのクライマー達。みんなと戦えるというのだから……ああ、そうだな。うちは本当に幸せ者だ」

「戯れはそのぐらいにしておいた方が良いのではないかな、尾鷲の」

 子隠筺が、その小さな身体に見合わない、凄味のある声で言う。そして、それを合図にしたかのように、天王寺高校のアシストが先頭に出てペースを上げにかかる。

「よもや自分が主人公にでもなったつもりではあるまいな? 誰も彼も、貴様の思い出作りのために走ってやるわけではないのだぞ」

 天王寺高校の飛び出しに対して、エース達の反応は速かった。即座に後ろに付いてアタックを潰す。

 むつほは一瞬、それに置いて行かれかけた。こちらも決して出遅れたわけではないのだが、やはり歴戦のエース達は格が違うらしい。

(ま、オレの場合はとにかくついて行って、奴らがペースを上げすぎねーよう調整すりゃ良いだけなんだし、楽な方かもな)

 少なくとも、自分からアタックを仕掛ける必要は無い。

(今から山岳賞を獲るのはポイント的に不可能だとして……せめてこの山岳カテゴリのステージでステージ優勝なんかが出来たら、そりゃークライマー冥利に尽きるってなもんですげー嬉しーだろーけどよー)

 道中ずっと後ろにくっついていったままでそんなことをすれば、逆に御弓高校の評価を落とすことになるだろう。そんなことはできない。

 昨日の罪滅ぼしという意味も含め、今日は勝手な真似が許されないのだ。誰が許そうと、自身の心が許さない。

(最高の山で、最高の顔触れ。そこで勝負ができねーってのは、まったく、大した罰だぜー。やっぱ悪いことはするもんじゃねーな)

 心の中で、むつほは嘆息する。実際に口から出たのは、溜め息などとはとても呼べそうにない、苦しい吐息だったが。

(ま、どっちにしたって今のオレの実力じゃー、アシストはともかくエース達に勝つのは難しそうだけどなー)

 罪と共に、己の弱さもまた、認めなくてはいけないだろう。息の上がり始めた自分に対して、チャンピオンジャージを身に纏うエース達は、まだまだ余力を残していそうである。

(けど、何かある。こーしてついて行くこと以外にも、オレに出来ることが何かあるはずだ。オレは、それをしなくっちゃいけねー)

 例えそれで、自分がこのレースからリタイアすることになったとしても。

 覚悟を胸に、むつほはペダルを踏む。

 背負った罪の分だけ、ペダルは更に重くなったような気がした。


       ◆


 山岳賞争いの人達が前へ出て行った後でも、総合争いのメイン集団の動きも、なかなか落ち着かなかった。昇仙高校のクライマーがアタックを仕掛けたり、鷹島の由良那美さんがアタックを仕掛けたり。とにかくみんながみんな、敵をこの集団から引きずり下ろしたいと考えているので、争いが収まらないのである。

 金銅さんや綺堂さんといった、ここへ来るまでにアシストを使い切っちゃった人達はまだ大きく動いてないけど、考えていることは同じだろう。

 状況に変化があったのは、少ししてからだった。

「またアタック!」

 うんざりしながら叫び、わたしは彼方さんを連れてアタックの追走に向かう。

 集団を飛び出したのは鷹島学院で、先頭はまたも由良那美さんだった。

 《幻想の悪魔(マジック・ドライブ)》の、キレのある加速。しかしそれを逃がさないよう他のチームもチェックに向かい――最後に失速した由良さんが、先頭を鳳さんに譲って後ろへと落ちていく。

 下がり際、天衣さんが由良さんの肩を一度だけ、ぽんと叩いた。それだけで、由良さんは満足そうに頷いて集団から脱落していく。

 思えば昨日は綺堂さんの独走を止めるべく、雨の中を少人数で走り続け、今日は集団の先頭で常にペースコントロールをし続けた。それこそ悪魔じみた体力の持ち主だったけど、流石にこの連続アタックで限界が来たということだろう。

「へぇ。昨日はまぁまぁ凄い人だと思っていたけど、そうでもなかったみたいだね、由良那美さん」

 人を馬鹿にしたような、いや違う、人を馬鹿にした台詞を発したのは、凄く分かり易く、綺堂さんだった。

「久瀬さんよりは骨のある人だと思っていたけど、所詮はこの程度。まったく、骨があるどころか、この軟弱な柔らかさはまるで軟体動物だ」

「由良さんを馬鹿にすることは、わたしが許さないよ、綺堂硯さん」

 楽しげに語る綺堂さんの独り言。それを妨害するように、鳳さんが語気を強めた。気弱そうでいて、実は芯の強い鳳さん。その顔に、綺堂さんに対する明確な敵対心が浮かんでいる。

「許さないからと言ってどうしてくれるのかな、鳳さん。君がわたしの相手になるかい?」

「……望むところだよ」

「いやいや望んでんじゃないよ、小鳥」

 今にも同時にアタックをしそうな二人に水を差すように、天衣さんが会話に割り込んだ。鳳さんの肩に手を置いて、

「アンタがそんなに熱くなっちまってどうするんだい。らしくないことはするもんじゃあないよ」

 そして天衣さんの次の言葉は、綺堂さんの方へと向けられた。

「安い挑発してくるもんだねぇ、綺堂」

「でも、買い取ってくれる人がいるのなら原価は抑え目でも充分じゃありません?」

「なるほど一理あるかもね。だがその言葉の買い手がアタシでも、まだのんびりしていられっかい?」

「……ッ?」

 天衣さんが、不敵に笑う。それを受けて綺堂さんの顔色が明確に変化した。ていうか綺堂さんだけでなく、ここの集団に残っていた選手全員に、電撃でも流れたみたいに一斉に緊張が走る。

「……まさか総合一位のあなたが、こんな所で急にアタックをすると? 前との差は一分ちょい。下手すると追い付いちゃいますよ? ここへ来ての協定違反は、いくら口約束と暗黙の了解によるものだって、流石に恨まれるんじゃないかなぁ」

「アタシ達が速度を上げたと知れば、芯紅も筺も歌絵も、一気に逃げるだろう。連中は雑魚じゃない。この山で一度タイム差が付けば、それをそうそう簡単に引っ繰り返させやしないさ」

 会話を打ち切り、なんと総合一位の天衣さんがアタックの体勢に入る!

 立ち漕ぎ(ダンシング)で上体を揺らしつつ、恐るべき加速で一気に集団を抜け出した。由良さんのアタックも相当に凄かったけど、流石は同じチームのエース、威力は段違いだった。集団の人数が更に絞り込まれていく……!

 自分で言ってたけど、ホントにあの人、ラスボスには向いていない。こんな激情家なラスボス、いたらバランス崩れちゃうよ。ゲーム序盤で、魔王が手ずから襲いかかってくるようなものだもん。

 わたし自身、そのアタックについていくのが精一杯で、そろそろ限界が見えてくる。いけない、ゴールまでまだあと十五キロ以上も登り坂があるのだ。こんな早い段階で脱落してしまっていては、彼方さんを護る人間がいなくなってしまう。

 前で戦っているであろうむつほちゃんに、申し訳が立たないじゃないか。

 ――今の天衣さんのアタックで、残った選手達の人数は一気に減少し、簡単に数えられるほどになっていた。……九人。鷹島が二人、昇仙が二人、山波大付属が一人、天艸女子が一人、巌本が一人、そして御弓が二人。

 たぶんこの中で一番疲れているのがわたしだろう。経験値が低く、体力も無い。でもそれで諦めるわけにもいかない。状況がここまで来て、それでもまだ二人残っているというのは大きなアドバンテージだ。少なくとも、他チームのアシストが全員脱落するまではわたしも踏ん張らなくっちゃいけない!

 わたしは彼方さんの方を見た。アイコンタクトだけで、わたしが考えていることを察してくれたらしい。小さく頷いて、許可をくれる。

 ドリンクを一口飲んで、気合いを充填した。そして天衣さんすら躱し、集団の先頭に出る。……アタックだ。

 ここへ来るまでの間に何度も繰り返されてきた、実力者達のするようなアタックに比べれば、そりゃあ弱っちいものかもしれないけど。みんなが疲れ始めている今なら、全く効果がない訳じゃあない。天衣さんがさっき言っていた通り、山岳勝負とは突き詰めれば体力や根性といったものの、総量を比べる戦いなのだ。

 相手より速く登るということは、相手より体力があるということ。

 だからこそわたしは彼方さんのアシストとして、他の選手達の体力を削りに掛かる。わたしの攻撃なんて各校のエース達からしてみればダメージどころか、ガード上からの削り程度にしか効果を発揮しないかもしれないけど。

 それでも何もしないよりずっと効果は高かった。

 敵のアシストを潰したいというのは、他の皆様も同じ考えのようで。アシストを残している鷹島と昇仙が、それぞれわたしの前に出ようとしてくる。

 アシストを抱えるチームは、敵のアシストをなんとかして潰したい。

 アシストのいないチームも、アシストを潰してエースを引き摺り出したい。

 どこの人達も、思っていることは結構シンプルだ。

「……鳥海さん、ホントに凄いね。こんなに強かったなんて……」

「鳳さん、……だって」

 疲労のせいか、声を出すことが結構困難になりつつあった。標高が上がって、空気が薄くなりつつあるのかもしれない。

 無意識の内に上体を反らし、わたしは天を仰いだ。……いつの間にか、空がもの凄く近いところまで来ている。それだけの高さを登ってきたということだ。この辺りはまだ背の高い木々が並んでいるから、上空の視界は少し狭いけど、たぶんもう少し登れば、もっと開放的な景色が望めるだろう。

 天衣さんを護りながらの隊列で、鳳さんがわたしと並ぶ。昇仙のアシストの人も九央さんと一緒にすぐ隣まで来てるし、アシスト対決、って感じの構図だ。

 もしくは――第二ステージ以来の、鳳さんに対するリベンジマッチか。

「ごめんね、鳥海さん。わたしは今日も、負けてはあげられない」

 先頭に出た鳳さんが、一気にペースを上げる。

 わたしは立ち漕ぎ(ダンシング)でそれを追った。

 脚の疲労に、気付いてはいたけれど。


       ◆


 山岳ポイントまで残り四キロの地点で、安槌歌絵が動き出した。

 道の傾斜は凶悪で、ここから四キロの間に、あと三百メートル近くも登ることになる。他の選手が疲れを見せ始めた瞬間を狙った、絶妙なタイミングでのアタックだった。

 自チームのアシストすら遅れてしまうような、切れ味の鋭い加速。それに対してまず真っ先に反応したのは、選手達の中で最も身体の小さい、子隠筺だった。先行しようとした歌絵に対して瞬時に並び、

「郡馬は昨年のエースに比べて、随分と格落ちしたものじゃのう。昨年、彼奴はもっと怖ろしい、それこそ天衣椿に匹敵しうる怪物に思えたものじゃが……。11番のゼッケンが泣いて見えるわ。それとも、儂が去年より成長しているということかの?」

「今まで周りの人達に散々比べられてきたから、その程度の言葉じゃ今更何も感じないわね。わたしはわたしが弱いことを自覚している。でもわたしは弱いことから逃げたりしないわ。むしろ、少しでも強くなるために、まずは今年の山岳賞を獲得することにする」

 汗を拭い、決意を口にした歌絵は、嘲笑するように笑みを作り、筺に告げた。

「あなたは去年から成長が見られないわね。少なくとも、見た目的には」

「ぬかしよるわ。じゃが、貴様はそんな儂の背中を見ながら走り続けるんじゃよ」

 筺のアタック。だがこれに対しての歌絵の反応も驚異的だった。瞬時に後ろに張り付き、アタックを潰す。

「あなたにわたしは倒せない。そうでしょ?」

「いいや、今年の山岳賞は儂のものじゃ」

 状況はいつの間にか、一対一にまで絞り込まれていた。筺と歌絵は、既に前後で並ぶことすら殆ど無く、横一列のまま、抜きつ抜かれつを繰り返し坂道を登っていく。

 沿道で手を叩き応援していた観客達も、彼女らの鬼気迫る表情から、走行を妨害することのないよう一歩下がってそれを見守る。

 九十九折りを抜けた辺りから、観戦用に設置された柵が姿を現した。

 山岳ポイントが近いことをそれで察し、二人の少女は一気に速度を上げた。

 互いに敵を突き放すべく、サドルから腰を上げて加速しようとして――最初に気付いたのは、四国チャンピオン子隠筺だった。

 それは、勘と呼んで良い。或いは、悪寒と呼んで良いものだった。振り向き、呟く。

「……何故じゃ。何故貴様が、まだここにいる!?」

 ほんの数瞬遅れてそれに反応した歌絵もまた振り返る。彼女は絶句した。

 遅れていったはずの嘉神芯紅が、赤いマフラーを靡かせながら追走してきていた。

「わたし達が追い付かれた!?」

 歌絵もようやく、悲痛に叫ぶ。

「儂らが遅れたわけではない……。現に御弓や昇仙のアシストは付いてこられておらん。じゃからあの女は、単独でペースアップをして、儂らのところまで走ってきたんじゃ。儂らよりも速く(・・・・・・・)、この山を登って(・・・・・・・)!」

 上方から見下ろした九十九折りの、一つ手前のカーブには、鷹島の四月朔日りくの姿も確認できる。だが少なくともあちらは、追いつけそうなペースではない。御弓も一人アシストを送り込んできていたが、そちらについては更に後方に沈んだようだった。もう姿が見えない。

 だから、追いついてくるのは一人――嘉神芯紅ただ一人だけだった。

「脚を溜めて様子を見ていたんだよ。君達二人が消耗するのを。追いつけないかもしれないと冷や冷やしたけど……どうやらうちは賭けに勝ったというところかな」

 抜き去っていく瞬間、嘉神芯紅は二人にそう告げた。そして、続ける。

「地元に帰って自慢しな。うちの背中を見ながら獲得した、山岳二番手の称号をね」

 独走態勢で走る嘉神芯紅。

 追撃に向かったエース二人だが、山岳ライン通過までその背中を捉えることは出来なかった。


       ◆


 メイン集団ではわたしと鳳さんとの、最後の我慢比べ大会が開催されていた。

 昇仙のアシストはこの体力比べ勝負から脱落して、ギリギリで集団後方にくっついてきている状態。今やアシストを残しているのは御弓と鷹島、二つのチームだけだ。

 九十九折りのカーブを抜ける度に、お互いアタックじみた加速をするんだけど、どうやっても引き離せないし、引き摺り落とせない。

 途中、先行していた嘉神さん達のアシストに追い付いたりもしたけど、その人達もこの集団には合流せず、自分たちのペースで登っていくつもりのようだった。

 その中にむつほちゃんの姿が見えないことに、わたしは安心する。同時に誇らしく思った。あの山岳エース達に、食らいついて行ってる、わたしの友達のことを。

「凄いじゃないか鳥海くん。ここまで走ってこられただけで、君だってもう充分に讃えられて良いぐらいの功績だ」

 九央さんがそう言った。こっちが独り言を漏らしたわけでもないというのに、相変わらずの的中率だ。だけど、今となってはもう何か言葉を返す気力さえ浮かんでは来ない。

 話し相手としてのわたしに不満を抱いたらしい九央さんは、嘆息一つと共に、台詞を吐き捨てた。

「よく戦った、と言ってやりたいが……まあ、ここまでかな、鳥海くん。君の才能は素晴らしいし、今の時点でもかなり優れた選手ではあると思うが……ここから先に来るのはまだ早い」

「へぇ。じゃあ九央さん、わたしはどうでしょうかね?」

 邪悪な笑顔で聞いたのは綺堂さんだった。表情だけならまだまだ余裕そうだ。

「わたしから見れば、君も鳥海くんと大差ないよ、綺堂くん」

「総合順位でわたしより下の先輩様がよく言えますね?」

「言えるとも。わたしはまだ、君ほど疲れていないんだから」

「ッ!?」

 九央さんのその言葉に、綺堂さんの顔が明らかな驚愕に歪んだのが分かった。そう何度も細かく周囲の様子をチェックする程の余力はないんだけど、周りで話している選手達の会話内容は、BGM代わりでわたしの耳に勝手に入ってくる。

「隠そうとしたって無駄だぜ、後輩ちゃん。君の才能も素晴らしい。現時点での完成度なら、同じ天才とは言え、鳥海くんを大きく上回っているだろう。TTの実力も認めてあげられる。だけど、登りで戦う力はまだ不足しているみたいだね。他の総合上位勢に比べて、君は明らかに登りが苦手だ」

「……確証は無いでしょう?」

「あるよ。わたしの眼は誤魔化せない。それじゃあ確証にならない、と言いたそうだね? じゃあ聞くが、君はどうして、さっきからアタックをしようとしない? 昨日、お得意のTT能力を活かして、積極的に平坦での逃げを行った君の性格からすれば、ここいらでのアタックは充分に有り得そうなものだ。だがそれをしないのは、今アタックを仕掛けたところで、逃げ切れないというのが分かっているからだろう?」

「…………」

「登りの序盤では様子見のアタックを仕掛けていたが、あれはカムフラージュだよね。自分はこの後も登りで仕掛けるぞというアピールだ。だが実際には、登りで遅れないよう、他人の背中に隠れて少しでも体力を温存し、最後でどうにか抜き返して挽回する機会を狙っている。狡い手だが、ここまでタイム差を稼いだ結果、君と天衣椿との差は二十三秒。非現実的な数字ではない」

「…………」

「そういえば二日目も、潜伏の為とか何とか理由を付けて、エース達の後方でゴールしたんだっけ? あれだって実のところ、どうにかギリギリでついて行っただけだろう? 君の性格からして、本当に自信があれば、あの時アタックを仕掛けて事前にタイム差を稼いでいたはずだからね」

 綺堂さんは何も言い返さない。というか、言い返せないのだろう。

 これまで、奇抜な行動や挑発的な発言で目立っていた彼女だったけど、それはおそらく、登坂力で総合勢に劣るかもしれないという懸念があったから、それを隠蔽する為にやっていたものなのだ。少なくとも、九央さんはそう看破したし、周囲の選手達は、わたしも含めて、九央さんの『観察眼』の精度を信頼している。

 行動方針や対処方法などは違えど、脚質の方向性については、綺堂さんは彼方さんにかなり近いようだった。TT能力を限界まで鍛え上げることで、他をカバーするという。

 そしてここまで隠し続けていたことが、《天魔の視線(インサイト・テラー)》によって暴かれた。

「君も鳥海くんも、もう少し経てばきっと、更に素晴らしい選手になれるだろう。だから、一年経ったらまたおいで。わたしも、天衣も、風咲も、嘉神も、安槌も、子隠も、源もいないインターハイで、最強の座とか何とかを競い合ったらいいさ」

 その台詞と共に、今日何度目だかも分からない、九央さんのアタック開始!

「追いますッ!」

 彼方さんの返事は聞かず、わたしは立ち漕ぎ(ダンシング)に切り替えた。九央さんと綺堂さんの二人が喋っている間は、状況がちょっとだけ落ち着いてゆっくり座り漕ぎで登ることが出来たので、少しだけ楽になっている。

 そうやってほんの少し楽になった分以上の体力を、この立ち漕ぎ(ダンシング)で一気に消費するわけだけど……結論から言って、わたしには九央さんを捕まえることは出来なかった。

 逃げた九央さんに最初に追い付いたのは、それまでずっと沈黙し続けていた金銅さんだ。だけど金銅さんもかなりつらいらしく、息が上がっていて、何か言葉を投げるわけでもない。

 このまま何事もなくゴールまで行ってしまえば、天衣さんの優勝が決まってしまう。だからこそ、鷹島以外のチームは、勝利のために何かしらの作戦をとらなくてはいけないんだけど……。

 御弓としては、わたしという最後の駒が残っている内に、どうにか彼方さんをリードさせないといけない。金銅さんや綺堂さんがつらそうなのは確かだけど、ぶっちゃけわたしの消耗はそれ以上だ。こうして思考している間も、垂れてきた汗が目に入ったり口に入ったりで、だというのにそれを拭う余力すら無い。

「残り……六キロ……」

 山岳ポイントのラインを通過し、それと同時にゴールまでの距離も測る。丁度そのタイミングで、審判バイクが先行集団とのタイム差を表示してくれていた。

 一分十五秒。

 さっき見たときと、殆ど変わっていない。こっちがアタック合戦やっている間も、向こうは向こうで同じようなことをやっているらしく、結果的にそんなに差が開かないみたいだった。

 むつほちゃんは大丈夫だろうか、という思いが浮かぶ。むつほちゃんの場合、自分からアタックを仕掛ける必要が無い分、まだ少しは楽なんじゃないかと思うけど。

 やはり問題は、この状況をどう打破するか、ということだ。

 御弓としては、彼方さんが天衣さんに二秒以上の差を付けてゴールしない限り、総合優勝できない。だけど登りでエース同士の力比べになったら、彼方さんは天衣さんに勝てないだろう。それは本人も認めていることだ。

 だからこそ、何かしらでその差を埋めなくてはいけないのだけど……作戦だったりアシストだったりっていうその『何かしら』の要素が、今も御弓には無い。

 彼方さんも悩んでいるのか、指示が来るようなことはなかった。

 このままだと、一か八かで、エース達の直接対決に縺れ込ませるしかなくなってしまう。その勝率がどの程度かは分からないけど、たぶん、決して高くはないんだろう。TT能力を限界まで引き上げた彼方さん単独の力では、この険しい山岳で、天衣さんに差を付けてゴールするというのは難しいはずだ。

「何とかしないと……何とか……」

 でも、その何とかが見つからない。

 せめて、せめてあと一人アシストがいてくれた良いのにな、なんて都合の良いことを考える。鷹島学院や他のチームにはこのままの人数で行って貰って、わたし達御弓にだけ、あと一人、山岳で戦えるアシストがいてくれたら……。

 残り五キロの地点を通過する。

 脱落者はまだいない。前との差も、殆ど変わらない。

 集団の様子も変わらな――変わった!

 九央さんとの会話以来ずっと沈黙していた綺堂さんが、いきなりアタックを開始したのだ。先頭を走っていた鳳さんを単独で躱し、すいすいと登り始めていく。

 他のエース達に比べて劣る、というのが九央さんの見立てだったけど、それはひょっとしたら外れだったんじゃないかって思えてくるぐらい、元気一杯の鋭いアタックだった。

 最初に反応したのは九央さん。そしてそれと殆ど同時に、鳳さんもすぐ後ろに付いている。金銅さんは追わない。完全に遅れたわけではないので、様子を見ているのかもしれなかった。

 わたし達も追い掛けないと……せめてわたしの脚がまだ動く内に、離されないよう食らい付いていかないと。

 そう考えてはいたのだけど、前との距離は若干開いてしまった。時間にして二秒か三秒、ってところだろうか。でも、この疲労とこの斜度でその秒差を挽回するのに、いったいどれだけの体力を使うことになるか。

 考えただけで嫌になる。そして嫌になることを考えている時に、後ろから彼方さんの声が聞こえた。

「夕映」

 一度振り返り、彼方さんの様子を確認する。一つ安心できたのは、彼方さんの表情にはまだ翳りが見えないということだった。汗は掻いているし勿論疲れてもいるだろうけど、まだまだ、勝負を諦めているような顔ではない。

 そしてそんな彼方さんからの作戦指示が出る。

「合流次第、アタックを開始しろ。それを最後にするつもりで構わない」

 合流って……前に追い付いたら?

 わたしは残りの距離を確認する。あと、四キロ半、ってところだろうか。そのアタックを最後にしちゃったら――

「彼方さん、残り四キロを一人で走るってことですか?」

「馬鹿にするなよ、夕映。わたしだって別に、一人で四キロぐらい走れるぞ」

「いやそりゃ知ってますけど……!」

 こんだけ疲れているのに、奇妙なジョークを挟まないで貰いたかった。ていうか彼方さん、わたしが思っていた以上に元気そうである。

「確かにお前も危惧しているだろうが、わたし個人の力で椿と勝負したとしても、勝つのは難しいかもしれない。椿の残している余力がどの程度か読み切れないが、タイム差を付けることを前提にすれば難易度は更に跳ね上がるだろう。だから、アシストの力関係が優勢な内に差を作っておいて、どうにか逃げ切ってみようと思う」

「……理屈は分かりますけど」

「分かってくれるならあとはもうやるしかないぞ。このまま登り続けてもジリ貧だ。ならばこの策で、最後の戦いを挑んでみようと思う。まぁ、策などと呼べるほど上等なものではないだろうが……他に手はないのだし、やるしかあるまい」

「でも、彼方さん……」

 彼方さんの語るその言葉に、わたしはどうしても、口を挟まずにはいられなかった。彼方さんの立てたその作戦の、構造的欠陥についてを。

「アシストの力関係が優勢な内、っていうのがもう前提として無理なんじゃないかと思うんですけど」

 アシスト、つまりわたしと鳳さんによる対決でわたしが鳳さんを下すことが出来れば、確かに彼方さんは天衣さんに対して一度、大きなアドバンテージを作ることが出来るだろう。でも、わたしは既に、鳳さんに敗北寸前の状態なのだ。

 ここからの逆転劇って言われても……。

「確かに、《神速のフェニックス》の力は相当なものだ。だが、由良那美が脱落し、四月朔日りくが芯紅の抑えのために抜けてくれたこの状況は、当初の想定以上にありがたいと、わたしは思う。何故なら、数で鷹島を上回ることが出来るのだからな」

「……数?」

 その言葉を聞いて、わたしが最初に思いついたのは、他のエース達と結託して天衣さんを置き去りにしてしまう、というものだったけど。それが成立しないことはすぐさま分かる。九央さんも綺堂さんも金銅さんも、総合二位である彼方さんのことを排除したいと考えている。彼女達からしてみれば、彼方さんのことだって、天衣さんと同じぐらい、どうにかしたい敵なのだ。

 だからゴールが近付いているこの状況では、もう協調してはくれないだろう。

「だったら……あ、そうかっ、ひょっとしてっ!」

 超天才の『個人』天衣椿さんに、数で勝つ、という発想。

 即ちそれは――

「水晶さんの分まで、わたしが頑張って走って、実質それで三対二の勝負ってことですね!」

「馬鹿だなー鳥海。それじゃー何の理屈にもならねー根性論じゃねーかよ」

 身を乗り出す勢いでいいこと言ったつもりのわたしの台詞を、上から目線で否定してくれたのは、文字通り上方、高さ的に上の方から聞こえてきた声だった。

「もーちょっと現実的な作戦で行こーぜ」

「むつほちゃん!?」

 顔を上げて、わたしは名前を呼んだ。

 傾斜した道路の先、わたし達の位置からちょっとだけ登った辺りでペダルを緩めゆっくりと登っていたのは、先行してクライマー達の抑えをしていたむつほちゃんだ。

 九十九折りのカーブ。道の湾曲は路面の傾斜が急激に酷くなるものだけど、わたしはむつほちゃんに会えた嬉しさから、それをどうにか乗り越えていく。重たかったペダルが、少しだけ軽くなったような気がした。

 御弓のクライマーであるむつほちゃんと合流し、わたし達は三人になる。

 それを見て、真っ先に声を掛けてきたのは綺堂さんだった。

「馬鹿馬鹿しいね、御弓の皆さんは。そりゃあこの状況下で数が多いことは大きな利点だろうけど、死にかけのカスが一つ増えたところで、何の役にも立ちはしないよ。そうだろう、結橋さん?」

「……オレがカスだって言いてーのか?」

「カスだろ。だって君、嘉神さん達のペースを抑える為に、あれだけ格好付けて飛び出していったんじゃないか。それが、あのエースクライマー達について行けなくって、今更チームと合流したってね。疲労困憊の負け犬が一匹増えたところで、この状況を引っ繰り返すことなんかできやしないよ」

 もう散々聞き慣れた感すらある、綺堂さんの挑発的な言葉。これまでのむつほちゃんはそんな綺堂さんに対して常に怒りや敵対心を露わにしてきていたけど、今回は反応が違った。

 唇の片端を吊り上げて、挑発を返すみたいにして笑ったのだ。

「……何がおかしいのかな、結橋さん」

「お前の顔以上に面白いモンがこの世にあるとしたらよー、そりゃー的外れな挑発を聞いた時ぐれーじゃねーのかなー」

「何が言いたい?」

「オレは別に、あのクライマー連中について行けなくて遅れたわけじゃねーってことさ。確かに連中は化け物じみて速かったし、そんな奴らについて行こーとすりゃー、遠からず千切れていく結果にはなっただろーけどよー」

「?」

 眉根を寄せる綺堂さん。

 わたしはむつほちゃんの言葉を聞きながら、全てを察していた(・・・・・・・・)。

 この後に備え、残っていた補給食の余りを放り捨て、ドリンクも一気に飲み干してボトルを捨てる。

 むつほちゃんは続けた。

「オレはオレの仕事を終えただけだぜ、綺堂。正確に言えば、以降やるべきことは全部、代わりにやってくれる人がいるって分かったから、途中で抜けてきた、って感じかな」

 むつほちゃんの仕事。即ち、先行したクライマー達の、ペースとタイムを調整すること。先行する集団の中にはまだ、鷹島学院の四月朔日りくさんがいる。

「だからオレは、次の仕事をするために待っていたんだよ。無理してエースクライマーについていくんじゃなく、のんびり登って、脚を溜めつつな(・・・・・・・)!」

 むつほちゃんの――というか、御弓高校揃っての、チームアタック。

 むつほちゃんが先頭となり、わたし、彼方さん、という隊列で、一気にエース達を躱して集団を抜け出していく!

 不意を突かれた綺堂さんと金銅さんが遅れるのが、肌で感じられた。そして鷹島学院側も、天衣さんを護りつつ、鳳さんが必死の形相でこちらを追走してくるのが見える。

「鷹島学院二年、鳳小鳥先輩、だよなー。ガチでやり合えば十中八九オレが負けるんだろーが、今回はちょっと状況が悪かったなー。アンタ、ここに来るまで仕事しすぎで、かなり疲れてるだろ? こちとら今し方までゆっくり休憩してて、脚が満タンなんだぜー」

 軽口すら混ぜつつ、すいすいと坂を攻略していくむつほちゃん。疲労困憊なのはわたしも同様だし、体力残量から言えば鳳さんよりわたしの方が大ピンチなんだけど、前にむつほちゃんがいてくれるという一つの相違点が、状況を有利に覆してくれている。少ないながら風除け効果も働いているし、何より、チームメイトが助けてくれているという事実が、これ以上にないってぐらい、とびきりの勇気をくれる。

 だからわたしも、まだ走れるんだ、っていう気持ちになれる。

「一旦代わるよ、むつほちゃん!」

 むつほちゃんのくれた勇気と元気に背中を押され、わたしもペダルを踏み込んだ。御弓の先頭に立って、少しでも後続チームを引き離せるよう、立ち漕ぎ(ダンシング)でペースアップをする。

 交替の直前、ちらりと後ろを見た。鳳さんが追ってきてはいるけど、やはりむつほちゃんの合流という驚きによるものか、出足が遅れ、まだそれを挽回できていない。引き離すなら今の内だ。

「……あなたもですよ、九央さん!」

 死角から回り込み、しっかりと追い付いてきている九央さんに対して、わたしは力強く告げた。

 やはり《天魔の視線(インサイト・テラー)》、不意打ちアタックに対する反応速度はハンパじゃない。よっぽど虚を衝いたつもりでも、しっかりそれを看破して、備えている。たぶん、むつほちゃんのコンディションが良好なのを見破って、不意打ちを警戒し続けていたんだろう。

 本当に何処までも……わたしに立ちはだかる。まるで壁みたいな人だ。ただでさえ今現在、壁なんじゃないかってぐらいな斜度の坂道を登っているところだっていうのに。

「天衣椿を引き離したその手際は見事だが、わたしとしては、風咲彼方もまた、先に行かせるわけにはいかないんでね。申し訳ないが、利用させて貰ったよ、君達のアタックを」

「……利用、か。お前らしい言葉だがな、静寂」

 九央さんに言葉を返したのは彼方さんだった。ぶっちゃけ今のわたしは結構いっぱいいっぱいだったので、九央さんをチーム規模で無視することにならなくて安心する。

「御弓の列車に乗ろうというのに無賃乗車というのは感心せんが、もうこの際細かいことは言わないでおくよ」

「それはそれは、懐の深い話だね、風咲」

「だが……いつまでもタダ乗りが出来るなどと、甘い考えは持たんことだな――むつほ!」

 彼方さんの声が飛び、ドリンクを一飲みしたむつほちゃんが前へと躍り出る。わたしの背後で座り漕ぎ(シッティング)のまま小休憩をした後なので、またしても元気一杯、力強い走りでチームを引いてくれる。

 九央さんの舌打ちが、距離が空いても耳に届いた。

 体力の落ちている今では、九央さんの反応も鈍る。こちらのアタックのタイミングは読み取れても、肉体がその指示に付いてこられないのだ。だから追い付いてくるまでに必要以上の力を消費することになるし、それでは列車(トレイン)の後列にいるという有用性も活かしきれない。

 むつほちゃんが前を引いている間はわたしが休み、わたしが引いている間はむつほちゃんが休む。彼方さんの体力消費を抑えつつ、可能な限り速く坂を登るという、おそらくこれが、現状で考え得る最良の作戦だろう。

 ……但し、この走り方は別に無敵の必殺技というわけではなく、圧倒的に速いわけでもないので、そんなに極端に、後ろを引き離せる、ということもない。ちらりと振り返れば、割とすぐ近くで、追ってきている姿が見えたりする。

 並み居るエース達に対して、わたしとむつほちゃんによる二段アタック。逃げるこっちはそりゃあ必死だけど、追ってくる方々も当然必死。そこまで大きな差を作ることは出来そうにない。何度繰り返したって焼け石に水、どころか、煮え滾るマグマにスポイトで水二滴、って感じの効果。

 そして勿論だけど、わたしかむつほちゃん、どちらかの体力が尽きてしまえばそこまでだ。更には言うまでもないことなのだけど、わたしの体力はもう、そんなに長時間もつこともない。

 限界は、残り三キロのゲートより手前でやって来た。

 立ち漕ぎ(ダンシング)で踏み込もうとした脚が上手く動かせず、ペダルを踏み外しかける。脳内麻薬が誤魔化し続けてきた疲労が、肉体の限界を超えてしまったのだろう。

 身体がふらふらと揺れそうになって、わたしは自分のゴールがここなのだということを悟った。

 脚を踏み直すよりも優先して、後方に叫ぶ。

「彼方さんっ!」

 御弓高校のエースは、全てを理解してくれていたらしかった。

 わたしが名前を呼び終えるよりも先に、隊列から飛び出し、彼方さんは力強い走りで坂を登っていった。その背中に向かって、わたしは最後の力を振り絞って声を届ける。

「お願いしますっ!」

 本当はもっと色々と、彼方さんに伝えたい言葉があったのだけど、今はこれで精一杯だ。

 横を見やると、むつほちゃんが並んでいる。

 彼方さんについてかなかったところからすると、むつほちゃんも既に限界なんだろう。よくよく考えてみれば、嘉神さん達のアタックについて行くだけでも、相当な体力を消費しているはずなのだ。途中で脚を休めたとは言え、全回復したはずもない。

 ただ、むつほちゃんはこのままゆったりと走っていけば、少なくとも完走は出来るんじゃないだろうか。わたしと違って。

「……おい、夕映?」

 むつほちゃんが、遠くからそう呟く。近くにいるはずだというのに、遠くから。

 わたし達のすぐ近くを、猛烈な勢いの風が吹き抜けていく。薄まりかけた意識がクリアに引き戻されるような錯覚。それは風ではなく、鳳さんを切り離して加速した天衣椿さんだった。

 日本一の女子高生。その強烈な後ろ姿を見やる。

 彼方さんは逃げ切れるだろうか。逃げ切って貰わなくては、御弓優勝は成し得ない。

 追走は一人だけではなく、更にその後で、九央さんが来た。わたしの方を一瞥して何か言った気がするのだけど、よく聞こえなかった。

 綺堂さんも追い付いてくる。疲労を色濃く映し、だけどまだ、表情の中にあきらめの色が混じっていなかったことにだけは、敬意を表するべきかな、とそう思う。

 抜かれ際にむつほちゃんの発した、

「ザマーミロ」

って言葉は、色々な感情が含まれていそうだな、と思った。

 今度、色々と聞かせて貰おう。過去のこと、傷痕のこと、むつほちゃんのこと。友達であり仲間であるわたしも、話せること全てを、話してみようと思う。

 本当は今すぐにでも、むつほちゃんとお喋りしたいくらいだったけど――それはやっぱり無理そうだった。

 むつほちゃんが何か言ってくれている気がするんだけど、よく聞こえない。

 ――すごく、すごくとおくからきこえてくるようなきがする。

 視界が揺れて、空が見えた。

 真っ青で、広い空。

 必死に登ってきたから、これだけ空が近く感じられるんだろう。雲も大きい。

 出来ればもうちょっとゆっくり、この景色を楽しんでみたかったな。

 だけどそれは、むつほちゃんとのお喋り同様、叶いそうにないので……わたしは最後の力で、声を絞り出した。

「……彼方さん、頑張って下さい」

 そして。


       ◆


 全国高等学校総合体育大会、ロードレース女子の部。

 休息日を含めて六日間かけて行われたステージレースの最終日、大会最大の山岳セクションを征しステージ優勝を獲得したのは、福島県代表・郡馬高校の《歌う不屈》安槌歌絵だった。

 総合成績こそ振るわなかったものの、最後は強豪校の意地を見せつけた強烈なアタックで、二年連続山岳賞の天才、嘉神芯紅を抜き去ってのゴール。

 ステージ優勝と山岳賞の両方を獲り逃し、悔し涙を流した《ロマンシング幼女》こと子隠筺には、六日目の敢闘賞が贈られることになった(小学生にしか見えない外見の彼女がわんわん声を上げて泣いている姿に、審査員が同情したのではないか、という憶測もあったが、結局否定的な意見が出てくることはなかった)。

 そして、総合一位を賭けて争っていた長野県代表の鷹島学院、《神速のファンタズマゴリア》天衣椿と、千葉県代表の御弓高校、《風のカナタ》風咲彼方。

 逃げる風咲と、追う天衣。

 苛烈な闘いはゴール直前まで続き、最後の力を振り絞った風咲彼方の、渾身のアタックが炸裂。しかし仲間達の想いを背負った彼女の走りは、日本一の女子高生である天衣椿を引き離すことが出来ず、最後のストレートで痛恨の追い抜きを許してしまう。

 決死のスプリントで天衣を追う風咲だったが、距離が届かず、そのままゴールへ。

 天衣椿の、連覇達成の瞬間だった。



第6ステージ スプリントポイント

着順   名前      学校名     ポイント

1   田鎖 鉄輪   幌見沢農業高校   70

2   右京 左織   四条大宮高校    64

3   亜叶 観廊   鶴崎女子高校    63

4   リタ・バレーラ 名古屋藤村高校   58

5   夏峰 光希   白山毛欅高校    38

6   竜伎 硝子   大海高校      28

7   九央 静寂   昇仙高校      26

8   鬼島 匁    湯乃鷺高校     26

9   荒河音 纏   黒森工業高校    16

10   中星 凛子   柿嶋高校      13

11   笹中 幻詩   瀬戸口高校     13

12   大國 うさぎ  皿石学院      11

13   釜井 鎌    坂井西高校     8

14   伊能 蓮    三柴高校      6



第5ステージ 山岳ポイント

着順   名前     学校名    ポイント

1   嘉神 芯紅   尾鷲学園    43

2   子隠 筺    天王寺高校   34

3   安槌 歌絵   郡馬高校    24

4   九央 静寂   昇仙高校    23

5   鳳 小鳥    鷹島学院    12

6   山田屋 美貴  天王寺高校   12

7   四月朔日 りく 鷹島学院    10

8   新海 朱音   昇仙高校    8

9   有賀 彩    郡馬高校    6

10   天衣 椿    鷹島学院    5

11   結橋 むつほ  御弓高校    5

12   中星 凛子   柿嶋高校    1



六日目 総合成績

順位   名前     所属校    タイム

1   天衣 椿    鷹島学院   10:32:23

2   風咲 彼方   御弓高校   + 5

3   九央 静寂   昇仙高校   +1:06

4   綺堂 硯    巌本高校   +1:07

5   嘉神 芯紅   尾鷲学園   +1:35

6   四月朔日 りく 鷹島学院   +2:00

7   金銅 曜    天艸女子高校 +2:35

8   鳳 小鳥    鷹島学院   +2:45

9   安槌 歌絵   郡馬高校   +2:51

10   新海 朱音   昇仙高校   +3:16

11   子隠 筺    天王寺高校  +3:47

12   源 杏     山波大附属高校+5:24

13   木林 樹果   要第三高校  +7:37

14   有賀 彩    郡馬高校   +7:39

15   籤園 籠璃   昇仙高校   +8:00


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