放課後の部活動
自転車競技、所謂ロードレースというのは、『世界で最も過酷なスポーツ』であると言われている。
実際、競技者になってみて、そして第一線とも呼ばれるべき場所で走るようになってみて、わたしはそれを強く実感している。
痛感している。
これが過酷でないなら、地球上の何が過酷なのか、と。
これ以上に過酷なスポーツなんて、他にないでしょう、と。
迷い無く断言できるだろう。
もしそれを否定するような人がいるのであれば、今まさにレースの真っ最中であるこのわたしのように、レースに出場してみなよと言ってあげたい。
但しそんな剛の者が現れたからといって、わたしは決して、全力で走って完走してみろ、とまで残酷なことを言ったりはしないだろうとは思う。
だって同じ瞬間、わたしの前方で、出し過ぎた速度を制御しきれず転倒してしまった選手が見えたから。
転んだのは、おそらくわたしと同じ、高校一年生の選手だったんじゃないかと思う。
高速度の状態で、車輪が滑ってしまったのだろう。路面が濡れていなくても、稀にあることだ。その女の子は乗っていた自転車から投げ出され、無残な姿で路肩に転がっていた。レースウェアのあちこちが破けて、剥き出しになった肌に見える擦過傷が痛々しい。だけど幸い、命に関わるような傷ではないだろう。
彼女の愛車であるマシンは……サドルが大きく曲がってしまって、フレームにもあちこち傷が付いているみたいだった。見方によっては、自転車が身を呈して御主人様を庇った、とも考えられるかもしれない。
けどどちらにしたところで、彼女はここでリタイア、ってことになっちゃうだろう。
わたしはそこまでを観察したところで、改めて意識を前方に向けた。
この程度の落車やその程度の危険は、『世界一過酷なスポーツ』であるロードレースに於いては日常茶飯事とも言える些事に過ぎないので、いちいち気にしていたら身がもたない。文字通りの意味で、身がもたない。
その時その場所を走っていたのがわたしでなかったことに、感謝するぐらいのことはあるけど。
一緒に走っていた人間としてわたしに出来るのは、そのぐらいだ。
前方を見やれば、わたしの先を走る選手はあと三人。全国高等学校総合体育大会――通称インターハイの女子の部だから、走っているのは無論のこと全員女子だ。
女子高生だ。
花も恥じらい、多少の超人的身体能力ぐらいは持ち合わせた、普通の女子高生たち。
前の三人は、その誰もがわたしより年上だろうと思えた。
詳細なプロフィールなど無いので、勘でしかない。
けど、腰の辺りに付けているゼッケンナンバーから推測するに、ほぼ間違い無いだろうと思える。
前から三番目の人がちらりと後ろ、つまりわたしの方を見て、そして一瞬だけ笑みを作る。実力的にわたしが劣っていると判断し、好機と踏んだのだろう。
その人は前を走る二人すら追い抜いて、一気に加速していく。これまでわたしが見たことないような、爆発的な瞬発力だった。一瞬で先頭に躍り出て、そのまま独走態勢に――させないよう、一つの影がその選手の後ろに張り付く。
集団から一人で逃げ出そうとしていた選手は追いつかれたことを即座に察知し、一度速度を緩めた。僅か一瞬のことだけど、高レベルな攻防だ。
……中間スプリントポイントの計測ラインがそろそろ近いので、ポイントを欲しがって誰もが気合いを入れてきているらしい。
まだまだ隠している脚力を、これから使おうとしている人も多いだろう。
闘いはどんどん激化していくに違いない。
だけどそれはよくあること。
『世界で最も過酷なスポーツ』ロードレースでは、よくあることなのだ。
わたしはそんなレースを、走っている。
今日走る分はあと半分ぐらいで終わるけど、明日だって、明後日だって、きっと走っている。
たぶん、来年も同じように走っているだろう。
晴れた日だって、雨の日だって、色々あると思う。
怪我をしちゃうことだって、きっとあるだろう。
ゲームで遊びたいとか、友達とカラオケに行きたいとか、バイトして貯めたお金でかわいいお洋服を買いたいとか、甘い物を沢山食べてその後思いっきり後悔してみたいとか、そういう、ごく普通の女子高生らしい願望も、無いわけじゃないんだけど。
……彼氏を作ってデートに行ってみたいとか、そういうことを考えたりとかしないわけでもないんだけど。
だけど、別に。
こんなスポーツもう辞めてしまおう、とか思ったことなんて。
わたしには今まで、一度も無かったのである。
――語っておかなくてはいけないことがあるので、とりあえずはその順序を守って話を進めていこうと思う。
筋道立てて、シナリオ通りに、一から十までの数字に準えて、まあとにかく正しい順序で話をすることにしよう。
実のところ、小難しい話やレトリックに満ち溢れた会話なんていうのは、わたしの苦手とするところである。まあ、身の回りの先輩とかからも言われたことがあるんだけど、基本的にはバカだしね、わたし。
だからわたしとしては、そんな小手先のことに頼ったりすることなく、わたしの話をしていきたい。
その為にも、一旦頭の中に入れた予備知識のようなものは、外へ出して貰った方がいいと思う。
たぶん後々になってまた必要となると思うので、それはまたその時使うことになるだろうから、完全に捨ててしまうのではなく、今はまだ必要のないものとして避けておいて欲しいのだ。
……とにかく、わたしは話せる限りのことを話してみる。
だから、どうか。
テレビを付けたときにたまたまやってたスポーツ中継をちょいと観るぐらいの気持ちで構わないから、わたしの話を聞いてやって欲しいのだ。
ところで唐突な疑問ではあるけど、自転車競技の、『ロードレース』、という名前だけ聞いて、それについて話が出来る人ってどれぐらいいるんだろうか。
世界的に知名度の高いスポーツで、本場ヨーロッパではサッカーと競うぐらいの人気があるというのに、この日本という国におけるロードレースの認知度は、悲しいぐらいに低い。
それが自転車を用いたスポーツであることすら分からず、駅伝だったり、自動二輪とかを使用するモータースポーツのことと混同していたりするような人というのも、案外多いよね。
『自転車レース』という言葉に言い変えると多少の理解は得られるのだけど、今度は勝利条件が分からない人というのが出てきたり、凄いケースになると、レースとは名ばかりで単にみんなで列になって走るだけのもの、とか勘違いしている人すらいたりするのである。
そんな、遊園地のパレードじゃないんだから。
観客への挨拶や選手紹介的な意味とかで似たようなことをやったりはするけど、それはあくまで全体の中の一部に過ぎず、決して本質ではない。
本質は、奥深い駆け引きと、人間ドラマによって構築される戦いなのだ。
文字通りの、戦い。
戦争と言ってもいいかもしれない。
究極的には、一番でゴールに行けば勝ちという、ごく単純な競争と言えるのだけど、ただそれだけでは終わらない、終えられない様々な戦いとドラマが、ロードレースの醍醐味なのである。
閑話休題。
そんな感じで、日本では超マイナーなスポーツであるところのロードレース。
これをちゃんと競技としてプレイしようとすると、案外難しいものだったりする。
日本の交通事情が、決してロードレースに適したものでないというのも理由だけど、何より敵味方問わずある程度の人数が必要だったり、大会を運営してくれる人達が必要だったり、結構面倒臭い部分があるのだ。
だからレースとかではなく、ただ単純に趣味やトレーニングの為に一般道を走っている人というのも多い。
実際にわたし、鳥海夕映も、中学生の頃まではそうだった。
部活に所属したくても、そもそもわたしの通っていた市立中学には自転車部というのが存在しなかったし、競技用自転車に乗っている知人というのも、一人もいなかった。
市民レースなどアマチュア向けの大会にエントリーしようとしたこともあったんだけど、手近な大会は中学生の参加が不可なものばかりで、そちらも断念。
だからこそ高校は、女子自転車部のあるところを選んだ。
少し遠い公立高校だったけど、片道十キロ程度ならロードバイクで充分通える範囲内だし、わたしはレースに出たいと、そう思っていたから。
わたしの入学した千葉県立御弓高校は、小高い丘の上にあり、都市部からも比較的近くて、且つ少し走れば一気に郊外の田舎道まで行くことが出来るという、自転車乗りからすればなかなか恵まれたロケーションだ。
但し、生まれた頃から住んでいるこの千葉県は、標高の高い山が無くて、山岳コースの練習に向いた地形ではない。
そういった事情も、中学時代、自転車部が無かったことに反映されていたのかもしれないだなんて、今更ながらにそんなことを思ってみる。
――ロードレースに於いて、山というのは非常に重要なセクションだ。実力差が出やすくて、それ故に勝負を仕掛けようとする選手も多い。レースの殆どはタイム差を競うものなので、山を征する者が勝負を征する、というくらい、非常に重要な場所。
だからこそ練習のことなどを考えるのであれば、高い山が近くにある方が、環境からして有利になるのだろう。
でもそれを理由に県外の高校に進学するなんてことも、流石に難しい。スポーツ特待生とかならまだしも、わたしは中学時代部活動には所属していなかったので何の実績も無いのだし。
特待生として扱って貰えるような、特別な能力や才能が先天的に備わってるわけでもない。
だけど自転車は好きだったし、チームを組んでレースに出てみたいと強く感じていたので、わたしはこの学校を選んだ。
一応自信というか、確信めいた安心もあった。
御弓高校の女子自転車部は、昨年のインターハイに於いて、三十以上の参加校がいたにもかかわらず、その激戦の中で第五位を獲得しているのだ。
その前の年は十六位。
これはおそらく、強い選手がいれば、山が低い県に所属すること自体は大きなハンデにならない、ということなのだと思われる。そうして実際、昨年上位入賞を果たしている学校の部活で練習すれば、わたしもきっと強くなれるはずだ。
そう考えて入った、御弓高校の女子自転車部。
それがまさか、新入生部員を入れても全員で四人しかいない、廃部寸前の超少人数部だとは、わたしも考えていなかったのである。
――ペダルを回す脚に疲労が溜まってきていることは、少し前から感じていた。
今日は特に、向かい風が強い。
先程から先頭を走り続けていることで、更に体力を消費しているんだと思う。
自転車レースにとって最大の敵とは、一緒に走るライバルだとか、或いは弱い心の自分自身だとかそういうものではなく、風や空気抵抗という自然そのものだった。
だから走るときはみんな、縦一列になって隊列を作る。そして一定距離ごとに先頭を交替し、体力を温存させるのがセオリーだ。
敵味方、という概念はこの場合関係無い。
目的地までの利害が一致する限りは、お互いに助け合う。これがこの競技の、実に面白いところだと、わたしは思うんだよね。奥深くて、そして人情深い。
もっとはっきり言うなら、人間臭いのだ。
そして部活の練習に於いても、そのセオリーは適用される。
御弓高校女子自転車部、四人。
縦一列に並んだその先頭をわたしが走り、一番きつい空気抵抗とずっと戦い続けていた。ハンドル上に取り付けられたサイクルコンピュータをちらりと見て、規定の距離を走りきったことを確認する。
「彼方さん、次、お願いしますっ」
わたしはすぐ後ろを走っていた、風咲彼方さんに先頭を譲るべく、声を掛けた。
「うん、了解だ。今日はいつもよりいいペースで引けていたな、夕映」
彼方さんは御弓高校の三年生で、この女子自転車部の部長でもある。
ストレートな黒のロングヘアーは、ヘルメットに収まりきらず、風に靡いている。大人の女性っぽいな、と、わたしは思った。
自転車に乗っている状態だと分かりづらいのだけど、彼方さんはとにかく抜群にプロポーションが良く、女子としてはかなり背が高い。
そして、何より。
人の上に立つ素質、というものが実在するのだと思えるぐらい、彼方さんには王者としての気風があった。
堂々としていて、凛としている。
あとこれは、わたしがひっそりと羨ましがっていることだけど……彼方さんは、バストのサイズがとても素晴らしかった。本当に、羨ましくなるぐらいに。走るとき重さが邪魔になるんじゃないかと、冗談半分に心配してしまう。
「ただお前は、疲労の蓄積と共にフォームが崩れる傾向があるな。これからは疲れてきたときこそ、姿勢や体勢を意識するよう心がけるんだ」
先頭を譲って、最後尾へ下がろうとした際に、彼方さんがアドバイスをくれた。
言葉と共に、ぽんっ、と、軽く肩を叩かれる。
「はいっ、ありがとうございますっ」
昨年、二年生エースとしてインターハイで総合五位を獲った彼方さんからそういうアドバイスが貰えると、とても励みになる。
その彼方さんが、ちょっとだけ振り返り、後続のわたし達全員に言った。
「もうすぐBコースも終了だ。この勢いでAコースを高速巡航のまま走りきり、学校へ戻るぞ!」
AコースとかBコースとかは、要は部活で決めているモデルコースのこと。練習目的に応じて、それに適したコースを事前に設定してあるのだ。
ちなみに今わたし達が走っているBコースは、平坦道が続くコース。学校の裏門をスタートして、県道をひたすら東へ走る道である。
そしてAコースは学校の周辺をぐるりと一周する、距離の短い周回コース。起伏が激しく、疲れているときに走ると脚が凄く疲れる。
「あーあ、ペース上がるのかー。こりゃつらいなー」
気怠げな口調で、わたしのすぐ前、隊列の三番手を走る子がそう言った。
但し、口調や台詞こそ気怠げではあるものの、その動きはちっともつらそうじゃない。むしろ今しがた走り出したばかりなんじゃないかってぐらいにキレのある、スムーズな動作の加速を見せている。
もう既に五十キロ以上を走ってきたところだというのに、だ。
「相変わらず台詞だけは嫌々な感じだね、むつほちゃん」
わたしは苦笑しつつ、前を走るむつほちゃんにそう言った。
結橋むつほ。あたしと同じ、一年生部員だ。
おかっぱ頭の黒髪に、鋭い目つきをしたむつほちゃんの顔には、あまりにも大きな特徴がある。
それは右目の上、おでこの辺りから、眉間、そして鼻の根本を通過して、左目の少し下くらいまで、五センチメートル以上もある、くっきりとした傷痕だ。
初めて会ったときに一目見た時点で、明らかに深いものであると判断できた。というか、新しいものですらない。たぶんではあるけど、相当前に付いた、そしてこれからも消えることはないであろう、おそらく一生ものの傷痕。
十代の女子にとって、それはあまりにも無残としか言いようがない、そんな傷だった。
ただ、当の本人にとってはその辺りのことについてはもう既に心の中で折り合いが付けられているのか、特に気にした様子も、傷を隠そうとする――位置的に、隠そうと思っても隠せる位置じゃないし――素振りもなく、また彼女自身は傷痕のことについて何も語らないので、わたしも何も聞かないでいる。
そんなむつほちゃんが、やれやれといった様子で振り向いてきた。
「こっちはもーヘトヘトに疲れきってるんだぜー。これ以上のペースは身体がついてこねーのさ」
「またそういうこと言って。わたしより体力あるくせに」
「そーいう鳥海だって、競技初心者にしちゃーすげー体力じゃねーか。オレはこれでも、都内の市民レースに出てたしよー」
「あはは。わたしは競技者としてはド素人だけど、一人であちこち走り回ってたからね」
だから本当の意味での初心者とは、厳密にはちょっと違う。レースのセオリーや、細かい技術といったものは、確かに素人同然だけど、体力なら多少は自身があるのだ。
「なんだよ鳥海、友達いなかったクチか? ……って、いや、違うな。鳥海、友達多そーだもんな、オレと違って」
「まぁ友達はいたけど、ロードを一緒にやるような相手はいなかった、って感じかな」
「ふーん。オレとは逆だな」
「むつほちゃんは、ロードのチームメイトはいたけど、友達はいなかった、ってこと?」
わたしの質問にむつほちゃんは、ああ、と頷いた。
「じゃあ、今はわたしとお揃いだね」
「うん?」
「御弓の部活に入って、ロードで一緒に走る友達が見つかったじゃん」
二人の先輩と、一人の同級生と。
四人でチームを組んでロードバイクに乗ることは、とても楽しい。
けど、むつほちゃんは照れたように顔を背け、前を向いてしまった。
「あーあ、そーいやオレ、体力が超有り余ってるのを思い出しちゃったぜー。だからちょっと前を引いてこよーかなー」
聞こえよがしにそう言って、ペースを上げて先頭へ躍り出ていく。
……照れたのかな。
ああいう素直じゃないところが、むつほちゃんは凄くかわいい。
「結橋め、いったいどうしたんだか」
むつほちゃんと入れ替わるかたちで三番手に下がってきた彼方さんが、そう呟いた。
わたしの方を見やり、
「夕映が何か、発破を掛けるようなことを言ったのか?」
「普通の話しかしてませんよ。でもむつほちゃん、照れ屋さんだから。照れ隠しに前を引いてるんだと思います」
「……まぁ、真面目に練習をするのであれば良いか。結橋はどうも、練習で手を抜く癖があるからな」
それは彼方さんが部長として、むつほちゃんの入部以来ずっと言っていることだ。
わたしもロード歴はそこまで長いわけではないけど、むつほちゃんが本来の実力を隠しているのは薄々感じていた。むつほちゃんはたぶん、本気を出したら、もっと速い。
三年生二人に一年生二人というこの御弓高校女子自転車部のパーティで、わたしだけがちょっぴりレベル低めのまま、っていう印象だ。
「ロードレースはチームとしての力を競うスポーツだからな。実力の定かでない者がいると、作戦が立てられん」
「でも、大丈夫だと思いますよ、彼方さん」
部長らしい悩み事に唸った彼方さんに、わたしは声を掛けた。
にっこり笑って、言葉の補足をする。
「むつほちゃんは照れ屋さんなだけですから、もうちょっとしたらきっと、わたし達に色々見せてくれると思います」
「……だと良いのだがな」
彼方さんは、小さな声でそれだけ言った。
Aコースをハイペースで走り終えた後のわたし達は最後、学校までの長い登り坂に差し掛かっていた。
練習の最後はいつも恒例、自由に走る競走である。
この登り坂を、誰が一番最初に走りきるかを競うのだ。
とは言え、もう一人の三年生である久瀬先輩は平坦での最高速度に優れた『スプリンター』と呼ばれるタイプの選手なので、こういった登り坂は苦手な人だ。
登坂に特化したタイプである『クライマー』はウチではむつほちゃんなんだけど、いつもここぞという勝負所でわざと失速しているようなので、一番にはならない。
というわけでこの坂では毎回、平坦と登りの両方をバランス良くこなす『オールラウンダー』である彼方さんと、同じくオールラウンダーであるわたしとの一騎討ちとなる。
但し同じオールラウンダーであるとは言っても、彼方さんの場合はしっかりとした練習量と才能に裏付けされた、高い完成度から来るそれであるけど、わたしの場合は経験値の低さも相まって出来上がった――いやむしろ出来上がっていない――単なる器用貧乏といった感じだ。
特別苦手とするものが無いというだけで、別にそこまで速いわけではない。
だからこの坂道での勝負も、いつも彼方さんに負けっぱなしである。
今日も、いつもと同じ展開になるのだろうと思っていたのだけど……少しだけ違った。
路面が傾斜を始め、隊列がばらけてきた辺りで、彼方さんの声が飛ぶ。
「結橋! 今日の着順で夕映に負けたら、ちょっぴりエッチな罰ゲームを与えるぞ!」
公道で、女子高生が大っぴらにそんなことを叫ばないで欲しかった。
こんなにも色々と厳しい、この御時世に。
「……ちなみにエッチな罰ゲームって、何ですかねー?」
呆れたような半眼で彼方さんにそう聞くむつほちゃん。いやそりゃ気になるよね。
彼方さんは自信満々に胸を反らし、
「ノーパンのメイド服姿で、Dコースのタイムトライアルをやらせる」
「…………」
むつほちゃんが、呆れるのを通り越して、もう完全に言葉を失っていた。
……実際にそうなったとして、メイド服なんて何処で入手してくるつもりなんだろうか、彼方さんは。自前のがあったりするんだろうか?
しかしそんな無茶苦茶な罰ゲームをさせられてはたまらないと思ったのか、むつほちゃんは坂を登る速度を上げた。
がちゃん、と、ギアの切り替わる音がしたので、それなりに本気ということだろう。
「さぁ早く逃げた方が良いぞ、結橋! パンツの中を見せたくなければ、ガッツを見せろ!」
「彼方さん近隣の方に聞かれたらウチの部活が誤解されちゃうからやめて下さい!」
ちなみに『逃げる』とはロードレースの用語であり、要は他の選手を置き去りにして、単独でゴールを目指し独走をすることだ。
「む、何をしているんだ、夕映。お前も負けたら罰ゲームだぞ」
「わたしもですかぁ!?」
むつほちゃんは既に登り始めており、更に言えば彼女が本気を出したら、たぶんわたしでは勝てないと思うのだけど。
「わたしもメイド服ですか?」
「いや。お前が負けたら明後日の土曜日、一日わたしとデートをして貰う」
「何ですかその条件はぁっ!」
「ふふふふ。さぁ走るがよい」
部長なのに無茶苦茶なことを言う彼方さんに背を向けて、わたしは先行するむつほちゃんの追走を開始した。
ギアを一段軽いものへと変更し、パワーではなくペダルの回転数を増やすことによって、速度を上げる。平地と違って、登りではこうしてギアを軽くすることが、逆に速度の上昇に繋がるのだ。……こうした具体的な技術というのは、自転車部に入部してからのこの三週間ちょっとで学んだこと。
そしてその三週間ちょっとの間で、まだ一度も本気を見せてくれていないむつほちゃん。
その背中を追って、わたしは走った。
ちなみに一応言っておくと、罰ゲームである彼方さんとのデートが嫌だったというわけではない。
むしろ、彼方さんとだったら何処かへ出掛けてみたいなと、そう思っているわたしがいた。
わたしより数秒先行するかたちで飛び出していったむつほちゃんだったけど、幸いにしてその姿はすぐに捉えられた。
わたしが追いついてくること自体は予測の範囲内だったのか、ちらりと振り返って様子を確認したむつほちゃんに、驚きの表情はまだ見られない。まだまだ余裕ってことだろう。
ここから、ゴール地点である校門まではもう二キロちょい。信号も無く、殆どが登りの斜面になっている道だ。
つまりは細かな駆け引きとかそういうものより、純粋な登坂のスピード勝負ということになる。ここまで五十キロ以上を走ってきて、体力的には相当きつい。でもそれはお互い様なはずだ。
だからわたしはがむしゃらにペダルを踏んで、とにかく必死に坂を登った。
わたしのこの加速は、今度こそむつほちゃんの想定外だったのか。
校門まで残り百メートルぐらいの地点で、わたしはむつほちゃんの前に出た。
残りの距離がこれだけ短い地点で前に出られれてしまえば、抜かすのは結構大変なはずだ。
相手以上の速度で、適切なルートを選択しなければいけないのだから。
「……まったく部長も、何でこんな勝負をさせるかねー」
むつほちゃんを追い抜いた直後、わたしの背中に、そんな声が届いた。
しかしわたしがそれに反応するより早く、言葉は続く。
「やっぱりやるじゃねーか鳥海。初心者でここまで走れる奴もなかなかいねーよ。でもまーオレもメイド服ってのはちょっと遠慮したいしな」
何か言葉を返した方がいいのかとも思ったけど、わたしの方は体力的にそんな余裕は無かった。
だから、その後起こった全てに、わたしは反応できなかった。
背後から、呟くような、囁くような、むつほちゃんの小さい声。
「――仕方ねーか」
風が吹いたような、そんな気がした。
そして、後ろを振り向こうとして、わたしはすぐにその動作を取り止め、驚愕の表情を前へと向ける。
まばたきをしたぐらいの、ほんの一瞬の時間で、むつほちゃんがわたしの前に出ていた。
……いったい何が起きたのかもよく分からない。
ただ、気が付いたら追い抜かされていた。
道幅も決して広くなく、更にはすぐ前でわたしが走っているこの状況で、追い抜きなんてかなり難しかったはずだというのに、むつほちゃんはごくあっさりとわたしの前にいたのだった。
「鳥海、お前は全然遅くねー」
ゴールを目の前にして、むつほちゃんがこちらへ視線を向ける。
「けどロードレースってのは、速度だけじゃなかなか勝てねーんだ」
むつほちゃんは、そう言ったのだった。