第十四話 選択の時
フィロメナは迷っていた。
もう五月も半ばだ。六月の終わりにはブルーメンフェルト領へ帰らねばならない。
つまり、それまでに資金を調達しなければ、詰む。
求婚の返事を出す期日が迫っていた。
連日悩み続ける娘に、パルツィファルはそっと声を掛けた。
「もう一年くらいなら保たせてみせる」
フィロメナは冷徹な眸をパルツィファルに向けた。
「――具体的には、何をどうなさるおつもりですか」
パルツィファルの頬が引き攣った。具体案はない。だが根性論ではどうにもならない。
七月からは本格的に領地経営に入らねばならない。今の人数で、滞りなく政務を行うのは無理だ。
暇を出した使用人たちを呼び戻さねば、ブルーメンフェルト領は今以上に荒廃するだろう。
フィロメナは頭を抱えた。
「どちらを選んでも悔いは残ります。どちらを選ぼうと、障害は多い」
ディートリヒを選べば、クローネンベルク侯爵家を敵に回すことになる。
ヴィンフリートを選べば、クローネンベルク侯爵の支配下に入ることになる。
「父上は、どちらをお望みですか?」
真剣な表情の娘に、パルツィファルは首を横に振った。
「お前が選びなさい」
それは重い選択だ。
家の未来も、領地の未来も。フィロメナの肩にのしかかる。フィロメナは目を覆い、卓に突っ伏した。
「フィロメナ」
「――はい」
「心の赴くままに。リーベリアの導きを信じなさい」
フィロメナは唇を歪めた。愛の女神は優しくも気まぐれだ。永遠も、一瞬も、同じように肯定する。
「一番に思い浮かぶのは誰だ? 花冠に挿したい枝はないのか?」
パルツィファルの言葉は、すとんと胸に落ちた。
フィロメナは立ち上がった。
「――紅茶を、淹れます」
脈絡のない台詞だ。だが、パルツィファルは頷いた。
湯を沸かす。茶葉を量る。茶瓶に注ぐ。砂時計を引っ繰り返す。
いつもと同じ手順、同じ動き。身に染み付いた所作。
この時間が、一番好きだ。
フィロメナは砂時計の砂が落ちていくのを、ぼんやりと見つめていた。一粒一粒が見える気がした。溶けた飴が伸びるように、時間が引き伸ばされていくような感覚だった。
フリューリンゲの大祭で貰った枝は、白樺と茶の木。どちらも大切に飾ってある。白樺は机に。茶の木は花瓶に。
花冠に挿したい枝は――
フィロメナは頭を振った。
茶の木が思い浮かんだのは、紅茶が好きだからだ。恋ではない。浮ついた気持ちでは選べない。
多くの人の未来が掛かった縁談だ。
「あ……蒸らし過ぎたわ……」
砂は落ち切っていた。
抽出時間を間違えたのは初めてかもしれない。
フィロメナは溜め息を吐いて、茶漉しを取った。
◇
花瓶に生けた茶の木の枝は、萎れることなく瑞々しいままだ。
葉に触れて、指先でそっとなぞる。
溜め息がこぼれた。
ルードヴィヒはその様子を見ていた。
今日だけではない。
今まで何度も、フィロメナは茶の木の枝を気にしていた。
置く場所を慎重に選び、水切りをし、毎日こまめに水を変えていた。少しでも長持ちするように、手を掛けていた。
それは、茶の木が珍しいからだけではないと、ルードヴィヒには思えた。
フィロメナが、また溜め息を吐いた。
あの日から、姉は何度溜め息を吐いただろうか。
心はそちらを向いているのに、認めようとしていないだけ。そう思えた。
だから。
ルードヴィヒは決意を固めた。
「出かけてまいります!」
玄関ホールを飛び出し、走り出す。向かう先は決まっている。ルードヴィヒは脇目も振らず走り続けた。
ゼーベルク商会王都館。
ルードヴィヒは息を切らせて、門衛に詰め寄った。
「ゼーベルク男爵に、面会を」
門前払いしようとした門衛に、ルードヴィヒは名乗る。
「私は! ルードヴィヒ・ユストゥス・フォン・ブルーメンフェルトだ!」
門衛はあんぐりと口を開けた。
執務室ではなく小応接室に、ルードヴィヒは招き入れられた。
「ようこそ、ルードヴィヒ殿」
ディートリヒが扉を開けて入ってきた。ルードヴィヒは丁寧に一礼する。
「突然の訪問、失礼いたします」
「おいでの理由を伺おうか」
淡々と応じるディートリヒに、ルードヴィヒは精一杯の威嚇をした。力を込め、睨みつけるように、聞いた。
「あなたは、姉を幸せにできますか」
ディートリヒの動きが止まった。
「答えてください」
ディートリヒは睫毛を伏せ、吐息し、顔を上げた。
「わからない」
ルードヴィヒが眉間に深く皺を刻む。怒鳴ってやろうかと息を吸った。
だが、とディートリヒは言葉を続ける。
「退屈はさせないつもりだ」
ルードヴィヒは一瞬呆気にとられ、そしてゆるゆると苦笑した。泣きそうだった。
「それなら……姉は喜びそうです」
でも、とルードヴィヒは腹に力を込めて、言い放つ。
「姉を泣かせたら、私はあなたを許しません」
灰青色の眸が揺れている。姉と同じ色なのだなと、ディートリヒは思った。その強さも、よく似ている。
「肝に銘じよう」
ディートリヒは生真面目に頷いた。
◇
ルードヴィヒは泣きながら通りを歩いていた。拭っても拭っても涙がこぼれてくる。
ルードヴィヒにとって、ただ一人の姉だ。かけがえのない人だ。
これから姉の進む道には、多くの困難が待ち受けるだろう。茨の道だ。
それを助け、手を差し伸べられるのはルードヴィヒではない。
手を取り合って、棘を掻き分けて。共に進んでいくのはあの男だ。
悔しかった。
もっと大人だったら。力があったら。金があったら。
フィロメナ一人に背負わせはしないのに。
「ルードヴィヒ」
フィロメナがドレスの裾を絡げて駆けて来る。
「どうしたの、何があったの? どこか痛いの?」
慌てた様子の姉に、ルードヴィヒは泣きながら笑った。
「姉上」
「なあに、大丈夫?」
フィロメナはルードヴィヒの頬に手を当て、心配そうに表情を伺う。
ルードヴィヒは鼻をすすった。
「姉上の、好きな人を選んで」
フィロメナの表情が固まる。
ルードヴィヒは姉の手を取り、そっと握った。
「心にいる人は誰か、姉上はもう、わかってる」
フィロメナは口を開き、躊躇い、また閉じた。
「家のことも、領地のことも、他の責任もすべて横に置いておいて。ねえ、姉上。目を閉じて、思い浮かぶ顔は誰?」
フィロメナの鼻が赤くなった。泣くのを堪えていた。
「……」
「姉上。ゼーベルク男爵に会ってきました。あの人、こう言ってました」
ルードヴィヒは咳払いをし、低い声で伝えた。
「幸せにできるかはわからない。でも、退屈はさせないって」
フィロメナの目から涙がこぼれ落ちた。止まらない。
「ねえ、姉上。前に言いましたよね。自分で幸せになるって」
「……言ったわ」
「だから、手を伸ばしてください。目を背けないでください。姉上が自分に嘘を吐くのは、嫌です」
フィロメナが声を上げて泣くのを、ルードヴィヒは初めて見た。母が死んだ時でさえ、必死に歯を食いしばって、声を殺して泣いていた。
感情を見せないように。フィロメナはいつも微笑んで、嘘を吐く。それは父のためであり、ルードヴィヒのためであり、いつでも、他の誰かのためだった。
貴族であることを、誰よりも重く負っていた。
「ねえ、姉上。あの人を、お好きなんでしょう?」
フィロメナはしゃくりあげ、涙を拭い、唇を歪めた。
「――好きだという理由で、選んでも、いいのかしら」
ルードヴィヒは笑った。
「そもそもの最初から。私も父上も、そう言っていますよ」




