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8:英雄の名

「――“ゴル・アリュード”」


 俺はその名を、反復術式の中に閉じ込めていた魔術へと流し込む。

 呪いを保存していた術式が、軋むように震え、次の瞬間、解き放たれた。


 奴が放った死の魔術を“回路”として、その名は逆流する。

 それはまるで、濃度の等しい液体が境界を失い、ゆっくりと混じり合っていく現象に似ていた。点滴が血管へと滲み込むように、拒絶の余地なく、名はリッチの存在そのものへと染み渡っていく。


「……ッ、ア、アア……!?」


 初めて聞いた。

 あの機巧仕掛けのような声が、悲鳴に歪むのを。


 リッチは後退り、骸骨の顔を両手で押さえる。

 魂が引き戻される。

 逃げ出していたかつての自分が、腐臭を放つ肉体へと縫い戻されていく。


 ――今だ。


 俺は一歩踏み込み、剣を振り抜いた。

 迷いはない。

 狙いは首元。


 鈍い手応え。

 骨を断つ感触が、刃を通じて伝わる。


 次の瞬間、骸骨の頭部が宙を舞い、地面に転がった。


 死を司るものが、再び死を迎える。

 それは、あまりにも静かな終わりだった。


 同時に、キリエ様の身体を縛り付けていた影が、嘘のように霧散した。

 闇が剥がれ落ち、洞窟の空気が一気に軽くなる。


「きゃ」


 キリエ様は空中から落ちたが、高さも低く無事だった。


「ふぅ……まさか、まだこうして生きていられるとは」


 キリエ様は息を整えながら、俺を見た。

 その瞳に宿るのは、恐怖ではなく、確かな現実感だった。


「……終わったのですね」


「はい。奴はもう、()()()()()()()()()


 そう答えると、キリエ様は一瞬だけ視線を伏せ、それから小さく、しかしはっきりとうなずいた。


「私、足が、まだ震えています」


「無理をなさらず。ここから先は、私が」


「いいえ」


 キリエ様は俺の言葉を遮り、ゆっくりと一歩、こちらに近づいた。


「あなたが前に立ってくれているから、だから、私は……歩けます」


 その声音は澄んでいて、洞窟の冷えた空気の中でも、妙に温かかった。


「ありがとうございます。魔術の騎士、ルシアン」


「滅相もないです」


 俺はそう答え、剣を納める。

 膝が、少しだけ震えていた。


「……ルシアン」


「はい」


「あなたは怖くはなかったのですか?」


 一瞬、言葉に詰まる。


「正直に言えば……怖かったです。逃げ出したいとも思いました」


 キリエ様は、驚いたように目を見開き、それから、ふっと息を漏らした。


「それでも、振るってくれたのですね。その剣を」


「ええ。守るべき方が、目の前にいましたから」


 そう言うと、キリエ様は何も返さず、ただ小さく微笑んだ。


 その後、俺たちは洞窟を脱した。

 夜明け前の山道で、三番隊の兵士たちが俺を見た時の顔は、まるで死者が戻ってきたかのような、呆然とした表情だった。


 だが、事実として、リッチは死んだ。

 その影響は即座に現れ、屍喰鬼グールも、死肉猪デスボアも、まるで糸を切られた操り人形のように勢いを失っていった。


 俺たちは、血と泥に塗れながらも、山城へと帰還した。

 空は白み始め、夜と朝の境界が溶けていく時間帯だった。


 戦よりも負傷した帰還。

 それを、誰よりも早く、誰よりも静かに迎えたのが――ヴァンダ卿だった。


 城門の前に立つその姿は、勝利を誇る領主ではない。

 ただ、すべてを見通していたかのような、深い眼差しで、俺たちを見下ろしていた。


 キリエ様は、ほとんど駆けるようにしてヴァンダ卿のもとへ向かった。


「お父様!」


 鎧も着けていない小さな背中が、朝靄の中でひどく頼りなく見える。

 それを、ヴァンダ卿は動かずに受け止めた。


 キリエ様は胸元に手を当て、息を整えながら語り出す。


「恐ろしい……死神のような魔物に、私は囚われてしまいました。あと少しで、死の魔術の材料にされるところだったのです」


 一瞬、ヴァンダ卿の目が細まった。

 だが、言葉は挟まない。娘の続きを、静かに待つ。


「けれど――」


 キリエ様は、はっきりと顔を上げ、俺の方を振り返った。


「ルシアンが来てくれました。彼は逃げませんでした。恐怖の中で、それでも前に出て……彼の勇気が、あの魔物を薙ぎ払ったのです」


 その一言一言に、命の重みがあった。


 ヴァンダ卿は、短く息を吐き、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

 その足取りは重く、しかし迷いがなかった。


「よくやったな、読書家」


 低く、噛み締めるような声だった。


「わしの息子の無謀な“教育”に付き合わされたようで、気の毒だったな」


 それは労いであり、同時に皮肉でもある。

 ドラゴへの苦言を、隠すつもりもないらしい。


「あ……まぁ」


 俺は言葉を濁すしかなかった。

 胸の奥に、安堵と疲労と、言葉にできない感情が重なっていく。


 ヴァンダ卿は俺を見据え、ほんの一瞬だけ、笑った。


「よく休め」


 ヴァンダ卿は、低く、しかしはっきりと告げた。


「我が息子には、相応の反省をしてもらう。……ルシアン」


 その鋭い視線が、今度は真っ直ぐに俺へ向けられる。


「褒めて遣わす。今回の働き、決して偶然ではあるまい。次は“隊長”としてではなく――もっと上を見ておれ。昇格の期待をしておく」



「は! 光栄です!」


 それだけ答えると、ヴァンダ卿は満足したように顎を引いた。


 こうして俺は、人生で最も恐ろしい夜を越えた。


 それでも、結末は最良だった。

 誰もが生きて城へ戻り、キリエ様は無事で、そして俺は――確かな役目を得た。


 しかし、この夜は、終わりではない。

 むしろ、始まりだった。


 ヴァンダ家が抱え込んだ火種は、確実に熱を増している。

 その激動の日は、すでに歩みを止めることなく――一刻一刻と、こちらへ近づいていた。

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