7:闇の戦い
リッチとは、死を司る存在だ。
屍喰鬼が歪な進化を遂げた末の姿なのか、それとも、生前から“死を超える資質”を備えていた者が至った境地なのか――答えは後者だ。あれは偶然生まれる怪物ではない。
魔術書『逆さ十字の書』には、リッチを討つ術がいくつか記されている。
第一は、“魂の器”を見つけ出し、それを破壊すること。
屍喰の魔物とはいえ、魂が無いわけではない。屍喰鬼が斃れるように、リッチもまた殺すことはできる。だが、厄介なのはそこから先だ。多くのリッチは、己の魂を肉体とは別の器へと移している。
なぜなら彼らにとって、“魂が肉体の内に縛られている”という状態そのものが、耐え難い屈辱であり、下等な在り方だからだ。
あれほど舌の回らぬ声で喋るくせに、抱く哲学だけは妙に高尚だ。
――まったく、死に魅入られた者らしい矜持と言える。
だが、この果てしなく連なるルクス山脈に隠された、魂の器を探すなど、現実的ではない。時間も、人手も、何もかもが足りない。
となれば、残された手段は一つ。
『逆さ十字の書』が示す、もう一つのリッチ討伐法。
それを成立させる“鍵”を――キリエ様が握っている、《《可能性がある》》。
確証ではない。
保証もない。
あくまで、可能性だ。
だが今はもう、その可能性に賭けるしかなかった。
それ以外に、夜を切り裂く術は残されていないのだから。
「反復術式……」
小さく呟き、俺は息を整えた。
指先に意識を集め、術式を展開する。淡い光の幾何が空中に浮かび、折り重なるように回転し始めた。
反復術式。
魔術を一定時間閉じ込め、術式の内壁で反射させ続けることで、効果を保存・維持するための技法だ。派手さはなく、実戦で使われることは少なく、だからこそ、俺自身も扱いに慣れてはいない。
術式が安定するのを確認しながら、思わず首を捻る。
「……いけるといいが」
独り言のように呟き、俺は歩き出した。
リッチが消えた方角へ。闇がより濃く沈んだ、山の奥へ。
草を掻き分け、枝を避け、足場の悪い斜面を下る。踏みしめるたびに湿った土が音を立て、夜気に混じって、腐臭とも薬草ともつかない匂いが鼻を刺した。
この先に“工房”がある――そんな確信だけが、背中を押していた。
やがて、視界の先に黒い裂け目が現れた。
岩肌に穿たれた、不自然な闇。松明の光を吸い込み、吐き返さない口。
洞窟だ。
冷気が、洞の奥から這い出してくる。
まるで死そのものが、息をしているかのように。
俺は簡易的な照明術を起動させた。
術式は短く、効率だけを重視したものだ。白い光球が俺を中心にゆっくりと軌道を描き、まるで衛星のように周回を始める。光は強すぎず、しかし闇を拒むには充分だった。
鞘の中で眠っていた剣を、音を立てぬよう静かに引き抜く。
金属が擦れるかすかな感触すら、今は大きな音に思えた。
洞窟へ足を踏み入れる。
内側は、外よりもはるかに冷えていた。
岩肌は濡れ、天井から滴る水が一定の間隔で地面を打つ。その音が、まるで拍動のように洞内に反響している。
進むにつれ、違和感が増していく。
足元には古い骨――人のものとも、獣のものともつかない残骸が混じっている。砕け、噛み砕かれ、しかし完全には喰われきらず、捨て置かれた死だ。
死体の使い残し。
リッチの工房に近づいている証だった。
さらに奥へ進むと、壁面に奇妙な痕跡が現れ始めた。
黒ずんだ文字。血と煤で描かれたような、不格好な魔術陣。文法は破綻しているのに、理屈だけは正確で、嫌になるほど理性的だ。
「……やはり、ここか」
息を潜め、光球を小さくする。
光が広がりすぎれば、こちらの存在を知らせてしまう。
洞窟はやがて広間へと開けた。
天井は高く、中央には不自然な円形の空間。そこだけ、岩が削られ、床には幾重にも重なる術式が刻まれている。中心には、黒く乾いた血の跡――そして、その上に転がる、いくつかの失敗作。
死体。
腹を裂かれ、胸を穿たれ、それでも目的を果たせなかった器。
……キリエ様ではない。
そのときだった。
光球の一つが、何かを照らした。
岩壁の影。そこから、ゆっくりと立ち上がる存在。
骸骨の顔。
黒い肉体。骨と影が縫い合わされたような姿。背後に伸びる、禍々しい魔力の糸。
それは、こちらを見ていた。
「……来たか」
屍喰王。
この山の死を束ねる者。
キリエ様を奪った元凶が、静かに、こちらへと顔を向けた。
そして、その禍々しい存在のさらに奥――
揺らめく闇の向こう側に、銀の光があった。
銀髪の人影。
キリエ様だ。
洞窟の壁に張り巡らされた黒い術糸に絡め取られ、宙に吊るされている。足先は地を踏まず、まるで供物のように扱われていた。
目は開いている。閉じてしまえば楽だったはずなのに、彼女は現実から逃げず、ただそれを見据えてしまっている。
その瞳に宿っているのは、紛れもない恐怖だった。
呼吸は浅く、喉がひくりと動くたび、かすかな音が漏れる。叫びたいのに、声が出ない――そんな状態だと、一目でわかった。
銀髪は乱れ、外套は裂け、幼い肩が小刻みに震えている。
だが、それでも。
完全に折れてはいなかった。
俺と目が合った瞬間、キリエ様の瞳がわずかに揺れた。
怯えの奥に、信じ難いほど微かな光が灯る。
――助けが、来た。
そう思った顔だった。
その表情が、胸の奥を締め付ける。
「……必ず、お助けします」
誰にともなく、俺は小さく呟いた。
それは誓いであり、同時に、ここで失敗すれば全てが終わるという宣告でもあった。
その瞬間だった。
闇が――笑った。
骨が擦れ合うような、不快な音が空間に満ちる。湿った岩壁から、黒い影が迫る。
それは人の形をしているが、人ではない。
頭部は白く乾いた髑髏、眼窩の奥には緑がかった燐光が揺れている。黒衣のようにまとわりつく影は、肉ではなく死そのものだった。
「……オロカナル……」
俺は即座に剣を正眼に構える。
足は止めない。距離を詰める。考えるな。近づけ。
魔術師としての理性が警鐘を鳴らす――近接戦闘は愚策だ。
だが今は、剣しかない。
「キリエ様を――返せ」
言葉と同時に、踏み込んだ。
リッチの影が波打ち、地面から黒い腕のようなものが伸びる。
俺はそれを斬り払う。
刃が触れた感触は、肉ではない。濡れた布を裂くような、手応えのない抵抗。
次の瞬間、背後から殺気。
振り向く暇はない。体を捻り、剣を逆手にして突き出す。
骨と金属がぶつかる音が洞窟に響いた。
リッチの腕――白骨化した前腕が、刃を受け止めていた。
「……ッ!」
衝撃が腕に走る。
細い骨だ。脆いはずだ。だが、魔力で補強されている。
人間の常識が通じない。
リッチは一歩も退かず、逆に距離を詰めてくる。
死臭が鼻を刺す。
眼窩の奥の光が、俺を値踏みするように揺れた。
「……“シ”ヲアタエテヤル」
「黙れ!」
剣を振り抜く。
横薙ぎ。
影が裂け、黒い霧のようなものが飛び散る。
だが、致命傷にはならない。
リッチは後退しながらも、身体を再構築するように影を集めていく。
その間に、俺は位置を変える。
洞窟の柱。岩壁。
背後にキリエ様を置かない角度を取る。
リッチが腕を振るう。
影が鞭のように伸び、俺の脇腹を掠めた。
「ぐっ……!」
鎧越しでも衝撃は重い。
肺の空気が一瞬で吐き出される。
だが、止まらない。
俺は踏み込み、剣を突き立てた。
狙いは胸――心臓の位置。
意味がないと分かっていても、身体がそう動く。
刃は黒い影に沈み込み、リッチの身体を貫いた。
――しかし。
手応えが、ない。
リッチは、笑ったように見えた。
「ムダ……ムダダ……」
次の瞬間、強烈な衝撃が胸を打つ。
骨の拳。
身体が宙に浮き、背中から岩壁に叩きつけられた。
視界が白く弾ける。
剣を落としそうになるのを、必死で堪える。
それでも、立ち上がる。
血の味が口に広がる。
だが、まだ動ける。
リッチはゆっくりと歩み寄ってくる。
勝利を確信した捕食者の歩みだ。
その背後で――
キリエ様が、必死に何かを叫ぼうとしていた。
声は届かない。
だが、その表情だけで十分だった。
――まだ、終わっていない。
俺は剣を強く握り直す。
この一振り一振りは、時間を稼ぐためのもの。
本命は、まだ先だ。
「……さぁ来い、死神」
俺は低く言い放ち、再び構えた。
剣と死が、洞窟の奥で向かい合う。
赤黒い術式が、洞窟の空気そのものを腐らせる。
血と死を混ぜ合わせたような文様が、リッチの掌に浮かび、脈打ちながら形を整えていく。
――本命だ。
直感がそう告げていた。
これは牽制でも威嚇でもない。魂に直接触れ、削り取り、呪い殺すための魔術。
俺は一歩下がり、キリエ様を背に庇うように立つ。
背中越しに、彼女の浅い呼吸が伝わってくる。
「ノロイ……ノロイ……ノロイ……」
呪詛が、言葉としてではなく概念として吐き出される。
空間が歪み、視界が濁り、心臓の鼓動が一瞬遅れた。
放たれた。
赤黒い奔流が、蛇のように這い、一直線にこちらへ迫る。
――今だ。
俺は歯を食いしばり、即座に術式を展開する。
「反復術式――!」
空中に描かれた幾何学紋が、呪いを包み込む。
術式内で魔術が跳ね返り、反射し、圧縮されていく。
頭が軋む。視界の端が白く染まる。
呪いは重い。想像以上だ。
だが、耐えた。
呪詛は術式の中に閉じ込められ、今は“保存された死”として脈動している。
もちろん――
これをそのまま撃ち返しても、リッチには効かない。
それでも、構わない。
「……これは回路だ――キリエ様!」
叫ぶように言った。
背後で、はっと息を呑む気配。
「……は、はい!?」
混乱と恐怖が混じった声。
当然だ。今は状況を説明している余裕などない。
「お尋ねしたいことが! この山を……ヴァンダ家が治める以前に、居た、英雄はいますか!?」
リッチがこちらを睨む。
眼窩の燐光が揺れ、苛立ちを帯びた。
これは賭けだ。
歴史と記憶に基づく、ただ一つの可能性。
反復術式の中で、呪いが不穏に脈打つ。
長くは保たない。
頼む――。
キリエ様の声が、震えながらも続いた。
「……えぇ。この山のことを記した文献を、前に読んだことがありますから……たしか……」
その一言で、胸の奥が熱くなる。
「狼の民と呼ばれた、民族の……首領……」
「名は!?」
食い気味に問う。
キリエ様は、はっきりと告げた。
「――“白狼のゴル・アリュード”」
来た。
――回路は、これで繋がる。
リッチが低く唸る。
「……ナニヲ……」
揺らいでいる。
確実に。
俺は剣を構え直し、反復術式に意識を集中させる。
今、術式の中にある呪いは、単なる死の魔術ではない。
英雄の名を通すことで、“意味”を帯びる。
「ありがとう、キリエ様」
短く告げ、前を向く。
「――次は、こちらの番だ」
赤黒い術式が、英雄の名を得て、静かに形を変え始めていた。
リッチを倒す、もう一つの方法。
それは――生前の名を知り、それを“捩じ込む”ことだ。
魂とは、本来、肉体と結びつくものだ。
死を拒み、肉を捨て、なお存在し続けようとした者であっても、その根は変わらない。
名とは、世界が個を認識するための楔であり、魂を定義する座標でもある。
ゆえに、リッチがどれほど高尚な哲学を気取ろうと、どれほど魂を器に退避させようと――生前の名を知られた瞬間、存在は否応なく“かつての自分”へと引き戻される。
それは呪いであり、祝福であり、逃れられぬ回帰だ。
名を捩じ込まれた魂は、分離していた器から引き剥がされ、腐れ落ちた肉体へと縫い戻される。
死を司る王は、その瞬間だけ、ただの“殺せる存在”に成り下がる。
――だからこそ、リッチは名を捨てる。
――だからこそ、名を知られることを、何よりも恐れる。
そして何より、屍喰の王になるということは、生前、それなりに力を有した偉人であるということ。
その名は、コツさえ掴めば、見つけ出すことができる。
そして今、このルクス山の闇の底で、忘れ去られた名が、再び呼ばれようとしていた。




