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6:屍喰王

 ルクス山は、王国最北端に連なる山脈の中でも、ひときわ異様な存在感を放っていた。内陸と北方海岸地方を分かつその稜線は、まるで大地そのものが引いた境界線のように切り立ち、越える者を拒むかのように常に冷たい風と霧をまとっている。


 山を越えた先には、ブラックウェル家が治める、鉛色の海に面した港湾領が広がっているが、逆に言えば、この山がある限り、内陸諸侯は容易にブラックウェル家へと兵を進めることができない。


 そしてそれは、ブラックウェル家にとっても同じだった。海を背にした彼らは、内陸へ侵攻しようとすれば、必ずこのルクス山を越えねばならず、その途中に待ち構えるヴァンダ領の山城を突破しなければならない。険峻な山々と堅牢な城塞――それらは攻め手の足を確実に鈍らせ、野心を冷ます壁となる。


 つまり、ルクス山を治めるヴァンダ家とは、北と内陸の緊張を押し留める“蓋”のような存在だった。


 だが、俺が本当に恐れていたのは、人の軍勢ではない。

 人の足も滅多に踏み入れぬその険しい山々には、死と血の匂いに引き寄せられる魔物が棲み着いている。戦場に転がる死体は、彼らにとってご馳走も同然だ。いったん嗅ぎつけられれば、ヴァンダ領へと流れ込んでくる――それは、国境を守る戦よりも、よほど厄介な災厄となる。


 そして、その最悪の想定は、現実になった。


 ドラゴによるブラックウェル家への追撃。勝利に酔い、血の匂いを野に晒したその行動が、眠っていた山の闇を呼び覚ましてしまったのだ。


 人の争いが生んだ死が、今度は人ならざるものを招き入れる。


 ――ルクス山という“蓋”は、静かに軋み始めていた。


「伝令ぃぃ! 伝令ぃぃぃ!」


 裂けるような叫びが、夜気を切り裂いた。

 闇の向こうから揺れる光が近づいてくる。松明の炎を振りかざし、一人の兵士が雪と泥に足を取られながら駆け込んできた。


「三番隊、ルシアン隊長はどこだ!?」


「――私ですが」


 名乗った瞬間、伝令の喉がひくりと鳴る。恐怖を飲み込むように一息つき、彼は叫んだ。


「一番隊、死肉猪デスボアの群れに遭遇! ――全滅しました!」


「な……」


 言葉が喉で凍りつく。だが、それで終わりではなかった。


 松明の光が、さらに増える。

 背後の山道から、もう一人の兵が転げ落ちるように現れた。


「伝令! 伝令です! 四番隊――全滅! 屍喰鬼グールの群れによって!」


 報告が、刃のように突き刺さる。


 さらに――


「うあああああ! 二番隊への応援を求む!」


 今度は、声そのものが悲鳴だった。


「魔物です! 見たことのない魔物が出ました!」


「……どんな魔物ですか」


 問いかけると、伝令兵は震える手で顔を覆った。

 言葉にすれば、現実になってしまうとでも言うように。


「顔は……髑髏です。身体は黒く、細く、異様に長い……。まるで死神だと――


 俺は読んだことがある。それは、あらゆる“屍《死》の魔術”の体系において、根源とされる存在。

 死体を操る理屈、そのすべての起点。


「……まさか」


 喉の奥から、絞り出すように名を呼ぶ。


屍喰王リッチが……」


 その瞬間、夜の闇が、こちらを見返した気がした。


「……もし、それが本当に屍喰王リッチだとしたら、我々だけでは対処できない。今すぐヴァンダ卿に報せ――」


 その瞬間だった。


 足元の闇が、蠢いた。


 影が這う。

 それは単なる影ではない。地に張り巡らされた木の根や蔦が、意思を持って伸びてくるかのような、不自然な動きだった。


「キリエ様!」


 叫びが遅れた。


 黒い影は彼女の足首に絡みつき、瞬く間に胴へ、腕へと巻き上がる。そして、引き剥がす間も与えず、夜天へと吊り上げた。


 無慈悲な三日月の前で、キリエ様の白い姿が揺れる。


 次の瞬間――

 その影の主が、大地を裂くようにして現れた。


 地より生え、空を駆ける。

 縦横無尽に、重力を嘲笑うかのような動き。


 屍喰王リッチ


 髑髏の顔孔の奥で、死が笑った。


 魔物は、機巧仕掛けの壊れた歯車を無理に回すような、軋んだ声で言葉を捻り出す。


「ヤマヲ……ウバッタ……

 オロカナル……“ヴァンダ”ノ……ヒメ……」


 それは、確信だった。


 屍喰王リッチは、彼女を誰であるか理解していた。

 キリエ様を、ただの兵ではなく、ヴァンダの血を引く存在として認識し、選び取ったのだ。


 影がさらに濃くなり、闇が口を開く。


 キリエ様の姿は、そのまま夜に引き裂かれ、闇の奥へと消えていった。


「隊長! 無理です! あれには勝てません!」


 誰かの声が悲鳴のように響く。


「一旦、退却を!」


 正しい判断だ。

 頭では、理解している。


 だが、喉が、それを許さなかった。


「……キリエ様は、おそらく苗床にされます」


 静まり返った隊列に、言葉が落ちる。


屍喰王リッチは、高貴な血の肉を好む。餌としてではない。――死骸に、種を植え付けるために」


 兵たちの顔から血の気が引き、誰かが一歩、また一歩と後退った。


 俺は、なおも続ける。


「ここで増援を待てば、その時には……キリエ様の命は、もう無いです」


 夜は答えない。

 だが、闇の奥から、確かに“時間が削られていく音”だけが聞こえていた。


屍喰王リッチは洞窟を好む。あそこを、死霊術の工房として使うんですよ。……このあたりで洞窟の場所を知っている者は?」


 松明の火が揺れる。

 だが、誰一人として手は上がらなかった。


 知らないのではない。

 ――挙げられないのだ。


 沈黙が、そのすべてを語っていた。


「……まぁ、そうなるか」


 自嘲気味に息を吐き、俺は闇へと向き直る。


 地図は役に立たない。

 山は生きており、洞は夜ごとに口を変える。


 それでも、進むしかなかった。


「た、隊長……!」


 背後から、震えた声がかかる。


「行く、のですか……?」


 その問いに、振り返りはしなかった。


「キリエ様を、見捨てるわけにはいかないですよ」


 それだけで充分だと思った。

 英雄の言葉でも、隊長の義務でもない。ただ、人としての、最低限だ。


「……着いてくる者は?」


 問いかけは形式に過ぎなかった。


 松明の列は動かない。

 誰も前へ出ない。


 風が山肌を舐め、火が小さく唸った。


 ――無論、誰もいなかった。


 俺はその沈黙を背に、ひとり、闇へと歩き出した。

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