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5:屍喰鬼

 夜気は冷たい。だが、その奥に潜む何かの気配だけは、じっとりと肌に貼り付くようだった。


 俺たち三番隊は、敗走したブラックウェル兵の死体が多く転がる尾根へと差し掛かっていた。

 血の匂いは土に沈み、冷え、しかしなお新しい。


 ――その時だ。


 夜の静寂を割る、人の声。


 しかも、女の声だった。


「ルシアン、人の声が……」


 隣で歩くキリエが、目を丸くして俺の袖を引いた。

 俺は反射で手を掲げ、隊全体に停止を示す。


「ど、どうしました隊長?」


 後ろの隊員が声を潜めて訊く。

 不安が伝染していく気配。

 だが俺は、喉の奥がざわつくのを感じながら、確信めいたものを抱いていた。


 ――この声、この状況。知っている。


 本で何度も出てきた。


「皆、気を付けてください」


 俺は低く、鋭く告げた。


「この辺りに“女性の兵”がいることはまず無い。人の声で誘い、欺く魔物がいる――屍喰鬼グールの可能性が高い」


 背後で兵たちが互いの顔を見合い、小さく息を呑む気配が走った。


 無理もない。

 人と戦うことには慣れていても、魔物は物語でしか知らない者ばかりだ。


「ま、魔物ってのはそんなこともできるのか」

「おとぎ話みてぇだ……」


 ざわめきが起きる中、キリエ様が俺に尋ねた。


「ルシアン……魔術に詳しいとは聞いていましたが、魔物の知識まで?」


「いや――」


 俺は首を振り、松明が照らす闇の奥を睨む。


「そもそも“魔術”とは、字の通り“魔を術とする”学問です」


 ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「魔術の根には、人ならざるもののことわりがある。魔術を知れば、必然的に魔物も同じく理解できるようになる」


 キリエ様が息を呑んだのが分かった。


「では……あの声は、人のものではない?」


「もし本当に“助けを求める女”なら、すでに魔物の腹の中ですよ」


 俺は静かに剣を抜いた。


「皆の者! これから聞こえるのは、人の真似をする“死肉の声”だ。惑わされるな」


 その瞬間。

 闇の向こうから、再び女の声がした。


 先ほどよりも、はっきりとした。


「……タスケテ……ダレカ……」


 それはあまりにも、人間らしすぎる声音だった。

 だが、その抑揚はどこか壊れている。


 隊員たちが震え始める。

 キリエ様も少しだけ喉を鳴らした。

 次の瞬間だった。


 松明の揺らめく光が、闇の奥で何かに反射した。

 ――眼だ。


 暗闇の中で、獣とも人ともつかぬ眼が、ぎらりと光る。

 一つではない。二つでもない。


 無数。


 斜面の岩陰、倒木の影、死体の山の向こう側。

 まるで夜そのものに眼が生えたかのように、そこかしこで淡い光が瞬いた。


 低い唸り声。

 濡れた肉が擦れ合うような音。

 歯が鳴る、不規則で、待ちきれない音。


 ――飛び込んでいたら、終わりだった。


 松明を掲げて無警戒に進んでいたなら、今ごろ俺たちは血と骨に分解され、この山に溶けていたに違いない。


 背筋を冷たいものが走る。


「弓兵、構え!」


 俺の声が夜を裂いた。


 迷いはない。

 即断だった。


 弓兵たちが一斉に前へ出る。

 火皿から受け取った松明の炎が、矢尻に移され、じゅ、と音を立てて燃え上がる。


 夜気の中で、火の匂いが強まる。


「狙いは密集部! 近づけるな!」


 弓がきしむ音が重なり、張り詰めた弦が月光を弾く。


「放て!」


 次の瞬間。


 炎を宿した矢が、夜空に放物線を描いて飛んだ。


 それは単なる殺傷ではない。

 照明であり、威嚇であり、合図だった。


 闇に突き刺さる火の雨。


 矢が着弾した瞬間、腐臭と悲鳴が爆ぜる。

 火に照らされ、ようやく姿を現す屍喰鬼グールたち。


 歪んだ人の形。

 裂けた顎。

 死体を漁るために異様に発達した腕と、闇に適応した濁った眼。


 光を嫌い、しかし飢えに逆らえず、蠢く群れ。


 キリエ様が息を呑むのが、すぐ隣で分かった。


 だが俺は、矢の放たれた先から目を離さない。


 ――ここからが、本当の魔物狩りだ。


 燃え上がる屍喰鬼グールが、甲高い悲鳴を上げながらこちらへ跳躍した。


 黒く炭化した皮膚の隙間から、赤い肉が覗き、火の粉が飛び散る。

 その光に照らされて、背後に潜むさらに多くの影が、ぬらりと輪郭を現した。


 ――来る。


 影が動く。

 燃える屍喰鬼グールの向こう側、闇に溶けていた群れが、一斉に距離を詰め始めた。


 俺は即座に声を張った。


「第一列、準備!」


 弓兵たちが一歩前へ出る。

 矢筒から引き抜かれた矢が、松明の炎にかざされる。


 じゅっ、と音を立てて火が宿る。


「第二列、弦を張れ! 第三列、後退準備!」


 夜の中で、動きに無駄がない。

 誰も慌てない。誰も叫ばない。


 ただ、命令だけが流れる。


「――第一列、放て!」


 火の矢が夜空を裂いた。


 弧を描き、闇へ突き刺さる。

 着弾と同時に、腐肉の悲鳴と炎が爆ぜる。


 だが、俺はそれを見ない。


「第一列、後退! 第二列、前へ!」


 放った瞬間に、弓兵たちは下がる。

 空いた場所へ、次の列が滑り込む。


 矢はすでに番えられていた。


「――第二列、放て!」


 再び、火の雨。


 先ほど照らされた闇が、さらに押し広げられる。

 燃え上がる屍喰鬼グールが、新たな光源となり、背後の群れを容赦なく晒す。


 闇は、もはや隠れ場所ではない。


「第三列、前進! 第一列、再装填!」


 交互。

 休ませない。

 だが、急がせない。


 弓を引く腕が疲弊する前に、必ず次が撃つ。


 まるで歯車だ。

 一つが回れば、次が噛み合う。


 これは、魔術書――“玄の断章”に記されていた一節から着想を得た戦法だった。


 二人の魔術師が同時に術を放つよりも、一方が術を行使し、もう一方が詠唱に専念せよ。

 力は重ねるものではなく、役割を分けることで循環させよ。


 魔術とは、ただ威力を競うものではない。

 詠唱、集中、発動――それぞれが互いの足を引っ張り合えば、結果はむしろ鈍る。


 ならば、一人が“放ち”、もう一人が“備える”。

 交互に役割を入れ替え、術の途切れる瞬間を消す。


 ――魔術師が二人いれば、魔術は一つでも連続させられる。


 俺は、その理を戦場に転用した。


 弓兵を三列に分け、

 一列が放つ間に、次が備え、

 さらにその背後で、次の火を準備させる。


 誰もが同じことをせず、

 だが誰一人、手を止めない。


 それは魔術ではない。

 だが、魔術書の思想そのものだった。


 その理を、俺たちは弓と火でなぞっていただけに過ぎない。


 しかし魔物が逃げ場を失うのも、当然だった


「――第三列、放て!」


 火矢が連なり、夜そのものを切り刻んでいく。


 屍喰鬼グールたちは吼え、跳び、迫ろうとする。

 だが、距離は縮まらない。


 進めば燃え、

 立ち止まれば照らされ、

 退けば、次の矢が待っている。


「……逃げ場を与えるな!」


 火の矢が、一定の間隔で、絶え間なく放たれる。

 それはもはや攻撃ではない。


 制圧だ。


 夜を支配し、

 距離を支配し、

 恐怖の向きを、完全に奪い取る。


 やがて――


 跳躍していた影が、一つ、また一つと地に伏していく。

 燃え尽きた屍喰鬼グールが、黒い塊となって崩れ落ちる。


 悲鳴は減り、

 唸り声は途切れ、

 最後には、火の爆ぜる音だけが残った。


 誰も

剣を抜かなかった。


 誰一人、刃を交えなかった。


 夜を満たしていた呻き声は途絶え、残ったのは、火の爆ぜる音と、兵たちの荒い呼吸だけだった。


 ――殲滅。


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