4:魔物狩りの夜
深夜の出陣だった。
城門前に並んだ松明の列が、夜霧を赤く染め上げ、揺れる炎の光が分厚い門扉にせき止められている。軋む鎖の音が鳴るまで、兵たちは無言のまま、ただ待っていた。山は眠らない。むしろ、夜こそが本番だ。
急遽編成された魔物狩りの部隊。その中で、三番隊――実質的に前衛を担う隊の指揮を、俺は任されていた。
剣の家系でもなければ、名門の血を引くわけでもないハーフエルフが、隊長旗を預かるなど前例はない。異例という言葉すら、生温い躍進だった。
出発間際、その空気を裂くように声が響いた。
「ルシアン・ブライトはどこだ」
呼ばれたのは、俺の名だった。
振り返ると、そこに立っていたのは甲冑を身に着けていない、軽装のドラゴだった。戦場に向かう者の格好ではない。だが、その立ち姿には、場を支配する圧だけがある。
そして彼の隣には、一人の少女。
外套に身を包み、深くフードを被っている。闇の中でもはっきりと分かる、フードの隙間からこぼれ落ちる銀色の髪。
嫌な予感が、背骨を伝って這い上がってくる。
「……ルシアンです」
「そこにいたか、ハーフエルフ」
ドラゴは口の端を歪め、笑みとも嘲りともつかぬ表情を浮かべた。
そして何の躊躇もなく、外套の少女の頭を掴み、まるで所有物を示すかのように引き寄せる。
「晴れて“害虫駆除”の指揮を、父に任せてもらえてよかったな」
彼は楽しげに言った。
「せっかくだ。是非、我が妹を同行させてもらおうと思ってな」
フードの奥から、不安を隠しきれない視線がこちらを覗く。
月明かりに照らされたその横顔を見て、確信した。
――キリエ・ヴァンダ。
ヴァンダ卿の実娘。
まだ十四歳。剣を振るう年齢ですらないはずだ。
「し、しかし……ドラゴ様」
喉が張りつくのを感じながら、言葉を絞り出す。
「これは非常に危険な任務です――」
「図に乗るなよ、ハーフエルフ」
言葉は、冷たく断ち切られた。
「貴様ごときに“危険な任務”など、任せてもらえると思うな」
ドラゴの指が、少女の頭に食い込む。キリエは小さく肩を震わせた。
「我が妹は、まだ戦も、この山も知らん。ならば、知るべきだろう」
彼は松明の列、その向こうの闇を見やる。
「害虫駆除――魔物狩りともなれば、妹にとってはちょうどいい“入門”だ」
その言葉に、周囲の兵士たちの視線が一斉に伏せられた。
誰もが、何も言えなかった。
「では、キリエ。このハーフエルフの世話になって、学んでこい」
命令というより、処分を言い渡す口調だった。
キリエ様は軽く背を押され、よろめくようにして俺の方へ歩み出る。外套の裾が揺れ、フードの奥で、銀の髪がわずかに覗いた。
「ドラゴ様……このことは、ヴァンダ卿はご存知で?」
思わず口を挟んだ俺に、ドラゴは振り返りもしない。
「貴様には関係ない」
冷たく、突き放すように言い放つ。
「忘れるな。私が貴様の上官だ」
それだけ言い残し、彼は踵を返した。
迷いも、躊躇もない。妹を戦場に投げ込むことすら、駒を盤上に置く行為と変わらない様子だった。
重々しい軋みとともに、城門が動き出す。
松明の光が割れ、門の向こうに、闇と霧と、山の気配が口を開けた。
――引き返せない。
魔物狩りの夜への道が、開かれたのだ。
静かなる前進が始まる。
兵たちの足音が、石畳から土へと変わる音が、夜に溶けていく。
俺の隣で、キリエ様は小刻みに肩を震わせながら歩いていた。
恐怖だと思った。十四歳の少女なら、無理もない。
「キリエ様」
俺は歩調を落とし、声を潜める。
「私の背に。心許ないかもしれませんが……何かあれば、このルシアンが命をかけてお守りします」
そう言って振り返る。
――だが。
キリエ様は顔を上げ、その表情は、俺の想像とはまるで違っていた。
瞳が、夜を映して煌めいている。
怯えではない。潤んでもいない。
期待――いや、好奇心。
もしかして、あの震えは恐怖ではなく、武者震いだったのか。
「どこまで山を下るのですか!?」
矢継ぎ早に、声が飛んでくる。
「魔物とは、どんな生き物なのです!? おとぎ話のと、実際に見るのとでは違いますよね!?」
彼女は周囲を見回し、深く息を吸い込んだ。
「わぁ……すごい……」
夜霧の冷気を胸いっぱいに吸い込み、頬をわずかに紅潮させる。
「深夜の空気というのは、どこか澄んでいて……心が躍ります!」
その無邪気さに、俺は言葉を失った。
――この少女は、何も知らないのか。
それとも、知ったうえで、ここに立っているのか。
「キリエ様、お言葉ですが……油断は禁物です。魔物は、決して甘く見てよい相手ではありません」
前方の闇に目を凝らしながら、俺はそう忠告した。
「兄上と、どっちが恐ろしい?」
「な――」
一瞬、思考が止まる。
「ふふ。冗談です」
夜気の中で、キリエ様はくすりと笑った。
「あれは本当に、どうしようもないバカ兄貴ですよ」
思いがけない言葉だった。
俺は返す言葉を失い、ただ視線を前に戻すしかなかった。
「驕り昂り、無謀で、夢想家。父の背中を見て育ったつもりで、影しか追えていない」
淡々とした口調。
感情を込めないからこそ、その評価は冷ややかだった。
「私をこの魔物狩りに同行させたのも、善意や教育ではありません」
キリエ様は一拍置き、はっきりと言った。
「兄上は、私を恐れているのです」
「……キリエ様を、ですか?」
思わず聞き返すと、彼女は小さく頷いた。
「あなた、父の生い立ちは知っていますか?」
「もちろんです」
ヴァンダ卿――サロード・ヴァンダ。
ルクス山麓の寒村に生まれ、母は薬草と毒に通じた山の薬師。父は定かでなく、幼い頃から生き延びるために知恵と欺瞞を武器とし、行商人、僧、下働きとして各地を渡り歩いた男。
人心と金、信仰の扱い方を学び、やがて当時のヴァンダ家当主に才を見抜かれて仕官。
正統な武功では道が開けぬと悟り、密かに派閥を操り、主の失脚と病死に関与したという黒い噂を背負いながら、ついには辺境領主の座へと成り上がった怪物。
「兄は、父上の“目的のためなら何でもやる”という精神に心酔しています」
キリエ様は静かに言った。
「それこそがヴァンダ家の真髄だと、疑いもしない。だからこそ、父のやり方をなぞることで、自分が正統な後継者だと信じている」
彼女は歩みを止めず、夜の闇を見据えたまま続ける。
「私をこの魔物狩りに送り込んだのも、その延長です。願わくば、私がここで死ねばいい――そう考えている」
「そんな……」
思わず声が漏れた。
「兄上の傲慢さは、あなたも見ての通りです。父の子は、兄上と私だけ。本来、家督は長男が継ぐものですが……」
キリエ様は一瞬だけ言葉を区切った。
「ヴァンダ領では、私、キリエ・ヴァンダこそ次期領主に相応しい、という声もあります」
誇示でも、虚勢でもない。
事実を並べるだけの声音だった。
俺も知っている。
賢く、気品があり、政の才に恵まれた娘がいる――そんな噂は、城の内外で囁かれていた。
「だから兄上は、私を恐れている」
夜風が、彼女の銀髪をわずかに揺らす。
「焦っているのです。父上は今、隠居の準備に入っておりますから」
「……そう、なのですか」
胸の奥が、じわりと冷えた。
この魔物狩りは、単なる害獣駆除ではない。
血と闇の中で行われる、家督争いの延長線。
そして俺は、その渦中に、否応なく立たされている。
前方の森が、かすかにざわめいた。
――魔物か、それとも。
いずれにせよ、この夜は、ただでは終わらない。




