29:沼地の神
沼木の林——生贄の座へと足を踏み入れた、その瞬間だった。
ふいに、風が走った。
最初は気まぐれな一陣のように、枝葉を揺らしただけだったはずだ。
だが次の瞬間、木々は一斉に軋み、根を張ったはずの大地がざわめき始める。
雨が落ちてきた。
ぽつ、ぽつ、という生易しいものではない。
叩きつけるような豪雨。
水面は跳ね、沼は泡立ち、視界は一気に白く潰されていく。
——荒れている。
いや、荒らされている。
嵐は次第に強さを増し、風は渦を巻き、霧を引き裂くように押し流した。
まるで、この沼そのものが意思を持っているかのように。
偶然ではない。
これは、明らかに“起こされている”。
天候を操れる魔物など、そう多くはない。
しかもこれほど局所的で、狙い澄ました嵐——。
「……まさか」
俺の喉から、思わず言葉が漏れた。
「本当に、“神”がいるっていうのか……?」
疑念が、胸の奥で渦を巻く。
雨粒が、もはや水ではなく、石のように痛い。
男たちは腕で顔を覆い、歯を食いしばりながら、それでも前へ進んだ。
その時だった。
嵐の帳の向こう。
霧の裂け目から、ゆっくりと——影が、姿を現した。
最初に見えたのは、異様な曲線。
次いで、鈍く濡れた光沢。
イゴ村の男の一人が、指を震わせて叫ぶ。
「は……ハサミだぁぁぁ!!」
嵐の沼地から現れたのは、巨大な“鋏”。
生き物の一部であることは明らかだった。
馬の体ほどもあるそのハサミが、水面から持ち上がり、ぎちり、と不快な音を立てて開閉する。
閉じて、開いて。
開いて、閉じて。
まるでこちらを招き入れるように。
あるいは——生贄の到着を、心から歓迎しているかのように。
その場に留まり、逃げもせず、威嚇もせず。
ただ、嵐の中心で、悠然と“待っている”。
その光景を前にして、恐怖より先に、俺の胸に込み上げてきたのは——怒りだった。
こんな不気味で、残酷な場所にこれまで——
何人もの少女が、祈りと恐怖を抱えたまま、捧げられてきたというのか。
俺は、剣を握る手に力を込めた。
——ここで終わらせる。
この沼も、この因習も、この“神”を名乗る何かも。
生贄の少女が、静かに前へ進み出た。
雨と風の中でも、その足取りは乱れない。
慣習通り——生贄の座へ。
湿った石の台。
無数の祈りと、恐怖と、諦念を吸い込んできた場所。
その瞬間、沼が——応えた。
水面が、不自然に盛り上がる。
泡が弾け、泥が巻き上がり、濁流が渦を描く。
そして、ゆっくりと。
まず現れたのは、黒褐色の甲羅だった。
沼の水をまとい、鈍く光る重厚な殻。
次に、その縁から突き出す無数の突起——その先端に、ぎょろりと動く眼。
さらに、水を割って姿を現したのは、虫の脚のように節を刻む口器。
蠢き、擦れ、ぬめった音を立てながら開閉する“口”。
そして、あの巨大な鋏。
嵐の中心で、ついに全貌を現したそれは——
「……こいつは——“カルキノス”か……!?」
本でしか読んだことのない名。
湖や沼地に棲む大型の蟹型魔物。
縄張り意識は強いが、基本は雑食——人を好んで喰うとは、記されていなかったはずだ。
だが、目の前のそれは違う。
カルキノスは、生贄の少女へと向かって動き出す。
一歩進むごとに、沼は波打ち、水が押し寄せる。
嵐の中で、その巨体はまるで“神像”のようだった。
「あたいらの信じては神様ってやつは、随分と美味しそうじゃないか」
マーガルが言う。
そして鋏が、ゆっくりと持ち上がる。
逃げ場はない。
——次の瞬間。
鋏が、少女に触れようとした、その刹那。
少女は、動いた。
ばさり、と。
生贄の衣装を躊躇なく脱ぎ捨てる。
濡れた布の下から現れたのは——
銀髪。
月光と稲妻に照らされて、はっきりと輝く銀色。
「——なっ」
どよめきが、イゴ村の男たちの間を走る。
そこに立っていたのは、怯えた娘ではない。
外套を翻し、剣を構えた——キリエだった。
「随分と、この手の戦法にも慣れてきちゃったなぁ」
嵐の中でも、その声は不思議とよく通った。
キリエは、ためらいなく腕を振る。
手にしていたのは、稲藁で編まれた小さな球——
焔産毱。
それが、放物線を描き。
カルキノスの——蠢く口へと、吸い込まれる。
次の瞬間。
——火が、生まれた。
内部から炸裂するように、赤い光が甲羅の隙間から漏れ出す。
湿った肉が焼ける音。
怒りとも悲鳴ともつかぬ、低く、濁った咆哮。
嵐の沼地に、火と水と叫びが交錯する。
俺は剣を構えながら、確信した。
ここからが、本当の討伐だ。
焔産毱が喉奥で爆ぜ、カルキノスは身を震わせた。
甲羅の継ぎ目から赤い光が漏れ、焦げた臭いが嵐に混じる。
だが——倒れない。
鋏が水面を叩き、沼が跳ね上がった。
衝撃で、後方のイゴ村の男たちが悲鳴を上げて転ぶ。
「ルシアン!」
キリエの声が飛ぶ。
「口の中、効いてる! でも長くはもたない!」
見れば、カルキノスは頭部を振り、口器を水に突っ込んで火を消そうとしている。
賢い。
「マーガル!」
俺は叫び、走った。
「右の鋏を止めれるか!? 一瞬でいい!」
「任せな!」
マーガルは沼をものともせず踏み込み、巨体に向かって跳ぶ。
赤い戦装束が翻り、担いだハンマーが唸りを上げた。
「——おおおっ!!」
渾身の一撃。
鋏の根元へ、斜めから叩き込む。
金属と甲殻がぶつかるような鈍音。
鋏は完全には折れないが、動きが止まった。
——今だ。
俺は、水面すれすれを駆けた。
足裏に魔力を集中させ、沈みを最小限に抑える。
狙いは、甲羅の継ぎ目。
カルキノスの弱点は、完全な防御を持たない“腹側”。
「キリエ!」
「わかってる!」
言葉を交わすより早く、彼女は踏み出していた。
迷いはない。視線はすでに次の一手を捉えている。
——焔産毱。
それは、ただ投げて燃やすための道具じゃない。
キリエは事前に、それを“空間そのもの”に縫い付けていた。
固定魔術。
物体ではなく、位置を固定する術式。
沼の水面すれすれ、カルキノスの巨体が必ず通ると読んだ一点。
焔産毱はそこに「在り続けて」いた。
キリエが指を弾く。
刹那。
——爆ぜた。
炎は広がらない。
逃げ場もない。
固定された座標を起点に、内向きに圧縮された熱と衝撃が、甲殻の隙間へ叩き込まれる。
カルキノスの動きが、止まった。
時間を奪われたかのように。
巨体が水面を叩く途中で、凍りついたように静止する。
完全じゃない。
甲羅は砕けていないし、命も尽きてはいない。
だが——
重さと慣性を失った一瞬。
それは、巨獣にとって致命的な“隙”だった。
「今だ……!」
その隙に、俺は潜り込む。
甲羅の下。
ぬめる水と、腐葉土の臭い。
視界は悪い。だが——
見えた。
柔らかい腹部。
鎧に覆われていない、生身の部分。
「——もらった」
剣を逆手に持ち替え、柄頭に全体重を預ける。
狙いは腹部——甲殻の合わせ目。そこしかない。
突き上げる、その瞬間だった。
ぞくり、と。
背骨をなぞるように、冷たいものが走った。
——見られている。
反射的に視線が逸れ、そして気づく。
目が合ったのだ。
カルキノスの腹部。
鋏でも甲羅でもない、裂け目の奥。
そこに——何かが捩じ込まれていた。
「……これは……!?」
それは、人だった。
いや、かつて人だったものだ。
皮膚は水と泥に侵され、色を失い、骨ばかりが浮き出ている。
手足は不自然な角度で折れ、腹から下は甲殻に絡め取られたまま、逃げ場を失っている。
だが——
胸が、かすかに上下していた。
生きている。
朽ち果て、醜く変わり果て、それでもなお、虚ろな瞳が俺を見ていた。




