3:ルシアンの目
魔術書の文字が、まるで頭に入ってこなかった。
視線は頁を追っているはずなのに、意味だけが指の隙間から零れ落ちていく。
原因はわかっている。
メテラナ・ブラックウェル――あの口付けだ。
柔らかさも、体温も、血と硝煙の匂いも、すべてがまだ唇に残っている。
俺は正直、恐れてすらいた。
あの少女の魔性を。
剣よりも鋭く、魔術よりも深く、人の内側に爪を立ててくる何か。
だからこそ、半日が経った今もなお、思い出してしまう。
これは未練ではない。
――呪いに近い。
そんな集中力の欠片も残っていないところへ、知らせは来た。
ドラゴが命じた、撤退するブラックウェル軍への追撃。
それが、物議をかましている。
城内を歩く兵たちの足取りが、どこか重い。
そして俺は、魔術書を閉じる間もなく呼び出しを受けた。
ヴァンダ卿直々の呼び出し。
――しかも、執務室へ。
城の最上階。
これまで一度たりとも、俺のような身分の者が足を踏み入れることを許されなかった場所だ。
どういう風の吹き回しかは分からない。だが、嫌な予感だけははっきりとしていた。
扉の前で一度、深く息を吸う。
ノックを三度。
「入れ」
低く、よく通る声。
扉を開けると、空気が違った。
硝煙でも血でもない、権力の匂い。
「夜分遅くに呼び出して悪いな」
部屋の奥で、ヴァンダ卿は椅子に深く腰掛けていた。
獅子のように広がる立髪の白混じりの髪、豪奢というより威圧的な髭。
ラフなシャツ姿で、片手には葉巻。火皿の赤が、ゆっくりと瞬いている。
「いえ……お呼びとあらば」
俺は片膝をつきかけて、手で制された。
「いい。堅苦しいのは嫌いだ」
ヴァンダ卿は紫煙を吐き、じっと俺を見た。
その視線は、剣の切っ先よりも重い。
「ルシアン。今日の戦、どう見た」
試すような問いだった。
「その、恐縮ながら……追撃は、悪手かと」
正直に答えた。
嘘を吐いても、この男には意味がない。
ヴァンダ卿の前では、誤魔化しは弱さでしかない。
葉巻の煙の向こうで、ヴァンダ卿は口の端をわずかに吊り上げた。
笑みというより、刃の抜き差しを確かめるような表情だった。
「何故そう思う」
「無論、“小競り合い”で済むのであれば、それに越したことはありません」
言葉を選びながら続ける。
「この山城は、守っている限り鉄壁です。追撃に出れば、その優位は消える。負けない戦を、わざわざ不確かな戦に変える必要はない」
ヴァンダ卿は黙って聞いている。
だからこそ、こちらも止まれない。
「ドラゴのように、この停滞した小競り合いから脱却しようという気概が、お前には無いのか?」
試すような口調。
だが、責めではない。選別だ。
「あります」
即答した。
「ただし、“勝つため”ではなく、“壊さないため”の気概です」
ヴァンダ卿の眉が、わずかに動いた。
「ブラックウェル家の治めるエンドル地方は海に面し、海産物が豊富で、交易港も抱えています。内陸の我々と違い、外と繋がる手段を最初から持っている土地です」
「ほう」
「領主カーツ・ブラックウェルは、本来ならこの山城を越えずとも、外の世界と繋がり、富も兵も得られる。無理にこの城を落とす必要など、最初からない」
俺は一息つき、続けた。
「それでも彼がこの城を攻め続けるのは――理由があります」
ヴァンダ卿は、口を挟まない。
「“海賊”“豪傑”“恐るべき領主”。そうした強いイメージを、民と家臣に見せ続けるためです。戦う姿勢そのものが、統治の一部だった」
言葉を選び、核心を突く。
「だからこそ、この城への侵攻は本気ではない。あくまで示威行動。こちらもそれを理解したうえで迎え撃つ。血を流しすぎない範囲で、互いの力を誇示する」
ヴァンダ家とブラックウェル家。
敵でありながら、均衡によって成り立つ関係。
「それが……両家の、暗黙の了解だったと私は見ています」
部屋に、しばし沈黙が落ちた。
葉巻の灰が、静かに崩れる音だけが響く。
やがて、ヴァンダ卿は低く笑った。
「……なるほど」
それは満足とも、不満とも取れる声だった。
「お前は、物事を盤面で見ている」
視線が、鋭く突き刺さる。
「だからこそ聞こう。ドラゴがその盤面を――今日、崩したことを。お前はどう思う」
問いは、まだ終わっていなかった。
「私が思うに――ブラックウェル家が本気になるよりも、まず先に……」
言葉を選びながら、俺は続けた。
「――あの死体の量です」
ヴァンダ卿の眉が、ぴくりと動いた。
「このルクス山には、屍喰鬼や死肉猪が棲み着いています。連中は戦を嗅ぎつける。血と腐臭は、奴らにとっては呼び声のようなものです」
魔術書の挿絵で何度も見た、裂けた口、泥にまみれた牙、飢えた眼。
「死体が増えれば増えるほど、奴らは湧いて出てきます。山の奥から、洞穴から、谷底から……腹を満たすために。そして、腹が満たされれば――繁殖が始まります」
葉巻の灰が、音もなく落ちた。
「屍喰鬼は死体を苗床に増え、死肉猪は腐肉を餌に子を産む。戦が終わっても、死は終わらない。むしろそこからが始まりです。この山そのものが魔物で満ち、腐っていく。街道は閉ざされ、麓の村は夜ごと攫われる。ブラックウェル家が攻めてくる前に、この山が敵になります」
ヴァンダ卿はしばらく黙したまま、煙を吐き出した。
豪胆な笑みは消え、そこにあったのは、老獪な領主の目だった。
「……なるほどな。戦に勝って、山に負けるか」
ヴァンダ卿は椅子の背にもたれ、ゆっくりと天井を見上げた。そこには絢爛な装飾が施されているはずなのに、今の彼の目には、血と腐臭に満ちた山肌が映っているようだった。
「……では、すぐにでも対処しなければならんな」
独り言のような呟き。
だが次の瞬間、その声は領主のものへと切り替わる。
ヴァンダ卿の視線が、重く、逃がさぬ力を帯びて俺に戻った。
「魔物狩りの隊を編成する。規模は小さく、だが機動力を重視する。山を知り、理を理解する者で固める。お前はたしか、ルシアンと言ったな」
「は、はい」
「――そのうちの一隊の隊長に命ずる」
言い切りだった。相談でも、期待でもない。
それは命令であり、同時に烙印だった。
「わ、私がですか!?」
自分が今まで積み重ねてきたのは、剣の功でも武勲でもない。机に向かい、嘲笑されながら魔術書を読み漁っていただけだ。
ヴァンダ卿は、わずかに口角を上げた。
「不満か?」
「い、いえ……ただ、私は前線の経験も浅く――」
「だからだ」
被せるように、短く言い放つ。
「剣の振り方しか知らぬ者は、魔物の数を斬れても、山の理は斬れん。お前はは良い目を持っている」
葉巻を灰皿に押し付け、火を消す。
「ドラゴが十人試合の修練をしている時、お前に言っていたな。“魔術ばかりにかまけている”と」
ヴァンダ卿は、どこか懐かしむように鼻で息を吐いた。
「わしは、あれが妙に引っかかっておった。だからお前を今、ここに呼んだのだ。このルクス山ではな、魔術に長けた者などほとんどおらん。剣を振れぬ者が逃げ込む学問――そう扱われてきた」
視線が、俺の机に積まれた魔術書を見透かすように細まる。
「だが、魔術を“使う”以前に、“知ろうとする”者はさらに少ない。力を求めるのではなく、理を覗くことは大切だ。そしてなによりも、」
ヴァンダ卿は、自らの目と目の間を指でとん、と叩いた。
「“目”は、多い方がいい」
彼は不敵に笑った。




