28:ラミア討伐隊
朝。
セラの沼地に霧が立ち込める中、イゴ村とバミ村は、落ち着かないざわめきに包まれていた。
二つの村の境界に集まったのは、イゴ村の男たちだった。
年若い者も、白髪交じりの者もいる。手にしているのは剣、槍、鍬を削って作った即席の武器。どれも使い慣れているとは言い難く、握る手には力が入りすぎている。
顔に浮かぶのは、勇ましさよりも不安。
当然だ。彼らは戦士ではない。畑を耕し、家族を養い、沼地と折り合いをつけて生きてきただけの村人だ。
魔物狩りなど、噂話でしか知らない。
一方、バミ村の側には、静まり返った一団があった。
その中央に立つのは、花嫁衣装のように華やかな衣をまとった少女。白と薄紅の布が幾重にも重なり、朝靄の中で淡く揺れている。
顔はレースで覆われ、表情は見えない。
彼女こそが、今回“ラミア”と呼ばれる存在へ捧げられる生贄。
神だの、厄災だの、言葉はいくらでも取り繕われるが、実態はただ一つ——命を差し出す役目だ。
その光景を前に、胸の奥が重く沈むのを感じながら、俺は一歩前へ出た。
即席とはいえ、俺はこのラミア討伐隊の隊長だ。
たかが一年くらいしか魔物狩りをしていないが、ここにいる誰よりも、魔物を知っているつもりだった。
視線を巡らせると、イゴ村の男たちが一斉にこちらを見る。
期待と不安が入り混じった眼差し。
——守ってくれ、と言っている。
「……行こうか」
短く言うと、何人かがごくりと喉を鳴らした。
その時、重い足音がひとつ、前に出る。
「ま、あたいもいるからさ。そう簡単には死なせないよ」
低く、頼もしい声。
バミ村の女戦士、マーガルだった。
赤い戦士服に身を包み、筋肉の浮いた腕で、彼女を象徴する巨大なハンマーを肩に担いでいる。
朝の光を受けて、その金属が鈍く輝いた。
「イゴの男たちなんて、どうせ逃げ足だけは速い連中だからね。足を止める役くらいは、任せな」
隊列は、沼地へと足を踏み入れた。
最前を進むのは俺とマーガル、その後ろにイゴ村の男たちが続き、隊列の中央——厳重に囲まれるようにして、生贄の少女が歩いている。
花嫁衣装の白が、朝霧の中でぼんやりと滲み、まるで現実感のない影のように見えた。
セラの沼地は、歩きづらいという言葉では足りない。
一歩踏み出すごとに、地面はぬるりと沈み、足首を掴んで離さない。腐葉土と水が混ざった匂いが鼻を刺し、どこからともなく甘く腐ったような臭気が漂ってくる。
霧が低く垂れ込め、視界はせいぜい数十歩先までしか利かない。
白く濁った空気が肌にまとわりつき、息をするたび、肺の奥まで湿り気が染み込んでくる。
木々は不自然なほど歪にねじれ、根をむき出しにしたまま水面から突き出ていた。
土に還ることも、水に沈むことも許されなかったような中途半端な姿で、互いに絡み合い、支え合って立っている。
幹には厚く苔が貼り付き、蔦が蛇のように這い回り、枝の先からは雫がぽつり、ぽつりと落ちていた。
ここが長い年月、人の理から外れた場所であり続けてきたことは、一目で分かる。
人が整えようとした痕跡はなく、あるのは自然が自然のまま、ただ積み重なってきた時間だけだ。
そんな沼地を見渡しながら、マーガルが鼻で息をつく。
「人が住む環境とは思えないだろう?」
その声は低く、どこか誇らしげだった。
「でもな、あたいらにはこの歩きづらさが、この湿っぽさが——安心の証なんだ。馬も兵も、簡単には入れない。道を知らなきゃ、武装した連中ほど足を取られて沈む。だからこそ、あの辺鄙な村々は、こうして今も残ってる」
霧の奥に目を向けながら、彼女は言った。
「皮肉なもんだよ。人を拒む土地だからこそ、人が生き延びられたんだからさ」
俺は足元のぬかるみを踏みしめながら、その言葉を噛み締めた。
この沼地は、守りであり、檻でもある。
そして同時に——ここに棲む“何か”を、外へ出さないための境界線でもあるのだと。
イゴ村の男たちは、言葉少なに進んでいる。
武器を握る手に汗が滲み、時折、後ろを振り返る者もいる。
恐怖が、隊列の中を静かに伝播しているのがわかった。
生贄の少女は、何も言わずに歩いている。
俯きがちで、レース越しに見える顔の輪郭は曖昧だ。
だが、足取りは不思議と安定していて、ぬかるみに足を取られることもない。
その様子に、ふと違和感を覚える。
だが、俺はそれを言葉にしなかった。
「気を抜くな」
振り返らずに、低く告げる。
「この沼は、生き物の境界が曖昧だ。水の中も、霧の向こうも、全部が敵になりうる」
男たちが短く応じる。
しばらく進むと、地形が変わり始めた。
水面が広がり、足場は細い土の盛り上がりだけになる。
左右には、沼木の林。枝が絡み合い、空を覆い、光を遮っている。
空気が、明確に重くなった。
霧の向こうから、ぬるりとした視線のようなものを感じる。
音もなく、気配だけが増えていく。
生贄の少女が、ふと立ち止まった。
誰かが声をかけかけて、俺は手を上げて制した。
少女は何も答えない。
ただ、沼地の奥——木々が最も密集する方向を、じっと見つめている。
そこから先は、道と呼べるものではなかった。
水面は黒く澱み、底が見えない。
沼木が立ち並び、その中心だけが、不自然なほど静かだ。
まるで、何かを迎え入れるために空けられた“座”のように。
空気が重い。
湿気ではない。
言葉にしづらい圧——視線を向けられているような感覚が、じわりと背中を這い上がってくる。
イゴ村の男たちが、思わず足を止める。
誰もが無言で武器を握り直していた。
マーガルは肩に担いだハンマーを軽く叩き、吐き捨てるように言う。
「この先に足を踏み入れたら、もう後戻りはできない。神様の庭に、土足で上がるようなもんだからね」
霧の奥で、水面がわずかに揺れた。
俺は一歩、前に出る。
ここから先は、祈りではなく、覚悟の領分だ。
——生贄の道は、ここで終わる。
そして、本当の意味での“狩り”が、今から始まろうとしていた。




