25:ラミア
宿の扉を押し開けると、かび臭さと煮込みの匂いが混じった空気が鼻を突いた。
カウンターの奥から、片目を失った宿主がぬるりと顔を出す。空洞になった眼窩は布で雑に覆われ、残った片目だけが、こちらを値踏みするように細められた。
「観光客か? 運がいいな。ちょうど今、“ラミアへの道”が見える部屋が空いてる」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
俺はキリエと顔を見合わせ、それから宿主に視線を戻す。
「いや、単なる旅人だよ。その……なんとかへの道、ってのは初耳だ。なんだ、綺麗な桜並木か何かか?」
冗談半分でそう言うと、宿主は口の端をつり上げた。
笑顔のはずなのに、どこか歪んでいて、喉の奥に小石を放り込まれたような不快感が残る。
「なんだ。知らないのか」
宿主はカウンターに肘をつき、得意げに身を乗り出す。
「この村と隣の村のことをよ。ここはイゴ村、向こうがバミ村だ。半年に一度、順番に村から“ラミア様”への生贄を出すんだ」
淡々と、まるで年中行事を説明するような口調だった。
「で、明後日がちょうどこの村の番だ。生贄の娘はなぁ……大層な衣装を着せられて、化粧もされてよ。そりゃあ綺麗だぞ〜。普段の村娘とは別人みてぇにさ」
残った片目が、いやらしく細まる。
祭りの前夜を語るような浮き立った声。
そこに、悲壮さも、罪悪感も、一欠片もない。
「……その“ラミア様”ってのは、一体何なんだ」
俺がそう問うと、宿主は待ってましたと言わんばかりに、片目をぎらつかせた。
「沼地の奥さ。沼木の林。そこに棲んでる神様だよ」
神、という言葉があまりに軽い。
「三ヶ月に一度、娘を差し出さねぇと、イゴとバミ、両方の村に厄災が降りかかる。作物は腐る、家畜は死ぬ。そういう話だ」
宿主は肩をすくめ、まるで天気の話でもするように続ける。
「だからよ、供物は欠かせねぇ。昔からそう決まってる。守らなきゃ、村が潰れちまう」
だが次の瞬間、吐き捨てるように舌打ちした。
「……しかし最近はな、ここイゴの村は若い女が足りねぇんだ」
不満げに、カウンターを指で叩く。
「向こうのバミの土地はよ、イチジクが育つんだ。沼の養分が違うらしい。ズルい話だろ?」
俺は思わず首を傾げた。
「ん、イチジク?」
「知らねぇのか? 妊婦がイチジクを食うと、女の子が生まれやすいって話だ。昔からの言い伝えだよ」
どこまで本当で、どこからが迷信なのか、判断がつかない。
だが宿主は、それを疑う余地のない事実のように語った。
「畜生、バミの連中め。イチジクは独占しやがって、こっちには寄越しもしねぇ。このままじゃ、イゴの村から女が消えちまう」
憎悪と焦燥が、残った片目に滲む。
俺は内心で息を吐いた。
この村とバミ村は互いの喉元を睨み合う、薄氷の関係に違いない。
俺たちは、その生贄の娘が通る道を正面から見下ろせる、二階の角部屋へと通された。湿った木の階段は軋み、踏みしめるたびに、まるでこの宿そのものが低く唸っているようだった。
部屋に入ると、鼻につくのは乾ききらない藁と古い布の匂い。窓は細長く、外の景色を切り取るように嵌め込まれている。そこから見える道は、沼地の霧に半分呑まれ、昼だというのに薄暗かった。
部屋の中央には、粗末な木枠のベッドが一台だけ置かれている。
……嫌な予感しかしない。
「そういう関係だと思われたのかな」
「部屋、もう一つ借りるか?」
「いや、お金もったいないし、私は全然大丈夫だけど」
そう言ってキリエは、何でもないことのように肩をすくめる。
「キリエがそう言うなら……」
言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。
大丈夫、という言葉が、この村ではやけに軽く聞こえる。
窓辺に近づくと、外の道がよく見えた。ぬかるんだ一本道の両脇には、歪んだ家々が肩を寄せ合うように並び、戸口という戸口が固く閉ざされている。人の気配はあるはずなのに、誰一人として外に出ていない。
まるで、これから起きる“何か”を、皆が息を潜めて待っているかのようだった。
「……明後日、あそこを娘が通るのね」
キリエの声は低く、感情を抑え込んでいた。
「ああ。花嫁行列のつもりなんだろうさ」
祝福の言葉も、鐘の音もない花嫁行列。あるのは、差し出す側の安堵と、見送る側の諦めだけだ。
遠くで、何かを引きずるような音がした。沼の方から吹いてくる風が、湿り気を含んで窓の隙間から入り込み、足元を冷やす。
「“ラミア”って、どんな神様なんだろうね」
窓辺に腰掛けたキリエが、外の霧を眺めながら無邪気に言った。
「こういう生贄云々が絡む話はな、大体ロクでもない。人を喰う魔物だと相場が決まってる。それも——特大級にヤバいやつだ」
半分は冗談のつもりで言ったが、自分の声に含まれる硬さに気づいて、内心で舌打ちする。
「じゃあさ」
キリエは振り返り、いたずらっぽく笑った。
「私たちで、倒しちゃう?」
「言うと思った……」
思わず苦笑が漏れた。
だが——視線を窓の外、霧の向こうへと向ける。沼地の奥、沼木の林のさらに先。目に見えないはずの場所から、じっとこちらを覗かれているような感覚があった。
耳鳴りにも似た圧迫感。肌にまとわりつく、言葉にできない違和感。
これまで一年間、魔物狩りとしてそれなりの数は斬ってきた。
人を喰う獣、知恵を持つ異形、名前だけは神を名乗る連中も見てきた。
それでも——今回は違う。
強いとか、危険だとか、そういう単純な尺度じゃない。
もっと根本的な、触れてはいけないものに近い予感が、不気味に膨らんでいた。
その晩、俺とキリエは同じベッドで寝ることになった。
ベッドが一台しかないのだから仕方ない——理屈の上では、そういうことになる。
「……狭いね」
キリエが靴を脱ぎ、そっと腰掛ける。沈んだマットレスがきしり、と小さく鳴っただけで、妙に耳に残った。
「文句は宿主に言ってくれ」
「言ったら、にやにや笑われそう」
想像できてしまって、俺は顔をしかめる。
外では沼地の虫が鳴き、湿った夜気が窓の隙間から忍び込んでくる。灯りを落とすと、部屋は一気に暗くなり、互いの輪郭だけがぼんやりと浮かんだ。
先に横になったのはキリエだった。
俺は少し間を置いてから、できるだけ距離を保つようにしてベッドに身を預ける。
「……そんな端っこじゃ、落ちるよ」
「落ちたら起こしてくれれば」
「冷たいなあ」
そう言いながら、キリエが身じろぎする。その拍子に、細い肩が俺の腕に触れた。
一瞬だけ。けれど、その温度がやけに生々しくて、反射的に息を止めてしまう。
「……ごめん」
「いや」
キリエの髪から、昼間に嗅いだ草と水の匂いがする。湿った沼地とは違う、どこか柔らかい香りだった。
しばらく沈黙が続く。
寝返りを打つたび、シーツが擦れる音がやけに大きく感じられた。
「ねえ、ルシアン」
「なんだ」
「……私さ、この村、ちょっと怖い」
唐突な問いだった。
「中々香ばしい村ではあるな」
沼地の奥の気配が、脳裏に蘇る。
沼地。ラミアという神。生贄。
どれも嫌な予感しかしない。
「なにそれ香ばしいって」
キリエはそれだけ言って、また体を動かす。今度は、はっきりと俺の方へ寄ってきた。
「近いな」
「いいでしょ。寒いし」
そう言い切られると、何も言い返せない。
背中に、彼女の額が軽く触れる。吐息が、首筋をかすめた。
心臓の音が、やけにうるさい。
剣を握っている時よりも、魔物と対峙している時よりも、ずっと。
「……ルシアンってさ」
「なんだよ」
「意外と、ちゃんと男だよね」
「どういう意味だ」
「さぁ」
くす、と小さく笑う気配。
「うるさい。寝ろ」
「はーい」
そう言いながらも、キリエは離れなかった。
むしろ、無意識みたいに、俺の服の裾を指先でつまんでいる。
俺は天井を見つめたまま、目を閉じる。
沼地の闇と、隣で感じる体温。そのどちらからも、しばらく目を逸らすことはできそうになかった。




