24:セラの沼地
「……そういう脅しの仕方は、よくないぞ」
俺は声を落として言った。
「それに、こんな人の多いところで、あれを出すな。うっかり魔術が発動したら、酒場ごと吹き飛ぶ。冗談じゃ済まない」
キリエは一瞬、きょとんとした顔をしてから、唇を尖らせる。
「……ごめんー」
軽い調子ではあったが、一応は反省しているらしい。
しかし、すぐに視線を逸らし、言い訳の準備に入ったのが分かった。
「でもさ、喧嘩にならないための“脅し”は必要だと思うんだよ」
黒パンを指で転がしながら、続ける。
「私だって、できれば魔術を人に向けて使いたくない。誰かを焼いたり、壊したりするために覚えたわけじゃないし。だからこそ——最初から“これだけの力を持ってる”って分からせるのも、一つの手だと思うんだ」
なるほど、と内心で唸る。
理屈だけ聞けば、間違ってはいない。
「力を隠して、殴り合いになるより。力を見せて、何も起きない方が、ずっと平和でしょ?」
さすがはヴァンダ家の才女。
年相応の無邪気さの裏に、きちんとした思考がある。
「……“抑止力”って言いたいんだろ」
「うん、それ」
「でもな、それで保たれるのは、本当に平和か?」
キリエは一瞬だけ考え、すぐに肩をすくめた。
「平和なんて、人それぞれだよ。殴られないなら平和って人もいるし、怖くても生き延びられればいいって人もいる」
「なんか、うまくまとめるな……」
俺がそう言うと、キリエはくすっと笑った。
そして何事もなかったかのように、黒パンをちぎり、口に運ぶ。
その仕草はあまりに無防備で——さっきまで酒場を一瞬で地獄に変えかねない代物を手にしていた少女と、同一人物だとは思えなかった。
十二時間ずれた《《朝飯》》を胃に流し込み、俺たちは再び魔物狩りの夜へと出る。
街外れを流れる川に棲みついた半魚人の討伐依頼。釣り人たちが何人も襲われ、網は裂かれ、舟は転覆。被害は地味だが深刻だ。
報酬はそこそこ。足具代に、あと少し足りない分を埋めるにはちょうどいい。
川霧の中での戦いは短かった。
水面を割って跳びかかってきたサハギンを叩き伏せ、キリエが魔術で動きを縛り、俺が止めを刺す。連携はもう、言葉が要らない域に入っている。
こうして討伐を終え、俺はずしりと重いサハギンの死骸を肩に担ぐ。
生臭さと川の冷気が混じり合い、鼻の奥が痛んだ。
「ねぇルシアン、知ってる?」
キリエが何でもないことのように言う。
「魚を食べると、目が良くなるんだよ」
「それを半魚人担いでる俺に言うか?」
「えー、だって魚は魚でしょ?」
「理屈が雑すぎる」
俺が眉をひそめると、キリエはくすっと笑った。
「でもさ、サハギンって夜目が利くでしょう? つまり、目にいい成分がいっぱい詰まってる可能性は否定できない」
「否定しかできない」
「えー。じゃあ逆に聞くけど、なんであんなに暗い川底で動けると思う?」
「知らんな。魔物だからだろ」
「夢がないなぁ」
キリエは両手を後ろで組み、俺の横を跳ねるように歩く。
「もし本当に効いたらどうする? ここからルクス山の稜線までくっきり見えるようになるかもよ」
「その前に臭いで失明する」
「ひどっ」
口を尖らせながらも、キリエは楽しそうだった。
川を離れ、街の灯りが見え始める。
夜風が汗を冷やし、肩の重みがじわじわと効いてくる。
「でもさ」
キリエが、少し声を落として言った。
「こうやって生きるために魔物を狩って、お金を稼いで、次の道を選んで……悪くないよね」
「悪くはないな」
そう答えると、キリエは少しだけ考えてから、微笑んだ。
サハギンの尾が、担いだ拍子に地面を引きずる。
血と川水が混じった跡が、夜道に細く伸びていた。
俺たちは素材屋でサハギンの牙と鱗を引き渡し、銀貨を受け取った。血の匂いがまだ残る素材を前に、店主は手慣れた様子で重さを量り、価値を即座に弾き出す。
そのやり取りを横で眺めながら、キリエは指折りで計算し、小さく頷いた。
足りなかった分は、きっちり埋まった。
次に向かった装具屋で、俺たちは新しい足具を選ぶ。
革は厚く、縫製も堅牢。湿地を越えるための防水加工が施され、長旅にも耐えられる作りだ。俺は履き心地を確かめ、何度かその場で踏み込んだ。
キリエは自分の足具を手に取り、少しだけ嬉しそうにくるりと回る。
「これなら、セラの沼地も大丈夫そうだね」
「ああ。泥に嵌って溺死、なんて間抜けな最期は避けられそうだな」
「縁起でもないなぁ」
買い物を終えると、俺たちは宿に戻り、ほんの数時間だけ体を休めた。
鎧を外し、剣を壁に立てかけ、浅い眠りに身を委ねる。
目を覚ました時には、もう出立の時だった。
荷をまとめ、宿の扉を押し開く。
街はいつも通りに動いている。俺たちが去ることなど、誰も気に留めない。
それでいい。
こうして俺とキリエは、次の土地へ向かって歩き出した。
西へ。魔術の国、シィムーンを目指す旅の再開だ。
*
街を離れて半日も歩くと、空気が変わった。
乾いた土の匂いが薄れ、代わりに水と腐葉土が混じった、湿った気配が鼻につく。まだセラの沼地そのものではないが、確実にその影響圏に入っている。道の両脇には背の低い灌木が増え、地面はところどころ黒く沈んでいた。
風が吹く。
葉擦れの音に混じって、水面がわずかに揺れる気配がした。鳥の声は少ない。虫の羽音も、どこか遠慮がちだ。
新しい足具は頼もしかった。湿った地面を踏んでも、沈み込みは最小限で済む。それでも油断はできない。
道中、蛙の魔物が二、三度こちらを窺ったが、襲ってはこなかった。俺たちの魔力を感じ取ったのだろうか。賢明な判断だ。
やがて、地面は明確に変質していく。
土はぬかるみ、草は水を含んで背を伸ばし、空気は重く、甘ったるい。遠くで、何かが水をかき分ける音がした。
セラの沼地へと入った。
セラの沼地は、音を奪う。
足を踏み出すたび、水を含んだ泥が低く鳴り、すぐに沈黙へと吸い込まれていく。霧は薄く、だが常に視界の奥を曇らせ、遠近感を狂わせた。どれだけ歩いても、同じ景色を繰り返しているように錯覚する。
腐臭がある。
死体のそれではない。もっと緩慢で、長い時間をかけて腐り続けている土地の匂いだ。
「……ここ、長居したくないね」
キリエの声は小さかった。
いつもの冗談めかした調子が消え、代わりに喉を押さえるような緊張が滲んでいる。
「ああ。沼地は人を拒む。なのに——人の痕跡がある」
折れた杭。
半ば水に沈んだ道標。
そして、意図的に踏み固められた、細い獣道のような通路。
人が、ここを使っている。
霧の向こう、黒い影が見えた。
木立ではない。揺れない。形が整いすぎている。
「……家?」
「村、だな」
沼地の奥。
逃げ場のない場所に、それはあった。
近づくにつれ、違和感は確信に変わる。
家々は低く、屋根は重そうに垂れ、壁は湿気で歪んでいる。窓は少なく、どれも板で半分塞がれていた。人の気配はあるはずなのに、話し声も、犬の鳴き声も、子どもの声もない。
生きている村なのに、息をしていない。
村の入口と思しき場所に、古い木柱が立っていた。
文字は風雨で削れ、ほとんど読めない。ただ一箇所、刃物で彫り直されたような新しい刻み跡がある。
村に入った瞬間、視線を感じた。
家々の隙間、窓の影、扉の裏。誰かがこちらを見ている。だが、誰も出てこない。助けを求める気配も、警戒の怒声もない。
あるのは、諦めきった沈黙だけだ。
「歓迎されてない、っていうより……」
キリエが言葉を探す。
「“関わるな”って顔だね」
「ただ、休息をとりたいのも事実だな。せめて、足具くらいは乾かしたい」
沼の水を吸った革は重く、歩くたびに嫌な音を立てている。このまま進めば、足の皮が剥けるのは目に見えていた。
キリエは周囲を見回し、少し逡巡してから指を差す。
「一応……宿があるみたいだけど」
彼女の指の先。
広場の外れに、他よりわずかに大きな建物があった。看板は傾き、文字はほとんど読めない。だが、窓の奥にかすかな灯りが揺れている。
セラの沼地は街道としては最悪だ。
足を取られ、魔物も多く、天候も不安定。
だが同時に、馬を持たない旅人がシィムーンを目指すなら、ここを通る以外に現実的な道はない。
「ちょっと入ってみるか。魔女の供物にされるかもしれんが」
冗談のつもりで言った。
声も、なるべく軽くしたつもりだった。
しかし、キリエは立ち止まった。
「……ねぇ、笑えない冗談なんだけど」




