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23:酒場

 歌、笑い声、拍手、酒樽を叩く音。

 まるで箱を逆さにして中身をぶちまけたかのような騒がしさが、毎晩渦巻いている場所。それが酒場だった。


 扉を開けた瞬間、熱気と酒と人の圧が顔面にぶつかってくる。


「……なんで毎回、()()が酒場なんだよ……」


 思わず本音が漏れる。

 魔物狩りを生業にする者は、どうしても昼夜逆転しがちだ。夜明け前に森へ入り、日が高くなる頃に戻ってくる。


 だが——よりによって、目を覚ました直後に一日のピークを迎えている酒場に放り込まれるのは、正直きつい。


 頭の奥で、まだ眠りが抵抗している。


「いいじゃないルシアン」


 隣でキリエは平然としている。むしろ楽しそうだ。

 目を輝かせ、店内を見回しながら言う。


「酒場に来れば、みんなの楽しそうな声で一気に目が覚めるし、吟遊詩人の歌も聴ける。朝からこんなに賑やかな場所、なかなかないよ?」


 ちょうどそのとき、即興めいた陽気な旋律が鳴り響き、客の誰かが調子外れの合いの手を入れて、さらに笑いが起きる。


「最高の()だと思うけどな」


「……寝起きの脳みそに、こんな刺激を叩き込んだらな、永久に頭痛が治らなくなる」


 俺はこめかみを押さえながら、低く唸った。


「大丈夫大丈夫」


 キリエは俺の背中を軽く叩く。


「早く慣れてよ。ほら、冒険ってこういうはちゃめちゃな日々が醍醐味でしょ」


「健康じゃない……絶対」


 そう言いながらも、俺は渋々、空いている席へと向かう。

 喧騒の中、皿に盛られた黒パンと湯気の立つスープの匂いが鼻をくすぐった。


 良くも悪くも、俺たちは目立つ。

 その街に長く滞在すれば、魔物狩りの腕前を称えて酒を奢ってくる者もいれば、逆に面白くなさそうな視線を向けてくる者も出てくる。


 評価と反感は、常に背中合わせだ。


 そして酒場という場所は、そのどちらもが、最も露骨に表に出る。


 ——嫌な予感は、たいてい当たる。


 酒気をまとった男が、杯を揺らしながらこちらに歩いてきた。

 肩で風を切るような歩き方。無駄に大きな声。

 どう見ても、酔ったごろつきだ。


「いたいた。魔法使いの魔物狩りちゃん」


 ねっとりとした声。

 その視線は、最初からキリエに貼り付いている。


 キリエは一瞬だけ瞬きをし、それから社交的に、にこりと微笑んだ。

 ヴァンダ家で身につけた、相手を刺激せず、場の空気を丸くする笑み。

 それは角を立てず、敵意も見せない、貴族の処世術だった。


 だが——。


 男は、その笑顔を礼儀とも警告とも受け取らなかった。


 空いていたキリエの隣の椅子を、がり、と音を立てて引き寄せる。

 一瞬だけ俺を横目で睨み、値踏みするように視線を走らせてから、どかっと腰を落とした。


 気配に気づけば、周囲には同じ匂いのする連中が数人。

 仲間だろう。

 酒と鬱憤と、他人の成功への嫉妬を煮詰めた顔をしている。


「俺も魔物狩りなんだけどよぉ」


 男は杯を傾け、酒をこぼしながら続けた。


「最近、どうにも黙ってられねぇ話を聞いちまってさ。あんたらの“やり方”ってやつだ」


 キリエは黙って耳を傾けている。

 だが、俺は既に椅子の脚に足を引っかけ、いつでも立てるようにしていた。


「魔物狩りってのはよぉ、職人技なんだ」


 男は得意げに指を立てる。


「年季ってもんがあって、段階ってもんがある。失敗して、怪我して、仲間を失って……そうやって一段ずつ上がってく仕事なんだよ」


 そこで、ちらりとキリエを見る。


「だが魔術だ。あれはズルだ。段階を、全部すっ飛ばしちまう」


 杯を叩きつける音が、やけに大きく響いた。


「だからよ。あんたらが俺たちを差し置いて、オーガのボスを狩ってきたって話——ありゃ、ルール違反だ」


 周囲のごろつきが、同調するように鼻を鳴らす。


「分かるか? 努力も苦労もすっ飛ばして、いい獲物だけ持ってく連中がいたら、現場が荒れるんだよ」


 男は笑っているつもりなのだろう。

 だがその目には、酒より濃い苛立ちが滲んでいた。


 ——面倒なことになったな。


 俺はそう思いながら、キリエの方を見る。

 彼女はまだ、微笑みを崩していなかった。


「では——私が魔術を教えてあげましょうか?」


 その声音は柔らかく、微笑みさえ浮かんでいた。

 だが、あれは純粋な親切心じゃない。俺は即座に悟った。

 ああ、これは——まずい流れだ。


 案の定、ごろつきの顔から余裕がすっと引いた。酒気に浮かされていた赤ら顔が、一瞬で強ばる。


「あ? 誰もそんなこと言ってねぇよ。第一、魔術なんてのに頼ってる連中はよ、姑息で、得体が知れねぇんだ。ろくなもんじゃねぇ」


 吐き捨てるような言い草だった。

 周囲の仲間たちも、同意するようにニヤついている。


「あー……そういう古い考え方なのね」


 キリエは肩をすくめ、どこか懐かしむように笑った。


「私の故郷を思い出すなぁ。やだやだ。魔術って知恵の象徴だよ? 今じゃ王都に入るにも、魔術の素養がなきゃ話にならないんだから」


 その一言が、完全に癪に障ったらしい。

 ごろつきは手にしていた酒瓶を、卓に叩きつけるように置いた。中身が跳ね、周囲に酸っぱい匂いが広がる。


「知っちゃこっちゃねぇ。王都なんざ、最初から行きたくもねぇんだよ」


 男は鼻で笑い、顎をしゃくって続ける。


「だいたい魔術なんて、そんな大層なもんじゃねぇだろ? 火ぃ出すにも、呪文だの印だの、ブツブツ唱えねぇと何もできねぇんだろうが。そんなもん、火打石ひとつありゃ十分じゃねぇか。なぁ?」


「ハハハハハハ!」


 取り巻きたちの下卑た笑い声が、一斉に弾けた。

 酒場の喧騒に紛れながらも、その嘲りだけが妙に耳に残る。


 ……ああ、やっぱりだ。

 キリエの導火線に、今、確実に火がついた。


 キリエは笑っている。

 けれど、その目の奥——あれは「証明してあげようか」と言い出す直前の、危険な光だ。


 俺は内心で深く溜息をつきながら、椅子の背に指をかけた。

 この酒場、今日の朝飯代だけで済めばいいんだがな……。


「魔術ってのはね、自然法則の“外側”にあるだけなの。世界の理を壊す力でも、神の奇跡でもない。この世界が生まれた時から、すでにそこに転がっていた——些細な概念の寄せ集め。それを並べ替えて、繋ぎ直して、少し形を整えてやるだけ。せいぜい、洗練された技巧よ」


 その言い回しは、以前、俺がキリエに教えた考え方だった。魔術を神秘から引きずり下ろし、道具として扱うための言葉。まさか、こんな場で使われるとは思っていなかったが。


 キリエは鞄に手を伸ばし、徐に中身を探る。

 次に取り出したのは、稲の藁を編んだ小さな玉だった。子供のおままごとに紛れ込んでいても、誰も気に留めないような、粗末で軽い塊。それを、ひとつ、ふたつ、みっつ。


 ——肝が冷える。


 俺はそれが何なのかを知っている。知っているからこそ、背中を汗が伝った。


 ごろつきたちは、急に場の空気が変わったことを察したのか、酒気の抜けきらない目で藁玉を見つめた。


「これね、“焔産毱ほむすび”っていうの」


 キリエは、まるで菓子の名前でも紹介するように言う。


「見た目はただの藁の塊。でも、中身は“火”という概念そのもの。藁は単なる可燃物じゃないのよ。かつて根を張り、陽を受け、水を吸い上げていた植物の残骸」


 指先で藁玉を転がしながら続ける。


「中は空洞だらけで、空気をたっぷり抱え込む。軽くて、脆くて、少しの刺激で崩れ落ちる。その性質が、火の“生まれる場所”として都合がいいの。焔産毱は、火を閉じ込めてるんじゃない。生まれる準備が整った火を、藁の一本一本に潜ませてあるだけ」


 キリエは藁玉をひとつ取り上げ、ごろつきの顔のすぐ前まで持っていった。


「これに必要なのは、ほんの少しの魔術。静電気程度でいい。その瞬間、火は産声を上げる」


 怪談でも語るような口調だった。


「炎は一点に留まらない。藁が抱え込んだ空気を吸い込み、膨れ上がり、跳ね、這い、伸びる。壁も床も布も木材も、探す必要はない。空気そのものが導線になるから。思考より早く、周囲へ、さらにその先へ……増えていくの」


 酒場のざわめきが、いつの間にか遠のいていた。

 ごろつきの顔は、見る見るうちに引き攣っていく。


 ——ただの藁の球だ。

 だがそれは、魔術師の気まぐれひとつで、酒場ごと消し飛ばせる災厄の種でもあった。


「……チッ。気味悪ぃ」


 吐き捨てるようにそう言うと、ごろつきは仲間を促し、そそくさと席を離れた。


 キリエは藁玉を鞄に戻し、何事もなかったように息をつく。


 俺は、ようやく止めていた呼吸を吐き出した。

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