22:夜明け
深い、深い森の夜の底。
月明かりすら枝葉に裂かれ、地面にはまだらな影しか落ちていない。
自分の背丈ほどにも伸びた草を掻き分けながら、少女は走っていた。
道など存在しない。踏み固められた獣道すらない。
足元の土は湿り、絡みつく草は容赦なく脚を引き止める。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
喉が焼ける。肺が悲鳴を上げる。
胸の奥で心臓が暴れ、今にも肋を突き破りそうだった。
——追ってきている。
背後から伝わるのは、重く、不規則な足音。
獣臭と、腐肉のような生臭さが、風に乗って鼻腔を刺す。
伸び切った髪の毛。
毛にまみれた顎髭。
歪に膨れた腹と、野生の中で鍛え上げられた筋肉の塊。
それは、人ではなかった。
言葉も、躊躇も、慈悲もない。
あるのはただ一つ——満たされることのない食欲だけ。
「ガゥ……ガゥ……ガゥ……ガゥ……」
喉を鳴らす低い音が、夜の森にこだました。
少女は逃げる。
闇に溶け込むように、必死に。
だが、オーガは迫る。
一体ではない。
横合いの藪が揺れ、別の影が躍り出る。
前方の木立の向こうから、さらにもう一体。
逃げ場は、瞬く間に奪われた。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
囲まれた。
円を描くように、鈍い瞳が少女を捉える。
そして——
さらなる絶望が、頭上から降ってきた。
枝が軋む音。
木の上から現れたのは、他とは明らかに異なる一体だった。
皮膚を覆うように生えた、異様に長い棘。
体躯はひと回り大きく、影すら重い。
その存在が地に降り立つと、他のオーガたちは一斉に動きを止め、まるで知性を取り戻したかのようにひれ伏した。
——オーガの首領。
その怪物は、ゆっくりと鼻を鳴らす。
空気を嗅ぎ、確かめるように。
そして、確信した。
少女は——この森で、何よりも甘い獲物だった。
オーガは腕を振りかざした。
夜気を裂く風圧。鋭利な爪が、少女の顔面へと落ちてくる。
その瞬間——
——金属が鳴った。
鞘走りの短い音と同時に、月光が一直線に走る。
少女は迷わず剣を抜き放ち、一閃。
手応えは、ほとんどなかった。
次の刹那、オーガの右手が宙を舞い、黒い血を撒き散らしながら夜の闇へと消えた。
「はい、残念」
軽い声音。
外套のフードの奥で、月光を受けた銀髪が一瞬、煌めく。
遅れて、オーガの首領が低く唸った。
痛みを理解するより先に、“何が起きたか分からない”という怒りと困惑が、その獣の瞳に浮かぶ。
少女——キリエは、剣先を軽く振って血を払うと、どこか得意げに言った。
「固定術式。そして君自身の腕力を使った、合わせ技っ。ほら、勢いがあるとさ、切断って簡単でしょう?」
倒れた腕を一瞥し、微笑む。
「こんなか弱い私でも、君の骨くらいなら——一刀両断」
痛みに耐えきれず、オーガの首領は地に転がり、巨体をよじらせて吼えた。
その咆哮が合図だったかのように、配下のオーガたちが一斉に動く。
獣臭と殺気が、夜の森を満たす。
「……これは、ちょっと多いかな」
キリエが息を整えるより早く——
首が、飛んだ。
闇を裂く一閃。
次の瞬間には、別のオーガの脚が膝から断たれ、さらにもう一体は両腕を失って地面に叩きつけられる。
剣は止まらない。
切り落とし、すり抜け、突き刺す。
死にきれずにもがくオーガには、迷いなく止めの一突き。
痛みに喘ぐ首領にも、容赦はなかった。剣が何度も突き立てられ、巨体はやがて動かなくなる。
——終わった。
俺は剣を下ろしたキリエに、声を荒げる。
「誰が剣を抜けと言った。お前の役目は走って、誘き寄せることだろ」
叱責に近い言葉だった。
キリエは不満そうに唇を尖らせる。
「ルシアン、私のこと見くびりすぎ。いつまでも子供だと思ってるでしょ」
「子供じゃないか」
「えー、ほら。見てよ」
そう言って、胸を張る。
意味は分かった。分かったが——
「……アホか」
俺は即座に視線を逸らした。
「さっさと、オーガの角を回収するぞ。夜が明ける前に街へ戻る」
「はーいはーい」
軽い返事とは裏腹に、剣を収める動作は無駄がなく、静かだった。
——ヴァンダ家が崩壊してから、一年が経った。
俺とキリエは、西にある魔術の国シィムーンを目指して旅を続けている。
とはいえ道中は寄り道ばかりで、最近はガリアという街に腰を落ち着け、魔物狩りで生計を立てていた。
剣と魔術、その両方を扱う戦いは、いつの間にか俺たちの仕事になっていた。
キリエの成長は目覚ましい。
魔術剣士としての才は、もはや疑いようがない。
二人で息を合わせれば、オーガの群れすら制圧できる——
そんな現実が、いつの間にか当たり前になっていた。
「——ほぉ……立派な角だなぁ」
素材屋の親父は、カウンターに置かれたオーガの角を両手で持ち上げ、朝日に透かすようにして唸った。
「欠けもねぇ、血抜きも上等。しかもこれは……群れの中の首領だ。よくまあ、こんなのを二人で仕留めてきたもんだ」
そして、にやりと口角を上げる。
「こりゃあ、“ヨルムンガンド”の名に相応しい働きだなぁ。夜の森で首をもたげ、獲物を丸呑みにする——そんな蛇そのものだ」
夜明け。
素材屋に、俺たちは開店と同時に転がり込んだ。
俺たちは、海に近いエンドル地方から流れてきた流れ者だった。
そのせいか、いつの間にかこの辺りでは、海に棲む蛇の神獣——“ヨルムンガンド”の名で呼ばれるようになっていた。
「……別に、名乗った覚えはないんだがな」
俺がそう言うと、親父は肩をすくめる。
「名なんてのは、勝手に付くもんだ。怖くて、強くて、得体が知れねぇ——そういう連中にはな」
横でキリエが、少し誇らしげに角を見つめている。
「ふふーん、おやっさん、私がこいつの腕を切ったんだよ」
「キリエ、調子に乗るな。今回は運が良かっただけだ」
「またそうやってすぐ水を差すんだから」
素材屋の親父は、そのやり取りを見て、声を立てて笑った。
「ははっ! いいじゃねぇか。蛇は二匹で一つ、ってことだろ?」
「まーたキリエが暴走しそうだ……」
思わず、ため息がついた。
そんなやり取りをしながら、俺たちは朝の街を歩いた。
日が昇ったばかりの通りはまだ人もまばらで、店先の木戸を開ける音や、パンを焼く匂いがゆっくりと広がっていく。
宿に戻ると、キリエは慣れた手つきで袋を広げ、床に硬貨を並べ始めた。
銅、銀、そして少しの金。
こういうことに関しては、完全にキリエの方が頼りになる。
「……うん。だいぶ溜まってきたよ」
指で数えながら、キリエが顔を上げる。
「もう少しで、二人とも新しい足具を買って、セラの沼地も越えられるね。今の靴じゃ、確実に足を取られて、抜け出せない」
「馬はどうだ」
俺がそう聞くと、キリエは少しだけ眉をひそめた。
「買えなくはないよ。でもね……餌代がかかるし、道中で無理をさせたら可哀想でしょ」
少し間を置いて、冗談めかして言う。
「やだよ私。買うだけ買って、ある程度走らせたら、あとは餓死させるとか」
「そんなこと、するわけないだろ」
俺が即座に返すと、キリエはくすっと笑った。
「知ってる。ルシアンはそういう人じゃない」
硬貨を袋に戻し、きゅっと紐を結ぶ。
「だから、今回も歩こう。ちゃんと、自分の足で」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
金はまだ十分じゃない。
近道も、楽な道もない。
だが、少なくとも——
俺たちは、次へ進むだけの準備は整えつつあった。
新章スタートです!
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