21:旅立ち
キリエに外套を着せ、俺たちは地下牢を出た。
湿った石壁の匂いが、背中からゆっくりと離れていく。外に出るなり、転がっていたサロード勢の兵の死体から剣とホルスターを外し、細かいことは考えずに彼女の腰に通した。冷え切った革が、キリエの身体にはひどく不釣り合いに見えた。
ルクス山城には、すでにブラックウェルの旗が立っている。
風を受けて、迷いもなく翻るその紋章。ヴァンダ家は自滅した。ならば次に掲げられる旗が、この戦場を制した家のものであるのは道理だ。理屈では分かっている。それでも、その切り替わりの速さ、その潔さに、胸の奥が軋んだ。
そして、否応なく思い出す。
ブラックウェル軍を、ここへ連れてきたのは——俺だ。
まるで月が落ちてきたかのような重みが、ずしりと背中に乗った。
俺とキリエは、できる限り人目を避けながら城内を進んだ。
目指すのは、ヴァンダ卿が愛馬ハザウェイを使う際に用いていた、あの秘密の抜け道だ。城門はすでにブラックウェルの手に落ちている。正面から出る術はない。
だがその抜け道へ向かうには、どうしても——執務室のすぐ脇を通らなければならなかった。
「執務室……」
キリエが、小さく呟く。
「あそこには……私の父と兄が、今もいるんだよね」
それは事実確認というより、胸の奥に沈めきれない感情が、ふと零れ落ちただけのように聞こえた。
「……そうだな」
俺は短く答える。
「この内戦の、いちばんの核だった二人だ。ブラックウェルの兵も、集まっているはずだ」
「でも」
キリエは外套の内側で拳を握り、
「城門を突っ切るよりは……まだ、マシだよね」
「ああ」
俺たちは言葉を切り、足音を殺して進んだ。
——しかし。
サロンに差し掛かった瞬間、空気が変わった。
戦が終わった後特有の、澱んだ静けさ。その奥に、明確な意思が混じる。
執務室の方から、一人の人物が歩いてくる。
黒き鎧。
赤いマントを翻し、まるで血潮そのものを背負っているかのような女。
領主、メテラナ・ブラックウェル。
「ルシアン」
名を呼ばれただけで、背筋が張り詰めた。
「こんなところにいたのね。蛇の共食いは——とうとう終わったみたいだわ」
戦を制圧した当人とは思えないほど、淡々と、どこか謙虚ですらある口調だった。
「ところで」
彼女は首を傾げ、
「毒蛇の姫を探しているのだけれど。あなた、知らない?」
俺の隣。
外套の中身が、キリエだ。
「……ドラゴが」
喉がわずかに軋む。
「彼女の遺体は、山から落としたと——」
「ええ」
遮るように、メテラナは頷いた。
「キッカからはそう聞いたわ。だからこそ、あえてもう一度あなたに訊いているの」
一歩、距離を詰める。
「——キリエ・ヴァンダは、どこにいる?」
もう、引き返せない。
今ここで外套を剥がされれば、すべてが終わる。
いや——
この女は、もう気づいている。
俺の横にいるのが、キリエであることを。
「……わかりません」
嘘は、驚くほど静かに口を出た。
「そう」
メテラナはそれ以上追及せず、こちらへ歩いてくる。
フードを掴まれる——そう身構えた瞬間、彼女はそのまま、俺の横を通り過ぎた。
「ルシアン」
背後から、声が落ちてくる。
「私はね、純朴な配下が好きなの」
足音が止まる。
「それは“私のために死んでくれる配下”じゃない。そんなのは当然でしょう?」
低く、しかしよく通る声。
「私が好きなのは——私のためなら、女子供だろうと平気で虐殺してくれる配下よ」
背筋が、凍りついた。
「ルシアン」
彼女は振り返らない。
「これが、どういう意味か……分かる?」
「俺には……到底、そんな真似はできません」
それは、拒絶であり、決別だった。
「そもそも、俺とあなたは、本来出会うはずのなかった人間です。それが偶然交わってしまったせいで……俺は、このヴァンダ家に大きな変革をもたらしてしまった。だから……これ以上、あなたのそばにいるのは、今は怖い」
メテラナは、少しだけ肩越しにこちらを見る。
「そう」
それだけ言って、彼女は歩き出した。
「なら——ヴァンダ家は滅亡した。
まるで事実を記録するような声音だった。
彼女は去っていく。
外套を被った俺たちを、一瞥しただけで。
生きた心地が、しなかった。
だが——
キリエの反応は違った。
メテラナの背が完全に遠ざかった後、キリエは小さく呟いた。
「……優しいんだね。メテラナ・ブラックウェルは」
それは、もしかしたら彼女自身が——領主という立場に立つ未来さえ持ち得た、その可能性を孕んでいた少女だからこそ、滲み出た感情だったのかもしれない。
俺とキリエは、石壁の裏に隠された抜け道を抜け、城の外へと出た。
そこには、雪を抱いたまま連なる山脈と、凍りつくほどに澄み切った朝の青が広がっていた。
あまりにも整いすぎた景色は、まるで誰かが意図して描いた一枚の絵画のようだったが、頬を刺す冷気も、足元で軋む霜柱も、遠くに連なる山々の圧倒的な質量も、そのすべてが紛れもない現実だった。
奥行きがあり、温度があり、重さがある——世界は、確かにそこに在った。
城を背にした瞬間、俺は理解する。
俺たちは今、守られていた檻を抜け出し、この世界そのものに放り込まれたのだ、と。
キリエの足取りが、ほんのわずかに揺れた。
気付かれぬほどの震え。それでも、隣にいる俺にははっきりと伝わってくる。
「メテラナ・ブラックウェルは……この世界を、どうするつもりなんだろう」
ぽつりと落とされたその言葉は、問いというより、祈りに近かった。
キリエは、あの女から何を感じ取ったのだろう。
目的も、野望も、俺には何一つ見えていない。ただ一つ確かなのは、メテラナが単に領地を広げるためだけに、ルクス山城を越えていくような存在ではない、ということだった。
「この世界において、俺たちは——ちっぽけな粒も同然だ」
言葉にしながら、視線を山々へと向ける。
「あの山も、あの空も、大地も……長い時間を支配してきた、あまりにも巨大な存在だ。俺たちは、決してこの世界そのものを凌駕することはできない」
人は、世界を変えるなどと簡単に口にする。
だが実際には、世界の前で人はあまりにも小さい。
「……でもさ」
キリエは、雪原の向こうを見つめたまま、静かに言った。
「メテラナは、それをどうにかしちゃうかもしれないね」
あまりにも漠然とした言葉だった。
理屈も、根拠もない。だが——否定できなかった。
あの少女の視線の奥には、世界の理を前提にした上で、それを踏み越える覚悟があった。
俺とキリエはまだ、ようやくスタート地点に立ったに過ぎない。
このルクス山の山頂——血と裏切りと沈黙を飲み込んだ城を背にして、世界へと足を踏み入れる、その入口に。
「ルシアン。私は、このあと……どうすればいい?」
キリエの声は、驚くほど静かだった。
不安がないわけじゃない。ただ、それを受け入れる覚悟だけが、そこにあった。
「彷徨うことになるだろうな」
俺は正直に答える。
「この世界を、だ。ただ——まずは生き延びるために金を稼がなきゃならない。そのためにも、目指すべきは西だ」
「西……王都?」
キリエの視線が、まだ見ぬ地平へと向く。
「ああ。流通も、仕事も、人も、夢も……良くも悪くも、何もかもが集まる場所だ。ただし、王都に入るには条件がある」
「知ってるよ」
即答だった。
「王都に入れるのは、地方全てを治めるほどの大領主か、それとも——賢くて、優秀で、魔術に長けた者だけだよね」
「だから、まずは魔術をもっと学ばなきゃならない。王都の近くに、“シィムーン”っていう領地があると聞いたことがある」
「知ってるよ」
また、即答。
「さすがだな」
「でも、本で読んだだけだけどね」
照れたように笑う。
「俺と一緒だ」
「ふふふ……シィムーンは魔術の国。神秘が溶けた、色彩の国でしょ?」
その言葉の響きだけで、胸の奥がざわついた。
「ああ。そこに行けば、魔術をもっと極められるかもしれない」
そして、俺たちは歩き出す。
背後に置いてきたのは、血生臭いプロローグ。
崩領主の思惑も、親子の殺し合いも、一族の崩壊も——すべては、物語の始まりに過ぎなかった。
この時の俺は、まだ知らなかった。
この旅立ちが——
ヴァンダ家の滅亡が——
そして、メテラナ・ブラックウェルという一人の女との出会いが、俺の人生そのものを、根こそぎ書き換えてしまうということを。
城を去った瞬間、すべては終わったのだと、そう思っていた。
血も、名も、忠誠も、因縁も。
メテラナとの縁など、あの石の城と共に、瓦礫の下へ埋もれたのだと。
だが、運命というものは、そう都合よく断ち切れるものではない。
この旅路の先、俺たちは幾度となく交わり、言葉を交わし、思想を交わし、そして俺はメテラナにもっとも近い、ブラックウェル家の参謀となる運命を抱えている。
そしてその果てに待ち受けていたのは、救いであるのか、破滅であるのか、あるいは、名も残らぬ静かな終わりであるのか——
ここに記すのは、勝者の年代記ではない。
英雄の讃歌でもない。
盛り上がり、崩れ、やがて忘れ去られていく時代の片隅で、それでもなお歩み続けた者たちの、ささやかな始まりである。
小さな序章は、ここに幕を下ろす。
そして——
移りゆく世に向かって、名もなき二人の旅が、ついに始まった。
滅亡編、終了です。
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