20:ウロボロスの終焉
「ルシアン殿〜! そちらの様子はいかがかいな〜!」
軽い調子の声とともに、サロン側の扉が開いた。
ドラゴ派の兵を制圧し終えたキッカたちが、血と瓦礫の匂いが残る執務室へと踏み込んでくる。
だが、そこで彼らを迎えたのは、歓声でも安堵でもなかった。
床に転がる二つの亡骸。
甲冑に血を滲ませたドラゴと、父の斧を胸に突き立てられたヴァンダ卿。
「……おやおや」
キッカが眉をひそめ、死体を見下ろす。
「こりゃあまた、奇怪なことが起きてますなぁ。ドラゴ・ヴァンダがこんなところに。首は斧でぱっくんちょ、ですが。そしてそして——そこで倒れているのは、まさかサロード・ヴァンダ! こりゃあ腹をやられたみたいですな」
「……同士討ちだったみたいだ」
俺はそれ以上、説明する気になれなかった。
「はぇ〜……」
気の抜けた相槌を打った直後、キッカは俺の動きに気づいた。
「って、ルシアン殿。どちらへ行かれるんですかな?」
俺は答えず、軽く会釈をして踵を返す。
「ヴァンダ家は、もう終わりました。いや……滅亡というべきか。……俺の役目はもう、ここで終わりです」
キッカの顔から、いつもの人懐っこい笑みがすっと消える。
「……キリエ殿は、どこに?」
声は穏やかなままだった。
だが、その目だけは、獲物の所在を測る狩人のそれだった。
俺は、その視線を見逃さない。
——ああ、そうだ。
この世界は、思っていたよりもずっと醜く、穢れている。
キリエ・ヴァンダがブラックウェルの庇護下に入れば、彼女もまた例外ではない。
主を失った貴族の娘に残されているのは、“保護”という名の管理と、“将来”という名の利用価値だけだ。
養子として迎えられ、都合のいい家へと嫁がされ、側室として道具になる。
意思も、理想も、名前すら、誰かの物語の部品へと解体されていく。
——人形使いがいる限り、人形は必要とされ続ける。
もう、誰かの筋書きの上で、キリエを踊らせる気はなかった。
「キリエ様は……ドラゴが殺してしまいました。その後……ご遺体は、谷の底へ……」
俺は嘘をついた。
「ほぉ……」
キッカは低く唸るように笑い、顎に手を当てる。
「なんとも、むごい話ですなぁ。父親を手にかけ、妹まで谷底とは。ドラゴ殿、最後まで救いのない男だった」
だが、その目は一瞬たりとも緩まない。
こちらの胸の内を量る、獣の眼だ。
「——で」
軽い調子を装いながら、核心を突く。
「ルシアン殿は、これからどちらへ行かれるんですかな〜?」
「俺には、もうここにいる理由がありません」
俺は視線を上げず、淡々と答えた。
「主君は死に、ヴァンダ家は断絶した。この城も、いずれブラックウェルの旗が掲げられるでしょう。俺はヴァンダ家に仕える騎士。旗を失えば、帰る場所もない」
「ほぉ〜……それはまた、寂しい言い方をなさる」
キッカは肩をすくめ、わざとらしく溜息をつく。
「ですがなぁ、我らがメテラナ様は、腕の立つ者も、訳ありの者も、お嫌いじゃありませんよ〜? 今さら一人、兵が増えたところで、誰も気にせんでしょう」
その言葉には、確かな現実味があった。
だからこそ、俺は首を横に振る。
「……残念ですが、俺にそのつもりはありません」
人を駒として動かす戦も、謀略も、もう十分だった。今は……何者にもなる気がない。
一瞬、キッカは何かを言いかけたが、やめた。
「そうですか〜」
やがて、いつもの飄々とした笑みに戻る。
「短い付き合いでしたが、面白い男でしたなぁ、ルシアン殿。共に戦ったのが、あなたで良かったでっせ」
俺は小さく頭を下げる。
「こちらこそ。短い間でしたが、世話になりました。キッカ殿」
「……またどこかで、きっとお会いしますよ〜」
背中越しに、陽気な声が投げられる。
「その時はウチも、もう少し偉くなってるでしょうなぁ。騎士大将か、あるいは……歴史書の端っこに名前が載るくらいには!」
俺は振り返らずに、
「きっと、成し遂げるでしょうよ」
そう言った。
背後で、キッカが小さく笑った気配がした。
軽い笑い声のはずなのに、不思議と、この血に塗れた城の中で、ひどくまっすぐに響いた。
すでに城はブラックウェルの手によってドラゴ勢が制圧され、剣戟や怒号といった戦闘の気配は、嘘のように消え失せていた。
廊下に残るのは、血と鉄の匂い、そして勝者だけが許される静寂だ。
俺はその静けさに身を紛らわせるように、地下牢へと続く階段を下りた。
石と闇に覆われた、光の届かない場所。
地上とは切り離されたような空気が、肌にまとわりつく。
壁に掛けられていた独房の鍵束と、煤にまみれたランタンを手に取る。
火を灯すと、橙色の光が震え、足元の石段を細く照らし出した。
地下へ、さらに地下へ。
湿った冷気が肺に入り込み、足音だけが不自然に反響する。
そして——遥か下。
鎖と鉄格子に囲まれた、ひとつの独房が現れた。
人ひとりが、かろうじて身を横たえられるほどの檻の中。
そこに、キリエ様はいた。
銀の髪は乱れ、薄暗がりの中で淡く光っている。
「……キリエ、様」
声が、思った以上に震えた。
名を呼んだだけなのに、胸の奥が焼けるように痛む。
「……ルシアン……?」
闇の中で、銀の瞳が揺れた。
一拍の沈黙のあと、はっと息を呑む音がする。
「ルシアン……ルシアン!? 本当に、あなたなの……?」
失われかけていた光が、確かにその瞳に戻った。
絶望ではなく、確認するための視線。
それだけで、俺は救われた気がした。
「はい。キリエ様をお迎えにあがりました」
それ以上、言葉はいらなかった。
俺は鍵束を取り落としそうになりながら、震える指で鍵穴に差し込む。
鉄が擦れる音が、やけに大きく響いた。
——開いた。
次の瞬間、キリエ様は檻を抜け出し、迷うことなく俺の胸に飛び込んできた。
「キリエ様!?」
受け止めきれず、よろめく。
だが、細い腕が必死に俺の背に回され、離れまいとする力が伝わってくる。
「……よかった……」
囁くような声が、鎧越しに胸を打った。
震えはあるが、泣き崩れてはいない。
恐怖を抱えたまま、それでも気丈であろうとする姿勢が、彼女らしかった。
「もう、大丈夫です」
俺はそっと、彼女の背に手を置いた。
「この暗闇に囚われている間……私は、何も見えませんでした」
キリエ様は、地下牢の湿った石壁に視線を落としたまま、淡々と語った。
「ただ、音だけが……微かに、断片的に聞こえてきました。民の悲鳴。兵の断末魔。剣がぶつかる音と、誰かが倒れる音……状況は分からなくても、ひとつだけは、はっきり分かっていました。兄が……ドラゴが、私をここに閉じ込めたのだということ。兄は彼は笑っていました。『俺は父上を超えるのだ』と……まるで戯れのように、冗談めかして」
「それは……戯言では、なかったのかもしれません」
今になって思えば、ドラゴの最大瞬間風速は、確かに父であるヴァンダ卿を超えていたのだと思う。
ヴァンダ卿が想定していた反逆を、ドラゴははるかに逸脱した。
父の描いた筋書きを喰らい尽くした。
蛇が己の尾を呑み込む——
まさに、ウロボロス。
俺はキリエ様に事の顛末を話した。
彼女は、驚きながらも、冷静にそれを理解した。
銀の瞳が、俺をまっすぐに見据える。
「兄は、父を超えたかったのか、いや、ただ……父の作った檻の中で、生き続けるのが、耐えられなかっただけなのでしょうね」
こうして、ヴァンダ家に起きた謀略劇は終焉した。
血と嘘と野心が絡み合い、互いを喰らい合った末に残ったのは、瓦礫と沈黙だけだった。
誰かが勝ったわけでも、救われたわけでもない。
ただ一つ、古い名が、歴史の中へと静かに沈んでいった。
そして——
「ルシアン……」
キリエは、崩れた城壁の向こうに広がる灰色の空を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「私、すべてを失ってしまいました。家族も、帰る家も……そして、“ヴァンダ”という名も。もう、捨てなければならない」
声は震えていなかった。
それがかえって、彼女の覚悟の深さを物語っていた。
「俺も同じです」
俺はそう答え、足元の瓦礫から視線を上げる。
「ヴァンダ家の騎士としての称号は、恐縮ですが、もう意味を持たない。俺は流浪の騎士です……もしかしたら、仕えるべき主君は——いるかもしれないですが」
そう言って、俺はキリエを見た。
「やめて、ルシアン」
即座に、しかし柔らかく制された。
「私にはもう、格も血筋もない。ただの“キリエ”よ」
彼女は小さく息を吸い、
「だから……」
「“友達”、ですか」
俺がそう言うと、キリエ様は一瞬だけ目を伏せ、そして小さく頷いた。
「……うん。だから、敬語もやめて」
「はい——あ、いや……」
口元が、少しだけ緩む。
「——じゃあ、遠慮なく、そうするよ」
その瞬間だった。
キリエは、俺の腰元に手を伸ばし、剣を鞘から抜いた。
「な、何を——」
制止する間もなかった。
澄んだ金属音とともに、剣閃が走る。
長い銀髪が、肩口で断ち切られ、重たく湿った音を立てて地面に落ちた。
ヴァンダ家の象徴。
才女キリエ・ヴァンダを形作っていた銀の髪。
それが、泥にまみれて転がっていた。
キリエは表情一つ変えず、今度は自らの衣の端を裂き、即席の紐を作る。
切り揃えた髪をまとめ、無造作に結い上げた。
そして、まっすぐに俺を見る。
「私ね」
はっきりとした声で、宣言する。
「あなたと一緒に、流浪の騎士になる」
その瞳に、迷いはなかった。
失ったものを嘆く色もない。
そこにあったのは——
名前も、血も、城も捨ててなお、自分で選び取った未来だけだった。




