19:人形使い
ドラゴ・ヴァンダは死んだ。
討死——父の持ち物であった斧によって、その生涯を閉じた。
剣ではなかった。
名誉でも、正統な決闘でもない。
血を分けた父の武具に、首を断たれた末路だった。
床に転がるその骸を一瞥しただけで、俺は踵を返した。
助けるべき者は、まだ生きている。
「サロード様!」
俺は駆け寄り、膝をつく。
ヴァンダ卿は腹部を深く貫かれ、床一面に血を広げていた。
呼吸は浅く、口元からも赤黒い血が溢れている。
——だが、まだだ。
脈はある。意識も、完全には落ちていない。
回復術式なら、まだ間に合うかもしれない。
失われた血は戻らない。
断たれた肉を完全に元に戻すこともできない。
だが回復術式は、生物が本来持つ治癒能力を無理やり加速させる。
命を、繋ぐことはできる。
俺は術式を展開し、両手に淡い光を灯した。
腹部の傷口に触れようと——その瞬間だった。
「……やめろ」
掠れた声。
次の瞬間、手首を叩かれた。
力は弱い。だが、はっきりとした拒絶だった。
「運命をねじ曲げるほど、わしは貪欲ではないわ」
ヴァンダ卿が、薄く目を開いていた。
血に濡れた唇が歪み、嫌悪をそのまま形にしたような表情で、俺を睨む。
一瞬、思考が止まった。
——なぜだ。
この人は、魔術に理解を示していたはずだ。
少なくとも、否定はしない人だった。
「ですが、サロード様」
俺は声を抑え、必死に言葉を選ぶ。
「今は治癒をしなければ……これは生死に関わる致命傷です。回復術式なら、まだ——」
「構わん……!」
声を張り上げた拍子に、さらに血を吐く。
「すべてわかったのだ。ここで倒れている間に考えを巡らせ、理解した。すべてを、だ」
荒い息の合間に、乾いた笑いが混じる。
「もう終わりだ……わしは歴史の歯車……いや、踏み台だということだ」
俺は、歯を食いしばった。
「……な、なにを!」
声が、わずかに震える。
「ヴァンダ卿が生きていなければ、この領地はどうなるのです。威信を保てねば、内外の者たちが黙ってはいない。それに、キリエ様は……!」
一瞬、躊躇したが、言葉を続けた。
「ブラックウェルに利用され、政略結婚の駒として扱われる可能性もある。それでも、よろしいのですか」
その名を出した瞬間、ヴァンダ卿の目が、冷たく光った。
「……キリエなど」
か細い声だった。
だが、はっきりとした響き。
「元より……政略結婚のための駒にすぎん」
「な……」
喉から漏れた声は、言葉にならなかった。
もはや目の前にいる男は、俺の知っているヴァンダ卿ではなかった。
それは、追い詰められ、正体を剥き出しにした一人の男だった。
俺の中で何かが静かに崩れていく。
尊敬。期待。信頼。
それらが、音もなく引いていった。
俺は、展開していた術式を——ゆっくりと、解いた。
「それは……誠に言っているのですか……?」
自分でも驚くほど、声が乾いていた。
問いというより、現実を拒むための確認だった。
「当たり前だ」
ヴァンダ卿は即座に言い切った。
そこに逡巡も、迷いもない。
「わしはヴァンダ家を乗っ取った身だ。わしにヴァンダの血は流れておらん」
吐き捨てるような声音。
「ゆえに、ヴァンダの後継者などどうでもいい。子供など——利用価値のある間は駒、それだけだ」
「……ですが」
それでも、口を開かずにはいられなかった。
「キリエ様も、ドラゴ様だって……大事にお育てになられていたじゃないですか」
一瞬、ヴァンダ卿の口角がわずかに上がる。
「それが領主の責務だからな」
当然のことのように言う。
「この地位に留まるには、“父親”である必要があった。子を育てぬ領主など、不自然極まりないからだ。キリエは……想定以上に、まともに育った。だが、ドラゴ……あれは失敗作だった」
心臓を握り潰されたような感覚が走った。
父としての評価ではない。
人としての感情すら、そこにはなかった。
「あれは邪魔で、迷惑で、愚かな息子だ。扱いづらく、始末に困る存在だった」
俺は、思わず拳を握りしめていた。
ドラゴに対して怒りを抱いてきたはずなのに、今は——
「だから、お前を利用させてもらった。読書家」
不意に、視線が俺に向く。
「お、俺……?」
思わず、尊敬語すら吹き飛んだ。
「お前が持ち込んだ魔術だ」
ヴァンダ卿は気にせず続ける。
「あれは、この山に住む者にとっては穢れた呪いに等しい。ドラゴがお前を嫌悪し、敵視したのは、むしろ自然な反応だ」
俺は、嫌な予感を覚えながら黙って聞いていた。
「だからこそだ」
ヴァンダ卿の声に、かすかな愉悦が滲む。
「わしが魔術を肯定し、キリエに魔術を学ばせれば——対立構造を生むのは容易かった」
「何のために……!? なぜ、わざわざドラゴ様との対立を……」
ヴァンダ卿は、血に濡れた唇で笑った。
「決まっておろう」
その一言が、冷たく落ちる。
「あの馬鹿息子を始末するためだ」
「……は?」
一瞬、意味が理解できなかった。
「この内戦は、わしの筋書きだ」
淡々と、恐ろしいことを告げる。
「お前の魔術をきっかけに疑心を煽り、キリエに魔術を会得させ、そして、まるで後継者がキリエのように思わせ、ドラゴを追い詰める。わしが隠居するという噂を流し、あいつがついに反旗を翻したところを——わしが討つ」
息を吸う音が、やけに大きく聞こえた。
「そうすれば、息子殺しは正当化される。反逆者を討った、という形でな」
「……あなたは、一体……」
言葉が、喉で詰まった。
俺は理解してしまった。
この男は、父でも領主でもない。
——怪物だ。
だが、ヴァンダ卿は俺の畏怖など気にも留めず、続ける。
「しかしな」
悔恨にも似た、わずかな歪みが声に混じる。
「予想外のことが起きた。あいつは用意周到だった」
視線が虚空を彷徨う。
「反逆は洗練されすぎていた。キリエを捕らえ、城は混乱。神の悪戯か……ドラゴの反逆は、あまりにも大きく膨れ上がった。そうだ。わしは謀略に失敗した。我が主を殺った時のようには、いかなかった」
ヴァンダ家を乗っ取った男は、まるで昔話を語る老人のように言った。
「わしは別に……最初の頃は成り上がりたかったわけではない」
静かな声音。
「主様に仕え、人民の声を聞き、主の家臣どもの嘆きを聞くうちに——この国のために、主は死なねばならぬと感じてしまった。それを、“責務”だと」
ヴァンダ卿は、もはや俺ではなく、どこか遠い一点を見ていた。己の過去を、あるいは正当化のために削り続けた記憶の残骸を。
俺はその続きをあえて口にした。
「……そして、あんたは結果として、生きる伝説になった。“山の毒蛇”。成り上がり譚の、黒き英雄として……」
俺がそう告げると、ヴァンダ卿はかすかに口角を吊り上げた。笑みと呼ぶには、あまりにも歪で、疲れ切っていたが。
「英雄、か」
咳き込み、血が喉の奥で鳴る。
「……伝説も、ここまでだ。残りはすべて、カーツに根こそぎ刈り取られるいや、最初から奴の筋書き……」
ヴァンダ卿の声は、諦念とも嘲笑ともつかないものだった。
「カーツは死にましたよ」
俺は淡々と告げる。
「俺が率いてきた二千の軍勢——それを差し向けたことが、あの男の最後の命令です」
「……やはり死んだか。いや、もう思い残すことはないということだ」
腹を押さえるでもなく、ただ笑う。
そして濁った目が俺を射抜いた。
「わしはな、ヴァンダ家を操り、“人形使い”であることだけを生きる術にしてきたつもりだった。だが……」
歯を剥く。
「違う。違った。わしは、ただの人形だったということだ」
「……何を」
「カーツ・ブラックウェルだ。あの男こそ、真の人形使い」
断言だった。怨嗟ではなく、敗者が辿り着いた最終的な理解。
「奴は死んで終わりじゃない。カーツの死によって、ようやく筋書きは動き出すのだ」
俺の背筋に、冷たいものが走る。
「それはな——愛娘のための、完璧な花道だ」
「……」
「覚えているか、ルシアン。お前は言ったな。ヴァンダとブラックウェルの小競り合いは、民に見せるための示威行動だと」
俺は黙って頷いた。
「違う。あれは仕込みだ」
ヴァンダ卿は、楽しげですらある声音で続ける。
「この城は、容易に落ちてはならない。落とせないからこそ、民は囁く。『山城を落とせぬ領主』だと。不満も、疑念も、憎悪も——すべてが蓄えられていく。それでよかったのだ。奴はずっと待っていたのだ。いつかこのヴァンダ領に綻びが生まれるのを。ドラゴがうつけ者だというのとは知れ渡っていた。そして、わしがそれを処理したいと思っていたことも、奴は読んでいた。何より、わしが窮地の時はブラックウェルを頼りにするように、奴はわしの心を掌握していた」
指先が、血に濡れた石床をなぞる。
「落とせなかった城はな、落とされた瞬間に“神話”になる」
目が、ぎらりと光った。
「その栄光を、誰に与える?」
答えは一つだった。
「姫騎士だ。あの娘がこの城を落とせば、一夜にして伝説になる。難攻不落の城を制した英雄としてな」
胸が、嫌な音を立てて鳴る。
「いいか、読書家」
ヴァンダ卿は、最期の教えを授ける老獪な声で言った。
「伝説は“語られる”ものじゃない。“作られる”ものだ。そして——」
薄く笑う。
「あの姫騎士なら、乗りこなすだろうさ。父親が丹精込めて育て上げた、“伝説”という名の暴れ馬をな」
その笑みは、誇りでも希望でもなかった。
ただ、自分が最後まで操られていたと悟った男の、皮肉な納得だった。




