18:決闘
執務室には、ドラゴがいた。
重厚な机は薙ぎ倒され、壁に掛けられていた肖像画は血飛沫で見えなくなっている。
床を覆う深紅は、もはや血溜まりと呼ぶには生温かく、踏み込むたびに靴底が嫌な音を立てた。
ヴァンダ家の象徴である青——
それは、今や赤に塗り潰されていた。
中央に立つ男の剣は、腹部から深々と突き刺さったまま。
柄を握る腕には、迷いも、震えもない。
サロード・ヴァンダ。
ヴァンダ卿は、目を見開いたまま、声もなく腹に刺さった剣を見下ろしていた。
次の瞬間。
ずるり、と嫌な音を立てて、剣が引き抜かれる。
支えを失った身体は、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
血が床に広がり、青い衣を完全に飲み込む。
——死んだ。
その事実を、理解するより先に。
ドラゴの視線が、こちらを射抜いた。
血塗れの顔に、歪んだ笑みが張り付く。
「……貴様か」
低く、粘つく声。
「貴様が、ブラックウェルどもを引き入れた張本人だな。汚らわしい混血が……余計な真似をしやがって」
唾を吐くように吐き捨てる。
だが、次の瞬間、表情は一転した。
破裂するような哄笑。
「だが、残念だったなぁ?」
彼は、床に転がる死体を足で蹴った。
「お前の主は、今しがた死んだ。見ただろう? この通りだ」
嗤う。壊れた玩具のように。
「お前がやったことは、ぜーんぶ無駄だ。無駄無駄無駄! ハハハハハハハ! ご苦労様でしたぁ!」
耳障りな笑いが、執務室に反響する。
俺は剣を構えたまま、一歩、前に出た。
「……キリエ様はどこだ」
声は、思った以上に低く、掠れていた。
ドラゴは一瞬、きょとんとした顔をしたあと、にやりと口角を吊り上げる。
「キリエ?」
名を転がすように繰り返す。
「さぁなぁ……今頃は、鼠の餌にでもなってるんじゃないか?」
——地下。
脳裏に、即座にあの場所が浮かぶ。
「地下の独房か……!」
怒りが、胸の奥から噴き上がる。
あそこは、人の住む場所じゃない。
ましてや、十四歳の少女が押し込められていい場所でもない。
光の届かない闇。
息が詰まるほど狭く、湿り、腐臭が染みついた石の箱。
そして——
人の肉の味を覚えた鼠どもが、壁の隙間に巣食う、地獄。
視界が、赤く染まる。
ドラゴの嗤い声が、遠くに聞こえた。
「今の俺はすっかり爽やか良い気分。あのクソ親父を自らこの手でぶっ殺して、最高のテンションだぜ」
俺は、静かに鞘へ手を伸ばした。
金属が擦れる、乾いた音。
剣身が闇を裂くように姿を現す。
その瞬間、ドラゴの口元が歪んだ。
「俺とやるってか?」
鼻で笑い、肩をすくめる。
「ハーフエルフ如きが、純人間様と剣で勝負かよ。身の程って言葉、知ってるか?」
彼は剣に付いた血を、無造作に振り払った。
床に飛び散る赤。
「貴様は俺には勝てない。……その記憶、しっかり刻まれてるだろう?」
剣を構えるその姿は、技量だけを見れば確かに洗練されていた。
だが、その動きには、どこか軽薄な高揚が混じっている。
ドラゴは歯を剥き、笑った。
「あのクソ親父を、自分の手でぶっ殺してやったんだ。ああそうだ、自分のことばかりを考えて、俺たちを道具にしか思っていないあいつを。欠陥品の俺に殺されるとは、さぞあの世で歯をガタガタいわせているだろうなぁ。俺はなあ、今、生まれて初めて、すべてが思い通りだ!」
ドラゴは床に落ちていたヴァンダ卿の斧を広い上げ、背中へ回し、革製のホルスターへ無造作に掛けた。
「俺は今この瞬間から、ヴァンダ領の領主だ」
剣先が、こちらを指す。
「全軍の——そして、お前の指揮官だ」
俺は剣を構えたまま、視線を逸らさなかった。
「それは良かったな」
淡々と、事実だけを告げる。
「だが、残念だ」
ドラゴの目を、真っ直ぐに見据える。
「今のあんたに、あのブラックウェルを押し返すほどの力量はない」
一瞬。
空気が、凍りついた。
ドラゴの眉が引き攣り、口元が震える。
「……混血のくせよぉ」
低く、噛み殺した声。
「偉そうな口をきくようになりやがって……」
剣を握る手に、力が籠もる。
血に濡れた床の上で、二本の刃が、互いを睨み合っていた。
——来る。
そう思った瞬間には、ドラゴはもう踏み込んでいた。
床を蹴る音が一拍遅れて聞こえる。
距離が、一息に潰れる。
「遅ぇんだよ!」
怒号と同時に、剣が振り下ろされた。
俺は反射的に剣を掲げる。
——ガァンッ!!
金属が噛み合い、衝撃が腕を貫いた。
重い。
ただ重いだけじゃない。殺すための重さだ。
「……っ!」
受けきれず、靴底が石床を削って後退する。
腕が痺れ、指先の感覚が一瞬、薄れた。
間髪入れず、ドラゴは畳みかけてくる。
縦。
横。
斜め。
どれもが致命の軌道。
見切るより早く、身体を動かすしかない。
「どうした、ハーフエルフ! 逃げてばかりか!」
剣を受け、弾き、逸らす。
だが、防御するたびに衝撃が蓄積していく。
そして、刃を弾かれ、剣先が大きく外へ流れた。
「甘ちゃんってことじゃんねぇ!」
すぐさま、肩口へ追撃が来る。
避けきれない。
俺は咄嗟に身体を捻る。
刃は鎧をかすめて通り過ぎたが、衝撃で体勢が崩れた。
床に片膝をつく。
その瞬間、視界いっぱいにドラゴの影が落ちてきた。
「終わりだ!」
剣が振り下ろされる。
俺は歯を食いしばり、剣を差し入れて受け止めた。
——が。
力が、違う。
「ぐっ……!」
押し返そうとした瞬間、刃がずり落ちる。
次の拍で、ドラゴの剣が俺の左肩へと到達した。
鈍い衝撃。
肉を裂く感触が、遅れて熱となって広がる。
「——っ!」
だが、致命には至らなかった。
ドラゴの踏み込みが深すぎたのだ。
力任せに叩きつけた反動で、足元がわずかに泳ぐ。
「チッ……!」
その一瞬。
俺は即座に後方へ跳び、距離を取った。
床を転がり、柱の陰へ滑り込む。
今だ……!
剣を握ったまま、空いた左手を傷口へ当てる。
思考を切り替え、術式を脳裏に描いた。
回復術式。
詠唱は省略、構成だけを叩き込む。
淡い光が掌に宿り、裂けた肉をなぞる。
焼けるような痛みと共に、血の流れが止まった。
完全ではない。
だが、戦える。
その様子を見て、ドラゴが鼻で笑った。
「……やっぱりな」
彼は肩を回し、剣をぶら下げるように構える。
「姑息な真似をしやがって。何が魔術だ」
唾を吐くように、言い捨てる。
「そんなもん、自然の摂理から逸脱した、穢れた呪いだろうが」
「……」
俺は息を整えながら、剣を構え直す。
「便利だろ」
そう返すと、ドラゴの眉がぴくりと動いた。
「黙れ。人の身で世界の理を捻じ曲げるから、お前らハーフエルフは忌み嫌われるんだ」
剣先が、こちらを指す。
「剣で戦え。血を流せ。死ねるなら、ちゃんと死ね」
俺は苦笑し、肩を回した。
「理屈は嫌いじゃない。だが——」
剣先を、正面に据える。
「今は生き残る方が、ずっと大事だ」
空気が、張り詰める。
ドラゴは口角を吊り上げた。
「しゃらくせぇだろうが」
剣が、再び、持ち上がる。
俺も、構えを低くした。
ドラゴは、間を置かずに再び踏み込んできた。
床を蹴る音が、さっきより重い。
剣先が描く軌道も、荒い。
……来る。
それは予想通りだった。
むしろ——狙い通りだ。
奴は、俺が魔術で傷を塞いだのを見た。
その瞬間から、意識が変わっている。
“剣を捌いて勝つ”ではない。
“回復される前に、より深く、より致命的に斬る”。
剣技で圧す冷静さは薄れ、代わりに力と殺意が前に出てくる。
つまり、余裕が消えた。
俺は剣を構える。
防御。あからさまな、受けの姿勢。
「オラァ! 混血ッ!」
ドラゴの声が、苛立ちを孕む。
一直線。
迷いのない踏み込みと同時に、剣が振り下ろされる。
——その瞬間。
俺は、斜め前へ踏み込んだ。
——《《剣だけを、置き去りにして》》。
それは固定魔術。
一時的に、対象の運動エネルギーを凍結する術式。
だが、万能じゃない。
少しでも強い力が加われば、術は破れる。
相手の剣を直接止めるなんて、無理だ。
だから、固定できるのは俺の剣のみ。
ドラゴの剣が、俺の剣に触れる、その瞬間まで。
空間に縫い留められたままの刃。
いわば、囮。
「……なッ!?」
鈍い衝撃と同時に、固定が解ける。
だが、その時には、俺はもう正面にいなかった。
勢いを殺せないまま、ドラゴの剣は空を斬る。
横。
すぐ隣。
ドラゴの視線が追いつかない。
俺は、伸ばした手で——
ドラゴの背中に差されていた、あの斧の柄を掴んだ。
ヴァンダ卿の斧。
ずしりとした重みが、腕に伝わる。
「——っ!?」
ドラゴが気づいた時には、もう遅い。
俺は斧を引き抜き、その重さを殺さずに、振り下ろした。
狙いは、首。
鎧の隙間。
鈍い衝撃音が、執務室に響いた。
骨を叩く感触が、掌から肘へと伝わる。
ドラゴの身体が、ぐらりと揺れた。




