15:継承
「判断を下すのは父よ」
俺は彼女に先導され、重厚な廊下を進む。壁に掛けられた古い航海図、潮に削られたような装飾、刃こぼれしたまま飾られた戦利品の剣——この城そのものが、ブラックウェル家の歩んできた血と金の歴史を語っていた。
——カーツ・ブラックウェルという男は、最初から正義の領主ではなかった。
海に面した痩せた領地に生まれ、剣より先に金の重みと潮の匂いを覚えた男。正規の税だけでは領は保たぬと知り、商船を守るふりをして奪い、奪った荷を正規品として市場に流す。彼にとって戦争とは、剣と盾のぶつかり合いだけではなかった。補給線を断ち、港を締め、恐怖そのものを交渉の札にする——それが、彼の戦だった。
だが同時に、彼はただの荒くれ者でもなかった。港を整備し、航路を掌握し、法の顔を被って領主として振る舞いながら、裏で得た富を軍備と城塞に注ぎ込む。そうしてブラックウェル家は、弱小領主から、海と陸を跨いで影響力を持つ勢力へと変貌した。
カーツ・ブラックウェルが“海賊”と呼ばれる所以は、無法者だからではない。
法と無法の境界を踏み越える覚悟を持ち、それを統治の力へと昇華させた男だったからだ。
——その男と、俺はついに対面する。
重い扉が、軋む音を立てて開かれる。
潮の匂いは薄く、代わりに薬草と古い布の匂いが鼻をついた。
その先にいたのは——
戦場を蹂躙した“海の虎”ではなかった。
ベッドに横たわり、呼吸に合わせて胸を上下させる、痩せ細った老人。
深く刻まれた皺と、色を失った肌。かつて海と恐怖を支配した男は、今や自らの身体すら満足に支配できていない。
伝説は、ここに横たわっていた。
メテラナは静かに歩み寄り、カーツ・ブラックウェルの枕元に膝をついた。
そして、誰にも聞こえぬよう身を屈め、父の耳元へ言葉を落とす。
その間、カーツは目を閉じたまま動かない。
眠っているのか、考えているのか、それともすべてを聞き流しているのか——判別はつかない。
やがて、彼はゆっくりと、骨ばった細い腕を持ち上げた。
かつて剣を振るい、舵を握り、幾千の命を動かしてきた腕だ。
今は、その動き一つにも介添えが要りそうなほど頼りない。
挨拶——そう受け取るほかなかった。
さらにメテラナが、もう一度だけ、今度はより短く、より核心に触れる言葉を囁く。
カーツは天井を見つめたまま、長く息を吐いた。
そして——
「……二千」
それだけだった。
問いでも、命令でも、感情でもない。
数を告げる、ただそれだけの声。
メテラナは立ち上がり、俺の方へ視線を向けた。その表情には、微かな緊張と、確信が混じっている。
「父は——ヴァンダ家に、二千の兵を出すと」
言い切りだった。
そこに条件も、交渉も、ためらいもない。
俺は思わず息を呑んだ。
その直後だった。
カーツ・ブラックウェルの胸が、わずかに上下したかと思うと——
それきり、動かなくなった。
息の擦れる音も、喉の鳴る気配もない。
老いた身体は、まるで最初からそこに置かれていた彫像のように静まり返る。
まるで、今しがた告げた数字が、遺言そのものだったかのように。
誰も動けず、誰も声を上げない。
死を悼む間すら、この場には許されていない。
——メテラナは微動だにしなかった。
父の顔を一瞥し、呼吸を確かめるでもなく、感情を探るような間も置かず、
まるで用意されていた台詞を読み上げるかのように、言う。
「亡くなったわ」
娘でありながら、声に揺らぎはない。
悲しみも、怒りも、嘆きも、そこにはなかった。
「……え」
間の抜けた声が、思わず喉から零れた。
頭が追いつかない。
ほんの一瞬前まで、決断者としてそこにいた男が、もういない。
「前にも言ったけど、」
メテラナは俺を見ない。
視線は、天井でも、父の亡骸でもなく、もっと先——
これから起こることの方を向いている。
「父は酷い病に侵されていた。すでに死人も同然だったわ」
淡々とした口調。
だがその言葉には、長い時間をかけて受け入れてきた覚悟の重みが滲んでいた。
それは冷酷さではない。
死を否定する強さでもない。
この瞬間を“終わり”ではなく、
“引き継ぎ”として受け取った者の声だった。
そして——
この場で、ブラックウェル家の当主は、静かに、誰にも宣言されることなく、しかし確実に、交代したのだ。
それから部屋は、一瞬で戦場の裏側のようになった。
張り詰めていた静けさが破れ、空気が一気に流れ出す。
「ご当主様……!」
侍女が駆け寄り、召使いたちが我先にと動き出す。
椅子が倒れ、カップが床で乾いた音を立てて跳ねた。
「医者を呼べ! いや、もう来ているか?」
「こちらです、道を空けてください!」
人が増えるたび、声が重なり、部屋は騒音で満ちていく。
領主が死ぬというのは、こういうことなのかと、場違いな感想が頭をよぎった。
やがて、重たい足音が近づく。
家臣たちが集まり、その列の中には、あの大男の姿があった。
俺はその場に立ち尽くしながら、息を整える。
ここは客人が口を挟む場所ではない。
だが同時に、何か決定的な瞬間が、確実に近づいているのを感じていた。
俺は奇しくもブラックウェル家の領主継承を目の当たりにすることになった。
本来であれば、当主の死とともに始まるのは葬儀の準備と、形式ばった継承の儀である。
祈りが捧げられ、血統が確認され、家臣たちが膝を折る——それが貴族というものだ。
だが、メテラナはそれらをすべて後回しにした。
「山の毒蛇どもが騒いでるみたい」
それだけ言って、彼女は歩き出す。
誰一人、異を唱えなかった。
城内に号令が走り、兵が集められる。
武器庫が開かれ、鎧が運び出され、馬屋では嘶きが重なった。
メテラナは、あの黒を基調に、赤いマントを翻す鎧を身にまとう。
艶を失わない黒鉄に、血のような赤が重なり、喪の色でありながら、完全な戦装束だった。
彼女は迷いなく馬にまたがる。
背筋は伸び、手綱を引くその姿に、先ほど父を失った娘の影はない。
そこにいたのは、ただ——
戦場へ向かう新たなブラックウェル家の当主だった。
メテラナは、馬上から声を張り上げた。
「聞きなさい、ブラックウェルの兵たちよ!」
低く、それでいてよく通る声だった。
ざわめいていた隊列が、一瞬で静まり返る。
「我らが宿敵、サロード・ヴァンダが危機にあるという!」
兵の間に、ざわりとした空気が走る。
「ヴァンダ卿は、我が父カーツ・ブラックウェルの好敵手でもあった。老獪な海の虎と、老獪な山の蛇——その戯れに、我らは巻き込まれてきたがな」
そして次の瞬間、兵の列から笑いが噴き出した。
嘲りではない。
覚悟を共有した者たちの、乾いた笑いだ。
メテラナも、口元を歪めて笑った。
その笑みが合図だったかのように、空気が一つに束ねられる。
「だがな——」
彼女は一拍置き、声をさらに強める。
「老獪は一人、すでに死んだ!」
誰もが、その言葉の意味を理解した。
「もう一人の老獪は遊び相手を亡くして、きっと嘆くだろう」
メテラナは剣を抜き、空へ突き上げる。
「ならば我らが一つ、その老獪のために最高の戯れを起こしてやろうぞ!」
そして、爆発するような咆哮。
「おおおおおおおおお!!!」
大地が震えるほどの声だった。
歓声は恐ろしく、しかし美しかった。
メテラナ・ブラックウェルは、すでに完全な当主として、兵を率いていたのだ。
そして——俺は、彼らを先導する役を任された。
メテラナ・ブラックウェルは、俺のすぐ横に馬を寄せる。
赤いマントが風を切り、鎧が朝の光を弾いた。
「遅れないで、ルシアン」
それだけ言って、彼女は手綱を引く。
山道を駆ける。
岩肌を縫うような細道を、馬蹄の音が連なって打ち鳴らす。
振り返れば、視界いっぱいに広がる銀と黒。
旗がはためき、鎧がきしみ、息と息が重なり合う。
背後には、二千。
血と鉄で編まれた、ブラックウェル家の牙。
胸の奥が、ひどく静かだった。
恐怖も、興奮も、すでに飲み込まれている。
いよいよ——
大戦が、始まる。




