14:メテラナとの再会
ルクス山を、ブラックウェル家が治めるエンドル地方側へ下るのは、これが初めてだった。
これまで何度も、黒い旗を掲げたブラックウェル軍が駆け上がってきた山道。
今度はその逆を行く。
攻める側ではなく、招かれざる客として。
険しい岩肌を縫うように続く道を、ハザウェイは迷いなく下っていく。
足元から伝わる振動が、否応なく「ここは敵の領土だ」と告げていた。
やがて、山道の先に巨大な影が現れた。
門だ。
石と鉄で組まれた重厚な関所。
その上には見張り台があり、松明の光の中で、ブラックウェル家の兵がこちらを睨んでいる。
弓が構えられ、いつでも射殺できる距離。
俺は馬を止め、兜を外して声を張った。
「ヴァンダ家の使者、ルシアンだ。ブラックウェル家の騎士、メテラナ・ブラックウェル殿に、急ぎお伝えしたい要件がある!」
空気が張り詰め、矢が放たれる未来すら脳裏を過ぎる。
「……なんだと」
門上の見張りの一人が、感情を削ぎ落とした短い声で返した。
その言葉と同時に、周囲の兵がわずかに配置を変える。
俺の胸元に、見えない照準が重なっていくのを肌で感じた。
門は、なおも沈黙を守ったままだった。
やがて、門の向こうで低い声が交わされる。
短く、慎重で、決してこちらに聞かせるつもりのない協議。
その一瞬一瞬が、やけに長く感じられた。
——そして。
「通れ」
簡潔な命令が落ちた。
重い金属音を立てて、門が軋みながら開いていく。
夜の闇の向こうに、ブラックウェル家の領内が姿を現した。
俺は一歩、境界を越える。
背後で門が閉じれば、もう後戻りはできない。
その覚悟を胸に、馬を進めた。
こうして俺は、ブラックウェル家の領地へ足を踏み入れた。
そこは、夜にもかかわらず、まるで昼の続きのような街だった。
灯りの落ちない商店、夜市の名残を留める屋台、行き交う人々のざわめき。
山城に閉じこもるヴァンダ領とは、あまりにも違う。
海運と交易で栄えた土地の匂いが、はっきりと漂っている。
街道を進むにつれ、潮の香りが強くなり、やがて視界が開けた。
月明かりを受けて、黒々と広がる海。
その海を背に、断崖に食い込むようにして建つ巨大な城が姿を現す。
ブラックウェル城。
山の城とは違う、海を睥睨するための城。
ここに、あの女騎士——
メテラナ・ブラックウェルがいる。
そして俺はブラックウェル軍の兵士に先導されながら、門を越え、城の敷地内へ。
そして、馬を降り、城の中へと案内された。
門をくぐって間もなく、進路を塞ぐように一人の男が現れた。
髭面で、鎧ではなく普段着に近い厚手の衣。だが、肩幅は並の兵の倍はあり、腰に下げた長剣は使い込まれて黒く鈍い光を放っている。
男は俺を上から下まで一瞥し、鼻で短く息を吐いた。
「……ヴァンダの使者だと?」
低く、腹の底から響く声。
問いというより、確認に近い。
「はい。メテラナ・ブラックウェル殿に——」
そこまで言ったところで、男の足が一歩、前に出た。
それだけで、俺と彼との距離が一気に詰まる。
「おい」
男は眉一つ動かさずに言った。
「メテラナ様はな、お前のような雑魚が“会いたい”などと口にしていいお方ではない」
まるで岩壁に向かって話しているような圧。
俺は喉を鳴らしつつも、視線を逸らさなかった。
「承知しています。しかし、これは、ヴァンダ卿直々の——」
「だからだ」
言葉を遮られる。
男の声は荒げられていない。それがなおさら恐ろしかった。
「敵方が。笑えん冗談だ」
男の手が、無意識のように剣の柄に触れた。
抜く気はない。だが、いつでも抜けるという意思表示だ。
「……それでも」
俺は一歩、踏み出した。
「それでも、会っていただかなければならない理由があります。この命を賭しても、伝えねばならぬ言葉です」
しばし、沈黙。
大男は俺を睨みつけるように見つめ、やがて小さく鼻を鳴らした。
「……命を賭す、か」
その言葉を噛みしめるように繰り返すと、男は僅かに口角を歪めた。
それは笑みというより、覚悟を量る者の顔だった。
「覚えておけ、ここはブラックウェルの城だ。首が胴体と離れるのは、一瞬だぞ」
そう言って、男は進路を半歩だけ開ける。
「名を言え。正式に取り次ぐ」
「ルシアン・ブライト。ヴァンダ家に仕える、騎士です」
しばらくして、大男は重い足音を響かせながら戻ってきた。
無言のまま顎で示され、俺は城の奥へと通される。
応接間。
高い天井、厚い絨毯、壁に掛けられた歴代当主の肖像。
どれもが、この城が積み上げてきた時間と血を物語っていた。
俺は椅子に座らされたまま、ただ待つ。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
部屋の外、回廊の向こうから、低く抑えた女の話し声が聞こえてきた。
その声——
間違えようがない。
戦場で剣を振るっていた、あの声だ。
鼓動が、否応なく早まる。
やがて、扉の前で足音が止まり、侍女が一礼して扉を開いた。
現れたのは、赤いローブに身を包んだ少女だった。
人形のように整った横顔。
月光を思わせる白い肌に、冷たく澄んだ眼差し——その奥底に、確かな熱が宿っている。
歩みは静かで、椅子に腰掛けるその一連の所作には、この城で磨かれてきた気品が滲み出ていた。
鎧を纏い、血を浴びていた姫騎士と、同一人物だとは到底思えない。
だが、間違いなく、彼女だ。
メテラナ・ブラックウェル。
彼女は俺を一瞥すると、僅かに眉を上げた。
「私の眠りを妨げてまで、伝えたいこととは——」
声音は淡々としているが、そこには鋭い刃のような圧があった。
「よほどの手土産があるということね?」
その視線は、価値を、すでに量り終えているようだった。
「ご無沙汰しております……」
俺は深く頭を下げた。
床に視線を落としたままでも、彼女の存在感が、肌に刺さるように伝わってくる。
「まあ、そう。固くならないで」
メテラナは肘掛けに腕を預け、気怠げに微笑んだ。
「一度、唇を交わした仲じゃない」
侍女が驚いた顔をする。
「その……」
俺は喉を鳴らし、言葉を選びながら続けた。
「あれは、メテラナ様のお気遣いだと、そう認識しております。私の身分と立場を考えれば——」
「気遣い?」
彼女は俺の言葉を遮り、口元を歪めた。
「ずいぶんと便利な言葉を使うのね、ルシアン・ブライト」
赤いローブの袖が、わずかに揺れる。
「命を奪わなかった代償を、私が決めただけ。それを“気遣い”と呼ばれるのは、少し悲しいわ」
視線が、真っ直ぐに俺を射抜く。
「それとも……あの口付けが、あなたにとってはその程度の重みだった?」
「い、いえ」
思わず、声が大きくなる。
「そんなことはありません。ただ……私は、あの場で生き残っただけの男です。意味を取り違えてはいけないと思っただけで」
やがて、メテラナは小さく息を吐いた。
「……相変わらず、厄介な誠実さね」
そう言って、視線を逸らす。
「いいわ。ここまでにしましょう。あなたがここに来た理由——それが本題でしょう?」
空気が、はっきりと切り替わる。
「はい。私が使者として参ったのは、他でもありません」
俺は一度、息を整えた。
「ヴァンダ領にて——内戦が勃発しました」
メテラナの表情から、戯れの色が消えた。
椅子の背に預けていた身体が、わずかに前へ傾く。
「……内戦?」
声は低く、短い。
冗談や誇張を許さない響きだった。
「領主サロード・ヴァンダに対し、その嫡子、ドラゴ・ヴァンダが武装蜂起。現在、城内および周辺区画で、サロード勢とドラゴ勢による武力衝突が発生しています」
メテラナは眉をひそめる。
「ドラゴ……あの噂の“うつけ者”ね」
鼻で笑うように言い、即座に続けた。
「ならば、サロードの圧勝でしょう? あの老獪さと人望に、若造が敵うとは思えない」
「……本来であれば、そうなるはずでした」
俺は、ゆっくりと首を振る。
「ですが、事態は単純ではありません」
メテラナの視線が、鋭くなる。
「ドラゴは——妹君であるキリエ・ヴァンダ様を、おそらくは拘束しています」
「へぇ」
「さらに、領内では『キリエ様がドラゴに加勢した』という情報が流布されています。意図的な虚偽です」
メテラナは言葉を挟まない。
沈黙が、続きを促す。
「キリエ様は、領内でも屈指の才女。政、統治、学問——いずれにおいても支持が高く、民にも兵にも信望があります」
俺は拳を握りしめた。
「その名が使われた結果、状況は一変しました。『キリエ様が認めたのなら』『不意をついたドラゴが優勢なら』そう考える者が、次々とドラゴ側へ流れているのです」
メテラナの瞳が、冷たく光る。
「……人質と情報操作。それで、兵の心を奪ったわけね」
「はい。現在、ヴァンダ軍の相当数がドラゴ側に寝返り、領内は混乱状態にあります。もはや、単なる親子喧嘩ではありません」
俺は、はっきりと言った。
「これは、領主権そのものを巡る戦です」
しばしの沈黙。
やがて、メテラナは静かに息を吐いた。
「なるほど……」
その声には、怒りも嘲りもない。
ただ、戦場を見据える者の冷静さだけがあった。
「それで?」
彼女は顎に指を添え、俺を見据える。
「ヴァンダ家は、ここまで話して——ブラックウェルに、何を望むのかしら?」
俺は一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せた。
この城、この女の前で、その要求がどれほど重いものか——嫌というほど分かっている。
それでも、躊躇は許されない。
俺は顔を上げ、胸の奥に溜め込んだ息を、一気に吐き出した。
「——恐れながら、申し上げます」
声音が、わずかに震える。
だが、それは恐怖ではない。覚悟が身体を追い越した証だった。
「サロード・ヴァンダ勢への、ブラックウェル軍の加勢を——正式に、お願いに参りました」




