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13:最後の案

 主力部隊は、ついに押し切られ、ヴァンダ卿の執務室周辺まで撤退していた。

 かつては来客をもてなすための広間だったサロンは、今や即席の救護所と化し、床には血が滲み、壁際にはうめき声を上げる兵たちが折り重なるように横たわっている。

 鎧を脱がされる音、止血布を裂く音、誰かを呼ぶ声——阿鼻叫喚という言葉が、これほど相応しい空間もない。


 ヴァンダ卿は執務用の椅子に腰掛けていた。

 だが、その姿は決して指揮を執る将ではない。

 鎧は傷だらけで、肩口から血が滴り、額から流れた血が頬を汚している。それでも兜を外すことはなく、視線だけが鋭く前を見据えていた。


 俺たち突破部隊も、どうにかここへ合流することはできた。

 だが、誰一人として「すぐに出られる」と言える状態ではなかった。


「……奴らめ」


 低く、押し殺した声でヴァンダ卿が吐き捨てる。


「幻覚キノコを食っておる。あの狂った目……わしを、主君を、認識しておらんかった」


 いつもの豪胆さは影を潜めていた。

 苛立ちと困惑、そして——ほんのわずかな恐怖。


 家臣の一人が一歩前に出て、慎重に口を開く。


「幻覚キノコは、痛覚を鈍らせ、恐怖心を消し、異常な興奮状態を引き起こします。……ただし、持続時間は短く、やがて激しい中毒症状が現れるはずですが……」


 ヴァンダ卿は、膝を拳で叩いた。


「要は使い捨てだ。ドラゴめ……この短時間で決着をつけるつもりだな」


 その視線が、俺たち突破部隊へと向く。


「……で、そちらも、どうやら上手くはいかなかったようだな」


 突破部隊の隊長が、歯を食いしばりながら報告する。


「連絡通路にて、一つ目巨人サイクロプスと遭遇。隊は……壊滅状態です」


 室内が、わずかにざわついた。


「……サイクロプス、だと?」


 ヴァンダ卿の声に、驚きと疑念が混じる。


「ドラゴの奴……異獣商と取引してやがったか。しかし、サイクロプスなんぞ、並の金では買えん。あれは、とんでもなく高価だぞ……」


 沈黙の中、家臣の一人が、恐る恐る言葉を継いだ。


「ドラゴ様は……年貢の徴収の取りまとめ役を、今年は任されておりました。もしや……」


 一瞬の静寂。


「……今年の年貢を、異獣商に流した、か……」


 ヴァンダ卿の顔が、怒りで歪む。


「バカめが……!」


 吐き捨てるようなその一言には、領主としての怒りと、父としての失望が、はっきりと混じっていた。


 すでに、ヴァンダ卿勢には、出陣の時にあった勢いは失われていた。

 兵たちの呼吸は荒く、視線は落ち着かず、誰もが次に来る命令を“待つ”のではなく、“恐れている”。

 敗戦という言葉が、まだ口に出されていないだけで、空気の底には確かに沈殿していた。


 その重苦しい沈黙を、ヴァンダ卿が破る。

 彼は血に濡れた手で顎を撫で、まるで喉から無理矢理言葉を引きずり出すかのように、口を開いた。


「……()()()()()()()()()()に、加勢を頼んでみるか」


 一瞬、時が止まった。

 誰もが耳を疑い、誰もが、その名を思い出した。


 家臣の一人が、慌てて声を上げる。


「な、なにゆえですか……!?」


 ブラックウェル家。

 長年にわたり、このルクス山脈と山城を巡って、血と血を重ねてきた宿敵。

 幾度も刃を交え、幾度も奪い合い、決して和解などあり得ない相手。


「ここで野垂れ死ぬくらいなら、だ」


 ヴァンダ卿の声は低く、しかし迷いはなかった。


「ブラックウェルの手を借りて、あの反逆者どもを——そして、バカ息子を、蹴散らしてやる」


 別の家臣が、青ざめた顔で口を挟む。


「し、しかしサロード様……! 我らのこの兵力では、戦の後、確実にブラックウェル家に取り込まれる運命です!」


 普通なら、そこで躊躇いが生まれる。

 だが、ヴァンダ卿は——笑った。


 それも、どこか懐かしむように。


「その時は——」


 血の滲む口元を歪め、愉快そうに続ける。


「わしが昔やったように、ブラックウェル家を、丸ごと乗っ取ってやる」


 その瞬間、俺たちは思い出した。

 この男が、なぜヴァンダ卿と呼ばれているのかを。


 彼はもともと、この家の血筋ではない。

 ヴァンダ家の婿として入り込み、謀略の果てに主君の座を奪い取った男。


 その黒さ。

 その非情さ。

 その、生き汚さ。


 だが今この場では——

 それは、頼もしさとして、確かにそこにあった。


「しかしだなぁ……」


 ヴァンダ卿は椅子に深く身を沈め、痛む脚をさすりながら唸った。


「わしが直接出向くのが一番早い。だが、この身体では馬にすら乗れん」


 沈黙が落ちる。

 使者は必要だ。だが——誰が行く。


 この場にいる全員が顔を見合わせる。

 目を逸らす者、唇を噛む者、無言で首を振る者。


 相手はブラックウェル家当主、

 “海賊”と恐れられた豪傑——カーツ・ブラックウェル。


 ただの伝言では済まない。

 説得が要る。胆力と命が要る。


 ……その時、俺の脳裏に、ひとつの光景が蘇った。


 剣を構えた黒の鎧。

 カーツの娘、女騎士メテラナ・ブラックウェル。


 ふいにされた口付け。

 挑むような眼差し。

 思い出すだけで、今でも頬が熱くなる。


 だが——

 あの出会いは、ただの偶然ではなかったのではないか。


 俺は、喉の奥に溜まった唾を飲み込み、意を決して声を上げた。


「あの……サロード様」


 場の視線が、一斉に俺へ向く。


「どうした、読書家」


「実は……先の攻防戦において、私はカーツ・ブラックウェルの娘、騎士であるメテラナ・ブラックウェルと、直接会っております」


 室内に、ざわりと小さな波が立つ。


「ほう」


 ヴァンダ卿は片眉を上げた。


「あの姫騎士に、か」


「はい。……些細ではありますが、面識があります」


 ヴァンダ卿は数秒、俺をじっと見据えた後、肩をすくめる。


「理由は聞かん」


 その声は、冗談めいているようで、どこまでも本気だった。


「聞けば、お前を処刑しなければならなくなるかもしれんからな」


 背筋に、冷たいものが走る。

 だが——今は、許された。


 俺は一歩、前へ出る。


「このルシアンめが、使者となれば……」


 拳を強く握り締め、言葉を続ける。


「メテラナ・ブラックウェルとのつてを使い、どうにか、話の場を設けることができるかもしれません」


 それは、提案であると同時に、賭けだった。


 ヴァンダ卿は、しばし沈黙した。


 荒い息を整えるでもなく、誰かに視線を向けるでもなく、ただ静かに考え込む。

 その沈黙は短いはずなのに、やけに長く感じられた。


 この場にいる全員が理解していた。

 今、決められようとしているのは——一人の使者ではない。

 ヴァンダ家そのものの命運だ。


 やがて、ヴァンダ卿はゆっくりと顔を上げ、俺を見据えた。


 その眼には、疑いも、躊躇もなかった。

 あるのは、覚悟だけだ。


「……よかろう」


 低く、しかしよく通る声。


「では、読書家」


 ヴァンダ卿は立ち上がり、俺の前に歩み出る。

 血に濡れた鎧が軋み、熊皮の肩当てが揺れた。


 そして——


「お前に、ヴァンダ家の全てを託す」


 その言葉は、命令でもなければ、願いでもなかった。

 それは、信頼だった。


 逃げ場のない、重すぎるほどの。


 俺は膝をつき、頭を垂れる。


「……必ずや、連れて参ります」


 その誓いが守られるかどうかは、まだ誰にも分からない。

 だが、この瞬間、俺は確かに——

 ヴァンダ家の運命を背負った。



 執務室を出て、裏手へと続く細い回廊を抜け、夜気の満ちた外へ出る。


 秘密の抜け穴を通ると、その先にあるのは城外にひっそりと立った厩舎だった。


 松明の光に照らされ、馬たちが低く鼻を鳴らしている。

 血と鉄の匂いが染みついた城内とは違い、ここには獣と藁の、どこか懐かしい匂いがあった。


 俺が借りることになったのは、ヴァンダ卿の愛馬——

 黒褐色の巨躯を誇る戦馬、“ハザウェイ”。


 近づくと、馬は俺を値踏みするように一瞥し、蹄で地を打った。

 長年、主君の重さと戦場の緊張を背負ってきた獣だ。

 読書ばかりしてきた俺など、信用できるはずもない。


「……悪いが、急ぐんだ」


 誰にともなく呟き、手綱を握る。

 指先がわずかに震えているのが、自分でも分かった。


 慣れてもいない馬の腹に、ためらいがちに脚を当て、

 そして覚悟を決めて、縄——拍車代わりの手綱を叩いた。


 ハザウェイは一瞬だけ逡巡し、次の瞬間、力強く地を蹴る。


 こうして俺は、ヴァンダ家の命運を背に乗せて、闇の中へと走り出した。

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