11:臨戦態勢
ルクス城は、山の頂をなぞるように築かれた、横に長い城だ。
鋭く歪んだ山頂の稜線に無理やり据えられた石の塊は、自然そのものが要塞化したかのようで、平地の城とは根本的に発想が違う。
ヴァンダ卿が陣を構えるのは、その中でも最も高く、最も奥まった区画——城が城であることを証明する、最後の場所だった。
執務室はすでに本陣へと姿を変えていた。
長机は地図台に替わり、壁際には槍と弓、盾が並ぶ。
そこに集う者たちは例外なく鎧をまとい、剣に手を掛け、今この瞬間にも命令が下るのを待っている。
張り詰めた空気は、剣の刃のように冷たかった。
本陣へ踏み込むと、家臣たちと低い声で言葉を交わしていたヴァンダ卿が、こちらに気づいて顔を上げた。
熊の毛皮をあしらった象徴的な鎧に身を包みながらも、その表情には不思議な余裕がある。
「よう、読書家」
まるで日常の延長のように、気さくな声だった。
「こっちに来たか。親衛隊のお前が、キリエの方につかなくて良かったのか?」
冗談めかした口調。
だが、その目だけは、冗談を許さぬ鋭さを宿している。
「いえ。キリエ様を奪還すべく、サロード様の元へ参りました」
そう答えると、ヴァンダ卿は一瞬だけ目を細め、そしてニヤリと笑った。
彼は自分の目と、俺の目を、交互に指で示す。
「さすがだ。——よく見ておる」
ヴァンダ卿は集まった兵士たちの中でも、指揮を任せられる主要格だけを選び、集めた。その輪の中に俺も加えた。
石造りの長机には城の詳細な図面が広げられ、稜線、門、街区、兵舎の配置が蝋燭の光に照らし出されている。
ヴァンダ卿は図面の上に手を置き、低く言った。
「わしのバカ息子は——城門区画、北外郭、監視稜線、兵舎区画、武具庫、中央稜線街区までを押さえているとの情報だ」
指が順に地点をなぞるたび、空気が重くなる。
「兵は八百。対して、我らが百九十三」
数字の差を考えて、家臣の一人が小さく息を吐いた。
だがサロードは、まるで想定内だと言わんばかりに、気にも留めず続ける。
「そうだな……」
そして、俺の方を見る。
「おい、読書家。わしの代わりに作戦を話せ。どうせ考えてることは同じだろう」
不意に振られ、心臓が跳ねる。
視線が一斉に集まり、喉が乾くのを感じたが、ここで黙るわけにはいかなかった。
「わ、わかりました……やれるだけ、やってみます……」
一度、図面に目を落とし、頭の中で整理する。
「……確かに人数の差は歴然です。ただし、“士気”に関しては、こちらが圧倒的に有利です」
家臣たちがわずかに顔を上げる。
「まず、領主であり総大将であるサロード様ご自身が、ここにおられること」
ヴァンダ卿は「持ち上げるな」とでも言いたげに、口の端を緩めた。
「そして、ドラゴ様側に集まった兵の大半は、この動乱の意味を理解しないまま、成り行きで従っている者たちです。彼らは“戦をしている”という自覚すら曖昧でしょう」
図面の中央を指で叩く。
「さらに混乱を招いている最大の要因が——キリエ様がドラゴ様方についた、という噂」
室内に低いざわめきが走る。
「ですが、冷静に考えれば、キリエ様がドラゴ様につく理由はありません。ありえない」
家臣たちが頷き、視線に確信が宿っていく。
「ですから、この戦の要は——キリエ様です」
俺ははっきりと言い切った。
「キリエ様を奪還できれば、兵の迷いは一気に晴れる。士気は逆転し、戦況もまた、覆る可能性があります」
沈黙。
そして次の瞬間、ヴァンダ卿が低く笑った。
「だな」
その声には、満足と同時に、次の一手を考える獣の響きがあった。
「前線には——このサロード・ヴァンダが立つ」
その一言が落ちた瞬間、執務室の空気が一段重くなった。長机を囲んでいた家臣や兵士たちの間に、どよめきが走る。誰もが一瞬、聞き間違いではないかと互いの顔を見交わした。
「サロード様、それはさすがに……」
「総大将が前線に立つなど、あまりにも危険です」
押し殺した声で、しかし必死に制止する言葉が重なる。理屈としては正しい。領主にして総大将を失えば、この戦はその時点で終わる。誰もがそう理解していた。
だが、ヴァンダ卿はその反応を織り込み済みだと言わんばかりに、腕を組んだまま泰然としていた。熊の毛皮が揺れ、鎧の金具が小さく鳴る。
無謀だ。しかし——それは理にはかなっている。
「わしが前線に入れば、奴らも目が覚めるだろう」
低く、しかしはっきりとした声だった。威圧ではなく、説得でもない。ただ、当然の事実を述べるかのような口調。
「ドラゴの陣にいる兵の多くは、わしの顔を知っておる。わしに剣を向ける意味が、どれほどのものか——それを、嫌でも考えさせることになる」
沈黙が落ちる。反論しようとした家臣たちも、その言葉の重さに口を閉ざした。
戦場に立つのは、ただの将ではない。この領を治め、命令し、責任を負ってきた“主”そのものだ。その存在が前線に現れること自体が、武器になる。
俺は、静かに息を吸い、腹を決めて口を開いた。
「……確かに。サロード様が前に出れば、敵兵の迷いは決定的になります」
視線が一斉にこちらに集まる。だが、ヴァンダ卿だけは、満足げに口角を上げた。
「だろう?」
その笑みは豪胆で、同時に、領主としての覚悟をはっきりと示していた。
「わしも、もう六十だ」
サロード様はそう言って、肩をすくめるように小さく笑った。その仕草には、年齢を卑下する卑屈さはなく、むしろ長年戦場に立ち続けてきた者だけが持つ、乾いた余裕があった。
「そう機動力もない。若い頃のように駆け回る真似はできん」
熊毛の鎧を軽く叩き、重さを確かめるような音が響く。
「だがな——」
一拍置いて、ヴァンダ卿は周囲をぐるりと見渡した。集まった兵士一人ひとりの顔を確かめるように、その視線はゆっくりと進む。
「盾でいる方が、楽だ。実に楽だ」
そう言って、腹の底から笑った。
「ハハハ」
その笑い声は、張り詰めていた空気を一瞬だけ和らげたが、同時に背筋を正させる力を持っていた。逃げでも諦めでもない、選び取った役割としての“盾”。
「だから——」
声が低く、重くなる。
「若いもんが、さっさと動け」
指先が机の上の城の図面を叩く。
「キリエを奪い返すのだ。迷うな。考えすぎるな。わしが前に立っている間に、お前たちは“やるべきこと”をやれ」
老将の言葉は、命令であると同時に信頼だった。
——命を賭ける役は、自分が引き受ける。
——未来を動かす役は、お前たちに任せる。
そう告げられているようで、俺は無意識のうちに拳を握り締めていた。




