10:戦闘前夜
ドラゴ・ヴァンダの顔は、日を追うごとに険しさを増していった。
城の廊下ですれ違うたび、視線が絡む。剣を抜くでもなく、言葉を投げるでもない。ただ、こちらを値踏みするような、あるいは噛み殺した怨嗟を押し付けるような目だった。
近頃では、その視線の裏にある理由も、はっきりと見えていた。
ヴァンダ卿は何かにつけてキリエ様を傍に置き、評定にも、書庫にも、時には軍議の末席にすら同席させる。一方で、長男であるはずのドラゴは、次第に外されていった。
命令が届くのは遅れ、意見は求められず、功績は語られない。
——それは致命的な冷遇だった。
不満は、沈黙という形で城内に溜まり続けていた。
そして、それが破裂したのは、ある深夜のことだった。
城内が、やけに騒がしい。
自室にいながらでも分かる。足音が多すぎる。鎧の擦れる音、短く飛び交う命令、火を灯す気配。
嫌な予感が、背骨を這い上がってきた。
ほどなく、扉が強くノックされる。
「ルシアン!」
扉を開けると、鎧姿の親衛隊仲間が立っていた。顔色が悪い。呼吸も荒い。
「大変なことになった」
「この騒ぎ……ただ事じゃないとは思っていたが」
俺の言葉に、彼は一瞬だけ視線を伏せ、そして吐き出すように告げた。
「ドラゴ様が、武装蜂起なさった」
「……武装蜂起?」
言葉の意味が、頭の中でうまく噛み合わない。
反芻して、ようやく血の気が引いた。
「ヴァンダ卿を失脚させるおつもりだ。すでに一部の兵を押さえている。それに……」
彼は言い淀み、声を落とした。
「武装蜂起には、キリエ様も参加されている、という噂も」
「キリエ様も!?」
思わず声が荒くなる。
「……いや、それはあり得ない」
即座に否定した。
「キリエ様は、どう考えてもヴァンダ卿派だ。ドラゴ様につく理由がない」
そう言い切ったものの、胸の奥に引っかかるものが残る。
理屈では分かっている。だが今夜の城は、理屈で動いていない。
親衛隊仲間は、苦い顔で首を振った。
「よくはわからん。だが……とにかく、いつでも戦える準備をしておけ」
その言葉には、判断を放棄した響きがあった。
「……分かった。……で、我々親衛隊はどっちに着くべきなんだ」
俺が問うと、彼はしばらく黙り込み、廊下の奥——城の中心部をちらりと見やった。
「さぁな……」
彼は短く吐き捨てるように言って、肩をすくめる。
「ただなルシアン。この城内で、今、優勢なのは……不意打ちを決め込んだドラゴ様だ。それは間違いない。優勢と劣勢が、もう見えているなら……多くは優勢の方につく。……それに、」
彼は声を潜める。
「キリエ様がドラゴ様側にいる、という噂が、拍車をかけてる。“才女が選んだのはどちらか”——」
おかしい。
キリエ様が、ドラゴに就くなんて——どう考えても、おかしすぎる。
あの聡明さ。あの冷静さ。
父を見据え、領を見据え、先を見据えていた彼女が、衝動と虚栄に支配された兄の側につく理由がない。
——考えろ。
剣を抜く前に、頭を使え。
就くべきは、どちらだ。
俺は自分に言い聞かせるように、そして彼を糺すように口を開いた。
「けれど……もし、キリエ様がドラゴ様に“囚われている”のだとしたら、話は別だろ。その場合、我々がつくべきはヴァンダ卿。キリエ様は救出対象だ。ならば——我々はキリエ様を取り戻さなければならない」
それは騎士として、いや、人として当然の理屈だった。
俺自身、その理屈に縋りたかったのかもしれない。
だが、親衛隊仲間は、すぐには頷かなかった。
唇を引き結び、視線を落とし、微妙な顔をする。
「……しかしな、ルシアン」
低い声だった。
「今、この状況でヴァンダ卿につくのは、正直言って——勝ち目が薄い」
「……」
「ヴァンダ卿が今、抱え込めているのは、自身の親衛隊と、昔からの信頼がある少数の家臣だけだ。兵の数も、配置も……すでにドラゴ様に押さえられつつある」
そう言い切って、彼は一瞬だけこちらを見た。
そこにあったのは忠義でも悪意でもない。ただの——生存の計算だ。
「俺は、ドラゴ様の方に行く」
それだけ告げると、彼は踵を返し、城内の闇へと溶けていった。
足音が遠ざかるにつれ、胸の奥がじわりと冷えていく。
俺も急いで装具を身に着ける。
剣を帯び、外套を羽織り、思考が加速する。
ドラゴ様の側につくか。
ヴァンダ卿の側につくか。
勝つのはどちらか。
生き残るのはどちらか。
——答えは、とうに出ていた。
胸の奥で、あの夜と同じ感覚が疼く。
屍喰王を前にした時。
誰もついてこなかった、あの闇の中で感じた、確かな違和感。
見過ごしてはいけないものがある。
理屈では負ける。
常識でも負ける。
だが、それでも——。
俺はその沸々と湧き上がる違和感に、身を委ねた。
迷いはなかった。
俺は踵を返し、静まり返った回廊を走る。
向かう先はただ一つ。
——ヴァンダ卿のもとへ。
ドラゴ・ヴァンダが城の大半を掌握するまで、わずか一時間とかからなかった。
通路は塞がれ、詰所にはすでに彼の名を口にする兵が立っていた。
「父、サロード・ヴァンダは伝統を軽んじ、愚かな魔術とやらで我々を欺こうとしている!」
だが、その言葉に心から頷いた者は、実のところ多くはない。
それでも事態が傾いたのは、別の理由だ。
ドラゴがすでに優勢であるという噂。
そして、才女キリエ・ヴァンダまでもがドラゴ側についた、という噂。
真偽など、もはや誰も確かめようとしなかった。
ドラゴ側に付いた兵の士気は、不思議なほど薄かった。
彼らは自分たちが誰と敵対しているのか、はっきり理解していない。
ましてや、その相手が——この城を築き、守ってきたヴァンダ卿その人であるという現実を、直視できずにいた。
これは、ただの大袈裟な親子喧嘩だ。
感情がこじれた末の、見せかけの武装だ。
本当に刃が交わることなど、あるはずがない。
皆が、どこかでそう思っていた。
誰も、ヴァンダ卿を本気で殺そうとはしていなかった。
——そう、ドラゴを除いて。
読者の皆様
10話まで読んで頂き本当にありがとうございます!
たくさんの小説があるなかで、この物語に触れて頂き感謝でいっぱいです。
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