9:キリエ
魔物狩りの夜が明け、いくつかの日が静かに過ぎ去った。
だが、その静けさとは裏腹に、俺の名はヴァンダ領の隅々にまで轟いていった。
才女、キリエ・ヴァンダを救った英雄。
恐るべき魔物狩りを指揮し、生還した勇者。
人々はそう謳い、酒場では尾ひれのついた武勇譚が語られ、門番たちは俺を見るたびに妙に姿勢を正した。
その視線が、どこか居心地の悪いものだと感じていた。
そして俺は、名ばかりの雑用を押し付けられる下級騎士の身分から、一気に引き上げられた。
ヴァンダ卿の采配により、キリエ様の親衛隊への配属。
それだけでも異例だったが、ヴァンダ卿からさらに与えられた任務は、俺自身の耳を疑うようなものだった。
——「キリエに魔術を教えてはくれんか」
剣を振るうことでも、命を賭して戦うことでもない。
知識と技術、そして思想を手渡す役目。
それがどれほど重く、このヴァンダ領全体に影響を及ぼすものなのか、その時の俺には、まだ分かっていなかった。
すなわちそれは、ヴァンダ卿が魔術を明確に否定しなかった、という意味に他ならない。
表立って宣言されたわけではない。
だが、城の中に漂う空気は、確かに変わり始めていた。
見えないが、確実に存在する——薄い壁のようなものが、ヴァンダ家の中に引かれ始めていたのだ。
ヴァンダ卿とキリエ様は、魔術肯定派。
知と理を力とする未来を見据える者たち。
一方、ドラゴは違った。
力と剣、血と伝統を重んじる保守派。
ヴァンダ家が積み上げてきた武の誇りを、何よりも信じる男。
誰かが声高に争ったわけではない。
だが、視線や沈黙、些細な言葉の選び方に、確かな違和感が生まれ始めていた。
そんな空気が、ゆっくりと、しかし確実に——
ヴァンダ領を包み込みつつあった。
そして俺は今日、キリエ様に同行していた。
向かう先は、ルクス山の中腹。屍喰王が巣食っていた洞窟のほど近くだ。
あの夜、全てを呑み込んでいた闇は、もはやここにはない。
空は高く澄み渡り、山肌に残る雪が陽光を弾き、銀色の山々がきらめくほどの晴天だった。
まるで、この地そのものが、過去を悼みながらも前を向こうとしているかのようだった。
荷馬車と数名の兵士が運んできたのは石。
切り出され、磨かれ、簡素ながらも重みのある——墓石だった。
俺たちは一定の距離を保ち、その設置作業を静かに見守っていた。
——その時だった。
背後で、兵士たちが戦死者の墓標として石を積み上げている最中、乾いた音がした。
積み上げられた墓石の一つが、わずかに噛み合いを失い、大きく傾く。
「危ない!」
誰かの声が上がったが、俺の体はそれよりも早く動いていた。
思考は、後から追いついてきただけだ。
俺は半ば本能のまま、魔術を展開した。
倒れかけた石は、空中でぴたりと止まった。
落下の途中で時間そのものを切り取られたかのように、微動だにしない。
風が吹いても、石は揺れない。
重さも、慣性も、すべてがその場で凍りついていた。
「ルシアン、これは……!?」
キリエ様が目を見開き、俺と宙に浮いた墓石を交互に見る。
「固定魔術です」
俺は短く答えた。
「対象にかかる、ありとあらゆるエネルギーを停止させます。運動も、重力も」
言い終えた瞬間、石の周囲を覆っていた術式を解く。
墓石は、まるで許されたかのように、静かに地面へと降りていった。
その場に残ったのは、短い沈黙と、理解しきれないものを前にした兵士たちの視線だけだった。
山から吹き下ろす冷たい風に、キリエ様の銀髪が揺れる。
その横顔を見ながら、俺は口を開いた。
「凄い……。魔術というのは、この山では、卑怯で穢れたものだとされてきましたが。これは、偉大で、聖なるもののような気がします。なんせ奇跡を起こしているのですから」
キリエ様は、先ほどまで宙に留まっていた墓石のあった場所を、じっと見つめていた。
まるで、そこにまだ何かが残っているかのように。
「いや、神の力では決してありませんよ」
俺は、できるだけ淡々と答えた。
「魔術というのは“自然法則の外側”に立っているだけです。素材自体は、この世界が生まれた時からある、些細な概念の寄せ集めに過ぎない。神の奇跡とは程遠い。せいぜい、洗練された技巧です」
同じことを、父と母が言っていた。
キリエ様は少し驚いたようにこちらを見て、それから、ふっと微笑んだ。
「……それでも、です」
その声は、静かだが芯があった。
「技巧であろうと、理であろうと……人を救えるのであれば、それは十分に尊いものだと思います」
俺は返す言葉を探し、すぐには見つけられなかった。
「山の民は、力を尊びます。剣、血、伝統……それらが悪いとは思いません。でも」
キリエ様は一度言葉を切り、墓石に刻まれた名へと視線を戻した。
「それだけでは、救えないものもあるのでしょう」
「……ええ」
短く、そう答える。
「何せ、剣は、斬ることしかできませんから」
キリエ様は、小さく言った。
「それにしてもキリエ様。あのリッチの墓とは……たしかに、彼の魂をこうして地に縛り、鎮めるのも、一種の魔除けになりますが、まさかここまで大層なものを」
討伐した魔物のために墓を建てる——あまりにも異例な行為だ。
キリエ様は小さく頷き、墓石の方を見つめたまま、静かに答えた。
「恐るべき魔物でしたが……彼は、かつてこの地を治めていた英雄だったはずです」
その声には、恐れも嫌悪もなかった。
あるのは、過去を正しく見つめようとする理知だけだ。
「このルクス山は世界を旅した流浪の民族——狼の民が、ようやく辿り着いた終着点であったと伝えられています」
キリエ様はそう言い、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「“白狼”と謳われたゴル・アリュードは、偉大な魔法戦士だった、と文献にはありました。長い旅の果てに辿り着いた地。守るべき場所。そこを、何も知らぬままヴァンダ家が治めることになり……白狼の逆鱗に触れてしまったのかもしれません」
俺は返す言葉を探しながら、墓石に刻まれつつある名を見た。
敵として刃を交えたはずの存在が、今はただの“過去の英雄”として眠ろうとしている。
「……とはいえ、歴史というのは、勝者のものでもあります」
そう呟くと、キリエ様はわずかに俺の方を見た。
「ええ。だからこそ、忘れられた側にも、せめて名前と場所を残したいのです」
その言葉を、俺は胸の奥で反芻した。
風は冷たく、墓石はまだ新しい。
だがこの場所には、確かに“死”だけではないものが、静かに積み重なっていく気配があった
墓石が大地に据えられ、最後の楔が打ち込まれる音が、乾いた山気に吸い込まれていった。
兵士たちは一定の距離を保ち、こちらを振り返ることもなく、静かに撤収を始める。
この場に残ったのは、俺とキリエ様だけだった。
風が吹き抜ける。
銀色の山々を撫でるような冷たい風が、キリエ様の長い銀髪を揺らした。
彼女は墓石から視線を外さぬまま、ふと問いかけてきた。
「ルシアンは……魔術が好きですか?」
俺はすぐには答えられず、喉の奥で言葉を探した。
「……好きかどうかは、分かりません」
正直に答えた。
「ただ……この世に必要だと、私は思っていますよ」
そう言ってから、自分でも少しだけ苦笑した。
このルクス山では、あまり歓迎されない考え方だ。
だがキリエ様は否定しなかった。
一瞬だけ目を見開き、そして静かに頷く。
「もし……」
その声は、先ほどよりも少しだけ低かった。
「もし、“魔術が卑怯”と言われ続けるのであれば……」
俺は何も言わず、続きを待つ。
「その時は、私が“正しい”と証明します」
俺はゆっくりと息を吐き、頭を下げた。
「……そのお言葉だけで、十分です」
キリエ様は小さく微笑んだ。
それは貴族の微笑ではなく、決意を伴った、人の顔だった。
銀色の山々の下で、魔術を肯定する少女と、剣を握る魔術の騎士は、まだ名もない未来を、確かに共有していた。




