第09話:専任業務の固定化と退職勧奨の不在
組織において、最も逃亡が困難なポジションとはどこか。それは責任を負わされるだけのスケープゴートではない。彼らは使い捨てられるだけマシだ。最悪の場合は解雇という形で解放される可能性があるからだ。
真に恐ろしいのは、システムの中枢に組み込まれ、代替不可能な部品として固定されてしまうことだ。その部品が抜け落ちれば、システム全体が停止し、多くの損害が出る。
周囲からの期待、依存、そしてあなたがいなければ困るという甘美で粘着質な圧力。それらが幾重にも絡み合い、物理的な鎖よりも強固に、一人の人間をその椅子に縛り付ける。
俺は今、その特等席に、自分の意志とは無関係に座らされようとしていた。
ハンスの一件から二ヶ月、祭りの縮小決定から一ヶ月が過ぎた頃。俺は、商業組合と騎士団が共同で設立した、都市運営調整局という新しい役所の執務室にいた。部屋は広かった。
以前の組合の執務室よりもさらに広く、窓からは都市のメインストリートが一望できる。調度品は最高級だ。黒檀の机、疲れを感じさせない革張りの椅子、壁一面の書架には都市のあらゆる統計データが網羅されている。
専属の秘書官として、あのロイスが配属された。さらに、騎士団からは連絡将校として若い騎士が常駐し、俺の護衛と伝令を兼ねている。至れり尽くせりの環境だ。これ以上の好待遇はないだろう。
だが、俺の心は鉛のように重かった。目の前の机には、一枚の羊皮紙が置かれている。都市運営統括官任命書。それが、俺に提示された新しい肩書きだった。特別顧問という曖昧な立場ではない。正式な官職だ。
給与はさらに倍増し、貴族に準ずる特権が与えられる。しかし、それは同時に、俺がこの都市のシステムの一部として、名実ともに組み込まれることを意味していた。
「素晴らしいご提案だと思いませんか、工藤殿」
ソファーに座ったベルンシュタインが、満面の笑みで言った。その隣には、騎士団長であるガランドも座っている。以前のようなやつれた表情はなく、清潔な軍服に身を包み、精悍な顔つきをしている。
俺の英断によって魔物の脅威が去り、彼の胃痛の種が消えたからだ。
「組合と騎士団、そして市政庁。これらがバラバラに動くことで生じる非効率を、貴方が一元管理するのです。予算の配分、物資の流通、防衛計画の策定。全ての決裁権限を貴方に集中させる。これほど合理的な話はありません」
ベルンシュタインの言葉は、油を塗ったように滑らかだった。俺は手元の任命書を見つめたまま、低い声で言った。
「権限の集中は、リスクの集中でもあります。一人の人間に全てを委ねるのは、組織運営として健全ではない。私が判断を誤れば、都市全体が共倒れになる。それに、先日の祭りの件でも市民から不満の声が出ていると聞きますが」
「不満? ごく一部の感情的な意見ですよ」
ベルンシュタインは一笑に付した。
「大半の市民は理解しています。貴方の判断が、常に全体の利益を最大化していることを。現に、税収は増え、物資は潤沢だ。結果が出ている以上、雑音など気にする必要はありません」
「だからこそ、貴方なのです」
ガランドが身を乗り出した。
「貴方は誤らない。あの撤退戦でも、ハンスの薬草園の件でも、貴方は常に正解を選んできた。感情に流されず、私欲に走らず、数字と論理だけで最善手を打つ。貴方以上に、この席にふさわしい人間はいません」
ガランドの目は純粋だった。彼は本気でそう信じている。俺がハンスを殺したことも、未来の可能性を摘み取ったことも、彼の中では必要な犠牲として処理されている。
あるいは、そもそも犠牲だとすら認識していないのかもしれない。成功という結果が、全てのプロセスを正当化してしまったのだ。俺が作った前例が、彼らの思考を停止させ、俺という存在を神格化させている。
「……断る権利は?」
俺は尋ねた。ベルンシュタインは目を丸くし、そして大げさに肩をすくめた。
「もちろん、ありますとも。我々は自由都市の住人です。職業選択の自由は神聖な権利だ。貴方がこれを拒否し、ただの市民に戻りたいと言うのなら、誰も止めることはできません」
彼は嘘をついていない。本当に止めないだろう。だが、彼は続けてこう言った。
「ただし、貴方が断れば、この調整局の構想は白紙に戻ります。予算配分の権限は再び各部門に戻り、以前のような不毛な奪い合いが始まるでしょう。来期の防衛予算も、街道の維持費も、また一から議論し直しです。そうなれば、現在進行中の下水道拡張工事も、貧民街の再開発も、すべてストップすることになりますな」
脅しではない。単なる事実の提示だ。だが、それは俺にとって最強の脅迫だった。俺が抜ければ、システムは崩壊する。俺が作り上げた効率化の基盤は、俺という演算装置があって初めて機能するものだ。
俺がいなくなれば、彼らは再び迷走し、無駄な出費を重ね、結果として弱者が割を食うことになる。その結果、誰が死ぬのか。市民だ。俺が座ることを拒否したせいで、また誰かが寒さに震え、飢えに苦しむことになる。
ハンスのような犠牲者が、今度は数十人、数百人単位で出るかもしれない。それを見過ごせるか、と彼は問うているのだ。
「……卑怯な言い方ですね」
「事実を申し上げただけです。それに、市民も貴方を求めている。街を歩いてごらんなさい。誰もが貴方の名前を知り、貴方の判断を待ち望んでいる」
その通りだった。今や俺の名声は、都市中に知れ渡っていた。冷徹だが有能な行政官。魔物を退けた知恵者。無駄を許さぬ改革者。人々は俺を英雄視し、同時に、厄介事の全てを俺に丸投げしようとしていた。
道端で揉め事が起きれば、工藤様の判断を仰ごうという声が上がる。商人が値決めに迷えば、統括官の相場表はどうなっていると確認する。俺は、彼らにとっての生きた法律であり、動く聖書になっていた。
拒否権はある。だが、拒否する理由が用意されていない。金も、名誉も、やりがいも、全てが提示されている。そして何より、責任という人質が取られている。
俺がこの席を立てば、俺がこれまでに積み上げてきた正しさが崩れ去る。ハンスの死が無駄になる。俺は自分の作り上げたシステムを守るために、そのシステムの奴隷にならざるを得ないのだ。
俺は深いため息をつき、羽ペンを手に取った。インク壺に浸す。ペン先から滴る黒い雫が、俺の時間を、俺の人生を塗りつぶしていくように見えた。
「……分かりました。お受けします」
「賢明なご判断です!」
ベルンシュタインが手を叩き、ガランドが深く頷いた。俺は署名欄にサインをした。羊皮紙の上で、俺の名前が、俺という個人の所有物から、都市の公共物へと変わった瞬間だった。
それからの日々は、以前にも増して多忙を極めた。朝から晩まで、執務室には人が絶えなかった。各ギルドの代表、騎士団の小隊長、市政庁の役人。彼らは一様に、分厚い書類の束を抱え、俺の判断を仰ぎに来る。
「統括官、南区画の再開発計画ですが、立ち退き交渉が難航しています。例の基準で強制執行しますか?」
「工藤様、輸入関税の税率変更について、過去の前例踏襲でよろしいですか?」
「先生、避難訓練の実施時期ですが、生産性を考慮して休日は避けるべきでしょうか?」
次から次へと持ち込まれる案件。俺はその一つ一つに目を通し、即座に結論を出していく。迷っている暇はない。俺の手が止まれば、後ろに並んでいる行列が進まないからだ。
俺は高速で回転する歯車のように、思考し、決定し、処理し続けた。
ロイスは優秀な秘書官として、俺の手足となって動いた。彼は俺の過去の判断基準を完全にデータベース化しており、簡単な案件なら俺に見せる前に処理案を作成してくるようになった。
「先生の基準に照らせば、この案件は却下です」
「先生の優先順位では、こちらが先です」
彼の仕事は完璧だった。だが、その完璧さが、俺を追い詰めていく。俺の思考が、俺の手を離れて自動化されている。俺がここに座っていなくても、俺の亡霊がこの部屋を支配し続けるのではないか。
そんな錯覚すら覚える。
ある日の午後、ふと窓の外を見た。広場を行き交う人々が見えた。彼らは笑い、喋り、日々の営みを続けている。彼らの時間は流れている。だが、俺の時間だけが止まっている気がした。
この執務室という箱の中で、俺はひたすら正解を生産し続ける装置だ。季節が変わっても、俺のやることは変わらない。来る日も来る日も、天秤に何かを乗せ、どちらかを切り捨てる。その繰り返しだ。
俺は自由だ。休日に街へ出ることもできるし、高い酒を飲むこともできる。だが、どこへ行っても、俺を見る視線からは逃れられない。あの方が統括官だ。我々の生活を守ってくれている人だ。
その視線は、檻の格子のように俺を取り囲む。俺には、失敗する自由がない。弱音を吐く自由がない。そして、逃げ出す自由もない。
俺が倒れれば、誰がこの席に座るのか。ロイスか? いや、彼は優秀な模倣者だが、決断者ではない。彼に全権を委ねれば、マニュアル通りの対応しかできず、想定外の事態が起きた時にパニックになるだろう。
かつて俺が寝ている間に貧民街を封鎖したように、過激な行動に出る危険性がある。ベルンシュタインか? 彼は商売人だ。利益には聡いが、公共の福祉という観点が欠落している。弱者を躊躇なく切り捨てるだろう。
ガランドか? 彼は高潔だが、清濁併せ呑む度量がない。理想論に縛られて組織を硬直させるだろう。
結局、俺しかいないのだ。清廉潔白でもなく、冷酷無比でもなく、ただひたすらに合理的で、かつ小心者ゆえにリスクを過剰に恐れる俺。
この歪んだバランス感覚を持つ人間だけが、この歪んだ都市の均衡を保つことができる。それが分かっているから、俺は席を立てない。誰かが座らなければならない椅子だ。空席にしておけば、都市は混乱する。
適性のない者が座れば、都市は腐敗する。ならば、適性のある俺が、死ぬまで座り続けるしかない。それが、ハンスを殺してまで手に入れた安定に対する、俺の責任の取り方なのだ。
夕暮れ時。最後の面会者が帰り、執務室に静寂が戻った。俺は椅子に深く沈み込み、天井を見上げた。豪奢なシャンデリアが、冷たい光を放っている。かつて地下回廊で、俺が切り落とした魔石灯を思い出す。
あの時、俺は鎖を切った。だが今は、俺自身が見えない鎖で、この椅子に繋がれている。
ドアがノックされ、ロイスが入ってきた。
「先生、明日のスケジュールですが」
「……ああ、聞こう」
俺は体を起こした。疲労が肩にのしかかる。だが、表情には出さない。能面のような顔で、次の仕事に向き合う。
「明日は朝一番で、下水道拡張工事の入札会議です。その後、東地区の商人組合との会合。午後は……」
ロイスの声が、呪文のように響く。出口は見えない。このレールは、どこまで続いているのだろうか。あるいは、もう終点などなく、ただ永遠にこのループを回り続けるだけなのかもしれない。
俺は、机の上の書類の山を見た。その一番上に、ハンスの薬草園の跡地利用に関する計画書があった。物流倉庫建設予定地。承認印は、昨日の俺が押した。
俺の手で、ハンスの生きた証を完全にコンクリートの下に埋めたのだ。胸の痛みは、もう麻痺して感じない。ただ、乾いた風が吹き抜けるような空虚感だけがある。
この倉庫ができれば、都市の物流はさらに効率化され、多くの市民が恩恵を受けるだろう。誰もハンスのことなど思い出さなくなる。俺以外は。
「……先生? 聞いておられますか?」
「ああ、聞いている。午後は何だ?」
俺は答えた。声は驚くほど安定していた。俺は順応している。この異常な環境に、殺人者の椅子に、完璧に馴染んでしまっている。それが何よりも恐ろしかった。
俺はペンを手に取った。指にできたペンダコが、硬く盛り上がっている。剣を持たぬ戦士の勲章か。あるいは、囚人の烙印か。
夜の帳が下りる。都市の灯りが一つ、また一つと点灯していく。その無数の光の一つ一つに、俺の判断が関わっている。俺は街を見下ろした。美しい夜景だ。だが、それは俺を閉じ込める巨大な牢獄の灯りにも見えた。
俺は窓に手を当てた。冷たいガラスの感触。向こう側には行けない。俺はこちら側で、管理し、決断し、背負い続けるしかないのだ。誰かが座らなければならない、この孤独な玉座の上で。
俺は、自分がその誰かであることを、静かに受け入れていた。




