第08話:判例拘束性と思考停止の連鎖
組織を腐敗させる毒には二種類ある。
一つは、怠惰や汚職といった分かりやすい悪徳だ。これらは発見しやすく、外科手術のように切り取ることも可能だ。
だが、もう一つはもっと性質が悪い。無色透明で、無味無臭で、しかも一見すると「美徳」の顔をしているからだ。
それは、「前例踏襲」という名の猛毒だ。
かつて誰かが苦悩の末にひねり出した正解を、文脈も背景も切り捨てて、ただの型として使い回す。そこには思考がない。責任もない。あるのは「前にうまくいったから」という、思考停止した安直な正当化だけだ。
俺がこの都市に蒔いた合理性という種は、いつの間にかこの猛毒を含んだ果実を実らせ、組織の血管に深く根を張っていた。
薬草園の廃止とハンスの死から一ヶ月。季節は春の盛りを迎えようとしていた。俺の執務室には、今日も決裁を求める書類の山が築かれている。
だが、以前とは少し空気が違っていた。かつては、部下たちが恐る恐る案件を持ち込み、俺が頭を悩ませて結論を出すというプロセスがあった。そこには緊張感があり、議論があった。
しかし最近、ロイスをはじめとする部下たちの足取りは軽い。彼らは迷わない。悩まない。なぜなら、彼らの手には「工藤メソッド」という名の最強のカンニングペーパーがあるからだ。
「先生、北区画の道路拡張工事の件ですが」
ロイスが晴れやかな顔で書類を差し出した。
「立ち退きに応じない住民が三世帯おりました。以前なら交渉に時間をかけるところですが、今回は強制収用を決定しました」
俺は書類を受け取る手を止めた。強制収用。強烈な言葉だ。
この都市は自由都市を謳っている。私有財産の保護は原則だ。それを踏みにじる判断を、なぜ一介の事務官が涼しい顔で下せるのか。
「……待ちたまえ。強制収用の根拠は? 彼らの言い分は聞いたのか?」
「はい。先祖伝来の土地だから離れたくない、という感情的な理由でした。しかし、先生は以前おっしゃいましたよね。『個人の感傷より全体の利益を優先せよ』と。道路が拡張されれば物流効率が二割向上します。三世帯の感傷と、都市全体の利益。天秤にかければ答えは明白です」
ロイスは胸を張って言った。
彼は俺の言葉を引用した。一字一句、間違っていない。
だが、俺がその言葉を使ったのは、魔物の襲撃が迫っていた緊急時のことだ。平時の都市計画において、生存権を脅かすような強権発動を推奨した覚えはない。
「ロイス君、それは時と場合による。あの時は緊急避難だった。今は平時だ。時間をかけて説得する余地があるはずだ」
「ですが、時間をかければ工期が遅れます。工期の遅れはコスト増につながります。先生は『時間は金貨そのものである』ともおっしゃいました。無駄な時間をかけることは、市民の税金を溝に捨てるのと同じです。違いますか?」
反論できない。論理的には正しいからだ。
俺が過去に積み上げてきた「正しさ」が、今、俺自身の口を封じている。
俺は苦虫を噛み潰したような顔で、書類に視線を落とした。そこには、立ち退きを命じられた家族の名前が並んでいる。彼らがこれからどこへ行くのか、補償は十分なのか、その記述はあまりに薄い。
だが、ロイスの顔には「良い仕事をした」という達成感しか浮かんでいない。彼は悪意でやっているのではない。俺という成功例を模倣し、効率的な行政を行っているという自負があるのだ。
俺は震える手で承認印を押した。押さざるを得なかった。ここで否決すれば、俺は過去の自分自身を否定することになる。それは組織の指導者として致命的な一貫性の欠如とみなされる。
「ありがとうございます! では、即時執行させます!」
ロイスは嬉々として部屋を出て行った。
俺は深くため息をつき、椅子の背もたれに体を預けた。天井のシャンデリアが、冷ややかに俺を見下ろしている。
俺の言葉が、文脈を失って独り歩きしている。俺が苦渋の決断で切り捨てた「例外」が、ここでは「原則」として運用されている。
「迷ったら切れ」。そのシンプルな命令だけが、ウイルスのように増殖しているのだ。
午後、組合の定例会議が開かれた。議題は、夏の祭りの開催についてだった。例年、都市を挙げて行われる収穫祭だ。市民にとっては最大の娯楽であり、ガス抜きの場でもある。
だが、財務担当の男が手を挙げた。
「今年の収穫祭ですが、規模を半分に縮小すべきだと考えます」
会場がざわついた。祭りの縮小は、市民の不満に直結する。反対意見が出るかと思った。
だが、財務担当は自信満々に続けた。
「理由は明確です。昨今の物価上昇に伴い、装飾費や警備費が高騰しています。しかし、祭りを開催しても直接的な利益は出ません。酒場や宿屋は潤いますが、組合の金庫には税収としてわずかに入ってくるだけです。投資対効果が悪すぎます」
投資対効果。また、俺の好きな言葉だ。
「そこで、私は工藤先生の『薬草園事例』を参考にしました。利益を生まない事業は、伝統であっても見直すべきである。あの英断にならい、祭りという生産性の低い行事をスリム化し、浮いた予算を貯蓄に回すべきです」
薬草園事例。その単語が出た瞬間、俺の心臓が早鐘を打った。
ハンスの死が、事例として参照されている。あの一件は、俺の中では罪悪感の塊であり、二度と繰り返したくない悲劇だ。
だが、彼らにとっては違う。「無駄を省いて成功した輝かしい前例」なのだ。ハンスが死んだことなど、些細な注釈に過ぎない。重要なのは、予算が浮いたという結果だけだ。
「なるほど、一理あるな」
ベルンシュタインが頷いた。
「確かに、工藤殿の判断は常に正しかった。感情論で伝統を守るより、実利を取る。それがこの都市の方針だ。反対する者は?」
誰も手を挙げない。かつてなら「市民の楽しみを奪うな」と声を上げたであろう自警団長も、今は黙って頷いている。彼もまた、北の城壁補修で恩恵を受けた一人だ。
効率化の甘い蜜を吸った人間は、もう非効率な過去には戻れない。
誰も悪くない。誰も市民を苦しめようとは思っていない。
ただ、全員が「工藤ならこうするだろう」という仮想の人格を脳内に飼い、その指示に従っているだけだ。
俺は口を開きかけた。待て、と言おうとした。祭りは単なる収支決算ではない。市民の共同体意識を高め、社会の結束を強めるための重要な儀式だ。数字には表れない効果がある。薬草園とはわけが違う。
だが、言葉が出てこない。なぜなら、それを証明するデータがないからだ。
「結束」や「高揚感」といった曖昧な価値を、金貨の枚数と戦わせても勝てない。かつて俺自身が、そうやってハンスの訴えを切り捨てたように。
今、俺は自ら作り上げた「数字絶対主義」という法廷で、被告席に座らされている気分だった。
「……異議なし」
俺は絞り出すように言った。異議など挟めるはずがない。これは俺の教義そのものなのだから。
「決まりですね。では、縮小案で進めます」
会議は淡々と進み、次々と議案が処理されていく。
孤児院への寄付金の見直し。
街灯の点灯時間の短縮。
公共浴場の無料開放の廃止。
どれもこれも、「無駄」としてリストアップされ、切り捨てられていく。
そのすべての根拠欄に、「前例:薬草園」「前例:地下回廊」と記されている。
俺の過去の行動が、判例として彼らを縛り、彼らを動かしている。俺はただ座っているだけでいい。俺が発言しなくても、俺のコピーたちが勝手に冷酷な判断を下していく。
世界はどんどん効率的になっていく。無駄がなくなり、隙がなくなり、そして遊びも、潤いも、温度もなくなっていく。
会議の後、俺は一人で街へ出た。息が詰まりそうだった。春の風は暖かいはずなのに、肌に触れる空気は冬のように冷たかった。
広場では、大道芸人が芸を披露していた。だが、それを見る人々の目は以前よりも険しい。彼らもまた、余裕を失いつつあるのだ。公共サービスが削られ、祭りが縮小され、生活の端々に「効率化」のしわ寄せが来ている。
しかし、誰も声を上げて抗議はしない。なぜなら、都市は豊かになっているからだ。数字の上では。税収は増え、防衛力は上がり、物資は溢れている。
「全体としてはうまくいっている」。その大義名分が、個々の小さな不満を圧殺している。
路地裏を歩いていると、一人の老婆が座り込んでいるのを見かけた。彼女は小さな籠に花を入れて売っていた。しおれた野花だ。誰も見向きもしない。
以前の俺なら、通り過ぎていただろう。あるいは、同情で一本買ったかもしれない。
だが今の俺は、その老婆を見て、無意識に計算してしまった。
この場所の占有許可は取っているのか?
この花の売上に対する納税は?
彼女がここで商売をすることで、通行の妨げになり、物流効率が〇・一パーセント低下するのではないか?
ハッとして、俺は頭を振った。何を考えているんだ。俺の脳みそまで、あの執務室に侵食されている。道端の老婆一人を、排除すべきノイズとして認識してしまう。これは病気だ。「合理性」という名の精神病だ。
「……おい、婆さん」
俺は声をかけた。老婆が怯えたように顔を上げた。俺の服装を見て、役人だと悟ったのだろう。体を縮こまらせて、謝罪の言葉を口にしようとする。
「ここは商売禁止区域だ。すぐに立ち去れ」
俺の口から出たのは、そんな言葉だった。
花を買おうとしたはずだった。小銭を恵んでやろうと思ったはずだった。
なのに、反射的に出てきたのは、規則を守らせようとする管理者の言葉だった。俺の舌が、俺の意思を裏切って機能している。
「は、はい……申し訳ありません、お役人様……」
老婆は慌てて籠を抱え、逃げるように去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は立ち尽くした。俺は何をやっているんだ。俺は誰と戦っているんだ。
俺が守ろうとしている「都市」とは何だ?
数字か? 帳簿か? それとも、工藤という名誉か?
そこにはもう、生きた人間の顔がない。俺が守っているのは、巨大な自動機械のようなシステムであり、その燃料として人間がくべられているだけだ。
執務室に戻ると、ロイスが待っていた。
「先生、遅かったですね。次の案件ですが」
「……ロイス」
俺は遮った。
「今日の強制収用の件だが、やはり見直したい。代替地の用意や、補償金の上乗せを検討しろ」
ロイスはきょとんとした顔をした。
「え? ですが、もう執行命令は出ました。今さら撤回すれば、組合の権威に関わります。それに、コストが……」
「コストの話はいい!」
俺は思わず怒鳴っていた。
ロイスが驚いて肩をすくめる。
俺は深呼吸をして、声を抑えた。
「……コストよりも大事なものがある。住民の感情だ。恨みを買えば、将来的な統治コストになる。それを考慮しろと言っているんだ」
「はあ……なるほど。長期的なリスクヘッジということですね。感情もコストとして計算に入れると」
「そうだ。そういうことにしておけ」
ロイスは納得したようにメモを取った。
彼は理解していない。俺が人間としての情けで言った言葉を、彼はまた「長期的なコスト計算」というロジックに変換して飲み込んだ。彼の中では、全てが計算式なのだ。「情け」すらも変数の一つに過ぎない。
俺は無力感を覚えた。俺が何を言おうと、どう足掻こうと、このシステムは全てを「合理性」というコードに書き換えてしまう。俺の言葉は、もはや俺のものではない。
この巨大な計算機に入力されるデータの一部でしかないのだ。
窓の外では、夕闇が迫っていた。街の灯りが冷たく輝いている。どこかで誰かが泣いているかもしれない。どこかで誰かが、俺の作ったルールのせいで居場所を失っているかもしれない。だが、その声はここには届かない。
分厚い壁と、二重窓と、そして完璧な理論武装によって遮断されているからだ。
俺は机に向かい、次の書類を手に取った。そこには、また別の切り捨てられるべき「無駄」が記されている。俺はペンを握る。指先が冷たい。
まるで、ハンスの遺体に触れた時のような冷たさが、ペンを通じて全身に広がっていく気がした。
だが、俺は書かなければならない。前例を作った責任者として。この冷たい世界を設計した張本人として。
俺は、自分が生み出した怪物の胃袋の中で、消化されるのを待つだけの餌になり果てていた。




