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合理的な地獄  作者: 堺 保


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最終話:悪徳の遺産と継承される日常

 偉大なる悪党が死んで、一年が過ぎた。都市は、かつてない繁栄の絶頂にあった。春の陽光が降り注ぐ大通りは、行き交う馬車と市民の活気で溢れかえっている。

 市場には近隣諸国から輸入された珍しい果物が並び、広場では大道芸人が子供たちの歓声を浴びている。かつて魔物の脅威に怯え、飢餓に苦しみ、冬の寒さに凍えていた日々の記憶は、薄い霧の向こう側へと追いやられていた。


 市民たちは今の豊かさを当然の権利として享受し、その礎石となった男の名前を、忌まわしい過去の象徴として語り継いでいる。冷血漢。独裁者。血も涙もない計算機。工藤という名は、この都市において「必要悪」の同義語となっていた。


 市政庁の最上階にある会議室では、今日もまた、その死んだ独裁者の亡霊が召喚されていた。円卓を囲むのは、騎士団長のガランド、商業組合長のベルンシュタイン、そして議会の代表者たちだ。彼らの表情は渋い。議題は、都市拡張に伴う特別税の徴収についてだった。インフラの維持には金がかかる。だが、増税は市民の反発を招く。政治家として、誰も泥をかぶりたくはない。


「……財政局の試算では、やはり一割の増税が不可避です。ですが、今の支持率でこれを強行すれば、次の選挙は危うい」


 ベルンシュタインが脂汗を拭いながら言った。ガランドは腕を組み、深いため息をついた。


「だが、防壁の補修費は削れんぞ。北の魔物は減ったとはいえ、ゼロになったわけではない。安全を金で買うのは当然だろう」


「市民はそうは思いませんよ。彼らは、平和はタダで手に入る空気のようなものだと思っていますからね」


 議論は平行線をたどる。誰も決定打を打てない。責任を取りたくないからだ。重苦しい沈黙が流れた後、ガランドがおもむろに分厚い革表紙の冊子をテーブルに置いた。『長期都市運営計画書・付録C』。故・工藤統括官が遺した、通称「黒いマニュアル」だ。


「……工藤の遺言書を見てみよう。あいつなら、この状況をどう想定していたか」


 ガランドがページをめくる。慣れた手つきだ。彼らはこの一年、困ったことがあれば常にこの書物に頼ってきた。該当する項目を見つけ、ガランドが読み上げる。


「『都市経済が安定成長期に入った段階で、防衛費維持のための目的税を新設せよ。ただし、その施行は市民の不満が蓄積する前に行うこと。反発が予想される場合は、前統括官である工藤が決定した既定路線として公表し、現政権は遺憾ながらこれを執行するというポーズを取れ』……だとさ」


 会議室に、乾いた笑いが漏れた。完璧だ。工藤は、自分の死後、後継者たちが人気取りのために増税を躊躇することまで見越していた。そして、自分を悪役に仕立て上げることで、彼らに逃げ道を用意していたのだ。


「……あいつは、本当に性根の曲がった野郎だ。死んでまで俺たちを操り人形にしやがる」


 ガランドは悪態をつきながらも、その目には深い感謝の色があった。


「よし、この案で行こう。増税は『工藤の負の遺産』として処理する。我々は市民に同情しつつ、法的な拘束力により執行せざるを得ない、という筋書きだ」


「賛成です。それなら商会も納得させやすい」


 ベルンシュタインが即座に同意した。決定は下された。また一つ、工藤の悪名が増え、都市のシステムが正常に更新される。死体となった工藤は、今もなお、この都市の最も強力な防波堤として機能していた。


 会議が終わった後、書記官として記録を取っていたジーンは、執務室へと戻った。かつて工藤が座っていた部屋。今は主不在のまま保存されているその部屋に、一人の青年が待っていた。学術都市の制服を着た、鋭い眼光の若者。カインだ。彼はこの一年で、見違えるほど大人びていた。背は伸び、顔つきは精悍になり、その瞳にはかつての工藤を彷彿とさせる冷徹な理知の光が宿っている。飛び級で主席を取り、一時帰国した彼は、真っ先にここを訪れたのだ。


「お久しぶりです、ジーン書記官」


 カインは礼儀正しく、しかし隙のない動作で一礼した。


「お待ちしておりました、カイン様。……いいえ、次期行政官候補生と呼ぶべきでしょうか」


 ジーンは微笑み、カインをソファに促した。カインは座ることなく、主のいない執務机を見つめた。そこには、インクの染みた万年筆が一本、ガラスケースに入れて飾られている。


「……彼が死んだと聞いた時は、嘘だと思いました。あの男は、地獄の底からでも戻ってきて、書類仕事を続けるような人間だと思っていましたから」


 カインの声には、複雑な響きがあった。憎しみ。そして、目標を失った喪失感。彼は工藤に何かを教わったわけではない。ただ、工藤という理不尽な壁を超えることだけを目的に、研鑽を積んできたのだ。


「彼は死にました。ですが、彼の仕事は終わっていません。……これをご覧になりたいのでしょう?」


 ジーンは鍵のかかった引き出しを開け、一冊のファイルをカインに渡した。それは、会議室で使われたものとは別の、門外不出の極秘資料だ。『人的資源の長期運用に関する覚書』。そこには、工藤がなぜカインを選別し、学術都市へ送ったのか、その真意が記されていた。


 カインはファイルを受け取り、ページを開いた。そこには、教育者の温かい言葉など一つもなかった。あるのは、実験動物の観察日記のような、無機質な分析だけだった。


『対象:カイン。既存体制への強い反発心を確認。この感情エネルギーは、学習意欲の向上に極めて有効である』

『彼を学術都市という培養環境へ移送する。目的は、私の論理を打破しうる、新たな統治アルゴリズムの自己生成を促すことにある』

『私は現状維持のための最適解だ。だが、未来には私の論理を超える解が必要になる。私を殺したいと願う彼こそが、その解を導き出すための最強の演算装置となるだろう』


 カインの手が震えた。屈辱だった。彼は自分の意志で工藤を憎み、自分の意志で学問を修めたつもりだった。だが、それさえも工藤の掌の上だった。工藤はカインを育てたのではない。憎しみという燃料を投下し、カインというエンジンを最大出力で回させていただけなのだ。


「……ふざけるな」


 カインはファイルを閉じた。悔しさが、彼の瞳に涙となって滲む。


「僕は、あいつに教わってなんかない。あいつは僕を捨てただけだ。それなのに……まるで僕が強くなることすら、あいつの計画の一部だったみたいじゃないか」


「計画の一部ですよ」


 ジーンは静かに、しかし残酷な事実を告げた。


「閣下は、ご自身が『欠陥のあるシステム』であることを誰よりも理解していました。だからこそ、ご自身とは異なる原理で動く、新しいシステムを設計されたのです。貴方は、閣下が遺した最高傑作の『自動進化型プログラム』なのです」


「……誰がプログラムだ。僕は人間だ」


 カインは涙を拭い、ジーンを睨みつけた。その目には、工藤への反骨心が、以前よりも強く燃え上がっていた。


「いいでしょう。あいつが僕を計算の一部だと言うなら、その計算を狂わせてやる。あいつの想定の枠には収まらない、あいつが想像もしなかった未来を作ってやる。それが、僕の復讐だ」


 それは、工藤が望んだ「乗り越える知性」そのものの姿だった。カインは、工藤の意図に気づきながらも、あえてその土俵に上がり、工藤を叩き潰すことを選んだのだ。


 庁舎を出たカインは、熱を冷ますように街を歩いた。彼が向かったのは、繁華街の外れにある小さな雑貨店だった。店の前では、エプロン姿の青年が、近所の子供たちに飴を配っていた。ロイスだ。かつて工藤の秘書官を務め、激務に耐え切れず壊れてしまった男。今は療養を終え、この店を営んでいる。彼の顔色は良く、その表情は春の日差しのように穏やかだった。


「やあ、カイン君。久しぶりだね」


 ロイスはカインに気づくと、人懐っこい笑顔で手を振った。


「お久しぶりです、ロイスさん。お元気そうで」


「ああ、おかげさまでね。ここは時間の流れがゆっくりで、僕には合っているみたいだ」


 ロイスは店先のベンチにカインを招いた。二人は並んで座り、行き交う人々を眺めた。


「……あの男の計算書、見ましたよ」


 カインが吐き捨てるように言った。


「あの男は、貴方のことも『損耗した部品』として処理していました。貴方は、怒らないんですか。あんな人間に使い潰されて」


「怒ってないよ」


 ロイスは即答した。その声には、カインが知らない温かさがあった。


「先生は、不器用な人だったからね。他人を部品としか呼べなかったんだよ。でも僕は知っている。先生が、あの橋を落とした夜、一人で洗面所にこもって吐いていたことを。ハンスさんが死んだ日、誰もいない執務室で、何時間も呆然と窓の外を見ていたことを」


 カインは黙って聞いていた。それは、工藤の「計算書」には決して記されていない、エラーログのような真実だった。


「先生は、誰よりも人間らしかったんだと思う。ただ、その人間らしさが邪魔になるくらい、背負った責任が大きすぎたんだ。だから、心を殺して、機械のふりをし続けるしかなかったんだよ」


 ロイスは遠くの空を見上げた。


「僕はね、先生が作ってくれたこの平和な街で、のんびり生きている。それが、あの人が一番見たかった『計算結果』なんじゃないかな」


 カインは、ロイスの言葉を噛み締めた。工藤という男は、二つの遺産を残した。一つは、カインのような「彼を否定し、超えていくための冷徹な知性」。もう一つは、ロイスのような「彼が守りたかった、温かい人間性」。この両輪が揃って初めて、都市は工藤という呪縛から解き放たれ、未来へと進めるのかもしれない。


「……僕には、彼の心は理解できません。したくもありません」


 カインは立ち上がった。


「でも、彼が守ろうとしたものが何なのかは、少しだけ分かった気がします」


 夕暮れ時。街外れの共同墓地に、四人の男が集まっていた。ガランド、ベルンシュタイン、ジーン、そしてカイン。彼らが囲んでいるのは、墓地の一番奥にある、小さな墓石だ。そこには『工藤』という二文字だけが刻まれている。役職も、功績も、何も書かれていない。ただの石塊だ。誰かが投げつけたのだろう、泥の跡が残っている。ガランドが無言でハンカチを取り出し、その泥を丁寧に拭き取った。


「……よお、相棒。今日もいい天気だったぞ」


 ガランドは墓石に語りかけ、高級な赤ワインを供えた。


「街は相変わらずだ。お前が作った道路は快適で、お前が建てた倉庫は満杯だ。そして、お前は相変わらず嫌われ者だ。今日も議会で、お前の悪口を散々言ってきたよ」


 ガランドは寂しげに笑った。


「感謝なんてされると思うなよ。お前は、俺たちのサンドバッグだ。これからもずっとな。……だから、安心して眠れ」


 それは、彼なりの愛の言葉だった。工藤が悪者であり続ける限り、この都市の平和は守られる。それを誰よりも理解し、共犯者として生きる覚悟を決めた男の言葉だ。


 ベルンシュタインも手を合わせた。


「君の計算通り、今期の決算も黒字だよ。君がいなくて寂しいが、君が残した数字のおかげで、私は毎晩枕を高くして眠れている。……あちらの世界では、少しは美味いものでも食べてくれたまえ」


 ジーンは、何も言わずに花を置いた。季節外れの、青い花だ。かつて工藤が、最期に見たいと願った空の色と同じ花。彼は深く一礼し、しばらく頭を上げなかった。


 最後に、カインが一歩前に出た。彼は墓石を見下ろし、誓うように言った。


「僕は、貴方に感謝などしません。貴方は僕を利用し、僕の人生を勝手に設計した。最低の管理者だ」


 カインの声は冷たく、しかし強い意志に満ちていた。


「だからこそ、僕は証明してみせる。僕という人間は、貴方の計算式には収まらないということを。貴方が作ったマニュアルなんて、すぐに時代遅れの紙切れにしてやる。貴方が想像もしなかった方法で、この都市をもっとマシな場所にしてやる」


 カインは拳を握りしめた。


「見ていろ、工藤。僕はお前の最高傑作なんかじゃない。お前を過去にする、新しい未来だ」


 風が吹き抜けた。墓地の木々がざわめき、まるで工藤が「やってみろ」と笑っているような音がした。四人は、それぞれの想いを胸に、墓地を後にした。彼らの背中は、一年前よりもずっと強く、逞しく見えた。工藤という共通の「壁」が、彼らを結びつけ、未来へと歩ませているのだ。


 夜が訪れた。丘の上から見下ろす都市は、無数の光に包まれていた。家の窓から漏れる暖かな灯り。街灯の列。夜空の星々よりも明るく、力強い地上の銀河。その光の一つ一つに、生活があり、人生があり、明日への希望がある。レオンが命を懸けて守った光。ハンスが夢見た光。そして、工藤がその身を燃料として燃え上がらせた光。


 執務室に戻ったジーンは、窓辺に立ち、その光景を眺めていた。彼は知っている。この美しい夜景こそが、工藤という男が残した、本当の墓標なのだと。彼は銅像になることも、教科書に載ることも望まなかった。ただ、この止まらない日常が続くことだけを願った。その願いは、今、ここに結実している。


 ジーンは机に戻り、工藤の万年筆を手に取った。インクはもう、空っぽだ。彼はそれを引き出しにしまい、静かに鍵をかけた。一つの時代が終わり、新しい時代が始まる。だが、その土台には、いつまでも消えない黒いインクの跡が残っているだろう。


「……業務終了」


 ジーンは部屋の明かりを消した。暗闇の中で、彼だけが知る真実を胸に、静かに呟いた。


「おやすみなさい、工藤様。……良い夢を」


 ドアが閉まる音が響く。その音は、物語の終わりを告げるピリオドのように、静寂な夜に溶けていった。都市は眠らない。かつて一人の男が愛し、守り抜いたそのシステムは、明日もまた、正確に、冷徹に、そして力強く、動き続けるだろう。永遠に。


(完)

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

読後に感じたことが肯定でも否定でも、作者としては嬉しいです。

気が向いたら、評価や一言感想を残していただけると幸いです。

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