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合理的な地獄  作者: 堺 保


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20/21

第20話:最終承認:業務完了報告

 終わりは、唐突に訪れるものではない。それは、長く複雑な計算式の最後に、イコール記号が書き込まれ、たった一つのシンプルな解が導き出される瞬間に似ていた。俺の体という演算装置は、その解を弾き出すために、最後の熱量を放出しようとしていた。


 深い闇の底から、意識が浮上する。目を開けると、そこにはぼんやりとした灰色の輪郭があった。天井だ。見慣れた執務室の天井。だが、いつもよりずっと遠く、霞んで見える。


 体を動かそうとした。動かない。指先一つ、瞼一つ動かすのに、巨石を持ち上げるような意思の力が必要だった。痛みはなかった。医師が投与してくれた鎮痛剤のおかげか、あるいは痛覚神経さえも機能を停止したのか。ただ、圧倒的な重さと、冷たさがそこにあった。


「……統括官」


 耳元で、静かな声がした。ジーンだ。俺は視線を巡らせようとしたが、首が回らない。気配で分かる。彼は俺の枕元に立ち、俺の顔を覗き込んでいる。


「……時間、か」


 俺の声は、枯れ葉が擦れるような音にしかならなかった。喉が渇いている。だが、水を飲みたいとは思わなかった。今、俺が欲しているのは水ではない。確証だ。俺が命を削って組み上げたシステムが、俺の死後も正常に稼働するという確証だけが欲しかった。


「……引継ぎは……どうなった」


 俺は問いかけた。言葉が途切れ途切れになる。不安があった。俺の書いたマニュアルに不備はないか。ガランドたちは内容を理解したか。移行プロセスでエラーは起きていないか。もし失敗すれば、俺のこれまでの犠牲はすべて無駄になる。ハンスの死も、レオンの死も、すべて徒労に終わる。それだけは避けなければならない。


 ジーンが、俺の手を握った。彼の手は温かかった。そして、力強く、確信に満ちた声で答えた。


「完璧です、閣下」


 その言葉は、俺の鼓膜を震わせ、脳の芯にまで届いた。


「貴方が作成された移行計画書に基づき、全権限の分割と譲渡プロセスは滞りなく進行しています。ガランド様、ベルンシュタイン様、および議会代表への説明も完了し、彼らは貴方の指示を完全に受諾しました。エラー報告は一件もありません。全て、貴方のシナリオ通りです」


 嘘ではない。俺には分かる。ジーンの声には、一切の迷いも、装飾もなかった。彼はただ、事実を述べている。俺が作り上げたマニュアルが完璧であり、それがいかに美しく機能しているかという事実を、誇らしげに報告しているのだ。


「……そうか」


 俺は息を吐いた。張り詰めていた糸が、ふわりと緩むのを感じた。成功したのだ。俺は、自分自身を処分し、都市を次代へ繋ぐという最後のプロジェクトを完遂したのだ。


 安心感が、温かい波となって胸に広がった。それは、かつて感じたどんな達成感よりも静かで、深いものだった。


「……ジーン。お前には、苦労をかけたな」


「いいえ。貴方の仕事ぶりを拝見できたことは、私の誇りです。これほど無駄がなく、これほど献身的な統治を、私は他に知りません」


 ジーンは敬意を込めて言った。献身。そうか。俺のやってきたことは、他人から見れば献身と映るのか。


 俺自身は、ただ必死に計算し、最適解を選び続けてきただけのつもりだったが。だが、最後にそう言われるのは、悪くない気分だった。


 その時、ドアが乱暴に開く音が聞こえた。ドタドタという荒い足音が近づいてくる。この足音は知っている。無遠慮で、力強くて、どこか寂しがり屋な足音だ。


「工藤!」


 叫び声と共に、俺の視界に大きな影が飛び込んできた。ガランドだ。彼の顔はくしゃくしゃに歪んでいた。髭は伸び放題で、目は真っ赤に充血している。酷い顔だ。騎士団長の威厳など欠片もない。


「おい、工藤! しっかりしろ! 目を開けろ!」


 ガランドが俺の肩を掴んだ。強い力だ。痛いほどだ。その痛みさえ、今は生々しく、懐かしかった。


 俺は薄く目を開け、彼の顔を見上げた。色は見えない。白と黒の顔だ。だが、彼の頬を伝う雫が、光を反射して輝いているのは見えた。


「……うるさいぞ、団長。……ここは、病室だ」


「うるさいのが俺の仕事だ! 馬鹿野郎、なんで……なんでここまで黙ってやがった! 死ぬまで働く奴があるか!」


 ガランドは俺の手を両手で包み込んだ。熱い。火傷しそうなほどの体温だ。


「……熱いな。……また、酒でも飲んだか」


「ああ、飲んださ! 飲まなきゃやってられねえよ! お前が……お前が全部一人で背負って、勝手に消えようとするからだ!」


 ガランドは子供のように泣きじゃくった。彼は知ったのだ。ジーンから渡された引継ぎ書を読み、俺がすべての罪を被って死のうとしていることを。


 ハンスの件も、橋の件も、レオンの件も。俺が悪者になることで、彼らが綺麗な手で未来を作れるように仕組んだことを。


「卑怯だぞ、お前は! 自分だけ泥をかぶって、俺たちを安全地帯に逃がして……それで俺たちが喜ぶとでも思ったのか! 俺は……俺は、お前と一緒に泥をかぶりたかったんだ!」


 ガランドの言葉が、胸に突き刺さった。一緒に泥をかぶる。そうか。彼はそれを望んでいたのか。


 俺は彼を、汚したくなかった。彼は光の中にいるべき人間だ。正義を語り、市民に希望を与える象徴だ。闇の中を這いずり回るのは、俺一人で十分だった。


 それは俺のエゴだったかもしれない。だが、後悔はなかった。彼がこうして、俺のために泣いてくれている。それだけで、俺の孤独は報われた気がした。


「……ガランド。泣くな」


 俺は声を絞り出した。


「お前には、仕事があるだろう」


「……仕事なんて知るか! 友人が死にそうな時に、仕事の話なんかするな!」


「……北の砦だ」


 俺は彼の言葉を遮り、命令した。これは、統括官としての最後の業務命令だ。


「魔物の動きが、活発化している。……今の防衛線では、薄い。……お前が、直接指揮を執れ」


 ガランドは息を呑んだ。死の淵にあってもなお、俺の口から出る言葉が都市の安全についてであることに、衝撃を受けたようだった。


「……お前、本当に……どこまで……」


「……できるな? 騎士団長」


 俺は彼を見据えた。視界はぼやけているが、意志だけは込めた。


 ガランドは、震える唇を噛み締め、そして大きく頷いた。彼は涙を袖で乱暴に拭い、背筋を伸ばした。


「……ああ。任せろ」


 彼の声が変わった。泣き虫の声から、頼れる武人の声へ。


「北の砦は、このガランドが鉄壁に変えてみせる。魔物一匹たりとも、お前が守ったこの街には入れさせん。……約束する」


「……よし」


 俺は微かに頷いた。これでいい。彼は立ち直る。俺が死んでも、彼は俺の意志を継いで、この都市を守り抜くだろう。憂いはなくなった。


 俺は視線をジーンに向けた。彼の手には、一枚の書類があった。『最終業務報告書』。これに署名することで、俺の統括官としての権限は正式に終了し、全ての権限が後継機関へと委譲される。最後の儀式だ。


「……ペンを」


 俺は言った。ジーンが万年筆とバインダーを差し出した。俺は右手を持ち上げようとした。だが、上がらない。指が震え、ペンの重さを支えきれない。


 情けない話だ。何万回と署名してきたこの手が、最後の一回に限って動かないとは。


「……くそ……書け、ない……」


 焦りが滲んだ。ここで書かなければ、手続きが完了しない。俺の計画が、最後の最後で画竜点睛を欠くことになる。


「私が支えます」


 ジーンが、俺の手を包み込んだ。彼の手が、俺の冷え切った指に力を与える。ガランドもまた、反対側からバインダーを支えてくれた。


 二人の体温が、俺の手に伝わってくる。一人ではない。俺はずっと一人で戦ってきたつもりだったが、最後はこうして、彼らに支えられている。


 俺は歯を食いしばり、ペン先に全神経を集中させた。インクが紙に触れる。黒い点が打たれる。線を引く。文字を綴る。


『工』『藤』


 歪な文字だった。子供の落書きのような、震えた線だった。だが、それは確かに俺の名前だった。この世界で、俺が生きた証だった。


 ペンを置いた瞬間、体から重力が消えた気がした。終わった。全てが、終わった。


「……完了、だ」


 俺は呟いた。視界が急速に狭まっていく。白い光が、中心に向かって収束していく。音も遠ざかる。


 ガランドが何かを叫んでいるのが聞こえるが、意味は分からない。ただ、その声の響きが、心地よい子守唄のように感じられた。


 苦しみはなかった。恐怖もなかった。あるのは、長い長い残業を終えて、ようやく家に帰れる時のような、深い安息感だけだった。


 眠い。泥のように眠い。もう、起きなくていいのだ。もう、明日までに処理すべき書類はない。もう、誰の命も天秤にかけなくていい。


 俺の役目は終わった。


 俺は目を閉じた。瞼の裏に、色が戻ってくるような気がした。あの日の青空。地下回廊を抜けた先に広がっていた、どこまでも高い、青い空。


 ああ、そうだ。世界は、こんなにも綺麗だったんだ。


 俺の意識は、その青色の中に溶けていった。思考が途切れる。心臓が最後の鼓動を打ち、静かに止まる。


 工藤というシステムは、ここにその全機能を停止し、一人の人間としての眠りについた。


 部屋に、静寂が訪れた。窓の外からは、冬の風の音だけが聞こえていた。


 ガランドは、動かなくなった友の手を握りしめたまま、肩を震わせていた。彼はもう叫ばなかった。ただ、溢れ出る涙を止めることなく、友の安らかな寝顔を見つめていた。


 その顔は、憑き物が落ちたように穏やかで、まるで少年の頃に戻ったかのようだった。


 ジーンは、工藤の手から滑り落ちた万年筆を拾い上げ、胸ポケットに収めた。そして、工藤の手首に指を当て、脈がないことを確認した。


 彼は懐中時計を取り出し、時間を確認した。その手は微かに震えていたが、動作は正確だった。


「……十二月十日、午前四時二十分」


 ジーンは静かに告げた。それは事務的な報告ではなかった。偉大なる主への、最後の奉仕だった。


「統括官、工藤様。ご逝去されました」


 ジーンは帽子を取り、深く、長く頭を下げた。その背中は、最大限の敬意と、そして深い喪失感に満ちていた。


「お見事でした、閣下。貴方の作られたこの都市は、今日も動いています」


 ジーンは顔を上げ、工藤の顔を見た。涙が一筋、頬を伝った。


「これからは、我々が動かします。ですから……どうか、ゆっくりお休みください」


 ガランドが、工藤の手に自分の額を押し当てた。嗚咽が漏れた。男たちの祈りが、冷たい病室を満たしていた。


 窓の外では、夜明けが近づいていた。東の空が白み始め、街に光が戻ってくる。


 市場の準備をする商人の声。通りを掃除する音。教会の鐘の音。


 都市は目覚める。その中心にあった心臓が止まったことなど知らぬように、巨大な生命体としての活動を始める。


 それは残酷なことかもしれない。だが、それこそが工藤が望み、命を懸けて作り上げた「止まらない日常」だった。


 朝日が差し込み、工藤の頬を照らした。その光の中で、彼はただ静かに眠り続けていた。


 永遠に。

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