第19話:損益分岐点と耐用年数の超過
固定資産には、必ず耐用年数というものが設定されている。どんなに高性能な機械であっても、永遠に稼働し続けることはできない。
摩耗し、疲弊し、いつかは修理コストが稼働利益を上回る分岐点が訪れる。その時、経営者が下すべき判断は一つしかない。
廃棄と更新だ。感情を挟む余地はない。壊れた部品に愛着を持って使い続ければ、システム全体が連鎖的に崩壊するリスクを招くからだ。
俺は常にそうやって、人や物を切り捨ててきた。だからこそ、自分自身がその「壊れた部品」になった時も、俺は驚くほど冷静だった。
冬の深夜。執務室は冷え切っていたが、俺は寒さを感じなかった。すでに触覚の大部分も麻痺しているのだろう。
指先の感覚だけが、ペンの感触を辛うじて伝えている。俺は、来年度の税制改革案を推敲していた。
視界は完全にモノクロームだ。白い紙の上に、黒い文字が並ぶ。そのコントラストだけが、俺の世界の全てだ。
「……ゲホッ」
突然、咳が出た。肺の奥から、熱い塊がせり上がってくる感覚。俺は反射的に口元を手で覆った。
激しい咳込みが続き、喉が焼けるように痛む。ようやく治まり、俺は手を見た。手のひらが、真っ黒に染まっていた。
「……チッ。インク漏れか」
俺は舌打ちをした。万年筆のインクカートリッジが破裂したのかと思った。書類を汚してしまったかもしれない。
書き直しとなれば、また数時間のロスだ。俺はハンカチで手を拭おうとした。
だが、拭いても拭いても、黒い液体は滲み出してくる。いや、手から出ているのではない。口から出ているのだ。
「統括官」
いつの間にか、ジーンがそばに立っていた。彼は俺の手と、口元を見て、静かに言った。
「それはインクではありません。血です」
「……血?」
俺は自分の手を見返した。この黒い液体が、血だというのか。そうか。俺の目には赤色が黒に見えるのだった。
俺は喀血したのだ。
「……そうか。なら、書類は無事か?」
俺が最初に気にしたのは、自分の体ではなく、机の上の税制改革案だった。幸い、飛沫は床に散っただけで、書類は無事だった。
「書類は無事ですが、貴方が無事ではありません。直ちに医師を呼びます」
「待て。あと二章で書き終わる。それを片付けてからだ」
「却下します。これは緊急事態です」
ジーンにしては珍しく、俺の命令に逆らった。彼は強引に俺の腕を取り、医務室へと連行した。
俺には抵抗する力も残っていなかった。立ち上がろうとした瞬間、視界がぐらりと揺れ、意識が飛びそうになったからだ。
医務室のベッドで、俺は医師の診察を受けた。聴診器を当てる医師の顔は、苦渋に満ちていた(と推測される。俺には灰色の濃淡しか見えないが)。
彼は長い時間をかけて診察し、最後に重い口調で告げた。
「……統括官。率直に申し上げます」
「結論から言え。余命は?」
「……持って数日。長くて一週間です」
医師は短く宣告した。
「極度の栄養失調、過労、睡眠不足による多臓器不全です。特に肺と肝臓が限界を超えています。正直、今生きているのが不思議なくらいです。魔力による身体強化も、もう効きません。生命力の器が、底に穴が開いたバケツのようになっています」
「修理は可能か?」
「不可能です。今の医学では、これほどボロボロになった肉体を再生させる術はありません。できるのは、痛み止めの投与で苦痛を和らげることだけです」
医師は目を伏せた。俺は天井を見上げた。数日。それが、俺に残された「稼働可能時間」だ。
ショックはなかった。むしろ、計算が立ったことに安堵していた。終わりが見えないマラソンは地獄だが、ゴールが見えればペース配分ができる。
「分かった。痛み止めをくれ。意識が混濁しないギリギリの量で頼む」
「……入院して、安生になさるべきです。少しでも長く生きるために」
「ベッドの上で数週間生き延びて、何になる? 俺には仕上げなければならない仕事がある」
俺は上着を羽織り、ベッドから降りた。足がふらつく。だが、歩ける。まだ動く。
この体が完全に停止するまで、俺は統括官だ。
執務室に戻った俺は、ジーンに命じた。
「ジーン。通常の業務は全て副官たちに回せ。重要案件の決裁権限も、一時的に各局長へ委譲する」
「……統括官は、何をされるおつもりですか」
「引継ぎ書の作成だ。俺がいなくなった後、この都市がシステムエラーを起こさないためのマニュアルを作る」
俺は新しい羊皮紙を広げた。表題を書く。
『統括官死亡後の業務移行計画書、および責任の所在に関する最終報告』。
俺が死ねば、都市は混乱するだろう。俺に全権が集中しすぎているからだ。
俺がいなくなれば、誰が決定を下すのか。誰が責任を取るのか。権力闘争が起き、派閥争いが始まり、せっかく積み上げた効率的なシステムが瓦解する恐れがある。
それを防ぐためには、俺の死に方をデザインする必要がある。
俺はペンを走らせた。まず、権限の分割。軍事はガランド。財政はベルンシュタイン。内政は議会。
三権分立の体制に戻す。だが、ただ戻すだけでは、彼らは過去の俺の「悪行」を引きずることになる。
ハンスの件、レオンの件、橋の爆破。それらの負の遺産を、新体制が背負ったままでは、市民の不信感は拭えない。
だから、俺は書く。全ての責任は、工藤個人にあると。
『橋の爆破は、騎士団の反対を押し切った工藤の独断である』
『薬草園の閉鎖は、議会の承認を得ていない工藤の専横である』
『レオン少年の死は、工藤による過度な精神的圧力の結果である』
嘘ではない。事実だ。だが、それを公式文書として残し、俺の死後、全ての罪を「死んだ独裁者」に被せることで、生き残った者たちは「被害者」になれる。
「我々は工藤に脅されていたのだ」と言い訳ができる。そうすれば、彼らはクリーンな状態で、新しい政治を始められる。
俺は、自分自身を産業廃棄物として処理するための書類を作成し続けた。俺という毒物を、俺の死体と一緒に埋葬する。
そうすれば、都市は清浄化される。これこそが、俺ができる最後の、そして最大の「効率化」だ。
「……統括官。そこまでして、彼らを守るのですか」
ジーンが、背後からポツリと言った。彼の声には、珍しく感情の色が混じっていた。戸惑いだ。
「守る? 違うな。これは在庫処分だ」
俺は手を止めずに答えた。
「俺という負債を帳簿から消し、バランスシートを健全化する。それだけの話だ。
彼らが俺を憎んでくれればくれるほど、新体制の求心力は高まる。憎悪は、政治的な資源になるんだよ」
「……貴方は、本当に人間を部品としか見ていないのですね。自分自身も含めて」
「部品だよ。役割を終えれば交換される。それが健全な組織だ」
咳が出た。また黒い血が紙に散る。俺は構わず、その上から文字を書いた。血で汚れた書類。それが、俺の遺言にふさわしい。
夜が明けた。俺は一睡もせずに書き続けた。痛み止めが切れてきたのか、全身が軋むように痛む。
内臓が腐り落ちていくような感覚。だが、俺の意識は冴え渡っていた。死が近づくにつれて、脳内のノイズが完全に消え失せ、純粋な論理だけが結晶化していくようだ。
書き上げたマニュアルは、分厚い冊子になった。ここには、今後十年間の都市計画の指針、想定されるリスクへの対処法、そして俺のすべての罪の告白が記されている。
これを読めば、猿でも統治ができるとは言わないが、少なくともガランドやベルンシュタインなら、致命的なミスは犯さないだろう。
「ジーン。これを保管しておけ。私が死んだら、直ちに公開しろ」
俺は冊子をジーンに渡した。彼は受け取り、深く一礼した。
「承知いたしました。……完璧な、幕引き計画です」
「ああ。これで俺の仕事は終わった」
俺は椅子に深くもたれかかった。どっと疲れが出た。指一本動かせないほどの脱力感。
俺の体という機械が、強制シャットダウンを要求している。
「……ジーン。一つだけ、私的な質問をしてもいいか」
俺は天井を見上げたまま尋ねた。
「はい。何なりと」
「今の空は、どんな色をしている?」
俺の目には、窓の外はただの白い光と黒い影にしか見えない。だが、記憶の中には、かつて見た色の断片が残っているはずだ。
「……快晴です、統括官。澄み渡るような、鮮やかな青色です。雲一つありません」
ジーンが静かに答えた。
「青か。……そうか。今日はいい天気なんだな」
俺は目を閉じた。瞼の裏に、青色を思い浮かべようとした。だが、浮かんでくるのは、あの地下回廊の暗闇と、羊皮紙の黄ばんだ色、そして黒いインクの色だけだった。
俺はもう、青空の色さえ忘れてしまったらしい。それでも構わないと思った。
俺が色を失った代償として、この都市の空が青く澄んでいるなら、それは等価交換だ。
いや、俺のような薄汚れた魂一つで、数万人の空が守れるなら、それは大幅な黒字だ。
「……少し、眠る。二時間後に起こせ」
「……統括官。もう、起きなくていいのですよ」
ジーンの声が、遠く聞こえた。俺は笑おうとしたが、頬が動かなかった。
起きなくていい? 馬鹿を言うな。俺はまだ死んでいない。まだ、書類の確認が残っている。まだ、サインをしなければならない。
俺の意識は、深い泥の中に沈んでいった。そこは、黒一色の世界だった。音もなく、光もなく、痛みもない。
ただ、数字だけが静かに明滅している。ここが、俺の帰る場所だ。俺は安心して、その闇に身を委ねた。
損益分岐点は超えた。俺というプロジェクトは、成功裏に終了した。あとは、償却処理を待つだけだ。
俺は、深い、深い眠りに落ちていった。




