第18話:感覚情報の遮断と二値化する世界観
効率化の最終段階とは、情報の選別である。膨大なデータの中から、意思決定に必要な信号だけを抽出し、それ以外のノイズを遮断する。
たとえば、信号機において重要なのは「止まれ」か「進め」かという命令だけであり、その赤色がどれほど美しい茜色であるかとか、青色が夏の空のような爽快さを持っているかといった情報は、運転手にとっては無意味な夾雑物でしかない。
俺の脳は、どうやらその選別作業を、視覚情報という物理的なレベルで実行し始めたようだった。
冬の始まり。執務室の窓からは、鉛色の空から白い雪が舞い落ちるのが見えた。俺はデスクに向かい、いつものように書類の山と格闘していた。
手元にあるのは、都市防衛計画の修正案だ。北方の魔物の動きが活発化しているという報告を受け、警戒レベルを引き上げるための承認書類だ。
重要度を示すラベルには、鮮やかな赤インクが使われているはずだった。
「ジーン」
俺は顔を上げずに秘書官を呼んだ。
「はい、統括官」
ジーンが即座に応答する。
「書類の書式が変わったのか? 重要案件のラベルが黒になっているぞ」
「いえ、変更はありません。規定通り、特級警戒色は赤を使用しています」
ジーンの声に迷いはなかった。俺は眉をひそめ、もう一度手元の書類を凝視した。ラベルの文字を見る。『特級警戒』
その文字は、俺の目には濃い灰色、あるいは黒にしか見えなかった。インクが劣化しているのか? いや、昨日は普通に見えていたはずだ。
俺は引き出しから、自分の万年筆を取り出した。赤インクのカートリッジが入っているはずだ。白い紙に線を引いてみる。現れたのは、黒い線だった。
俺は青インクのペンを取り出し、横に並べて線を引いた。濃い灰色の線が現れた。黒、濃い灰色、薄い灰色。俺の目の前には、その三色のグラデーションしか存在しなかった。
「……そうか」
俺は短く呟き、ペンを置いた。理解した。俺の目は、色彩を失ったのだ。味覚を失った時と同じだ。俺というシステムが、統治に不要な機能を自律的にカットしたのだ。
赤も青も黄色も、美的感覚を刺激するだけのノイズだ。数字の増減や、敵味方の識別には、明度さえ分かれば事足りる。俺の脳は、世界をグレースケールに変換することで、処理速度を上げようとしているのだ。
「統括官? いかがなさいましたか」
ジーンが不審そうに尋ねてきた。
「いや、なんでもない。照明の加減だろう」
俺は平然と嘘をついた。彼に真実を告げる必要はない。視覚異常が発覚すれば、「健康上の理由による退任」というリスクが発生する。俺はまだ、この椅子を降りるわけにはいかない。
俺は再び書類に目を落とした。不思議なことに、色が消えたことで、書類の内容がよりクリアに頭に入ってくるようになった。余計な色彩情報に惑わされることなく、文字と数字だけがダイレクトに認識される。
『死者数:124名』 『予算赤字:-500金貨』 『支持率:78%』それらはただのデータだ。赤い血の色も、青ざめる顔色も、そこにはない。
世界は、0と1、黒と白、利益と損失の二値に還元された。実にシンプルで、美しい世界だ。
午後、ベルンシュタインが執務室を訪ねてきた。彼は上機嫌で、一人の男を連れていた。派手な格好をした、長髪の男だ。ベレー帽を被り、手には大きなキャンバスを抱えている。
「工藤殿! 紹介しよう。王都から招いた高名な宮廷画家のミケランジェロ氏だ」
「お初にお目にかかります、偉大なる統括官閣下」
画家は大げさな身振りで辞儀をした。俺の目には、彼の派手な衣装も、ただの薄汚れた灰色の布切れにしか見えなかった。
「用件は?」
俺はペンを止めずに尋ねた。
「いやなに、都市の繁栄を記念して、君の肖像画を描いて残そうと思いましてな」
ベルンシュタインが笑いながら言った。
「君は英雄だ。だが、君の姿はいずれ忘れ去られてしまう。後世のために、その威厳ある姿を最高級の色彩で残すべきだと思いましてね」
画家が一歩前に出た。
「閣下、貴方の瞳の色は素晴らしい! 深い知性を湛えた漆黒の中に、冷徹な氷の青が宿っている。この複雑な色合いを表現するには、ラピスラズリを砕いた最高級の絵具が必要です。それに、背景には都市の繁栄を示す黄金色を……」
画家は熱っぽく語り始めた。色彩。美しさ。後世への遺産。彼らの口から出る言葉は、今の俺にとって最も理解不能な言語だった。
「不要だ」
俺は遮った。
「肖像画など、行政の役には立たない。そんなものに予算を使うなら、下水道の整備に回せ」
「ま、待ってください閣下!」
画家が慌てた。
「芸術は都市の品格です! 豊かな都市には、必ず優れた芸術があります。貴方の姿を美しく描くことは、市民の士気を高め、都市のブランド価値を向上させます。これは無駄遣いではありません、投資です!」
「投資対効果が不明確だ」
俺は冷たく切り捨てた。
「美しさなどという主観的な指標で、飯は食えない。市民に必要なのは、美しい絵画ではなく、明日のパンと安全な寝床だ」
「し、しかし……」
「それに、私の目は、お前の言うような『氷の青』などしていない」
俺は画家を真っ直ぐに見据えた。鏡で見た自分の目を思い出す。そこに色はなかった。ただの暗い穴だ。
「私の目は、機能するためのレンズに過ぎない。美化するな。現実を歪めるな」
画家の顔が引きつった。彼は俺の目の中に、得体の知れない虚無を見たのだろう。後ずさりし、ベルンシュタインに助けを求めるような視線を送った。ベルンシュタインは困ったように頭を掻いた。
「まあまあ、工藤殿。そこまで言わずとも……これは私からの個人的な贈り物ということで、予算は商会持ちにしますから」
「時間の無駄だと言っている。私がモデルとして座っている数時間で、どれだけの決済が滞ると思っている?」
俺はベルンシュタインをも睨みつけた。俺の時間単価は、お前らの遊びに付き合えるほど安くない。
「……分かりました。出直しましょう」
ベルンシュタインは諦めて、画家を連れて退室した。ドアが閉まる直前、画家が捨て台詞のように呟くのが聞こえた。
「……なんて色のない男だ。まるで石像だ」
その通りだ。俺は石像だ。雨風に耐え、都市を支える人柱だ。石像に色は必要ない。ただ、硬く、重く、そこに在り続ければいいのだ。
彼らが去った後、俺は窓辺に立った。街を見下ろす。かつては、赤い屋根や、緑の街路樹、色とりどりの服を着た人々が目に映っていたはずだ。今は、すべてがモノクロームだ。
雪に覆われた街は、白い紙の上に墨で描かれた設計図のように見えた。無機質で、整然としていて、そして死んでいる。だが、俺はこの景色を美しいと感じた。
感情という雑音が消え、構造そのものが剥き出しになっている。どこが脆弱か、どこが過密か、一目で分かる。俺は、この灰色の世界を管理するために生まれてきたのだ。
その時、視界の隅に人影が映った。執務室のソファに、誰かが座っている。俺は驚かなかった。ハンスだ。彼は凍え死んだ時のボロボロの服を着て、静かに座っていた。
以前見た幻覚では、彼は土気色の肌をしていた。だが今は、彼もまた灰色だった。背景の壁と同化しそうなほど、薄い灰色だ。
その隣には、レオンがいる。潰れた作業服を着た少年。彼もまた、白黒写真のような姿だ。さらに、橋から落ちた人々、古参隊のバルガス、名もなき貧民たち。彼らが部屋のあちこちに佇んでいる。全員が、色を失っていた。
俺は彼らを見渡した。恐怖はなかった。罪悪感さえ、薄れていた。彼らはもう、俺を責める亡霊ではない。この灰色の世界の一部を構成する、過去のデータだ。『処理済み』のスタンプを押された、アーカイブファイルだ。
「……静かだな」
俺は彼らに話しかけた。彼らは答えない。ただ、虚ろな目で俺を見ている。かつては、彼らの視線に「恨み」や「悲しみ」という色を感じた。だが今は、その感情の色さえ見えない。ただの図形としての「目」が、こちらを向いているだけだ。
俺は自分の手を見た。ペンを持つ指。タコのある指。その手もまた、死人のように白く、あるいは汚れたように黒かった。俺も彼らと同じだ。俺たちは、このモノクロの世界の住人だ。
生きているか死んでいるかの違いなど、この色のない世界では些細な誤差に過ぎない。
俺は席に戻り、仕事を再開した。ジーンが新しい書類を持ってくる。彼は、部屋の中に充満する死者たちの気配に気づかない。彼には色が見えているからだ。生者の世界に住む彼には、死者の世界は見えない。
俺だけが、両方の世界に片足ずつ突っ込みながら、その境界線で実務を行っている。
「統括官、芸術支援予算の削減案を作成しました」
ジーンが書類を置いた。先ほどの俺の言葉を受けて、即座に行動に移したのだ。優秀な男だ。
「よし。承認する」
俺はサインした。これで、都市からさらに「彩り」が消える。美術館への補助金が切れ、劇団への支援が止まる。画家や音楽家たちは食い扶持を失い、街を去るか、工場労働者になるだろう。
都市はより実用的になり、より退屈になる。素晴らしいことだ。遊びに使う金があるなら、城壁を厚くし、備蓄を増やすべきだ。それが、生存のための最適解だ。
書類に判を押すたび、俺の視界から少しずつ明度が失われていく気がした。白と黒のコントラストが強まり、中間色のグレーが消えていく。世界はどんどん単純になっていく。
是か非か。益か損か。生か死か。
俺はその単純さに安らぎを感じていた。迷う必要がない。色がなければ、どれを選んでも同じに見える。ただ、数字が大きい方を選べばいい。それは、パズルを解くような作業だ。
人の命がかかったパズル。だが、その血の色が見えなければ、ただの数字遊びと変わらない。
夜。俺は一人、執務室に残っていた。ジーンは帰宅した。彼は人間としての生活を維持している。俺には帰る場所などない。この椅子が俺の棲家だ。
俺は窓の外の夜景を見た。黒い闇の中に、白い光の点が無数に浮かんでいる。かつてガランドが「美しい」と言った景色だ。俺には、それが基盤回路の配線図にしか見えなかった。
あそこには魔力が流れている。あそこには物流が流れている。それだけだ。そこに住む人々の営みや、温かい団欒の光景を想像することは、もうできなかった。
ふと、喉の渇きを覚えた。俺は水差しに手を伸ばした。グラスに注ぐ。透明な液体。いや、俺の目には、それも黒い液体に見えた。まるでインクを飲んでいるようだ。
俺はそれを飲み干した。味はしない。冷たさだけが、食道を通って胃に落ちていく。俺の中身も、黒く染まっていく。黒い血が流れ、黒い心臓が脈打つ。
「……完成したな」
俺は独りごちた。俺は、工藤という人間を殺し尽くし、統括官というシステムに成り代わった。味覚を失い、視覚を失い、感情を失った。不要なものを全て削ぎ落とした、完全なる統治機械。
これなら、どんな決断も下せる。たとえ明日、都市の半分を焼き払う必要があるとしても、俺は眉一つ動かさずに命令できるだろう。
机の上の幻影たちが、一斉に俺を見た気がした。レオンが、悲しげに笑った気がした。ハンスが、何かを言いたげに口を開いた気がした。だが、声は聞こえない。
俺は聴覚までも失いつつあるのだろうか。いや、彼らの声を聞く必要がないと、脳が判断しただけだ。
俺は幻影たちを無視して、次の書類を手に取った。北方の砦から、新たな魔物の群れが接近中との報告。数は未定。規模は中程度。俺はペンを握る。
迎撃命令。消耗品の補充。負傷者の後送計画。淡々と処理していく。そこには、戦場へ送られる兵士たちの恐怖も、待っている家族の祈りも、書き込まれてはいない。ただの作戦行動だ。
俺は、白と黒の碁盤の上で、石を置くように人の命を動かす。
俺の夜は、色を失ったまま、永遠に続いていく。それが、この世界で生き残るために俺が選んだ、最後の進化形態だった。




