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合理的な地獄  作者: 堺 保


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第17話:成果の独占と良心の摩耗

 平和とは、実に手のかかる工業製品だ。その製造工程には、膨大なコストと、血生臭い廃棄物がつきまとう。誰かが泥を被り、誰かが嘘をつき、誰かが間引かれることで、初めて市場に「安全で清潔な日常」という商品が陳列される。


 だが、消費者はその製造過程を知ろうとはしない。彼らは綺麗にパッケージされた平和を手に取り、その対価として金を払い、そして何の疑いもなく享受する。生産者である俺は、その光景を工場の裏口から、油にまみれた作業着のまま眺めているような気分だった。


 秋の収穫祭に合わせた、都市主催の大晩餐会。会場となった迎賓館の大広間は、これ以上ないほどの絢爛豪華さに彩られていた。天井からはクリスタルのシャンデリアが幾千の輝きを放ち、壁には名画が飾られ、床には真紅の絨毯が敷き詰められている。


 楽団が奏でる優雅なワルツに合わせて、着飾った貴族や豪商たちがグラスを傾け、談笑している。テーブルには、山海の珍味が所狭しと並べられている。分厚いステーキ、新鮮な魚介のカルパッチョ、色鮮やかなフルーツのタルト。その全てが、俺が構築した物流システムによって、世界中から集められた最高級品だ。


 俺は、会場の隅にある柱の陰に立っていた。手には最高級の赤ワインが入ったグラスを持っている。だが、俺にとってそれは、ただの色付きの水でしかない。味覚を失って数ヶ月。俺の舌は、甘美な酒も泥水も区別しなくなっていた。それでも、形式的にグラスを口に運ぶ。


 乾杯の音頭を取ったのは、俺自身だ。「都市の繁栄と、市民の幸福に」。そう言ってグラスを掲げた時、会場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。俺は英雄だった。この豊かさをもたらした、偉大なる統括官。


 誰も、俺の手が血で濡れていることなど気にしていない。いや、見えていないのだ。彼らの目は、目の前の御馳走と、明日の利益に釘付けになっているからだ。


「やあ、工藤殿! こんなところに隠れておられたのですか」


 上機嫌な声と共に、ベルンシュタインが近づいてきた。彼は純白のタキシードに身を包み、顔を紅潮させている。その丸々と太った腹は、この都市の富を象徴するかのように張り出していた。


「素晴らしい夜ですな。見てください、あの商会主たちの笑顔を。今期の決算は、どこの組合も笑いが止まらない状態ですよ」


 ベルンシュタインはグラスを掲げて見せた。


「君のおかげだ、工藤殿。君が物流を改革し、無駄なコストを削減してくれたおかげで、我々は空前の利益を上げている。君はまさに、我々にとっての打ち出の小槌だよ」


「……それは重畳です。経済の活性化こそ、私の使命ですから」


 俺は表情を動かさずに答えた。打ち出の小槌。言い得て妙だ。振れば富が出る。だが、振るたびに何かをすり減らしている道具だ。


 ベルンシュタインは、テーブルの上の料理を指差した。


「見てください、この魚介の新鮮さを! 海から遠いこの都市で、これほど活きのいい刺身が食えるとは。例の新しい物流センターの冷蔵機能のおかげですな」


 新しい物流センター。それは、かつてハンスが守っていた薬草園の跡地に建てられたものだ。俺が彼を見殺しに、そして更地にした場所に今は巨大な倉庫が鎮座している。


 ハンスの命を養分にして建てられたその場所を経由して、この御馳走は運ばれてきたのだ。こいつらは、老人の死体の上に置かれた皿から、餌を貪り食っているに等しい。俺は吐き気を覚えた。だが、胃の中は空っぽで、何も吐き出せなかった。


「それに、あの北の鉱山から届いた希少金属! あれのおかげで武具の輸出も好調です。あの事故……いや、英断でしたな。少年一人の犠牲で、これほどの富が生まれるとは。まさに錬金術だ」


 ベルンシュタインは悪気なく笑った。レオンのことだ。彼らにとって、レオンの死は「コストパフォーマンスの良い投資」でしかない。少年の命が、彼らの懐を温める金貨に変わった。その金貨で、彼らはこの美酒を飲んでいる。


 共犯者ですらない。彼らはただの捕食者だ。俺が殺して調理した獲物を、安全な食卓で食い散らかすハイエナだ。


「……そろそろ失礼します。まだ残務がありますので」


 俺は会話を切り上げた。これ以上、彼の脂ぎった笑顔を見ていると、抑え込んでいる何かが決壊しそうだったからだ。ベルンシュタインは残念そうに肩をすくめた。


「おや、もう行かれるのですか? まあ、働き者の君らしい。では、我々はもう少し、この平和の味を堪能させてもらいますよ」


 平和の味。俺には味がしないその果実を、彼らは骨までしゃぶり尽くすつもりらしい。俺は背を向け、喧騒を離れた。


 会場を出て、夜風に当たろうとテラスに向かった。そこには、先客がいた。手すりにもたれかかり、ボトルをラッパ飲みしている男。騎士団長のガランドだ。


 だが、かつての精悍な面影はどこにもなかった。制服のボタンは外れ、髪は乱れ、虚ろな目で夜景を眺めている。足元には、空になったワインボトルが二本転がっていた。


「……よう、統括官殿。お勤めご苦労さん」


 ガランドは、俺の足音に気づくと、へらへらと笑いながら振り返った。その顔は赤く、目は濁っている。かつて俺の胸倉を掴み、「人の心はないのか」と怒鳴った男とは、別人のようだった。


「だいぶ飲んでいるようだな、団長」


「飲まなきゃやってられんよ。ここは眩しすぎる。酒の匂いより、金の匂いがきつくてな。鼻が曲がりそうだ」


 ガランドはげっぷをして、ボトルを煽った。赤い液体が口の端からこぼれ、白いシャツを汚す。それはまるで、古傷が開いて血を流しているように見えた。


「……止めるつもりはないのか」


「止める? 何をだ? この宴をか? それとも、お前の暴走をか?」


 ガランドは鼻で笑った。


「無理だ無理だ。俺には無理だ。だってそうだろう? 街を見ろよ」


 彼は夜景を指差した。眼下に広がる都市は、無数の灯りに包まれ、美しく輝いている。


「みんな笑ってるんだ。誰も飢えてない。誰も魔物に食われてない。お前がやったんだ。お前が手を汚して、心を殺して作った世界だ。俺が文句を言える筋合いなんて、どこにもねえよ」


 彼の声には、諦めと、そして深い自己嫌悪が滲んでいた。彼は知っているのだ。自分が着ている清潔な軍服も、今飲んでいる酒も、すべて俺の汚い仕事のおかげであることを。


 かつて彼は、俺を否定した。正義を掲げ、倫理を説いた。だが、その正義では誰も救えなかった。逆に、俺の邪道が、結果として多くの命を救い、この繁栄をもたらした。その現実に、彼の騎士道精神はへし折られたのだ。


「俺はな、工藤。自分が情けない。お前を悪魔だと罵りながら、その悪魔がくれた餌を食って生きている。ベルンシュタインと同じだ。俺も、あそこで踊ってる豚どもと同じなんだよ」


 ガランドは涙ぐみながら、自嘲の笑みを浮かべた。彼はもう、剣を抜かない。俺を止める気力もない。ただ、酒に逃げ、現実から目を背け、与えられた平和の中で腐っていくだけだ。


「……そうか」


 俺は短く答えた。失望はなかった。むしろ、奇妙な安堵感があった。これでいい。俺を糾弾する者はいなくなった。俺の良心に訴えかけ、迷いを生じさせる「正義の味方」は、自ら剣を捨てた。


 これで俺は、誰にも邪魔されず、誰にも気兼ねせず、徹底的にこの都市を管理できる。障害物はすべて排除されたのだ。


 だが、その安堵と同時に、胸の奥に冷たい風穴が空いたような感覚があった。俺は独りだ。本当に、完全に、独りになった。俺を理解する者もいなければ、俺と対等に渡り合う敵もいない。


 周りにいるのは、俺が管理する「家畜」たちだけだ。ベルンシュタインのような貪欲な豚。ガランドのような牙を抜かれた老犬。そして、何も知らずに餌を食む数万の羊たち。


 俺は、彼らを管理する飼育員だ。感情を持たず、ただ効率的に餌を与え、毛を刈り、時に間引きを行う、孤独な管理者だ。


「工藤、教えてくれよ」


 ガランドが、崩れ落ちるように座り込みながら尋ねた。


「お前は、この景色を見て、何を感じるんだ? 嬉しいのか? それとも、俺たちを見下して笑ってるのか?」


「何も感じない」


 俺は即答した。


「ただのデータだ。人口が増え、税収が増え、犯罪率が減った。それだけの結果だ」


「……そうか。やっぱりお前は、本物の化け物だな」


 ガランドは満足そうに笑い、そのまま床に突っ伏して寝息を立て始めた。彼は、俺を化け物と呼ぶことで、自分を人間側の立場に留めようとしているのだろう。


 哀れな男だ。だが、その哀れささえも、今の俺にさざ波を起こすこともない。ただの「機能不全を起こした部品」がそこに転がっているだけだ。


 俺はガランドに自分の上着をかけてやることもなく、その場を立ち去った。風が冷たくなってきた。宴の音楽が、遠くから聞こえてくる。楽しげな旋律。それは、俺の孤独を際立たせるためのBGMのように響いた。


 執務室に戻る途中、俺は廊下の鏡に映る自分の姿を見た。黒い礼服を着た、痩せた男。その目は深く窪み、光がない。幽霊だ。生きたまま死んでいる、亡霊の姿だ。


 俺はこの姿で、これからもこの都市を支配し続けるのだ。誰も俺を止めない。誰も俺を裁かない。俺が自分で自分を壊すその日まで、この無限の労働は続く。


 執務室に入ると、ジーンが待っていた。彼は俺が宴に出ている間も、休まずに仕事をしていたようだ。


「お戻りですか。宴はいかがでしたか」


「騒がしいだけだった。仕事に戻るぞ」


 俺はネクタイを緩め、椅子に座った。ペンを手に取る。指のタコが、おかえりと言うように指に食い込む。


 ここが俺の居場所だ。あの華やかな宴会場ではなく、インクと紙の匂いが充満するこの無機質な部屋こそが、俺の墓場であり、王座なのだ。


「……ジーン、来期の防衛予算案を出せ。騎士団の予算を二割削減する」


「二割も、ですか? ガランド団長が反発するのでは?」


「しないよ。彼はもう、吠える気力を失った。今のうちに骨抜きにしておく」


 俺は淡々と指示を出した。ガランドが牙を失ったなら、騎士団という組織もそれに合わせてスリム化すべきだ。維持費のかかる番犬は、愛玩犬程度のサイズでいい。


 俺は容赦なく数字を削る。かつての戦友の組織を解体することに、何のためらいもなかった。


 窓の外で、花火が上がった。ドン、という音が空気を震わせる。一瞬、空が明るく染まる。その光の下で、市民たちは歓声を上げているだろう。


 俺は手元の書類に視線を落としたまま、その光を見なかった。俺が見るべきは、光が生み出す影の深さだけだ。影の中で蠢く数字だけが、俺の友であり、俺の敵であり、俺のすべてだった。


 夜は深い。宴は続く。そして俺の仕事もまた、終わることはない。この完璧で、残酷で、退屈な平和が続く限り。

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