第16話:死者の資産価値とプロパガンダの費用対効果
教育とは、ある種の呪いを植え付ける作業に他ならない。思考の枠組みを規定し、価値観という色眼鏡をかけさせ、教える側の望む正解を、教えられる側が自発的に選び取るように誘導する。それが成功した時、被教育者は迷うことなく、教えられた通りの行動をとる。たとえその行動が、生物としての生存本能に逆らうものであったとしても。
俺は今、自分がこの都市に撒き散らした教育という名の呪いが、あまりにも完璧に、そしてあまりにも残酷な形で結実した証拠を目の当たりにしていた。
盛夏。うだるような暑さが続く中、北方の開拓地から定期報告便が届いた。
新しい秘書官のジーンは、汗一つかかずに、分類済みの書類を俺のデスクに置いた。彼の仕事は相変わらず正確で、無駄がない。そこに感情というノイズが混じる余地はない。
「開拓工兵隊より、事故報告書が一通。損害報告が含まれています」
ジーンの声は平坦だった。俺はペンを走らせたまま、視線だけを書類に向けた。損害報告。開拓地では珍しいことではない。魔物の襲撃か、あるいは崖崩れか。いずれにせよ、リソースの損失は補填しなければならない。
俺は事務的に書類を手に取り、内容を読み始めた。
発生日時、二日前。場所、北区画第三採掘現場。原因、連日の降雨による地盤の緩みに起因する土砂崩落。物的損害、中度。人的損害、死亡一名。
俺の目が、死亡者の氏名欄で止まった。
レオン・シュミット。享年十二歳。
見覚えのある名前だった。いや、忘れるはずがない。半年前、俺が進路希望調査票で選別し、学術都市への道を閉ざして工兵隊へ送り込んだ、あの少年だ。俺を崇拝し、俺のようになりたいと願っていた、あの純朴な少年だ。
俺は報告書を読み進めた。
死因は圧死。崩落が発生した際、彼は逃げ遅れたのではない。
現場には、都市が予算を投じて導入した最新鋭の魔導掘削機があった。土砂が迫る中、他の作業員たちは蜘蛛の子を散らすように逃げた。だが、レオンだけは逃げなかった。
彼は掘削機の操縦席に飛び乗り、防護シールドを展開した。落石は防護障壁を叩き潰し、操縦席ユニットを原形が分からないほど圧壊させた。
だが、魔導コアと制御結晶は生きていた。
結果、掘削機は主要機構を保全した状態で回収された。操縦席は完全に破壊され、内部でレオンは肉塊となって発見された。
「……馬鹿な」
俺の口から、無意識に言葉が漏れた。逃げれば助かったはずだ。十二歳の子供だ。機械のことなど放り出して、自分の命を守るのが当然の反応だ。なぜ、彼は機械を守った?
恐怖で動けなくなったわけではない。防護シールドを展開し、制御を固定するという、明確な意思を持って行動している。
彼は選んだのだ。自分の命よりも、機械の中枢を。
「賢明な判断でしたね」
ジーンが、書類の数値を指差しながら言った。彼には、俺の動揺が見えていないのか、あるいは見えていて無視しているのか。
「この魔導掘削機は、本体と魔導コアを合わせて金貨二千枚相当です。操縦席ユニットは消耗部品扱いで、交換費用は金貨三百枚程度。対して、新人作業員一名の育成コストと補償金は、合わせて金貨五十枚」
ジーンは淡々と計算結果を告げた。
「差し引き、約千六百五十枚分の重大損失回避。彼は、自分の命と機械の中枢価値を比較し、より価値の高い方を守った。極めて合理的な行動です。設計思想通り、と言うべきでしょう」
設計思想。
その言葉が、耳に刺さった。
「……彼の遺品はあるか」
「はい。現場監督から預かっております」
ジーンは、血と泥にまみれた小さな手帳を差し出した。俺はそれを受け取った。革の表紙は変色し、鉄と血の臭いがした。
ページをめくる。そこには、拙い文字で、日々の作業記録や、新しい工具の使い方がびっしりと書き込まれていた。
そして、最後のページ。震える文字で、走り書きが残されていた。
『崩落が始まった。逃げる時間はある。でも、コアを置いていけば全損になる。操縦席は交換できるけど、コアはできない。四号機のコアは二千枚。操縦席は三百。僕の給料は月銀貨三枚。僕が死んでコアが助かるなら、都市にとって利益になる。工藤様なら、そう計算するはずだ。だから僕は、正解を選ぶ』
文字はそこで途切れていた。その下には、赤黒いシミが広がっている。
俺は息を止めた。心臓が、早鐘を打っていた。
彼は、死の直前まで計算していたのだ。恐怖に震えながら、それでも俺の教えを反芻し、自分の命の値段と、魔導コアの値段を天秤にかけた。そして、自分の命の方が安いという結論を出し、満足して死んだのだ。
俺のために。俺に褒められたくて。
そして、この都市の設計思想のために。
俺の指のタコが、焼きごてを当てられたように熱く痛んだ。
俺が殺した。間接的ではない。俺が彼に植え付けた価値観が、彼を殺したのだ。俺が「お前は部品だ」と言い続け、「全体の利益を優先しろ」と説き続けた結果、彼は本当に、自分を交換可能な部品として扱った。
これは教育の成功例だ。あまりにも完璧な、そしてあまりにも悲惨な成功例だ。
「……報告書には『人的ミスによる事故死』ではなく、『職務遂行中の名誉ある殉職』と記載してください。そうすれば、遺族への年金が増額されます」
ジーンが事務的に提案した。俺は顔を上げた。鏡に映った自分の顔を見るまでもなく、俺がどんな顔をしているか分かっていた。無表情だ。内心でどれだけ血を吐いていようと、俺の顔筋は凍りついたように動かない。
「……待て。ただの殉職で終わらせるな」
俺の声は、低く、冷たかった。俺の脳は、この悲劇的な手帳を見た瞬間から、すでに次の計算を始めていた。
レオンは死んだ。これはサンクコストだ。もう取り戻せない。ならば、この死を最大限に利用して、さらなる利益を生み出さなければならない。それが、コストとして処理された彼に対する、俺ができる唯一の「弔い」だ。
「この件を公表する。全市民に向けたプロパガンダとして利用する」
「プロパガンダ、ですか?」
「ああ。彼の死は、自己犠牲の美談として、極めて利用価値が高い」
俺は手帳を閉じた。血の臭いが鼻につく。だが、俺はその臭いを肺の奥まで吸い込んだ。
「『一人の少年が、公の財産を守るために命を捧げた』。この物語は、市民の愛国心を煽り、勤労意欲を向上させる。特に、個人の命よりも全体の利益を優先するという精神を、市民全体に刷り込む絶好の機会だ」
ジーンは、少しだけ目を見開いた。そして、すぐに理解したように頷いた。
「なるほど。死者の資産価値を最大化するわけですね。教育コストの回収手段としては、非常に効率的です」
「そうだ。盛大な葬儀を行う。場所は中央広場。全市民を参列させろ。私が直接、弔辞を読む」
俺は指示を出した。
レオン。お前は最後まで、俺の役に立ちたいと願っていたな。ならば、叶えてやる。お前の死体を、骨の髄までしゃぶり尽くして、この都市の肥料にしてやる。それが、お前を殺した俺の、最低で最悪な責任の取り方だ。
三日後。
中央広場は、黒い喪服を着た市民たちで埋め尽くされていた。空は皮肉なほどに晴れ渡り、蝉時雨が降り注いでいる。
広場の中央には、花で飾られた祭壇が設けられ、その上にはレオンの小さな棺と、彼が守り抜いた手帳が置かれていた。そして、その横には、彼が命と引き換えにした魔導掘削機の模型が飾られている。
グロテスクな対比だった。命と、物。
だが、集まった市民たちは、その意味を深く考えず、ただ悲劇の少年の死に涙していた。
俺は演台に立った。マイクの前に立つと、数万人の視線が俺に集中した。
俺は、あらかじめ用意しておいた原稿を広げた。そこには、感動的な言葉が並んでいる。だが、俺が本当に言いたいことは、行間に隠された冷酷な真実だけだ。
「市民諸君。我々は今日、一人の偉大な英雄を失った」
俺の声が、魔導スピーカーを通して広場に響き渡る。
「レオン・シュミット。彼はまだ十二歳だった。だが、彼の魂は、誰よりも大人びていた。彼は危機に際し、自分の命よりも、この都市の未来を守ることを選んだ」
会場から、すすり泣く声が聞こえる。
俺は手帳を手に取り、高く掲げた。
「彼はこの手帳に書き残していた。『都市にとって利益になるなら、僕は正解を選ぶ』と。なんという高潔な精神か。なんという自己犠牲か」
嘘だ。それは高潔などではない。洗脳の結果だ。
だが、大衆は物語を求めている。彼らは、自分たちの平凡な生活の中に、感動というスパイスを欲している。
俺はそれを与える。
「彼の死は、我々に問いかけている。我々は、彼のように公のために尽くせているか? 自分の小さな利益よりも、都市全体の繁栄を優先できているか? 彼が守ったのは機械ではない。機械がもたらす豊かさであり、君たちの明日の生活そのものなのだ」
俺は言葉に熱を込めた。演技だ。完璧な演技だ。心など動いていない。ただ、効果的な抑揚と、計算された間合いで、聴衆の感情を操作しているだけだ。
「彼を死なせてはならない。彼の意志を継ぐことこそが、残された我々の使命だ。諸君、彼に続け。この都市のために、己の役割を全うせよ。それが、レオンに対する最高の手向けとなる!」
俺が叫ぶと同時に、広場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
「レオン万歳!」「統括官万歳!」「都市のために!」
市民たちは熱狂していた。彼らは感動している。自分たちもまた、何か大きなものの一部であり、そのために犠牲になることは素晴らしいことなのだと、錯覚している。
集団催眠だ。
俺は一人の少年の死を使って、数万人の市民を「使いやすい部品」へと作り変えたのだ。
演台を降りると、最前列にいたガランドが俺を睨みつけていた。彼は拍手していなかった。彼の目には、嫌悪と軽蔑が浮かんでいた。
「……死者まで利用するのか。お前の舌は、何枚あるんだ」
ガランドは低い声で言った。
俺は足を止めず、彼の横を通り過ぎざまに答えた。
「利用できるものは全て利用する。それが統括官だ。それに、彼もそれを望んでいた」
「望んでいた? 子供が死を望むわけがないだろう! お前がそう思い込ませただけだ!」
「結果は同じだ。彼は満足して死んだ。市民は感動して団結した。損をしたのは誰だ?」
俺はガランドを見なかった。彼には分からないだろう。
損をしたのは、俺だ。俺だけが、この嘘の重さを知っている。俺だけが、レオンが本当に求めていたのが「名誉」ではなく、ただ俺からの「よくやった」という一言だったことを知っている。
だが、その言葉をかけてやることはできない。
俺ができるのは、彼の死体を踏み台にして、さらに高く、さらに冷たい場所へと登っていくことだけだ。
葬儀が終わり、俺は執務室に戻った。窓の外では、まだ市民たちの興奮した声が聞こえている。
俺は机の上に置かれたレオンの手帳を見た。血のシミは、黒く乾いていた。
俺は引き出しを開け、その手帳を一番奥に放り込んだ。鍵をかける。二度と開けることはないだろう。
これは、俺の罪の証拠物件だ。そして同時に、俺の教育の「卒業証書」でもある。
「先生、次の案件です。物流センター増設に伴う人員配置計画について」
ジーンが入ってきた。彼は葬儀の余韻など微塵も感じさせず、すでに次の業務モードに入っていた。
俺もまた、即座に頭を切り替えた。
レオンはもういない。彼は数字になった。
金貨一千六百五十枚分の損失回避と、市民の労働意欲向上率〇・五パーセント。それが、彼の人生の最終的なスコアだ。
「……見せてくれ」
俺は書類を受け取った。ペンを握る。指のタコが、また少し硬くなった気がした。
俺は書き込む。インクが走る。
俺はもう、何も感じない。ただ、この都市が効率よく回ることだけが、俺の存在意義のすべてだった。
夕暮れの光が、俺の背中を赤く染めていた。それはまるで、レオンの血の色のように、執務室全体を覆い尽くしていた。
俺はその中で、ただひたすらに、生きた人間を数字に変換する作業を続けた。




