第15話:限界稼働と人的資源の損耗
機械と人間には、決定的な違いが一つある。機械は燃料とメンテナンスさえあれば、理論上は永遠に同じパフォーマンスで稼働し続けることができる。疲労を知らず、感情に左右されず、二十四時間三百六十五日、淡々とタスクを処理し続ける。
対して人間は、あまりに不完全で脆い。睡眠を欲し、休息を求め、メンタルという名の極めて不安定なパラメータによって処理能力が乱高下する。組織運営において、この「人間というボトルネック」をいかに管理するかは永遠の課題だ。
だが、今の俺にとって、それは管理すべき対象ではなく、単なる「仕様上の欠陥」にしか見えなくなっていた。
夏が近づき、都市は熱気に包まれていた。俺の執務室の窓は閉め切られているが、それでも外の暑さは石壁を通して伝わってくる。
だが、俺の手は止まらない。夜明け前から机に向かい、深夜まで書類を裁き続ける。睡眠時間は二時間を切っていた。食事は流動食のようなスープを啜るだけ。味覚がないから、固形物を噛む時間が惜しいのだ。
俺の体感時間は、他人とは違う速度で流れている。思考は常にクリアだ。感情というノイズがない分、脳のCPUは全ての容量を演算処理に回せている。俺は、都市そのものと同期していた。物流の遅れ、予算の過不足、治安の乱れ。それら全てが、自分の体の不調のように直感的に把握できる。
俺は「統括官」という役割に完全に適合し、人間としての外殻を脱ぎ捨てつつあった。
問題は、周囲がその速度についてこれないことだ。
「……先生、こちらが来期の穀物輸入計画案です」
ロイスが書類の束を差し出した。その手が、小刻みに震えているのが見えた。顔色は土気色で、目の下にはどす黒い隈が刻まれている。頬はこけ、制服の襟元が以前より緩くなっている。
彼はこの数ヶ月、俺の影のように付き従ってきた。俺が起きている間は彼も起き、俺が働く間は彼も働く。俺の思考を先読みし、完璧な補佐を行おうと必死に食らいついてきた。
だが、限界が近づいていることは明白だった。
「ロイス、顔色が悪いぞ」
俺はペンを走らせながら、事務的に指摘した。労りではない。パフォーマンスの低下を懸念しての言葉だ。
「いえ、大丈夫です。少し暑気あたりしたようで……薬を飲みましたから」
ロイスは引きつった笑顔で答えた。彼のポケットから、気付け薬の小瓶が覗いている。カフェインと魔力を濃縮した、強力な覚醒剤の一種だ。最近の彼は、あれを水の代わりに飲んでいる。人間が薬物で無理やり稼働時間を延長する。それは機械のオーバークロックと同じで、いずれ焼き切れる。
「無理はするな。君が倒れれば、業務に支障が出る」
「倒れません。先生が倒れていないのに、私が休むわけにはいきません」
ロイスは頑なだった。彼を突き動かしているのは、忠誠心か、それとも恐怖心か。俺という怪物が暴走しないよう、自分が手綱を握らなければならないという使命感かもしれない。
だが、精神論で肉体の限界は超えられない。
事件が起きたのは、その日の午後だった。俺たちは、来年度の大規模予算編成という、極めて重要な作業を行っていた。数百の項目、数万の数字。その一つ一つが、都市の命運を左右する。ミスは許されない。
「東区画の灌漑工事費、金貨二千五百枚。計上しました」
ロイスが読み上げ、俺が確認する。
「待て」
俺は手元の資料と、ロイスが作成した集計表を見比べた。違和感があった。数字の並びが、美しくない。
「ロイス、ここの桁が違う。二千五百ではなく、二万五千だ」
俺は指差した。ゼロが一つ足りない。単純なミスだ。だが、このまま承認されれば、工事は資金不足で頓挫し、来年の収穫は激減する。数千人が飢えることになる致命的なエラーだ。
ロイスは、はっと息を呑んで書類を覗き込んだ。
「あ……も、申し訳ありません! すぐに訂正を……」
彼は慌ててペンを取り出し、修正しようとした。だが、その手は激しく震え、インク壺を倒してしまった。黒い液体が、白い書類の上に広がっていく。数日かけて積み上げてきた計算が、一瞬で汚泥に沈んだ。
「あ、ああっ……! すみません、すみません……!」
ロイスはパニックに陥り、自分の袖でインクを拭おうとした。だが、擦れば擦るほど汚れは広がり、取り返しがつかなくなる。その姿は、あまりに滑稽で、そして哀れだった。
「やめろ、ロイス」
俺は冷たく言った。
「汚れた書類は破棄するしかない。作り直しだ」
「すぐに! すぐにやります! 今夜中に、徹夜してでも……!」
ロイスは涙目で叫んだ。その目は、焦点が合っていなかった。完全に許容量を超えている。
「落ち着け。君らしくないミスだ。効率が落ちているぞ」
俺のその言葉が、最後の一撃になったようだった。ロイスの動きが止まった。彼は呆然と俺を見つめ、口をパクパクと動かした。
そして、糸が切れた操り人形のように、ガクリと膝を折った。ドサッ、という鈍い音が響く。彼は床に突っ伏し、痙攣していた。過呼吸だ。
「……医務班を呼べ」
俺は廊下の衛兵に指示した。立ち上がることはしなかった。倒れたロイスを見下ろしながら、俺が考えていたのは、彼の容体への心配ではなかった。
「再作成にかかる時間は約六時間。今夜の予定が狂ったな」という、冷徹な損害計算だけだった。
数時間後。俺は庁舎内の医務室にいた。白いベッドの上で、ロイスが点滴を受けて眠っている。医師によれば、極度の過労と栄養失調、そしてストレス性の自律神経失調症だという。要するに、壊れたのだ。俺という高速回転する歯車に、無理やり噛み合おうとして、摩耗しきってしまったのだ。
俺がパイプ椅子に座ると、ロイスが目を覚ました。彼は俺の姿を認めると、弾かれたように身を起こそうとした。
「せ、先生……! 書類は……仕事に戻らないと……!」
「寝ていろ。書類なら、私が片付けた」
俺は彼を制した。実際、彼が倒れた後、俺は一人で全ての計算をやり直し、完了させた。皮肉なことに、ロイスがいなくなったことで、説明や確認の手間が省け、作業効率は上がっていた。
その事実が、俺の中である決断を固めさせていた。
「申し訳、ありません……。私が不甲斐ないばかりに……」
ロイスは布団を握りしめ、涙を流した。悔し涙ではない。恐怖と絶望の涙だ。
「先生についていこうと、必死でした。でも、無理でした。先生の背中が、どんどん遠くなっていくんです」
ロイスは虚ろな目で天井を見上げた。
「先生、私には見えるんです。夢の中に、あの橋で死んだ人々が出てくるんです。ハンスさんが、凍った手で私の首を絞めるんです。『お前も同罪だ』って。先生は……見ないのですか?」
「見ないな。眠っている時間は生産性がない」
俺は即答した。嘘ではない。俺は本当に夢を見ない。脳が休止モードに入ると、スイッチが切れたように意識が落ち、二時間後に再起動する。そこには、罪悪感が入り込む隙間さえない。
ロイスは、震える瞳で俺を見た。そこには、敬愛する上司を見る目ではなく、理解不能な異種生物を見るごとき畏怖があった。
「先生の景色には、色がついていないのですか? 悲しみも、痛みも、何も感じないのですか?」
「不要な機能だからな。統括官に必要なのは、正確な天秤だけだ」
「……先生は、本当に人間なのですか?」
その問いは、悲痛な叫びだった。彼は気づいてしまったのだ。隣にいるこの男が、かつて自分を指導してくれた「工藤先生」ではなく、人の皮を被ったシステムそのものであることに。
俺は少し考え、そして答えた。
「生物学的には人間だ。だが、機能としては部品だ。君と同じようにな」
ロイスは息を呑んだ。俺は懐から、一枚の辞令を取り出した。ここに来る前に、俺自身が作成し、署名したものだ。
「ロイス、君に無期限の長期休暇を命じる」
「……え? それは、クビということですか?」
「いや、メンテナンスだ。君は壊れた。壊れた部品を使い続けるのは、組織にとってリスクだ」
俺は辞令を彼の枕元に置いた。それは優しさではない。彼を休ませてやりたいという温情など、微塵もない。ただ、エラーを起こす確率の高まった不安定なリソースを、ラインから外すという合理的な判断だ。
彼が夢にうなされ、罪悪感に震える姿は、俺の執務室には不要なノイズだ。
「故郷へ帰って療養しろ。給与は保証する。君がまた正常に稼働できるようになったら、戻ってくればいい」
戻れるはずがないことは、お互いに分かっていた。一度この速度から脱落した人間が、再び追いつくことなど不可能なのだ。
ロイスは辞令を見つめ、そして静かに泣いた。それは、解放された安堵の涙のようにも見えた。彼はもう、あの地獄のような執務室で、俺という怪物の顔色を窺わなくて済むのだ。
「……分かりました。ありがとうございます、先生」
ロイスの声は小さく、消え入りそうだった。俺は立ち上がった。用件は済んだ。これ以上、ここにいる理由はない。
「お大事に」
それだけ言い残し、俺は病室を出た。背後で、ロイスが嗚咽する声が聞こえた。だが、扉を閉めた瞬間、その声は遮断された。廊下は静かで、無機質だった。俺はその静寂を心地よいと感じた。
執務室に戻ると、すでに新しい秘書官が待機していた。人事局に手配させた、極めて優秀と評判の男だ。名前は、確かジーンといったか。
彼は俺が入室すると、無駄のない動きで起立し、敬礼した。
「本日付で配属されました。前任者の引き継ぎ資料はすべて読破済みです」
「仕事は早いか?」
「正確さと速度には自信があります。感情や私情は挟みません」
ジーンの目は、ガラス玉のように冷たかった。彼からは、ロイスのような人間臭さを感じない。彼は俺を尊敬していないし、畏怖もしていない。ただの「上司」として、あるいは「処理すべきタスクの発行元」として認識しているようだ。完璧だ。
「いいだろう。試用期間はなしだ。即戦力として働け」
「承知いたしました。直ちに未処理案件に着手します」
ジーンはすぐに自分のデスクに向かい、山積みの書類に取り掛かった。その処理速度は速い。ペンの音だけが、規則正しく響く。ロイスがいた頃のような、咳払いや、ため息や、気遣いの言葉はない。
ただ、業務という名の信号だけが行き交う空間。俺は満足して、自分の席に座った。
これでいい。俺の周りから、最後の「人間」がいなくなった。ロイスは、俺と人間社会を繋ぐ最後のへその緒だったのかもしれない。彼がいたから、俺はまだ辛うじて人間の形を保っていられたのかもしれない。
だが、それも切れた。俺は完全に孤立し、そして完全に自由になった。
俺はペンを握った。指のタコが、馴染んだ道具のように俺の手に収まる。俺は書類に向かう。ジーンも書類に向かう。会話はない。視線も合わせない。
ただ、二つの機械が、並列して稼働しているだけだ。
夜が更けていく。都市の灯りが消え、市民たちが眠りについても、この部屋の灯りだけは消えない。ここは、都市という巨大な機械の中枢制御室。ここに心はいらない。ここに涙はいらない。必要なのは、終わることのない計算と、冷え切った決断だけだ。
俺はふと、ロイスの涙を思い出した。「先生は本当に人間なのですか」。その問いが、頭の片隅でリフレインする。俺はペンを走らせながら、心の中で答えた。
人間だよ。
ただし、お前たちが定義する人間とは、もう別の生き物に進化したのかもしれないがな。
俺はページをめくった。乾いた音が、部屋の空気を裂いた。それは、俺が人間性との決別を告げる、最後の音のようだった。




