第14話:感情のコスト化と謝罪の不可能性
完璧に調整された機械にとって、最大の敵は外部からの衝撃ではない。内部から生じる微細なノイズだ。歯車と歯車の間に挟まった砂粒のような、あるいは回路の中で発生する静電気のような、予測不能なエラー。人間社会という巨大な機械において、そのノイズの正体は常に「感情」と呼ばれる厄介な変数だ。特に、過去への執着や、死者への追悼といった生産性を生まない感情は、システムを停滞させる錆にしかならない。俺は今、その錆を落とすために、またしても冷たいメスを手に取ろうとしていた。
冬が終わり、春の兆しが見え始めた頃。都市は相変わらずの繁栄を謳歌していた。俺が主導した効率化政策は、もはや疑う余地のない成功を収め、市民生活の質は向上の一途を辿っていた。
しかし、その光が強くなればなるほど、影もまた濃くなる。俺の執務室に、一枚の嘆願書が届いた。それは、数字の羅列でも予算の申請書でもない。インクの滲んだ、手書きの署名が集められた束だった。
『北の大橋崩落事故犠牲者、および都市改革に伴う困窮死者への慰霊碑建立、ならびに統括官からの公式謝罪を求める会』
署名の数は三百人ほど。都市の人口からすれば一パーセントにも満たないマイノリティだ。その中には、あの橋で家族を失った遺族たち、薬草園のハンスの知人、そして解体された古参隊の家族たちの名前があった。
彼らは暴徒ではない。金銭的な補償を吊り上げようとするゆすりたかりでもない。ただ、静かに悲しみ、その悲しみに公的な意味を与えてほしいと願う、善良な市民たちだ。だからこそ、タチが悪い。暴力であれば自警団で鎮圧できる。金銭要求であれば予算で解決できる。だが、彼らが求めているのは「心」だ。行政というシステムが最も持ち合わせていないリソースを、彼らは要求しているのだ。
「先生、どうされますか。彼らは明日、庁舎前の広場で座り込みを行う予定です」
ロイスが困惑した顔で尋ねてきた。彼は事務処理の天才だが、こうした情緒的な問題には弱い。計算式が成り立たないからだ。
「放置すればいい。座り込みなど、腹が減れば終わる」
「ですが、騎士団長のガランド様が、彼らの代表と面会したいと言っています。それに……慰霊碑くらいなら建ててやってもいいのではないかと」
俺はペンを止めた。ガランド。あの男の良心が、また疼き出したか。俺はため息をつき、ロイスにガランドを呼ぶよう指示した。
数分後、ガランドが執務室に現れた。彼の表情は硬い。あの橋を落とした夜から、彼の目には常に暗い影が宿っている。
「工藤殿、彼らの要求を受け入れてやってほしい」
ガランドは開口一番、そう切り出した。
「たかが石碑一つだ。広場の隅に建てるくらい、予算の痛手にはならんだろう。それに、謝罪といっても、頭を下げるだけでいい。彼らの心が救われるなら、安いものではないか」
「安くないな。それは極めて高くつく」
俺は即答した。
「慰霊碑を建てるということは、あの出来事を『悲劇』として公式に認めるということだ。そして謝罪するということは、それが『行政の過ち』だったと認めることになる」
「過ちだったではないか! 不可抗力とはいえ、我々は数千人を見殺しにした。ハンス老人を凍死させた。それを認めずして、何が人の上に立つ者か!」
ガランドが声を荒げた。彼の気持ちは分かる。彼もまた、罪の意識に苛まれているのだ。謝罪することで、自分自身も許されたいのだろう。だが、それは個人の感傷だ。組織の長が持ってはいけない甘えだ。
「団長。もし私が謝罪すれば、それは法的責任を認めた証拠になる。今は三百人の署名だが、謝った瞬間にそれは三万人の訴訟団に変わるぞ」
俺は冷静にリスクを提示した。
「あの橋で死んだ数千人の遺族すべてが、損害賠償を求めてきたらどうなる? ハンスのような事例が掘り起こされ、過去に遡って補償を求められたら? 都市の財政は破綻する。現在の繁栄は吹き飛び、市民はまた飢えることになる」
「……金の問題ではないと言っているんだ!」
「金の問題だ。行政における責任とは、すべて金に換算される。心を金で購うことはできないが、過ちを認めれば金が流出する。それが社会のルールだ」
ガランドは絶句した。反論できないのだ。彼もまた、今の都市の豊かさを守る立場にある以上、それを崩壊させる引き金を引くわけにはいかない。
「それに、無謬性だ。統括官は常に正しい判断を下す。その前提があるからこそ、市民は私の強権的な指示に従う。もし私が『あれは間違いでした』と頭を下げれば、求心力は失われる。次の危機の際、誰も私の命令を聞かなくなるだろう」
俺はガランドの目を真っ直ぐに見据えた。
「我々は神でなければならない。間違わない、迷わない、冷徹なシステムでなければならない。人間的な弱さを見せた瞬間、組織は瓦解する。それが、あの椅子に座った者たちの血で贖った、我々の義務だ」
ガランドは唇を噛み締め、拳を震わせた。彼は納得していない。だが、論破もできない。彼は、吐き捨てるように言った。
「……お前には、心というものがないのか」
「心なら、ハンスの薬草園に埋めてきたよ」
俺の皮肉に、ガランドは顔を歪め、背を向けて出て行った。彼を説得する必要はない。彼は職務に忠実だ。納得していなくても、命令には従う。問題は、外にいる市民たちだ。
翌日。俺は、嘆願書の代表者たちと面会することにした。場所は庁舎の応接室。
現れたのは、三人の市民だった。一人は、橋で夫と子供を失ったという中年の女性。一人は、ハンスの友人だったという老人。そしてもう一人は、古参隊の元隊長バルガスの娘だ。彼らは緊張した面持ちで、しかし強い意志を瞳に宿して俺を見ていた。
「お忙しい中、お時間をいただき感謝します、統括官」
代表の女性が、震える声で言った。彼女は深々と頭を下げ、一枚の紙をテーブルに置いた。慰霊碑のデザイン案だ。
「私たちは、金銭を求めているのではありません。ただ、あの日死んでいった者たちが、無駄ではなかったと、都市のために尊い犠牲になったのだと、貴方の口から言っていただきたいのです」
老人が続いた。
「ハンスもそうです。彼はただの変人として死んだんじゃない。この街の未来を信じて、種を守ろうとして死んだ。その名誉を回復してやりたいんです」
バルガスの娘も訴える。
「父は、解雇されたことを恨んでいませんでした。ただ、自分たちの歴史がなかったことにされているのが辛いと……どうか、彼らがこの街を守った証を、どこかに残してください」
切実な願いだった。彼らの要求は慎ましい。ほんの少しの石材と、ほんの数秒の言葉。それだけで彼らは救われる。彼らの時間は再び動き出し、悲しみは浄化されるだろう。人間として、これに応えない理由はどこにもない。だが、統括官として、これに応えるわけにはいかない。
俺は、運ばれてきた味のしない紅茶を一口飲み、静かにカップを置いた。
「お気持ちは分かります」
俺は能面のような顔で言った。
「ですが、慰霊碑の建立は認められません。公式な謝罪も行いません」
三人の顔が凍りついた。意味が分からないというように、女性が身を乗り出した。
「な、なぜですか? 予算がないと言うなら、私たちで寄付を募ります! 場所がないなら、街外れの荒地でも構いません!」
「場所や金の問題ではありません。認識の問題です」
俺は冷酷に告げた。
「あの橋の爆破は、戦術的に必要な措置でした。それは『悲劇』ではなく『成功した作戦』です。ハンス氏の件も、古参隊の解体も、都市の代謝を促すための『適切な経営判断』です。成功に対し、謝罪を行う理由はありません」
「成功……? 私の家族が死んだことが、成功だと言うのですか!」
女性が叫んだ。涙がその頬を伝う。
「そうです。彼らの死によって、数万の市民が救われました。彼らは被害者ではなく、勝利のためのコストです。コストに対し、いちいち石碑を建てていては、街中が墓標だらけになります」
老人がわななきながら立ち上がった。
「貴様……人の血が通っているのか! ハンスは、あんたを信じていたんだぞ!」
「信じることは自由ですが、結果に対する責任は負えません。私は彼に『成果が出なければ予算は切る』と事前に通告しました。契約通りの履行です」
俺の言葉は、完璧な論理で武装されていた。そこには付け入る隙も、情状酌量の余地もない。彼らが求めている「情緒的な共感」を、俺は徹底的に拒絶した。共感した瞬間、俺の論理は崩壊するからだ。
「……帰りたまえ。これ以上の議論は時間の無駄だ」
俺は立ち上がり、扉の方を指差した。三人は、怒りと悲しみ、そして理解不能な怪物を見るような目で俺を睨みつけた。だが、彼らに何ができるわけでもない。彼らは力なく肩を落とし、よろめくように部屋を出て行った。廊下に響く彼らの足音は、絶望の重さを引きずっていた。
部屋に一人残った俺は、再び紅茶に口をつけた。味はしない。胸の痛みもない。ただ、事務処理を一つ終えたという感覚だけがある。
だが、これで終わりではない。彼らは諦めないだろう。座り込みを続け、市民に悲しみを訴えかけ、同情を集めようとするはずだ。感情は伝染する。もし市民たちが彼らに同調し、「統括官は冷酷すぎる」という世論が形成されれば、俺の立場は危うくなる。システムを守るためには、その芽を摘まなければならない。徹底的に。
俺はロイスを呼び出した。
「ロイス。情報操作を行う」
「……情報操作、ですか?」
「ああ。広報局を使って、噂を流せ」
俺は淡々と指示を出した。
「一つ。『あの遺族たちは、慰霊碑を隠れ蓑にして、巨額の賠償金を要求しようとしている』」
「二つ。『彼らの座り込みのせいで、来月の春祭りの開催が危ぶまれている』」
「三つ。『ハンスの薬草園跡地に建設予定の物流センターが、反対運動のせいで遅れており、食料価格が上がる可能性がある』」
ロイスは青ざめた。
「そ、それは……彼らを孤立させるということですか?」
「そうだ。市民は今の豊かさを愛している。その豊かさを脅かす敵が現れれば、彼らは牙を剥く。たとえその敵が、可哀想な遺族であってもな」
大衆とは、残酷なものだ。彼らは遠くの悲劇には涙するが、自分の明日のパンが脅かされるとなれば、隣人を石で打つことも厭わない。俺は、その醜い自己防衛本能を利用する。
「やれ。明日までに街中に広めろ」
「……はい。承知しました」
ロイスは震える手でメモを取り、部屋を出て行った。俺は窓の外を見た。広場の隅で、先ほどの三人が座り込みを始めているのが見えた。道行く人々が、同情的な視線を向けている。だが、その視線は明日には変わるだろう。同情は敵意へ。憐憫は侮蔑へ。
翌日。俺の予測は、恐ろしいほどの精度で的中した。朝から広場は異様な空気に包まれていた。座り込みを続ける遺族たちの周りに、市民が集まっていた。だが、彼らは支援者ではなかった。
「おい、いい加減にしろよ! お前らのせいで祭りが中止になったらどうするんだ!」
「金が欲しいなら働け! 死んだ人間をダシにするな!」
「物流センターの邪魔をするな! 野菜の値段が上がったらお前らが責任を取るのか!」
罵声が飛ぶ。石が投げられる。遺族たちは身を寄せ合い、必死に弁明しようとしていた。「違います、私たちはただ……」だが、その声は圧倒的な多数派の怒号にかき消された。市民たちは、自分たちの「幸福」を守るために、異物を排除しようとしていた。俺が手を下す必要さえない。俺が作り上げた「豊かな社会」そのものが、自動防衛機能のように彼らを攻撃しているのだ。
監視塔からその光景を見下ろしていた俺の隣で、ガランドが呻くような声を漏らした。
「……貴様は、悪魔か」
彼の目には、魔物を見る時以上の恐怖が浮かんでいた。
「彼らを殺すだけでは飽き足らず、彼らの尊厳まで奪うのか。市民の手で、被害者をリンチにかけさせるとは……これが人のすることか!」
「治安維持のためだ。彼らを強制排除すれば、私が悪者になる。だが、市民の総意として排除されれば、誰も傷つかない」
俺は平然と答えた。
「誰も傷つかないだと? 見ろ、あの女性の顔を! あの老人の涙を! 彼らの心は殺されたんだぞ!」
「心は目に見えない。目に見えないものは、行政の管轄外だ」
俺は背を向けた。これ以上、あの光景を見ている必要はない。勝負はついた。遺族たちは、近隣住民からの白い目と、終わりのないバッシングに耐えきれず、数日のうちに姿を消すだろう。彼らの悲しみは、歴史の闇に葬られる。都市の繁栄という、まばゆい光の陰に。
執務室に戻った俺は、新しい書類に向き合った。物流センターの着工許可証だ。これで工事は予定通り進む。経済効果は計り知れない。俺はペンを走らせる。指のタコが痛む。インクが黒く光る。
ふと、喉が渇いた。俺は水差しの水をグラスに注ぎ、一気に飲み干した。冷たい。それだけだった。もしかしたら、この水は泥水のように不味いのかもしれない。あるいは、極上のワインのように甘いのかもしれない。だが、今の俺には、それを知る術はない。
俺はグラスを置き、誰もいない部屋で呟いた。
「……謝罪など、死んでもするものか」
それは、遺族に対する言葉であり、同時に、自分自身に対する呪詛でもあった。謝ってしまえば、楽になれるかもしれない。だが、楽になることは許されない。俺はこの地獄の釜の底で、最後まで正気を保ったまま、釜を焚き続けなければならないのだ。それが、感情をコストとして切り捨てた男の、最後の矜持だった。
窓の外では、市民たちの歓声が聞こえた。遺族たちが去り、広場が「正常」に戻ったことを祝う声だ。その無邪気で残酷な歓声を聞きながら、俺は次の書類に判を押した。都市は今日も、平和だ。俺の心が死んでいること以外は、すべてが完璧だった。




