第13話:エンゲル係数の低下と感覚器の機能不全
成功とは、あらゆるノイズが消え失せた状態のことを指すのかもしれない。不満の声も、飢えの悲鳴も、寒さに震える歯の音も、全てが完璧なシステムによって吸収され、静寂な秩序へと変換されていく。都市運営統括官としての俺の仕事は、完成の域に達しようとしていた。
二度目の冬が訪れた。昨年の冬、ハンスが凍え死に、多くの市民が燃料不足に喘いでいたあの過酷な季節とは、何もかもが違っていた。
窓の外を見下ろせば、そこには嘘のような光景が広がっている。雪の積もった大通りを、厚手のコートを着た市民たちが笑顔で行き交っている。街路には魔法灯が惜しげもなく灯り、夜道を昼間のように照らしている。市場には山盛りの食料が並び、屋台からは湯気が上がり、香ばしい肉の匂いが漂っている。誰も飢えていない。誰も凍えていない。
俺が構築した物流網は、大雪による遅延を計算に入れた上で、完璧な在庫管理を実現していた。俺が切り捨てた古参隊の倉庫跡地に建てられた巨大物流センターは、都市の心臓として力強く脈動し、全ての家庭に暖かさと満腹を供給していた。
「先生、今期の決算報告です。過去最高益を更新しました」
ロイスが弾んだ声で報告書を持ってきた。黒字。圧倒的な黒字だ。税収は潤沢で、倉庫は満杯。市民のエンゲル係数は劇的に低下し、余暇を楽しむ余裕さえ生まれている。数字の上では、この都市は黄金時代を迎えていた。
ベルンシュタインは連日のように祝宴を開き、ガランドも充実した装備に身を包んだ騎士団を閲兵して満足げだ。全てがうまくいっている。俺の判断は、何一つ間違っていなかった。ハンスを切ったことも、橋を落としたことも、バルガスたちを追い出したことも、結果という果実の前では、すべて正当な肥料だったと証明されたのだ。
「……そうか。ご苦労だった」
俺は報告書にサインをした。ペンを持つ指のタコが、硬い異物感としてそこにある。ロイスは不思議そうな顔をした。
「先生? 嬉しくないのですか? これは先生の偉業ですよ。歴史に残る大成功です」
「ああ、嬉しいさ。ただ、少し疲れているだけだ」
俺は嘘をついた。疲れではない。何も感じないのだ。数字が跳ね上がっても、市民が笑っていても、俺の心は凪いだ湖のように波立たない。達成感もなければ、喜びもない。あるのは、「システムが正常に稼働している」という、管理者の淡々とした確認だけだ。
その日の夜、俺は久しぶりに街へ出ることにした。護衛を遠ざけ、変装用のフードを深く被り、一人で繁華街を歩く。冷たい風が頬を刺すが、不快ではなかった。むしろ、その冷たさだけが、俺が生きていることを実感させてくれる唯一の刺激だった。
街は祝祭のような空気に包まれていた。広場では音楽が奏でられ、人々がダンスを踊っている。酒場からは笑い声が溢れ、恋人たちが身を寄せ合って歩いている。豊かさ。それが形を持って、俺の周囲を流れている。
ふと、一組の家族連れが目に入った。父親と母親、そして二人の子供だ。父親は上質な外套を着ており、母親の腕には新しい買物袋が抱えられている。子供たちは砂糖菓子を手に持ち、はしゃぎ回っている。幸せの象徴のような光景だ。
だが、俺の目は、その父親の顔に釘付けになった。見覚えがある。いや、彼個人を知っているわけではない。だが、彼の着ている制服に見覚えがあった。商業ギルドの上級職員だ。そして、その子供のうちの一人、兄と思しき少年が着ている制服。あれは、学術都市の予備校の制服だ。
俺の記憶の底から、カインとレオンの顔が蘇った。あの少年は、カインではない。レオンでもない。だが、彼もまた、俺が作ったシステムの中で「選ばれた側」の人間なのだ。俺がカインを選び、レオンを捨てたように、この少年の背後にも、選ばれずに路地裏で泣いている誰かがいるのかもしれない。あるいは、この家族の幸福な食卓は、ハンスから奪った予算や、バルガスたちから奪った職の上に成り立っているのかもしれない。
少年がふと、こちらを見た気がした。俺は反射的に目を逸らし、路地裏へと逃げ込んだ。直視できなかった。彼らの笑顔が眩しすぎたからではない。その笑顔が、俺の罪悪感を燃料にして燃えているように見えたからだ。
俺は彼らを幸せにした。だが、その対価として、俺は別の誰かを地獄へ突き落とした。俺が見ているのは「幸福」ではない。「搾取の結果」だ。俺の目は、もう純粋な喜びを映すことができなくなっていた。
俺は逃げるように歩き続け、高級なレストランに入った。統括官の顔パスで、一番奥の個室に通される。暖炉が燃え、柔らかな絨毯が敷かれた、密室。ここなら、誰の笑顔も見なくて済む。
「最高級のワインと、シェフの特製料理を」
俺は注文した。運ばれてきたのは、見たこともないような豪華な料理だった。脂の乗った肉、新鮮な魚介、色とりどりの野菜。かつての俺なら、涎を垂らして飛びついただろう。地下回廊で泥水を啜っていた頃の俺が見れば、夢のようなご馳走だ。
俺はナイフとフォークを手に取り、肉を口に運んだ。噛みしめる。柔らかい。肉汁が溢れる。だが。
「……味がしない」
俺は呟いた。もう一口食べてみる。舌の上で脂が溶ける感触はある。熱さも感じる。だが、旨味がない。まるで、濡れた紙粘土を噛んでいるようだ。
ワインを流し込む。芳醇な香りが鼻を抜けるはずの液体は、ただの色のついた水のように喉を通り過ぎていった。苦味も、酸味も、甘味もない。ただの冷たい液体だ。
俺は愕然として、フォークを取り落とした。カチャン、と乾いた音が響く。味覚障害か? ストレスか? いや、違う。これはもっと根源的な喪失だ。
俺はこれまで、感情を殺し、人間性を削ぎ落とし、効率という名の機械になりきろうとしてきた。ハンスが死んだ時も、橋を落とした時も、俺は心の痛みを麻痺させて乗り切った。その代償として、俺は「痛み」だけでなく「喜び」を感じる機能も失ってしまったのだ。
美味しいと感じること。美しいと感じること。楽しいと感じること。それらは全て、人間が持つ「生の感覚」だ。他人の痛みに鈍感になるということは、自分自身の快楽に対しても鈍感になるということだったのだ。
俺は震える手で、自分の顔を触った。皮膚の感触はある。だが、鏡に映る俺の顔は、能面のように無表情だった。俺は笑おうとした。口角を持ち上げ、目尻を下げてみた。鏡の中の男は、ひきつった奇妙な顔でこちらを見返した。笑えない。心から笑うという機能が、俺のOSからアンインストールされている。
ふと、部屋の隅に誰かが座っているような気がした。ハンスだ。彼は凍え死んだ時の姿で、静かにこちらを見ていた。その隣には、ずぶ濡れのバルガスがいる。さらに、名もなき避難民たちが、虚ろな目で俺を取り囲んでいる。彼らは何も言わない。ただ、俺の豪華な食事をじっと見つめている。
「……食うか?」
俺はさらに、空の椅子に向かってワイングラスを差し出した。彼らは答えない。当然だ。彼らは俺の罪悪感が見せている幻影なのだから。だが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、この味のしない料理を一人で食べるより、彼らと一緒にいる方が落ち着く気がした。
俺は彼らの同類なのだ。彼らは肉体を失い、俺は心を失った。俺たちは共に、この都市の繁栄の礎石として埋められた人柱なのだ。
「……乾杯だ。お前たちの犠牲のおかげで、この街は豊かになったぞ」
俺は独り言を呟き、ワインを一気に飲み干した。やはり、味はしなかった。ただ、アルコールの熱だけが、胃の底を焼き、少しだけ生きている感覚を呼び覚ましてくれた。
店を出ると、雪が降り始めていた。白い雪が、街の汚れを覆い隠していく。俺の罪も、こうして白く塗りつぶされればいいのに。そんな感傷的な考えが頭をよぎり、すぐに打ち消した。無駄だ。雪が溶ければ、また汚れた地面が顔を出す。俺の指のタコが消えないように、俺の罪も永遠に消えない。
屋敷に戻ると、ロイスが待っていた。彼は心配そうに俺を見た。
「先生、お顔の色が優れませんが。やはりお疲れでは?」
「……いや、飲みすぎただけだ」
俺は答えた。ロイスは安堵したように微笑んだ。
「そうですか。明日は朝から予算委員会です。先生の承認をお待ちしている案件が山ほどありますから、今夜はゆっくりお休みください」
ロイスは、俺という機械のメンテナンスを気遣っているだけだ。俺が壊れれば、彼も困る。この都市も困る。だから俺は、壊れることも許されない。味覚を失おうが、感情を失おうが、判断能力さえ残っていればいいのだ。
俺は寝室に入り、ベッドに倒れ込んだ。最高級の羽毛布団は、雲のように柔らかく、温かい。だが、俺の体は芯まで冷え切っていた。
目を閉じると、瞼の裏に、あの家族連れの笑顔が焼き付いて離れない。彼らの幸福は本物だ。俺が作った幸福だ。それを誇りに思えばいい。そう自分に言い聞かせるが、心は虚しい風が吹き抜ける廃墟のようだった。
俺は枕元のサイドテーブルに置かれた水差しを手に取った。水を飲む。やはり、味はしない。だが、ふと気づいた。水には元々、味などないのではないか。俺がこれまで「美味しい」と感じていたのは、喉の渇きという欠乏があったからこそ感じられた幻想だったのではないか。
今の俺には欠乏がない。金も、地位も、名誉も、全て持っている。満たされすぎた人間は、味を感じなくなるのかもしれない。だとすれば、これは罰ではない。成功の対価として支払われる、当然の税金なのだ。
俺は天井を見上げた。豪奢な装飾が施された天井。俺は、この天井の下で、これからも正解を出し続ける。味がしなくても、食べ続ける。笑えなくても、生き続ける。それが、ハンスやバルガスたちを踏み台にして生き残った俺の、唯一の誠実さだからだ。
雪が窓を叩く音が、静かに響いていた。俺は深い眠りにつくこともできず、ただ白んでいく窓の外を見つめ続けていた。夜明けは来る。だが、俺の夜は、まだ終わらない。




