第11話:進路希望調査票の選別
数千人の避難民を見捨てて橋を落としたあの夜から、一ヶ月が過ぎた。都市を襲った魔物の群れは、濁流となった川を越えられず、騎士団の追撃を受けて霧散した。都市は救われたのだ。
広場では英雄となった騎士たちの凱旋パレードが行われ、市民たちは失われた橋のことなど忘れたかのように、明日の商売の話に花を咲かせている。
だが、俺の執務室の空気は、あの夜から一歩も動いていない。黒いインクが羊皮紙に染み込むたび、俺はあの橋が落ちる瞬間の爆音を思い出す。救った数万人の笑顔は、俺の耳には届かない。ただ、川に消えた数千人の無言の視線だけが、この部屋の隅々に澱のように溜まっている。
統括官としての俺に、今日も新たな案件が持ち込まれた。それは、魔物との戦いで親を失った孤児たちの、今後の処遇に関する書類だった。都市の再建には、新しい労働力が必要だ。しかし、教育や養育には莫大なコストがかかる。
俺が作った新法によれば、十歳を超えた孤児は適性検査を受け、その結果に基づいて軍、商業ギルド、あるいは開拓地への労働提供のいずれかに振り分けられることになっている。選別だ。一人の子供の人生が、俺のペン先一つで決まる。
ロイスが、二人の少年の書類を机に置いた。
「先生、本日の最終案件です。特待生枠の選別について」
特待生。それは、商業ギルドが全額出資し、中央の学術都市で高度な教育を受けさせるための特別枠だ。将来の幹部候補、あるいは技術者としてのエリートコース。だが、枠は一つしかない。そして、候補者は二人だ。
俺は書類に目を通した。一人は、カイン。前回の戦いで戦死した下級騎士の息子だ。成績は優秀。特に算術と地政学において、年齢不相応な才能を見せている。性格は沈着冷静。周囲の子供たちからも一目置かれるリーダー格だという。
だが、彼はあの夜、俺が落とした橋の向こう側に、最後まで残っていた村の出身だった。家族全員を失い、彼だけが辛うじて対岸へ泳ぎ着いて助かった。彼の目には、俺に対する静かな、しかし根深い憎悪が宿っていることを、俺は知っている。
もう一人は、レオン。名もなき職人の息子だ。成績は中程度。だが、手先が器用で、壊れた道具の修理や、新しい工作機械の考案に並外れた執念を見せる。性格は臆病で内向的。だが、一度集中すれば寝食を忘れて没頭するタイプだという。
彼には守るべき家族がいない。そして何より、彼は俺を崇拝している。「工藤様のような賢い人間になりたい」と、事あるごとに口にしているらしい。
「条件を並べれば、答えは一つに見えますね」
ロイスが、当然の帰結を促すように言った。ロイスの言う通りだ。能力、適性、将来の貢献期待度。どれを取っても、カインが優れている。彼に高度な教育を与えれば、彼は間違いなくこの都市を支える知性になるだろう。
だが、リスクがある。彼は俺を、そしてこのシステムを憎んでいる。英才教育を施した結果、彼が俺を殺しにくるなら、それは俺個人の問題で済む。だが、彼がこのシステムの中枢に入り込み、内部から組織を瓦解させる毒になったらどうなるか。俺が作り上げたこの脆い均衡が、崩れ去る。それは、都市全体の損失だ。
「カインを学術都市へ送れば、彼は我々の首を絞める刃になるかもしれません」
ロイスは、俺の懸念を代弁した。彼は最近、俺の表情を読み、俺が口にする前に正解を提示しようとする。
「逆に、レオンなら忠実です。彼は先生を模範とし、システムの歯車として完璧に機能するでしょう。能力の差は、忠誠心という補正で十分に埋まります。先生の教義に照らせば、不確定要素を排除し、安全な投資を行うべきかと」
俺は沈黙した。ロイスの論理は正しい。「能力はあるが反抗的な人間」と「能力は劣るが忠実な人間」。どちらを中枢に据えるべきか。経営判断としては、後者だ。反乱のリスクは、それだけで他の全てのメリットを打ち消す負債になる。
俺はペンを握った。指先の感覚が、不自然なほど鋭敏になる。カインの名前の横に、不採用の印を書き込もうとした。だが、その時、俺の脳裏にハンスの顔が浮かんだ。「一度枯れてしまえば二度と」。ハンスはそう言った。カインという才能を、ここで摘み取れば、それは二度と戻らない。
彼は、この都市をより良く変える可能性を持っていた。俺のような、その場しのぎの合理主義者ではなく、もっと深い知性で、もっと新しい価値観で。その芽を、俺の個人的な保身のために、あるいはシステムの維持のために、摘み取ってもいいのか。
「……レオンを学術都市へ送れば、彼は俺の劣化コピーになるだけだ」
俺は呟いた。
「劣化コピーはいらない。俺が欲しいのは、俺を否定できる知性だ」
「先生、それはあまりに危険です」
ロイスは驚き、俺の手を止めようとした。
「彼は橋の件を忘れていません。彼に力を与えるということは、自ら暗殺者を育てるようなものです。感情をノイズとして排除するのが先生のスタイルではなかったのですか」
「ああ、そうだ。感情はノイズだ。だから、カインの憎悪も、レオンの崇拝も、俺にとっては等しく価値がない。ただ、能力という変数だけを見る。カインの方が、学術的リターンが大きい。それだけの理由だ」
嘘だ。俺は、カインに救いを求めているのかもしれない。いつか彼が、俺の積み上げてきたこの泥臭い正解を、もっと高次元な正解で上書きしてくれることを。俺の代わりに、この冷たい椅子に座り、俺よりも上手にこの都市を運営してくれることを。あるいは、俺の罪を正当な裁きによって断罪してくれることを。そんな、身勝手な期待を込めている。
俺はカインの名前の横に、採用の印を押した。そして、レオンの名前の横に、軍への配属を記した。決定は、公式に記録された。もう、変更はできない。
翌日、二人の少年が執務室に呼ばれた。旅立つ前の、統括官による最後の面談だ。
カインは、微動だにせず俺の前に立っていた。磨き上げられた床に、少年の古い靴が影を落とす。彼の目は、やはり凍りついていた。感謝の言葉など、期待するべくもない。
「カイン。君を学術都市へ送ることに決めた。全費用は組合が負担する。存分に学び、都市に利益を還元しろ」
俺は事務的に告げた。カインは、長い沈黙の後、たった一言だけ答えた。
「……何のために、私を選ぶのですか」
その声には、冷たい刃のような鋭さがあった。
「お前は俺を憎んでいる。それが理由だ。憎しみは、勉学の強い動機になる。俺を超えるための力を、そこで手に入れてこい」
「……分かりました。お望み通り、貴方を否定するための知恵を手に入れます」
カインは深く頭を下げた。それは敬意ではなく、契約の確認だった。彼はそのまま、一度も振り返ることなく部屋を出て行った。彼の背負う期待と、彼の中に宿る殺意。その重さが、俺の胸にずしりと残った。
続いて、レオンが入ってきた。彼は俺の顔を見るなり、今にも泣き出しそうな、しかし輝くような笑顔を見せた。彼は、自分が特待生に選ばれたと信じているようだった。
「工藤様! 私、頑張ります! 工藤様のように、街の人を助けられる人になります!」
俺は胸が締め付けられるのを感じた。だが、表情は動かない。統括官に、私情は許されない。
「レオン。君の配属先は、騎士団工兵部隊だ」
レオンの笑顔が、凍りついた。意味が分からないというように、彼は何度も瞬きをした。
「え……学術都市に、行けるんじゃ……」
「君の適性は、高度な学問よりも実務的な工作にあると判断した。明日から入隊しろ。前線での陣地構築や、橋の補修が君の仕事だ」
「……でも、私、勉強して……工藤様のお役に立ちたかったんです……」
レオンの声が震える。彼の世界が、今、俺の手によって粉々に砕かれた。彼は俺を信じていた。俺を尊敬し、俺の背中を追っていた。その少年を、俺は最も危険で、最も過酷な現場へと叩き落としたのだ。「忠誠心という変数」を、俺は冷酷に切り捨てた。
「これは、個人の希望ではなく、都市の最適化に基づく決定だ。不服があるなら、市民権を返上して去れ」
俺の言葉は、氷のように冷たかった。レオンは、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。彼の瞳から光が消え、代わりに深い絶望と、そして信じていたものに裏切られた者の虚脱感が広がっていく。彼は、小さな声で「……失礼します」と言い、力なく部屋を出て行った。その背中を見送りながら、俺はペンを握る手に力を込めた。
抗議はなかった。二人とも、システムの決定に従った。だが、未来は確実に分かれた。一人は、将来の指導者として。一人は、使い捨てられる歯車として。俺が、二人を分断したのだ。
「先生、これでよかったのですよ」
ロイスが、慰めるように肩に手を置いた。
「レオンのようなタイプは、中枢にいても自分の意見を持てず、結局は先生の足枷になります。工兵部隊であれば、彼の工作能力は存分に発揮されるでしょう。適材適所です」
「……適材適所か。便利な言葉だな」
俺はロイスの手を振り払った。救った人数と、奪った未来。天秤は、今日も水平にはならない。救われた数万人の市民と、人生を狂わされた二人の少年。その不均衡が、俺の胃を重く焼く。
判断は、決して軽くならない。一万人を救うための決断も、一人の進路を決める決断も、俺が背負う罪の重さは同じだ。いや、具体的であればあるほど、その重みは増していく。
俺は机の上の書類を片付けた。そこには、また次の「人生」が並んでいる。俺は、座り心地の悪い椅子をきしませ、次の書類を手に取った。
夕暮れの光が、執務室に差し込む。部屋の隅に溜まった死者たちの視線に、今、新しい視線が加わった。俺を殺したいと願うカインの目。俺に絶望し、心を閉ざしたレオンの目。俺は、それらすべてを真っ向から受け止める。それが、椅子に座り続ける男が支払うべき、永遠の利息なのだ。
俺はペンをインクに浸した。黒い液体が、また誰かの未来を塗りつぶしていく。俺は、震えることのない手で、次の署名を書き始めた。夜は、まだ始まったばかりだ。




