第10話:不可逆的な同意と当事者性の獲得
覚悟という言葉は、しばしば英雄的な響きを伴って語られる。断崖絶壁から飛び降りるような勇気や、燃え盛る炎の中へ飛び込むような情熱。物語の中の主人公たちは、そうやって劇的に覚悟を決める。
だが、現実における覚悟とは、もっと静かで、陰湿で、そして諦めに似た沈殿物のようなものだ。逃げ道を一つずつ塞がれ、言い訳を一つずつ剥ぎ取られ、最後に残った冷たく硬い椅子に、そっと腰を下ろすこと。
それが、俺にとっての覚悟だった。
都市運営統括官への就任から数週間。俺の執務室は、都市の心臓部として完全に機能していた。朝から晩まで、ひっきりなしに人が訪れ、書類が積み上がり、そして俺の印鑑一つで巨額の予算や人の運命が決定されていく。
俺は機械のように正確に仕事をこなしていた。だが、俺の心の中には、まだ微かな迷いがあった。「これは一時的な腰掛けだ」「いつか誰か適任者が現れれば交代できる」。
そんな甘い期待、あるいは逃避願望が、心のどこかにこびりついていたのだ。だが、その日、俺の前に現れた案件は、そんな逃避を許さないほど決定的なものだった。
「先生、これを」
ロイスが緊張した面持ちで、一枚の羊皮紙を差し出した。それは、騎士団と商業組合、そして市政庁の三者連名による、極めて重要な提案書だった。
『都市防衛基本計画の恒久化、および非常時における統括官への全権委任法案』
俺は眉をひそめた。全権委任。独裁者に対して使われるような危険な言葉だ。内容を読み進めると、そこには恐ろしいことが書かれていた。
魔物の襲撃や大規模災害などの非常時において、統括官である俺は、法の手続きを省略し、私有財産の徴収、市民の動員、そして治安維持のための武力行使を含む、あらゆる権限を行使できるとするものだった。
つまり、俺が「非常時だ」と宣言すれば、俺はこの都市の王になれるということだ。
「……正気か?」
俺は低い声で言った。
「こんな法案が通れば、統括官は暴君になれる。誰がこんなものを起草した?」
「ガランド団長と、ベルンシュタイン代表です」
ロイスは答えた。
「先日の北区画での防衛戦、そして薬草園の事例。これらを踏まえ、非常時における意思決定の速度こそが、市民の命を守る鍵であるという結論に至ったそうです。合議制では遅すぎる。先生のような優れた判断者が、即断即決できるシステムこそが理想だと」
俺は眩暈を覚えた。俺の「実績」が、またしても怪物を生み出したのだ。彼らは俺を信頼しすぎている。俺が私利私欲に走らないと、盲目的に信じ込んでいる。だが、俺は人間だ。いつか判断を誤るかもしれない。
権力に酔うかもしれない。あるいは、恐怖に駆られて暴走するかもしれない。そんな不確定な人間に、都市の生殺与奪の権を握らせるなど、狂気の沙汰だ。
「却下だ」
俺は羊皮紙を机に叩きつけた。
「こんな危険な法案には署名できない。俺は独裁者になるつもりはない」
「ですが、先生」
ロイスが一歩前に出た。彼にしては珍しく、食い下がるような口調だった。
「もしこの法案がなければ、次の危機の際にどうなりますか? また会議室で何時間も議論し、その間に被害が拡大するのを指をくわえて見ているのですか? ハンスさんのような犠牲を、また出すのですか?」
ハンス。その名前が出た瞬間、俺は言葉を詰まらせた。
「あの時、先生に全権があれば、もっと早く、もっと柔軟な対応ができたかもしれません。薬草園を残したまま、他の無駄を削ることもできたかもしれない。違いますか?」
ロイスの言葉は鋭利な刃物のように俺の胸を刺した。そうだ。あの時、俺は「予算がない」という理由でハンスを切った。
だが、もし俺に全権があり、都市全体の財布を自由に動かせたなら、例えば貴族の贅沢税を徴収するとか、祭りの予算を強制的に流用するとか、荒っぽい手段で金を捻出できたかもしれない。
権限が足りなかったから救えなかった。それは事実だ。だが、権限を持てば救えるのか? いや、権限を持てば、今度はその強大な力で、もっと多くのものを壊すかもしれない。
「……リスクが大きすぎる。俺一人の肩には重すぎる」
「誰も、先生一人に背負わせるつもりはありません」
執務室のドアが開き、ガランドが入ってきた。後ろにはベルンシュタインもいる。彼らは、俺が拒否することを予想していたような顔つきだった。
「工藤殿、恐れる気持ちは分かる」
ガランドが静かに言った。
「だが、見てほしい」
彼は窓の外を指差した。広場には、大勢の市民が集まっていた。彼らは不安そうな顔で、市政庁の方を見上げている。北の山脈から、不穏な黒い雲が近づいていた。魔物の大移動の予兆だ。
前回の小規模な襲撃とは桁が違う。本格的な侵攻が始まろうとしていた。
「斥候からの報告によれば、敵の数は数千。到達まであと三日だ」
ガランドの声には焦りが滲んでいた。
「今の防衛体制では防ぎきれない。民間人を避難させ、物資を徴発し、街を要塞化する必要がある。だが、現行法では手続きに一週間かかる。議会の承認を得ている間に、街は蹂躙されるだろう」
「だから、私に全権を?」
「そうだ。貴方が命令すれば、市民は動く。貴方が指示すれば、商人は倉庫を開く。貴方しかいないのだ」
ベルンシュタインも頷いた。
「工藤様、これは特権ではありません。義務です。この都市の数万人の命を救うための、重い義務なのです」
俺は窓の外の黒い雲を見つめた。そして、広場の市民たちを見た。彼らの中には、子供を抱いた母親もいる。杖をついた老人もいる。俺がここで「責任を取りたくない」と逃げれば、彼らは死ぬ。
手続きという名の緩慢な死が、彼らを飲み込む。ハンスの時と同じだ。俺が手を汚すことを恐れれば、その代償は彼らが血で支払うことになる。
逃げ場はない。俺は知っていた。最初から、逃げ場などなかったのだ。この都市に来たあの日、地下回廊で最初の決断を下した瞬間から、俺はこのレールに乗っていたのだ。今さら降りたいなど、許されるはずがない。
俺は椅子に座り直した。革の冷たい感触が、背中から全身に伝わる。これが、権力者の椅子の温度か。冷たくて、孤独で、そして決して座り心地の良くない椅子だ。
「……条件がある」
俺は言った。
「この全権委任は、今回の非常事態が収束するまでの時限措置とすること。そして、事態収束後、私の全ての判断は第三者委員会によって検証され、もし過ちがあれば、私は極刑を含むあらゆる処罰を受け入れる。その条文を追加しろ」
ガランドとベルンシュタインが顔を見合わせた。処罰。極刑。俺は自分で自分の首に縄をかけたのだ。暴走へのブレーキとして、自分の命を担保に差し出した。
「……分かった。追加しよう」
ガランドが重々しく頷いた。
「だが、そんな日は来ないことを願うよ。我々は貴方を処刑するために権限を与えるのではない」
「私もだ。だが、権力には首輪が必要だ。私が怪物にならないためのな」
ロイスが急いで条文を書き加える。修正された羊皮紙が、俺の前に差し出された。署名欄が、口を開けて待っている。ここに名前を書けば、俺はもう後戻りできない。ただの有能な事務官ではなくなる。
数万人の命を握る、絶対的な支配者になる。その重圧に、手が震えそうになる。俺は目を閉じた。地下回廊の炎。ハンスの枯れた薬草園。俺がこれまで切り捨ててきたものたちが、瞼の裏に浮かぶ。
彼らは俺を責めているだろうか。それとも、早く座れと促しているだろうか。「お前が始めたことだ」と。
俺は目を開けた。震えを気力でねじ伏せ、ペンを握る。インクをたっぷりと吸わせ、羊皮紙にペン先を走らせた。紙をひっかく音が、静寂な部屋に大きく響いた。
工藤。
書き終えた瞬間、俺の中で何かがカチリと音を立てて閉じた。安全圏の扉が閉まる音だ。俺はもう、被害者ではない。巻き込まれた一般人ではない。俺は加害者だ。
これから起きる全ての悲劇、全ての犠牲の、最高責任者だ。
「署名した。直ちに非常事態宣言を発令する」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、落ち着いていた。腹が決まったのだ。泥を被る覚悟が決まった人間は、強い。いや、強いのではない。麻痺しているのだ。
「はっ! 直ちに伝達します!」
騎士が敬礼し、部屋を飛び出して行った。ガランドとベルンシュタインも、それぞれの配置につくために退出した。部屋には俺とロイスだけが残った。
ロイスが心配そうに俺を見ている。
「大丈夫ですか? 顔色が……」
「問題ない。仕事にかかるぞ」
俺は立ち上がり、壁の地図の前に立った。都市全図。そこには無数の家があり、店があり、生活がある。これら全てが、今は俺の盤上の駒だ。
「ロイス、北区画の住民二千名を、南区画の商業倉庫へ強制避難させろ。拒否する者は自警団を使ってでも連行しろ。家財道具は持たせるな。身一つで走らせろ」
「は、はい! 強制執行ですね!」
「そうだ。それから、商人組合に命令。穀物倉庫をすべて開放し、一週間分の食料を確保しろ。提供を渋る店があれば、その場で没収して構わない。私が許可する」
「了解しました!」
「最後に、騎士団工兵隊に命令。北の橋を落とせ」
ロイスの手が止まった。
「橋を……落とすのですか? あれは北の村々との唯一の連絡路です。まだ逃げ遅れた村人がいるかもしれません!」
「待っていれば魔物が市内に侵入する。橋を落として時間を稼ぐ。川を天然の堀にするんだ」
「で、ですが、橋の向こうの人々は……」
「見捨てる」
俺は断言した。喉の奥が焼けるように熱い。心臓が早鐘を打っている。だが、言葉は氷のように冷たい。
「橋の向こうの数百人を救うために、橋を開けておけば、市内の数万人が危険に晒される。天秤は傾いた。橋を落とせ。今すぐにだ」
ロイスは息を呑んだ。そして、震える声で答えた。
「……はい。直ちに命令を伝えます」
ロイスが部屋を出て行った。広い執務室に、俺一人が残された。俺は地図を見上げたまま、動けなかった。今、俺の一言で、橋が落ちる。
逃げ遅れた人々が、対岸で絶望しながら魔物に食われる光景が、ありありと目に浮かぶ。俺が殺したのだ。間接的ではない。俺の明確な意志として、殺害命令を下したのだ。
吐き気がこみ上げてきた。俺は洗面台に駆け寄り、胃の中身をぶちまけた。昼に食べた高級なランチが、汚物となって流れ出る。涙が出た。恐怖と、自己嫌悪と、そしてどうしようもない孤独感で、涙が止まらなかった。
だが、俺は顔を洗った。冷たい水で何度も顔を洗い、鏡を見た。そこには、真っ赤に充血した目をしながらも、奇妙なほど冷徹な男の顔があった。これが、統括官の顔だ。数千人を殺し、数万人を生かす男の顔だ。
俺はタオルで顔を拭き、再び地図の前に戻った。もう迷わない。迷っている時間はない。俺が迷えば、死ぬ人が増える。俺が苦しめば、それが市民の不安になる。だから、俺は平気な顔をする。
鉄仮面を被り、感情を殺し、ただひたすらに最善手を打ち続ける。
窓の外で、遠く爆発音が聞こえた。橋が落ちた音だ。数百人の命が、断ち切られた音だ。俺は眉一つ動かさず、次の指示を考える。南の防壁の補強。負傷者の収容施設の確保。予備兵力の配置。やるべきことは山積みだ。
感傷に浸っている暇など、一秒たりともない。
俺は机に戻り、次の書類にサインをした。インクが乾くのを見つめる。黒い文字が、俺を縛る鎖のように見えた。構わない。どうせ俺は、この世界に来た時から囚人だったのだ。
今さら鎖が一本や二本増えたところで、何も変わらない。
俺はロイスを呼び戻すためにベルを鳴らした。乾いた音が、部屋に響く。さあ、仕事だ。地獄のような、しかし俺にしかできない仕事の始まりだ。俺は深く息を吸い込み、そして、統括官としての仮面を完璧に装着した。
物語は次の段階へ進む。被害者としての俺は死んだ。ここからは、加害者としての俺の物語だ。




